TRACK8(INSTRUMENTAL)
トゥルルル、ガチャ。
「はい、もしもし。----ですけど」
「あたし、分かる?」
「うん。どうしたの?突然に」
「別にどうもしてないんだけど、忙しい?」
「いーや。何もしてないよ。暇だったけど」
「…あのね、さっきテレビで怖いドラマ見ちゃってそしたら電話して言いたくなっちゃった」
「どんなの?」
↓
「別にそんだけ。用はないんだ、じゃぁね」
ガチャ。
TRACK9
待ち合わせ。と、いう行為は非常に楽しいことであると同時にとてつもない苦行でもある。その日は僕は極小Tシャツにデッドストックのブーツカットジーンズ、エナメルのビルケンのサンダルという出で立ちでひたすら彼女を待っていた。風のない日でおまけに正午、じりじりと僕を責めたてるものが太陽でなかったら一体なんだろう。焦燥、字面からしてもう、焦がれている。遅れること20分彼女はやってきた。いつもパンツルックの彼女がスカートを履いている。吉兆と緊張。
昼食はでたらめに飛び込んだ店でとった。その割にはまぁ、美味しかったので、良い気分で店を出て電車に乗って移動する。ガタンゴトン。語っとこう、肩の力抜こう、と聞こえる。従い、彼女と語る。
彼女の話は長いので省略。
「へー。そうなんだ」
とりあえずのところそんな風にあいずちを打っておけば問題ない。一応、カタルシス。
「いつもはね、汚れちゃうからパンツなんだけど。足太いからあんまし履きたくないんだけどさ、今日はね。あたし、デートのときしかスカート履かないんだよ。どう?」
「いいね」
色々いい。色も良いし、もっと履いたらいい。
様々な店がひっきりなしという感で立ち並ぶ雑多な、滅多に歩かない、街の通りを見て歩く。それはもう本当に様々で、古着屋、雑貨屋などをはじめに目に入った順に立ち寄った。僕も彼女も何も買わないし、何か目あての物があったわけではないのだが非常に楽な気分になれた。肩の力が抜けたという感じか、顔を合わせるのが3度目とは思えないほど僕達はリラックスし、それ以上に親近感が2人の周りの空間を包み込んでいた。呑み込んでいた。淀みが飛んでいた。
夕方になると幾分風が、心地良く吹き始め、人々の頭髪を、柔らかく揺らす。僕の崩れた頭髪も、あっちも、こっちも。いつもおろしっぱなしの髪をバレッタで巻いて揚げた隣の彼女をも。もう。
「はぁー。疲れたね」
「うん、生き返った」
喚き、歩き疲れた僕達はファーストフードの店に入りその体に飲み物をひとしきり流し込んで、そう交す。まるで仕事後のサラリーマンが居酒屋でやってるみたいにだ。彼女の話を聞いていた。彼女はとてもおしゃべりな子で、そうそう黙り込むことはなかった。ハンバーガーを食べていた僕の口の周りはもはや壊滅的状況といった装いで、その被害情況は両手、トレイにまで及んだ。僕はハンバーガーだのがうまく食べられたためしがない。だったら食べるのよすのが良いんだけど。
「もう。汚いなぁ、あたしが食べちゃおうかな」
と言って大きく口を開けてかじりつくふりをする。ライオンみたい。
やっとのことで食べ終えた僕は、
「そういや、何か用事があるんじゃなかったっけか。何時に何処?もうすぐでしょ?」
と尋ねた。外れない。
「そうなんだよねー。あーあ、どうしよう」
「すっぽかすのはまずいでしょ」
「うん…」
力なくそう答えてからいつも元気な彼女は次の瞬間しゅんとなって
「…もっと一緒に居たいな」
ぽつり。
ここは駅付近、駅構内へ向かう人出て来る人どちらの人も皆せわしなく歩いている。足音だけが彼等の存在証明、そして僕等も、その存在を立証すべくお互いに優しく注意深く手を振る。彼女はもうすっかり笑ってそのたてがみの様な頭髪をゆさゆさと差し込む陽光で金色に光らせて今もう一度手を振った。もう1度揺すった。
僕達は一体どうなるんだろう。願望だけが宙に浮いて。振り向いて。
真夏のライオンキング。
TRACK10
僕と彼との一旦。
暑い暑い気が触れる寸前の夜、俗にいう熱帯夜。基本的には気が滅入ってヤダ。でも、ちょっと素敵じゃない?
「いらないね。酒を飲むときは何もいらないんだ。しいていえばピスタチオくらいあれば申し分ない」
「そうだった。じゃ、ピスタチオも」
ウェイターにそう告げると快くカウンターに入っていった。無音で「いい」って言った。えらく少ないオーダーに嫌な顔をする店というのは結構世の中にはたくさんあるものだ。そんな中にあって稀少といってもいい店。だからよく行くお店。
「最近さ、どうしてんのさ」
「別に。どうもしないさ」
「でも呼び出したからには何かあったんでしょ。少なくとも」
「ただの世話話だよ」
世話話というのは世間話のことだ。
少し遡ろう。ちょっと盗聴っぽく。
「はい?」
電話に出た僕の耳に聞こえてくるのは紛れもない彼の声だ。
「あのさ、ちょっと出れない?」
「いいけどオールとか無理だぜ。君と違って明日も学校があるんだから」
「あるのは知ってるさ。毎日ある。さらに言うなら君が行かないことも知ってる」
「わぁったよ」
「場所は分かってるだろ。何時に来れる?」
「8時」と、僕。
「ということは9時だな」
彼の失礼な言葉で電話を終わらせ部屋に戻り飲みかけのコーラを飲んでしまうとそのあとでゆっくりとマールボロを吸う。ゆっくりと支度をした。
「ごめん、遅れた」
時計は8時45分を指している。
「いいや時間通りだよ」
こういうことを分かっている存在だ。ぞんざいか?
「また夏が終わるよ。1人者の夏が」彼。
「そうかい。嘆くことでもないと思うけどね」と、僕。
「まーね、君は顔がいいからね」
といつも言う口癖を言って5杯目のカクテルを飲み干す。とはいっても彼の飲んでいるのは全てショートカクテルの強いものばかりだ。僕だったらもうストップなのに彼はまだ飲むつもりらしい。積もることでもあるらしい。
「オーダーいいすか?チャーリーチャップリンとスレッジ・ハンマー」
「ああ、俺、結構キいてきたよ」
「でも飲めるだろ?」
「俺何か食おうかな。あ、これ頼んで。ナスとミートのオープンオムレツ、これ食いたい」
「オーケー」
僕は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消し、新しい煙草に火を付ける。僕も彼もはっきりいってチェーン・スモーキングに近いのだ。そして料理を食べる。僕達は当初の予定通り身のない話を山ほどした。見ない未来の話や、なにか、そういう意味では今日のノルマはクリアしている、現実的にも比喩的にもお腹一杯だ。だけどどんなに話し合っても分からないことだらけだったし、どんなに飲んでも食べても飢えも渇きも消えなかった。僕はそろそろ答えを欲している。そして、バックグラウンドはレゲェミュージック。ワン・ラブ。笑う。
「どうだい?」
「どうだろう?」
夜はまだまだ終わらない。
僕たちはまだまだ笑い終えない。
TRACK11(INSTRUMENTAL)
僕は今まで数多くのものを憎んだけれど、このときのベスト1は美術予備校の講師だ。僕は天秤にかけられ、結果彼女に拒まれた。それだけだ。だけど秤に乗せられる気持ちなんて秤に乗ったことがある人間にしか分からない。僕は偉大なる日々から日常へと帰っていく。
あるいは僕が憎んだのはこの僕自身だったかもしれない。もう忘れた。
TRACK12
僕ともうちょっとマシなものとの会話。
『ほら、言わんこっちゃない』
「何が?」
僕は怒っている。
『分かったろ?』
「だから何が?」
『僕が話したいのはそんな君じゃないんだけどな』
「いいよ、あきらめついたから」
『そう?』
「拒絶したい奴はすればいいさ。僕はそれほど何もかもに関心があるわけじゃないんだから」
『ただの負け惜しみにしか聞こえないけど。未練たっぷり。直視出来ない、まともに見れん』
「それも1つの見解でしかない」
『まだ他人がうらやましい?忘れた?あの日、君は道標を見つけたんじゃなかった?なら進めよ。君が今嘆いているのは大前提の事実だぜ、うかれて足元すくわれただけだろ。だいたい何をうかれてんだよ。君は何も知らなかった、それだけだろ。大きな勘違い』
「裏切られた気持ちを知らないからだ」
『なら言ってやる。求めればあたえられるっていうのはナメてんだよ。子供か?何でも向こうからやって来るのを待ってんのか?耳かっぽじれ。求めよ!渇望せよ!そして進め。これが本当だ。この先はない。与えられん』
「…」
『泣いたってだめだよ』
「どうしたらいい?」
『大丈夫、きっとうまくいくさ』
その夜、誰も見てないのを確認してから泣いた。
TRACK13(INSTRUMENTAL)
そらで言える電話番号を押して彼女に電話をかける。時の流れと一緒にプレッシャーも流動しているのだ。なぜならもう合格発表の時期だからだ。
「どうだった?」
僕と彼女では専攻が違うのでこの聞き方はおかしい。まるで一緒に受けたみたいだ。
「そっか、俺の方もだめだったよ。今度のはいつ発表?何処?そんときにまたかけるよ。じゃぁね」
別に彼女の恋人でなくともできることはたくさんある。あるいはただ未練がましいだけかも知れない。それはそれでかまわないのだ、僕に重要なことは正しいベクトルであること。これだ。
××美大の発表の日、僕はすぐには電話をかけることができず少々ごたついてしまい結局かけることができたのはその何日か後になってしまった。胸を早く打ちながら、受話器があがるところを想像したが電話に出たのは彼女ではなかった。
後にも先にもこれほど途方に暮れたのはこれっきりである。
TRACK14
時の流れはきっと冷たいんじゃないかと思う。非情という意味ではなくて体感温度として、ちょっとした心象表現だ。下らないことを言ってみたかっただけ。そして、今だ僕の体もその流れの中にある。聞き流して。
いや、溶かして。
ハイ・シエラの谷でとれた水の冷たさで僕の右手はもはや麻痺し、何も描けない。はっきり言って逃げ出したかったけれど一体僕は何処へ逃げたらいいんだ?そんなわけで僕は日常の中で小さな現実逃避を繰り返しては、ぶりかえしては、熱病に執拗に、連れ戻されていた。
僕には浪人という立場があり、やるべきことがきちんとあったがその答えをまるで別の方向で弾きだそうとするみたいに足掻いた。足掻いて、足掻いて、その跡で凍傷で焼けた赤い手を見て、そして、そのことからまた逃げるように他のことで代償行為としたのだ。言ってみればこの時にひょんなことで出会った娘と何度も、映画を見るための2時間限りのデートを繰り返したのだってその一環でしかなかったかも知れない。
良く晴れた平日の昼間に近場の公園で文庫本を読みながら、溜め息をついた。いまだ、僕の右手はかじかんだままである。
あがけばあがくほどより深い溝にはまってゆく、それが僕に限った話かどうかは知らないけれど。アリジゴクっていうのがあるけどとても悲惨なネーミングだ。もう、本当に。誰がつけたか興味ないけれど、そんな名前をつける奴こそが深い溝の底で未曾有の苦しみを味わうがいい。
僕は予備校にまた通い出した。大好きなマイナーなクソ映画もあらかた漁りつくし、しまいには見るものなくてフェリーニまで見た。夜な夜な飲み歩き、好きでもない酒を知らない人間と飲むのももううんざりした。近所の公園なんて僕の縄張りみたいなもんだ。やるべきことをやる時期、そう判断したのだ。ゆらゆら、ゆらゆら、クラゲのように気楽に海水と愛の巣をつくる話は破談した。求愛する相手も無くし、色んな居場所を追われたけれどラッキーなことに僕にはまだやらなければいけないことが残っていた。僕はついてる。
相変わらず判で押した様に定時に行くことは無理だったけどそれでも少しは救われた。
ピリピリという擬音が聞こえてきそうなほど押し差し迫った空気の中、僕は浪人2度目の受験を迎える。そんな中に在っても僕はふっきれないまままるでコンクリートのプールで泳ぐ気分だった。
具合が悪くなるくらい考え事をして僕は生まれ変わる夢ばかり見た。1度だけ大学生に生まれ変わる夢を見た。勿論、笑い話だぜ。
TRACK15(INSTRUMENTAL)
いよいよ試験の日程も押し差し迫るといった最後の前日、友達がお守りをくれた。実際に彼が身につけ、数々の合格をむしりとったラッキーお守りだからといって僕にくれたのだ。
そして、僕は合格した。拍子抜けした。
TRACK16
僕は大学生になり、あくせくと大学生をまっとうし、わだかまりとアクセスしたけれどそれが何だっていうのだろう?僕は考えられないほど学校に通い恋をすることもなかった、何事もなかった、暇がなかったわけでもないし余裕がなかったわけでもない。浪人中に比べればさほどの欝没も感じない。歳をとったせいか、はたまたそんな時代なのか知んないけどな。
ただ僕は絵を描いていた。派手に遊ぶこともなく前から付き合いのある友人と付き合い、本を読み、そして絵を。辛かったことを忘れないように、嬉しかったことをかみしめるように、恥ずかしい自分を戒めるように、何よりも自分自身の僕という存在の力を知りたくて。
そして、まだ、在りたかった僕になりたくて。
TRACK17
蟻はただ働き、そしてそういう自らを肯定した。そのおかげでかつての僕を知る人などは変貌ぶりに驚嘆の声など挙げてみたり、またある人は近づき難しと距離をおいた。何も考えない、蟻は死など恐れない。死への行進、日付だけが更新。そんなの怖くなかった。ただ、そのシステムが変わるのが恐ろしかった。何かが変わるのが恐ろしかった。でも、案の定何かが変わる。
僕はある女の子と出会った。それは特別にマーキングしておかなければとても目立たないような特徴のない毎日に降ってきた、だから僕はその娘が特別だとは少しも思わなかったのだ。
電話が鳴る。その内容はとても事務的に終始しつつ意図の分からないものだった。予想外の人物、ただの1度以前に引き合わされただけの人物が電話の主とはいえ、特徴のない平穏な毎日の中にある僕はこの出来事の持つある種の特殊性に気付かずにいたのだ。
そして2度目の電話も鳴る。
「もしもし 覚えてますか?」
消え入りそうな声。
「ええ、覚えてますよ」
遥か、遥か遠くから語りかける言葉。
そう。堯倖に等しい毎日はとても当たり前の顔をして始まったのだ。キングダム。
実際に会った彼女の中の王国は、かつて様々な人の中に垣間見たような理解の範疇を超えるような代物ではなかったし、逆もまたしかりだったのではないだろうか。
なんとなく信じられないのは、今こんなふうに生きていること。ただその喜びは宙に浮かんで輪郭もはっきりとすぐ鼻先にあるみたいなのだけれど、蜃気楼みたいに決して届くことはないのかもしれない。物事は現実的であればあるほどそのリアリティを失っていく。誠実であろうと思えば思うほどそれが叶わないようにだ。
世はなべて。僕は儚む。
そして、一筋の光明。
TRACK18(INSTRUMENTAL)
最初に体を重ねてから数ケ月経ったある日、僕達は共同作業を終えた。それは本当に思い掛けないぐらい突然にやってきた。僕はこの時やっと誰しもが容易に掴み取ったであろうリアルを手中に収めたのだ。
彼女は笑った。
僕も笑った。
何かが起こりそうな予感がする時は必ず何かが起こる。僕の得た貴重な経験則のひとつだ。
TRACK19
人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから。
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男は言った。
「信じているか?絶対の、完全無欠の、無制限の、無条件の」
TRACK20
夕方4時頃目が覚めた。
頬をつたう涙の正体は一向に分からなかったが、多分コンタクトを外さずに寝たせいだろうと解釈した。大学は夏休みに入っていて特にすることがないのだが埒のあかないことにいつまでもかかずらっていることはあまり好みではないからだ。さてどうしようと考えて外食しにいく事にした。
身支度をして部屋のドアを閉める。
僕は随分と長い間喋り続けた後のような疲労感と、倦怠感、凄絶とも言えるかつてない空腹に襲われていた。そしてあまりに腹が空いて相当笑えてもいた。炎天下の下、こんな体を引きながら繁華街まで出るのはどう考えても億劫だった。駅に行くまでには定食屋だってあったし、それこそラーメン屋や各種飲食店の類は数え上げたら切りがないほど存在したのだけれど、何故か僕の足は駅に辿り着き、そして疲弊しきった体はというと、駅のホームに立ち、新宿行の電車を待とうとしていたのだ。辟易とした。
平気?いや、平気じゃない。今何故か僕の体は睡眠から覚めたばかりだというのに随分と疲弊していて、風邪をひいたのか何か分からないけれど異常な倦怠感があったのだ。喫煙所でバカスカ煙草を吸いながら、僕は癇癪を起こしそうだった。どんな解釈も無用だった、もう、電車がホームに入ったからだ。どうも僕は乗る気らしいし。
新宿の街で食べたものはといえば、それが果たして自分の住む近所で食べたこととそうも結果が変わるとも思えないようなメニューを選択してしまったし、それでなくとも、まともに考えればわざわざ新宿に電車に乗って飯を食いに来る意味は何なのかと、自分に問うていた。腹が朽ちるとそれも馬鹿馬鹿しくて良い方向に笑えてくる。満腹になった今でいえば、そんなわけの分からない自分が、少し気に入ってきつつもあったのだ。
大学が夏休みに入ってからというもの、怠惰な生活に、対話なき生活に、僕はすっかり馴れてしかも親しんでしまっていた。基本的に自炊で食事を賄う僕としては外出することもなかなかなくなっていた。まぁ、念願叶うといってはおおげさだが、いい機会でもあった。
ファッション・ビルの1番上から順に眺める。店舗に入る服屋を物色する。僕は必要に迫られない、狭められない、そんな買い物が好きだった。もう、若い者ではない僕には最先端の流行は必要ではない。購い者でもない。
ひとしきり人ごみを満喫し、ポケットから煙草を取り出して、目的もなく歩く。人の流れにうまく乗り、集団の中手に、苦なく波に乗り、咥えた煙草に火をつけた。映画の巨大な看板を目にして、胸に何か去来する。僕には何も、分からない。
信号の青い点灯を待たずに、跨がずに、すぐ手前の白線を踏む。人の織り成す濁流が交差して、甲翳して、ふたつの流れの交わるところで僕は前方から歩いてくる若い女性の姿が目に止まる。歳の頃も同じぐらいで、髪が肩よりも短く、白い開襟のシャツを着ていた女だった。堪らない程多くの人間といっぺんに交錯するようにすれ違う。目を覆うようにして翳した手の甲の影から、急に涙が込み上げて、歩きながら振り返ると個と解けた濁流は散り散りになっていずこへと消えた。
僕は吸いかけの煙草をもう1度大きく吸ってから、迷うことをやめた。