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2013-01-13

体罰容認論を完璧論破できる12のQ&Aへ完全に反論できる12のQ

http://anond.hatelabo.jp/20130113151019

俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。

だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。

ここは増田だ。野犬に噛まれるくらいは日常茶飯事!

議論の前提…体罰は暴力です。暴力違法です。相手が子供なら、なおさら

 体罰は暴力です。暴力刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。

前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。

多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。

それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。

1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される

 愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動していますストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」がありますストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。

おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と? 

相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。

この場合あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じてます

では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。

ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?

それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます当事者高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?

2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される

 「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます子供相手なら、なおさら許されません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります

よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生? 

もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパス一定割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定割合でどの職業にも発生します。


3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される

 欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学スポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。

 欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治恫喝ドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学修士号をとった桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソース朝日)と明かされていますプロ野球六大学野球とそれぞれ最高峰選手たちが体罰の効果を認めているのです。

 桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます

 あと「違法だから」。その通りですね。日本法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。

4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。

 教育心理学脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬神経細胞破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もありますhttp://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html

 教育心理学脳科学臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。

ゴリラリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツオタクキーボード遊びと違うんじゃイ」

一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。

海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。

5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき

 「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)

いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。

「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。

おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーン経営者フォロワー東京都知事選を見ればわかるように、今の日本奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。

というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマン奴隷と形容してさしつかえありません。

その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?

6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。

 あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなた効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。

一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。

あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?

7.体罰がなくなったから、子供ゆとりになり、学力が低下したじゃないか

 第一に、子供学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。

さすがにこの仮想敵サンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。

でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供パーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf

つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。

上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。


8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。

 桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。

社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。

野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります

9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしま

 それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます

たとえば、はてなダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。

いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。

いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています

彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。

正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。

10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる

 そもそも教師の仕事は「未成熟子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。

それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。

根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは? 

「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。

11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。

 精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつの勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。

 障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつの勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラゴリラ学名なので差別語ではない)は子供障碍者平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。

12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?

 では、権力者による暴力正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。

あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなた権力者による暴力正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか? 

ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学新歓飲み会未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイト違法エロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。


終わりに 

「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。

あと、

なんだっけ、

うそう。



汚物は消毒だー!

体罰容認論を完璧論破できる12のQ&Aへ完全に反論できる12のQ

http://anond.hatelabo.jp/20130113151019

俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。

だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。

ここは増田だ。野犬に噛まれるくらいは日常茶飯事!

議論の前提…体罰は暴力です。暴力違法です。相手が子供なら、なおさら

 体罰は暴力です。暴力刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。

前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。

多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。

それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。

1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される

 愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動していますストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」がありますストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。

おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と? 

相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。

この場合あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じてます

では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。

ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?

それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます当事者高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?

2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される

 「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます子供相手なら、なおさら許されません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります

よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生? 

もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパス一定割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定割合でどの職業にも発生します。


3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される

 欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学スポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。

 欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治恫喝ドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学修士号をとった桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソース朝日)と明かされていますプロ野球六大学野球とそれぞれ最高峰選手たちが体罰の効果を認めているのです。

 桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます

 あと「違法だから」。その通りですね。日本法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。

4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。

 教育心理学脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬神経細胞破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もありますhttp://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html

 教育心理学脳科学臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。

ゴリラリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツオタクキーボード遊びと違うんじゃイ」

一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。

海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。

5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき

 「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)

いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。

「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。

おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーン経営者フォロワー東京都知事選を見ればわかるように、今の日本奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。

というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマン奴隷と形容してさしつかえありません。

その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?

6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。

 あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなた効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。

一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。

あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?

7.体罰がなくなったから、子供ゆとりになり、学力が低下したじゃないか

 第一に、子供学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。

さすがにこの仮想敵サンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。

でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供パーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf

つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。

上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。


8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。

 桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。

社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。

野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります

9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしま

 それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます

たとえば、はてなダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。

いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。

いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています

彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。

正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。

10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる

 そもそも教師の仕事は「未成熟子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。

それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。

根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは? 

「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。

11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。

 精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつの勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。

 障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつの勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラゴリラ学名なので差別語ではない)は子供障碍者平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。

12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?

 では、権力者による暴力正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。

あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなた権力者による暴力正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか? 

ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学新歓飲み会未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイト違法エロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。


終わりに 

「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。

あと、

なんだっけ、

うそう。



汚物は消毒だー!

体罰容認論を完璧論破できる12のQ&Aへ完全に反論できる12のQ

http://anond.hatelabo.jp/20130113151019

俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。

だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。

ここは増田だ。野犬に噛まれるくらいは日常茶飯事!

議論の前提…体罰暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら

 体罰暴力です。暴力刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。

前提の時点で「体罰暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。

多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。

それはさておき、前提を結論と直結させる論法特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。

1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される

 愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動していますストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」がありますストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。

おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものから、正しいも間違うもあるか、と? 

相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。

この場合あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じてます

では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。

ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?

それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます当事者高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?

2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される

 「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます子供相手なら、なおさら許されません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力プロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります

よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからいから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生? 

もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパス一定割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画一定確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定割合でどの職業にも発生します。


3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される

 欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学スポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰スポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。

 欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治恫喝ドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学修士号をとった桑田元選手も「体罰スポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソース朝日)と明かされていますプロ野球六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。

 桑田投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかます

 あと「違法だから」。その通りですね。日本法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。

4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。

 教育心理学脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習記憶をつかさどる海馬の神経細胞破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もありますhttp://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html

 教育心理学脳科学臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。

ゴリラリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツオタクキーボード遊びと違うんじゃイ」

一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。

海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。

5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき

 「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)

いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。

「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。

おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーン経営者フォロワー東京都知事選を見ればわかるように、今の日本奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。

というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマン奴隷と形容してさしつかえありません。

その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?

6.私は体罰によってまっとうになった。だから体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。

 あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですからあなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。

一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですからひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。

あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?

7.体罰がなくなったから、子供ゆとりになり、学力が低下したじゃないか

 第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。

さすがにこの仮想敵サンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。

でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供パーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf

つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。

上記論文体罰を要因として組み込んでいないのはまこと遺憾です。


8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。

 桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要合意形成指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。

社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。

野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります

9.体罰ダメにすると、教育現場が萎縮してしま

 それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます

たとえば、はてなダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。

いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。

いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています

彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。

正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。

10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる

 そもそも教師の仕事は「未成熟子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。

それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。

根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは? 

「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。

11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰必要だ。

 精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつの勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。

 障碍者定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつの勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラゴリラ学名なので差別語ではない)は子供障碍者平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。

12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?

 では、権力者による暴力正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。

あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなた権力者による暴力正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか? 

ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。


終わりに 

「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思いますしかし、「自分は常識として正しいか論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。

あと、

なんだっけ、

そうそう。



汚物は消毒だー!

2012-07-07

http://anond.hatelabo.jp/20120104131746

ICHI』なんてもんを見てる人がほとんど居ないか

力作レビューしても需要がないのよねw

秘宝村みたいなのにタッチされなかったクソ映画はクソとしての名すら残らないか

2012-03-02

それは「サブカル」を間違ってるよ

http://anond.hatelabo.jp/20120302003939

元の語源では確かに、漫画アニメはsubcultureだったけど、

それって何十年も前の用法なんだ。


今は「サブカル」って言ったとき漫画アニメは指さない。

というかどんな趣味を持っててもsubculture、”社会の外れ者”ってほどの扱いではなくなったよね今って。

かつてはもっともっと、mainでない趣味を持つ人間自動的に強烈に被差別民だったけど。

既に「サブカル」って言葉は役目を終えた。


じゃあ現代に「サブカル」を自称してるのはどんな人達かって言うと、

趣味の為に心ならずも社会から疎外されちゃう人」ではなく

「自らの自意識の為に社会からの疎外を必要とする人」になった。

別の言い方するなら「パンクロック」っていうか(これは”時代遅れ”って意味も兼ねてる)。



で本題、

周りでそういうサブカル趣味みたいのが増えてきてさ、

ということだけど、

その友達たちは「サブカル」を自称してた?

それとも漫画アニメ見てるだけ?

ここは君が友達趣味を合わせる上で大事なとこだからよく思い出して欲しい。


もし後者なら、

それはただの「オタク趣味」で「サブカル趣味」じゃないよ。

その場合は彼等と話や趣味を合わせる上で

東浩紀とか大塚英志とかの評論

なんか読む必要は全くない。

クソ面白くないよねそいつらの話。誰だってそうだよ。

漫画アニメを楽しむためにはそんなの全然必要ない。


だけどもし前者、

友達たちが「サブカル」を自称するサブカルごっこにはまってるなら

彼等と話や趣味を合わせる上で、

つまんないオッサンのクソつまんない評論読むのは必須課題になってくる。

サブカル」は前述の通り、人と違うことや苦しいことを敢行するの自体もアイデンティティなので

面白くない評論家の話を読み込んだり、面白くないクソ作品ばっかり見たりするのは重要な課業。


もっと詳しく紹介すれば、

昨今それなりの「サブカル者」を自負する人はアニメよりも映画を見てるよ。

現代はアニメ漫画より映画のほうが圧倒的にクソ作品が多いので。

単館上映のクソ映画カルト映画はしごしては、

「とても面白かった」と言い張ったり、

クソだとわかってる邦画をわざわざ見に行っては、

「こんなにクソだった!でも見ちゃった!」って自慢しあったりする。


彼等「サブカルパンクロッカーの目から見れば

今日漫画アニメなんて完全にセルアウトした堕落の象徴で、

そんなもん絶対に「サブカル」だとは認めないし、

むしろ彼らはアニメオタクに対しては一般人以上の憎悪と蔑視を持ってる。


要するに元増田はまず

アニオタ道を模索したいのかサブカル道を模索したいのか

そこを自分の中で明確にすべき。

全然のものなので。

2012-01-04

綾瀬はるかの『ICHI』がクソすぎ

ソ映画だとわかってて見たのにそれでも見てられないぐらいの凄さだった。

一応全部見なきゃいけないと思い録画して早送りしながらなんとか最後まで見た。

メモする価値あるぐらいのクソ加減だったので以下備忘。


綾瀬はるかが全く演技をしない

他の映画での綾瀬の演技を見た事がないので断定できないが

おそらくはそもそも度を越えた大根なのだろう。

が、『ICHI』では演技が下手っていうレベルを超えているのでまるで演技する気がないように見える。

一瞬何か意図的な演出なのかと思ってしまうほど演技をしない。


だいたい綾瀬演じる市は

極度に感情も表情も乏しく能動性の無い女、というつまんない人格に設定されていて

ほとんどのシーンでただ周囲の人の話を無表情無反応に聞いてるだけということになる。

こんな役を大根にやらせるので、本当に「ただ立ってるだけ」「座ってるだけ」をしていて、演技する気がさらさら無い。

(このただ座ってるだけの女にオッケーをだす監督も凄い。

 そんなのモブでもあっちゃいけない筈だが綾瀬は主役だ。)


アイドル映画ならもっと必死に頑張るような役をあてるべきで、

そういう役ならちょっと大根でも客もわかってるので楽しめる。

静かな役なんかだけはやらすなと言いたい。


まりの異様さに「こいつなんなの……!?」と違和感を覚えるのも最初だけで、

視聴者はすぐに市がどうでも良くなる。

他の登場人物も全くキャラが立ってないにもかかわらず。

まり映画全体がどうでも良くなってくる。

眠くなるのとも違う新感覚


お話幼児向け以下

悪役は中村獅童演じる「万鬼」という剣客が頭目の不良グループだが、

この万鬼は顔の火傷で仕官出来ないのを悩んでるだけのしょっぱい奴で

万鬼党は狂気破壊衝動で暴れるだけの、バカが好んで描くタイプの悪役。

経済観念すら乏しくわざわざ住み心地悪そうな岩場に男だけで住んでおり

唯一の寄生である宿場無意味殺戮を始めるようなアッパッパーから

話の溜めもクソも何も無い。


悪い親分のところに市が上がりこんで行って

下手に出たりとぼけたり脅したりするような駆け引きも全く無い。

ほとんどショッカーレベルの悪役なので中学生以上だとシラフで見ていられない。

日曜朝の30分戦隊物でも『ICHI』よりはマシな脚本を書いている。マジで


(一方、善良な民衆側の宿場の顔役は復帰直後の窪塚洋介がいつものあの抑揚で演じているが

 全てが意味不明な『ICHIワールドの中では大変好感の持てる常識的なアンちゃんに仕上がっている。

 この映画を見た人間はみんなちょっと窪塚洋介を好きになれる。)


多分時代劇も全く知らない

・八州周りが宿場にやってくると街道民衆が総出で土下座大名か。

・八州様を宿場の顔役達が供応してるところに脈絡も無く万鬼党襲来。

 よりにもよって八州様の目の前で住民の殺戮を始める。

時代劇ではヤクザと結託するワル八州が珍しくないので、

「やや展開が無茶だけど万鬼党に抱きこまれてる八州だったかー」と思って見ていたら

 血刀下げた万鬼党は震える八州の胸倉を掴み「見なかったことにしろよな!」恐喝


無頼の主人公が八州周りを殺しちゃうトンパチ展開も時代劇では稀にあるが、

田舎ヤクザが八州周りを単純に脅しつけて帰す展開は何気に史上初なんじゃないだろうか。

カツアゲ現場を目撃した下級生ぐらいのノリで扱われる八州様。

脚本書いてる奴〇ね。


そもそも市は盲人なのか?

綾瀬演じる市はただ杖持って伏し目がちにしてるだけ。

盲人の剣客、という役作りが物凄く大雑把に、

1「ちゃんと盲人の挙動研究し真似する」

2「その上で自分なりの市の癖を作る」

だとして、

1すらやる気が全く無い。


歩き方も話掛けられたときの反応も何もかもが健常者。

一応目をはっきり相手に向けないことだけはしているが

内向的な市の性格なので多分目が見えても同じような動作になる。

平時でも修羅場でも、耳や全身で周りを窺う演技がまったく無い。

製作陣にも綾瀬にも多分その発想すらない。

市の挙動は常に、ただ物事への反応が鈍い重度の鬱病さんかなんかにしか見えない。


というか、これさあ、製作陣は盲人を描く気なんか無かったんじゃないか

なんか意図があっての事か、単にめんどくさかったのか、なんだかわからないが。

(少なくとも市の盲目設定を取り除いても『ICHI』には全く支障が起きない。

 ただの性格暗いいじめられっこ女剣客、で成立する。)



また、斬り合いだったら斬り合いで、

どんな大根でも大根なりにやるような、

息を詰めたり飲みこんだりするような演技も綾瀬は全くやらない。実力伯仲の命懸けの斬り合いでも。

クールビューティとかそういう問題ではなく、もはや製作陣は脳や神経に障害がある。

こいつらが持ってる感情演出手法は目の端からポロリと流れるふざけた一粒涙だけ。

映画の山場に凄くいい加減なラッシュで明かされる市の過去

 ダイジェストレイプされる市の目の端から同じ涙がポロリと流れるのはもう完全にギャグ


殺陣シーンが無茶苦茶

酷すぎる。

下手とかじゃなくてもはや意味不明

監督剣劇なんてもんに全く興味が無い上に勉強する気すら無いのが雄弁に伝わってくる。

ピンポン』の卓球シーンでもスローモーションの絵さえあれば

動きの流れにケレンミ・リアリティどっちも求めない凄い奴なのはわかっていたが

ICHI』ではそういう酷さが悪化している。


例によって綾瀬はるか大根を越えた大根であるうえに

その綾瀬の棒みたいな動きばっかりクローズアップする撮り方するので

もうどういう攻防なのか誰にもわからない動きをする。

手傷を負うシーンは必ず腕や腿がアップになって服が破れるカットで説明し

どういう流れでそこを斬られたかは多分考えるつもりすらない。


時代劇を見てれば殺陣の下手糞な役者なんかはいくらでも出てくるし

アクション映画見てれば動きの悪い役者もいくらでも目にするが

ICHI』はそういうのとは次元の違うことが起きている。


スローモーションでバチャバチャと血を出すのだけはお気に入りみたいで、

 市も蹴られて盛大に血を吹くがあれはどう見ても内臓破れてるレベルの量。

 何も考えて無いからどうでもいいんだろうが。)


主役は大沢たかお

市が能動性皆無なので

実質的な主人公は大沢たかお演じる浪人

稽古中の事故母親に怪我させてから真剣が抜けなくなった」という

万鬼の顔面コンプレックス匹敵するぐらいしょーもないトラウマでグジグジ悩む男で

万鬼党との戦いに加勢しては刀と鞘を持って「抜けないいいい」とパントマイムをするのが持ち芸。


毎度渾身の力で刀を抜こうとするが

鞘が磁石でくっついているかのように1ミリも抜けない。

いや、真剣が抜けない」ってそういうことじゃないだろ。

この演技指導した奴も素直に従う大沢たかおも、脳腐ってんのか。



一応筋を最後まで書くと

この浪人は市に「心を閉ざすな!」とか説教をして

それを綾瀬はるかはお得意の何も演技をしてない「本当の無表情」で聞き流し、

でもなんか心が動いて戻ってきて

大沢と相討ちになった万鬼にごっつぁんトドメを刺します。

宿場は救われた!終わり。


だんだん浪人に惹かれていった(ような描写は乏しいので鑑賞者が補わないといけないけど)市の脳裏一杯に

フラッシュバック的に大沢たかお笑顔が映し出されるとこが感動シーンの最高潮ですが

盲人の市がどうして浪人の顔を知ってんでしょうね。

そこは聞き覚えた声とかかつて握った手とかで演出しろよと感じます

前述の通り市の盲人性を真面目に扱わない製作陣にはどうでもいいことだった。


やっぱり市の性格おかし

根本的な間違いとして、

盲人という重要感覚器が一個閉じてる主人公に、

更に自閉的な性格をあててしまったらどうにも話が成り立たない。


もともとの勝新太郎座頭市

なんだかんだ言いつつ相当な世話焼きで、

腰は低いけど欲も意地もあるし優しいしよく怒る。

性根の悪いヤクザからかったり脅したりもする。

これぐらい濃い人格が噴出してくるから目の見えない体と釣り合いが取れる。

北野武座頭市だって勝版とは相当に色々違うが、

 主役の人格はやはりアクの濃い悪い奴になっている。)


いっぽう綾瀬はるか座頭市

中学生が初めて書いた小説の主人公みたいにおもしろみのなーい傷心由来の内向的性格

こんなもんを目の見えない体に入れたらそりゃ話が動かずつまらん事になるのは当たり前。

監督脚本は何考えてたんだろう一体。

おわり。

2011-12-25

今すぐ消えろ!日本カルチャーシーンを「残念」にした戦犯タイプ

ハロー

聖おにいさんオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。

http://anond.hatelabo.jp/20081210172325

とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。

http://anond.hatelabo.jp/20091216230059

このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!

http://anond.hatelabo.jp/20111224192828

を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。

「かわいそうだね?」

って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞ネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。

はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大自分直視できないのかねえ。

「格好をつけないことで、格好をつけている」

「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」

やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。

ぼくはきみたちの断末魔叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。

ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。

これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。

きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。

では、いきますよー。

映画秘宝

ボンクラ」なんていう安っぽい価値観連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスター宇多丸町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。

「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。

中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。

自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚フンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。

彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸ラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。

そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画ポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。

この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフル宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画町山智浩キラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画ネタにしているのを見たことあるよ」でも可。

伊集院光

人生大切なことは、すべて伊集院光ラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。

映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャー必死に否定してくる。「最近アニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。

自分中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画アニメ伊集院が褒めるものけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。

映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットMP3音源違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメ自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。

「人見知りなのは感性が鋭いからだ!」

バイト面接で受からないのは、感性が鋭いからだ!」

住民税を滞納しているのは、感性が鋭いからだ!」

もうなんでもあり。

こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛自己肯定は。

ビレバン

ある意味一番病気かもしれない。

「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽ自分必死デコレートしようと頑張っている。ビレバン下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分ビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。

こういう奴がセンスいいと思われたい一心カルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画悲惨犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。

なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍マリオネットたち。

こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。

さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。

もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。

つぶやき批評家

そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆

はてブツイッターなどの安全からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。

文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ

大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。

このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報いかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。

以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性大事」という間違った教育と、「作品の解釈受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。

確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。

ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督紀里谷和明か、小説家岩崎夏海くらいか

特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代クリエイターズバイブルだね、この本は。

みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽ自分直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。

2011-03-04

http://anond.hatelabo.jp/20110304150714

「文句」や「否定」と、「執着」や「発狂」は区別されるべき

ソ映画に執着して発狂してたら、おかしいだろ?

2009-11-23

劇場版マクロスFはクソ映画。犬も食わんね.

以下、『劇場版 マクロスF 虚空歌姫 ~イツワリノウタヒメ~』のネタバレを多分に含みます。

映画の流れに沿っての雑多な感想・気づいたこと。


正直、駄作だと思うんだが周りで褒められすぎだったので、

ひねくれて欠点ばかりあげつらうような真似をしてみた。

根拠無く言ってるつもりはないので、反論あったらかかってこい。


前半、ランカとの出会いを丸々カット

アルトランカは最初から友達というのは時間を削る面で妥当な改変。

マイクローン状態のクランがちょっと大人びた体型と声になってた?

というかミハエルと同じく学生やってたんだっけ、年齢的におかしくないけど、

アニメ版では多分そんな描写無かったよね。


シェリルライブは圧巻のCGステージ

力入れてるんだろうなと言うことがヒシヒシと伝わってくる。

シェリル衣装、生尻、ボンテージエロさ惹かれた人多いと思う。

しかし、演出面を考えると正直微妙

全体的にライブしてますと言うよりも、上映してますっぽくて、

シェリルが生身で歌ってる感触が薄かった。

演出過多と言っていいかもしれない。


一瞬で着替えのところは超科学でいいとして、

二人同時に登場はおかしい。片方が偽物・CGであることが確定するということ。

これで片方が、シェリル影武者あるいはクローンとかなら、

イツワリノウタヒメ」ってサブタイトルに絡んで面白い展開と思ったけど、

全然そんなことはなかったぜ!


あとは、シェリルの初回ライブ裏で繰り広げられるバジュラとの邂逅では、

やっぱり「もってっけー」を使って欲しかったのが素直な感想

新曲も悪いとは思わないけど、やっぱりそこは見せ場としてね。

音楽に関しては全編通してやっぱりよかった。


その後、ライブ中のバジュラ襲撃では新しい展開。

アニメ版では観客おいてトンズラしたシェリルだけど、

今作では飛行するアルトに抱えられて、

バジュラの段幕をかいくぐるアクションを見せる。

命を救われたことで一気にデレが早まるし、これは映画版として納得の展開。


次のシーンについてはかなり疑問。

アルトSMSに加入するかについての病室での論議は、

アニメ版に比べて展開はしょりすぎでわざとらしい、不自然

「また逃げるのか」のあたりとか上手く意味が通らないんじゃないかな。

あと、俺もバルキリーに乗せろ→調子こくな→パンチのシーンは欲しかった。


この後がランカシェリルの出会いだったかな。

ここで「あなたもアイモを知ってるの」と入り、映画オリジナルの展開感が濃くなる。

これについては後編を見ないとイイ改変だったのかどうかは判断つきかねる。

ランカをたきつけるシェリルはいいとして、その時のシェリルが変だと思う。

なんというかこんなキャラだっけと疑問になる感じ。

グレイスとの電話のシーンとか割と顕著。


ランカデビューシェリルデートは割と原作通り。

ランカ紙飛行機勇気を出すシーンは、

実物を投げさせてもよかったと思うけどな。

幻にする理由はそんなにないと思うけど。なんで幻の飛行機にしたんだろうか。

あと、周りのミュージシャン演奏入れてくれるシーンはもっと描写してもよかったんでない?


シェリルスパイ疑惑からのアルトとの不仲のシーンは……。

アルト馬鹿だとはいえあの展開は正直どうなの。

何かのインタビュー監督が自信満々にこの展開を言っていたけどさ。

ランカアルトに対する本気の気持ちに触れたシェリルは、

アルトから距離を取るって感じでもよかったと思うけど。

あんまり気分いい展開じゃないなぁ。


シェリルイヤリングの片方を届けに行くシーンで何より疑問なのは、

今作におけるグレイスの立ち位置

アニメ版で行けば完全黒幕で、脳内会議とかで割とその片鱗は見せてるわけだけど、

その一方でギャラクシーの救援養成を無視したフロンティア感情的になじるあたりは、

新しい要素であるとともに疑問のキャラ設定。

計算ずくの黒幕っぽさが薄れて、割と普通に助けて貰えなかったのを恨む人みたいで、

上手い言い方が見つからないけど、俗っぽさ、人間くささが増した?

黒幕として扱うなら、こういった感情的な表現は避けた方がしっくり来ると思ったけど、

その辺については次作の完結編でのグレイスの扱いで変わってくるから保留。

ただ冒頭でしっかり黒幕っぽい発言はしてるんだよなぁ。


ギャラクシー救出作戦で、三隻が沈んだ意味ってのは何だろうな。

アルトを「ちっくしょー」と突撃させるのが目的なんだろうけど、なんか後味悪い。

あとは終盤の「あなたも私も、できることをやっただけ」のセリフに繋がるんだろうけど、

うーん、この辺は深く考えるところではないか、ただあんまり好きくない。


ランカの声がバジュラを呼ぶシステムとかに何も説明がないまま、

いや回想シーンで歌ってたらバジュラが来た、逃げろってのはあったけど

ランカがおとりになるつもりだ」って展開は正直どうなん?

とくに、一作完結だと思ってた当方としては、

残り時間的にもランカとバジュラの関わりについて掘り下げるつもりはないんだろうな、

説明不足だろ感が湧き上がってきていたり。

これはアニメ版みた側の意見だけれど、逆に見て無い側はこれで納得できるのかな。


最終決戦の盛り上がらなさが異常。

いや、次作があるから事実上の最終決戦ではないのだけれど、

その時は一作完結と思ってたわけで、

そうでなくても2時間クライマックスとしてこの出来はどうなんだ。

ミシェルが撃たれて生きてたけど、むしろクランを守って死ぬって展開無しにくたばることは無いだろう。

もしこれで死んでたら迷わずスクリーンにポップコーン投げてたね。買ってないけど。


うーん、次作を見て無いからストーリー面ではまだ判断を下しづらいんだけど、

正直もう河森監督脚本には期待できないというのが率直な感想

じゃあ誰ならいいんだって言われても困るけどね。

各所に見所ってのはあったからばっさり斬り捨てたりはしないけど、

期待してたのよりはだいぶ斜め下だった感は否めない。

あとファミマコラボと、オズマの「突撃ラブハートだ」は寒いと思うんだ。

2008-08-27

Re:「スカイ・クロラ」でひどい目に遭う

はてブ人気エントリーで上がってたんでちょっと

http://d.hatena.ne.jp/Dersu/20080826#p1

残念ながら、オレにはこんなクソ退屈なクソ映画から作り手のメッセージとやらを読みとる根気はなかった。

(中略)

オレの感覚ではこの映画、人さまに話を聞いてもらう態度とはとても思えなかった。

そもそも、何がつまらないかという事にまったく言及することなく

初っ端から見る気がしないと受け付けないという観念が出来上がっている状態では、何を与えても無駄

せめて、何がつまらないかぐらいは言おうな

実際見た感想の1つに

「売れない映画だな」

が、まず最初に上がったのは確か

2008-03-01

アブソリュートラップ <後編>

TRACK8(INSTRUMENTAL)

 トゥルルル、ガチャ

 電話ベルが鳴った。

 「はい、もしもし。----ですけど」

 「あたし、分かる?」

 「うん。どうしたの?突然に」

 「別にどうもしてないんだけど、忙しい?」

 「いーや。何もしてないよ。暇だったけど」

 「…あのね、さっきテレビで怖いドラマ見ちゃってそしたら電話して言いたくなっちゃった

 「どんなの?」

    ↓

 「別にそんだけ。用はないんだ、じゃぁね」

 ガチャ

TRACK9

 待ち合わせ。と、いう行為は非常に楽しいことであると同時にとてつもない苦行でもある。その日は僕は極小Tシャツにデッドストックのブーツカットジーンズエナメルビルケンサンダルという出で立ちでひたすら彼女を待っていた。風のない日でおまけに正午、じりじりと僕を責めたてるものが太陽でなかったら一体なんだろう。焦燥、字面からしてもう、焦がれている。遅れること20分彼女はやってきた。いつもパンツルック彼女スカートを履いている。吉兆と緊張。

 昼食はでたらめに飛び込んだ店でとった。その割にはまぁ、美味しかったので、良い気分で店を出て電車に乗って移動する。ガタンゴトン。語っとこう、肩の力抜こう、と聞こえる。従い、彼女と語る。

 彼女の話は長いので省略。

 「へー。そうなんだ」

 とりあえずのところそんな風にあいずちを打っておけば問題ない。一応、カタルシス

 「今日スカートなんだね。初めて見た」

 「いつもはね、汚れちゃうからパンツなんだけど。足太いからあんまし履きたくないんだけどさ、今日はね。あたし、デートのときしかスカート履かないんだよ。どう?」

 「いいね」

 色々いい。色も良いし、もっと履いたらいい。

 様々な店がひっきりなしという感で立ち並ぶ雑多な、滅多に歩かない、街の通りを見て歩く。それはもう本当に様々で、古着屋、雑貨屋などをはじめに目に入った順に立ち寄った。僕も彼女も何も買わないし、何か目あての物があったわけではないのだが非常に楽な気分になれた。肩の力が抜けたという感じか、顔を合わせるのが3度目とは思えないほど僕達はリラックスし、それ以上に親近感が2人の周りの空間を包み込んでいた。呑み込んでいた。淀みが飛んでいた。

 夕方になると幾分風が、心地良く吹き始め、人々の頭髪を、柔らかく揺らす。僕の崩れた頭髪も、あっちも、こっちも。いつもおろしっぱなしの髪をバレッタで巻いて揚げた隣の彼女をも。もう。

 「はぁー。疲れたね」

 「うん、生き返った」

 喚き、歩き疲れた僕達はファーストフードの店に入りその体に飲み物をひとしきり流し込んで、そう交す。まるで仕事後のサラリーマン居酒屋でやってるみたいにだ。彼女の話を聞いていた。彼女はとてもおしゃべりな子で、そうそう黙り込むことはなかった。ハンバーガーを食べていた僕の口の周りはもはや壊滅的状況といった装いで、その被害情況は両手、トレイにまで及んだ。僕はハンバーガーだのがうまく食べられたためしがない。だったら食べるのよすのが良いんだけど。

 「もう。汚いなぁ、あたしが食べちゃおうかな」

 と言って大きく口を開けてかじりつくふりをする。ライオンみたい。

 やっとのことで食べ終えた僕は、

 「そういや、何か用事があるんじゃなかったっけか。何時に何処?もうすぐでしょ?」

 と尋ねた。外れない。

 「そうなんだよねー。あーあ、どうしよう」

 「すっぽかすのはまずいでしょ」

 「うん…」

 力なくそう答えてからいつも元気な彼女は次の瞬間しゅんとなって

 「…もっと一緒に居たいな」

 ぽつり。

 ここは駅付近、駅構内へ向かう人出て来る人どちらの人も皆せわしなく歩いている。足音だけが彼等の存在証明、そして僕等も、その存在を立証すべくお互いに優しく注意深く手を振る。彼女はもうすっかり笑ってそのたてがみの様な頭髪をゆさゆさ差し込む陽光で金色に光らせて今もう一度手を振った。もう1度揺すった。

 僕達は一体どうなるんだろう。願望だけが宙に浮いて。振り向いて。

 真夏のライオンキング

TRACK10

 僕と彼との一旦。

 暑い暑い気が触れる寸前の夜、俗にいう熱帯夜。基本的には気が滅入ってヤダ。でも、ちょっと素敵じゃない?

 「夏はまずコロナから始まるよな。コロナ2本、何か食う?」

 「いらないね。酒を飲むときは何もいらないんだ。しいていえばピスタチオくらいあれば申し分ない」

 「そうだった。じゃ、ピスタチオも」

 ウェイターにそう告げると快くカウンターに入っていった。無音で「いい」って言った。えらく少ないオーダーに嫌な顔をする店というのは結構世の中にはたくさんあるものだ。そんな中にあって稀少といってもいい店。だからよく行くお店。

 「最近さ、どうしてんのさ」

 「別に。どうもしないさ」

 「でも呼び出したからには何かあったんでしょ。少なくとも」

 「ただの世話話だよ」

 世話話というのは世間話のことだ。

 少し遡ろう。ちょっと盗聴っぽく。

 「はい?」

 電話に出た僕の耳に聞こえてくるのは紛れもない彼の声だ。

 「あのさ、ちょっと出れない?」

 「いいけどオールとか無理だぜ。君と違って明日も学校があるんだから」

 「あるのは知ってるさ。毎日ある。さらに言うなら君が行かないことも知ってる」

 「わぁったよ」

 「場所は分かってるだろ。何時に来れる?」

 「8時」と、僕。

 「ということは9時だな」

 彼の失礼な言葉電話を終わらせ部屋に戻り飲みかけコーラを飲んでしまうとそのあとでゆっくりとマールボロを吸う。ゆっくりと支度をした。

 「ごめん、遅れた」

 時計は8時45分を指している。

 「いいや時間通りだよ」

 こういうことを分かっている存在だ。ぞんざいか?

 「また夏が終わるよ。1人者の夏が」彼。

 「そうかい。嘆くことでもないと思うけどね」と、僕。

 「まーね、君は顔がいいからね」

 といつも言う口癖を言って5杯目のカクテルを飲み干す。とはいっても彼の飲んでいるのは全てショートカクテルの強いものばかりだ。僕だったらもうストップなのに彼はまだ飲むつもりらしい。積もることでもあるらしい。

 「オーダーいいすか?チャーリーチャップリンスレッジ・ハンマー

 「ああ、俺、結構キいてきたよ」

 「でも飲めるだろ?」

 「俺何か食おうかな。あ、これ頼んで。ナスとミートのオープンオムレツ、これ食いたい」

 「オーケー」

 僕は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消し、新しい煙草に火を付ける。僕も彼もはっきりいってチェーン・スモーキングに近いのだ。そして料理を食べる。僕達は当初の予定通り身のない話を山ほどした。見ない未来の話や、なにか、そういう意味では今日ノルマクリアしている、現実的にも比喩的にもお腹一杯だ。だけどどんなに話し合っても分からないことだらけだったし、どんなに飲んでも食べても飢えも渇きも消えなかった。僕はそろそろ答えを欲している。そして、バックグラウンドはレゲェミュージック。ワン・ラブ。笑う。

 「どうだい?」

 「どうだろう?」

 夜はまだまだ終わらない。

 僕たちはまだまだ笑い終えない。

TRACK11(INSTRUMENTAL)

 僕は今まで数多くのものを憎んだけれど、このときのベスト1は美術予備校の講師だ。僕は天秤にかけられ、結果彼女に拒まれた。それだけだ。だけど秤に乗せられる気持ちなんて秤に乗ったことがある人間にしか分からない。僕は偉大なる日々から日常へと帰っていく。

 あるいは僕が憎んだのはこの僕自身だったかもしれない。もう忘れた。

TRACK12

 僕ともうちょっとマシなものとの会話。

 『ほら、言わんこっちゃない』

 「何が?」

 僕は怒っている。

 『分かったろ?』

 「だから何が?」

 『僕が話したいのはそんな君じゃないんだけどな』

 「いいよ、あきらめついたから」

 『そう?』

 「拒絶したい奴はすればいいさ。僕はそれほど何もかもに関心があるわけじゃないんだから」

 『ただの負け惜しみにしか聞こえないけど。未練たっぷり。直視出来ない、まともに見れん』

 「それも1つの見解でしかない」

 『まだ他人がうらやましい?忘れた?あの日、君は道標を見つけたんじゃなかった?なら進めよ。君が今嘆いているのは大前提事実だぜ、うかれて足元すくわれただけだろ。だいたい何をうかれてんだよ。君は何も知らなかった、それだけだろ。大きな勘違い

 「裏切られた気持ちを知らないからだ」

 『なら言ってやる。求めればあたえられるっていうのはナメてんだよ。子供か?何でも向こうからやって来るのを待ってんのか?耳かっぽじれ。求めよ!渇望せよ!そして進め。これが本当だ。この先はない。与えられん』

 「…」

 『泣いたってだめだよ』

 「どうしたらいい?」

 『大丈夫、きっとうまくいくさ』

 その夜、誰も見てないのを確認してから泣いた。

TRACK13(INSTRUMENTAL)

 そらで言える電話番号を押し彼女電話をかける。時の流れと一緒にプレッシャーも流動しているのだ。なぜならもう合格発表の時期だからだ。

 「どうだった?」

 僕と彼女では専攻が違うのでこの聞き方はおかしい。まるで一緒に受けたみたいだ。

 「そっか、俺の方もだめだったよ。今度のはいつ発表?何処?そんときにまたかけるよ。じゃぁね」

 別に彼女恋人でなくともできることはたくさんある。あるいはただ未練がましいだけかも知れない。それはそれでかまわないのだ、僕に重要なことは正しいベクトルであること。これだ。

 ××美大の発表の日、僕はすぐには電話をかけることができず少々ごたついてしまい結局かけることができたのはその何日か後になってしまった。胸を早く打ちながら、受話器があがるところを想像したが電話に出たのは彼女ではなかった。

 「この電話番号は現在使われておりません(繰り返し)」

 後にも先にもこれほど途方に暮れたのはこれっきりである。

TRACK14

 時の流れはきっと冷たいんじゃないかと思う。非情という意味ではなくて体感温度として、ちょっとした心象表現だ。下らないことを言ってみたかっただけ。そして、今だ僕の体もその流れの中にある。聞き流して。

 いや、溶かして。

 ハイ・シエラの谷でとれた水の冷たさで僕の右手はもはや麻痺し、何も描けない。はっきり言って逃げ出したかったけれど一体僕は何処へ逃げたらいいんだ?そんなわけで僕は日常の中で小さな現実逃避を繰り返しては、ぶりかえしては、熱病に執拗に、連れ戻されていた。

 僕には浪人という立場があり、やるべきことがきちんとあったがその答えをまるで別の方向で弾きだそうとするみたいに足掻いた。足掻いて、足掻いて、その跡で凍傷で焼けた赤い手を見て、そして、そのことからまた逃げるように他のことで代償行為としたのだ。言ってみればこの時にひょんなことで出会った娘と何度も、映画を見るための2時間限りのデートを繰り返したのだってその一環でしかなかったかも知れない。

 良く晴れた平日の昼間に近場の公園文庫本を読みながら、溜め息をついた。いまだ、僕の右手はかじかんだままである。

 あがけばあがくほどより深い溝にはまってゆく、それが僕に限った話かどうかは知らないけれど。アリジゴクっていうのがあるけどとても悲惨なネーミングだ。もう、本当に。誰がつけたか興味ないけれど、そんな名前をつける奴こそが深い溝の底で未曾有の苦しみを味わうがいい。

 僕は予備校にまた通い出した。大好きなマイナーなクソ映画もあらかた漁りつくし、しまいには見るものなくてフェリーニまで見た。夜な夜な飲み歩き、好きでもない酒を知らない人間と飲むのももううんざりした。近所の公園なんて僕の縄張りみたいなもんだ。やるべきことをやる時期、そう判断したのだ。ゆらゆらゆらゆらクラゲのように気楽に海水と愛の巣をつくる話は破談した。求愛する相手も無くし、色んな居場所を追われたけれどラッキーなことに僕にはまだやらなければいけないことが残っていた。僕はついてる。

 相変わらず判で押した様に定時に行くことは無理だったけどそれでも少しは救われた。

 ピリピリという擬音が聞こえてきそうなほど押し差し迫った空気の中、僕は浪人2度目の受験を迎える。そんな中に在っても僕はふっきれないまままるでコンクリートプールで泳ぐ気分だった。

 具合が悪くなるくらい考え事をして僕は生まれ変わる夢ばかり見た。1度だけ大学生に生まれ変わる夢を見た。勿論、笑い話だぜ。

TRACK15(INSTRUMENTAL)

 いよいよ試験の日程も押し差し迫るといった最後の前日、友達がお守りをくれた。実際に彼が身につけ、数々の合格をむしりとったラッキーお守りだからといって僕にくれたのだ。

 そして、僕は合格した。拍子抜けした。

TRACK16

 僕は大学生になり、あくせくと大学生をまっとうし、わだかまりとアクセスしたけれどそれが何だっていうのだろう?僕は考えられないほど学校に通い恋をすることもなかった、何事もなかった、暇がなかったわけでもないし余裕がなかったわけでもない。浪人中に比べればさほどの欝没も感じない。歳をとったせいか、はたまたそんな時代なのか知んないけどな。

 ただ僕は絵を描いていた。派手に遊ぶこともなく前から付き合いのある友人と付き合い、本を読み、そして絵を。辛かったことを忘れないように、嬉しかったことをかみしめるように、恥ずかしい自分を戒めるように、何よりも自分自身の僕という存在の力を知りたくて。

 そして、まだ、在りたかった僕になりたくて。

TRACK17

 蟻はただ働き、そしてそういう自らを肯定した。そのおかげでかつての僕を知る人などは変貌ぶりに驚嘆の声など挙げてみたり、またある人は近づき難しと距離をおいた。何も考えない、蟻は死など恐れない。死への行進、日付だけが更新。そんなの怖くなかった。ただ、そのシステムが変わるのが恐ろしかった。何かが変わるのが恐ろしかった。でも、案の定何かが変わる。

 僕はある女の子と出会った。それは特別にマーキングしておかなければとても目立たないような特徴のない毎日に降ってきた、だから僕はその娘が特別だとは少しも思わなかったのだ。

 電話が鳴る。その内容はとても事務的に終始しつつ意図の分からないものだった。予想外の人物、ただの1度以前に引き合わされただけの人物が電話の主とはいえ、特徴のない平穏な毎日の中にある僕はこの出来事の持つある種の特殊性に気付かずにいたのだ。

 そして2度目の電話も鳴る。

 「もしもし 覚えてますか?」

 消え入りそうな声。

 「ええ、覚えてますよ」

 遥か、遥か遠くから語りかける言葉

 そう。堯倖に等しい毎日はとても当たり前の顔をして始まったのだ。キングダム

 実際に会った彼女の中の王国は、かつて様々な人の中に垣間見たような理解の範疇を超えるような代物ではなかったし、逆もまたしかりだったのではないだろうか。

 なんとなく信じられないのは、今こんなふうに生きていること。ただその喜びは宙に浮かんで輪郭もはっきりとすぐ鼻先にあるみたいなのだけれど、蜃気楼みたいに決して届くことはないのかもしれない。物事は現実的であればあるほどそのリアリティを失っていく。誠実であろうと思えば思うほどそれが叶わないようにだ。

 世はなべて。僕は儚む。

 そして、一筋の光明

TRACK18(INSTRUMENTAL)

 最初に体を重ねてから数ケ月経ったある日、僕達は共同作業を終えた。それは本当に思い掛けないぐらい突然にやってきた。僕はこの時やっと誰しもが容易に掴み取ったであろうリアルを手中に収めたのだ。

 彼女は笑った。

 僕も笑った。

 何かが起こりそうな予感がする時は必ず何かが起こる。僕の得た貴重な経験則のひとつだ。

TRACK19

 人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから。

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 オーケイ、ドント・スリープ

 男は言った。

 「信じているか?絶対の、完全無欠の、無制限の、無条件の」

TRACK20

 夕方4時頃目が覚めた。

 頬をつたう涙の正体は一向に分からなかったが、多分コンタクトを外さずに寝たせいだろうと解釈した。大学夏休みに入っていて特にすることがないのだが埒のあかないことにいつまでもかかずらっていることはあまり好みではないからだ。さてどうしようと考えて外食しにいく事にした。

 身支度をして部屋のドアを閉める。

 僕は随分と長い間喋り続けた後のような疲労感と、倦怠感、凄絶とも言えるかつてない空腹に襲われていた。そしてあまりに腹が空いて相当笑えてもいた。炎天下の下、こんな体を引きながら繁華街まで出るのはどう考えても億劫だった。駅に行くまでには定食屋だってあったし、それこそラーメン屋や各種飲食店の類は数え上げたら切りがないほど存在したのだけれど、何故か僕の足は駅に辿り着き、そして疲弊しきった体はというと、駅のホームに立ち、新宿行の電車を待とうとしていたのだ。辟易とした。

 平気?いや、平気じゃない。今何故か僕の体は睡眠から覚めたばかりだというのに随分と疲弊していて、風邪をひいたのか何か分からないけれど異常な倦怠感があったのだ。喫煙所でバカスカ煙草を吸いながら、僕は癇癪を起こしそうだった。どんな解釈も無用だった、もう、電車がホームに入ったからだ。どうも僕は乗る気らしいし。

 新宿の街で食べたものはといえば、それが果たして自分の住む近所で食べたこととそうも結果が変わるとも思えないようなメニューを選択してしまったし、それでなくとも、まともに考えればわざわざ新宿電車に乗って飯を食いに来る意味は何なのかと、自分に問うていた。腹が朽ちるとそれも馬鹿馬鹿しくて良い方向に笑えてくる。満腹になった今でいえば、そんなわけの分からない自分が、少し気に入ってきつつもあったのだ。

 大学夏休みに入ってからというもの、怠惰な生活に、対話なき生活に、僕はすっかり馴れてしかも親しんでしまっていた。基本的に自炊で食事を賄う僕としては外出することもなかなかなくなっていた。まぁ、念願叶うといってはおおげさだが、いい機会でもあった。

 ファッションビルの1番上から順に眺める。店舗に入る服屋を物色する。僕は必要に迫られない、狭められない、そんな買い物が好きだった。もう、若い者ではない僕には最先端の流行は必要ではない。購い者でもない。

 ひとしきり人ごみを満喫し、ポケットから煙草を取り出して、目的もなく歩く。人の流れにうまく乗り、集団の中手に、苦なく波に乗り、咥えた煙草に火をつけた。映画の巨大な看板を目にして、胸に何か去来する。僕には何も、分からない。

 信号の青い点灯を待たずに、跨がずに、すぐ手前の白線を踏む。人の織り成す濁流が交差して、甲翳して、ふたつの流れの交わるところで僕は前方から歩いてくる若い女性の姿が目に止まる。歳の頃も同じぐらいで、髪が肩よりも短く、白い開襟のシャツを着ていた女だった。堪らない程多くの人間といっぺんに交錯するようにすれ違う。目を覆うようにして翳した手の甲の影から、急に涙が込み上げて、歩きながら振り返ると個と解けた濁流は散り散りになっていずこへと消えた。

 僕は吸いかけの煙草をもう1度大きく吸ってから、迷うことをやめた。

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