はてなキーワード: 被害意識とは
これ本当に良い時代になったなー、と思うんだけど、一部オタク層のメンタルの未成熟さが際立つ状況にあるのは過渡期にしても何とかならんもんかなとも思ってる
昔でいう「オタク」文化が社会に普及してマジョリティになり、当人たちも「もはや俺たちは多数派だ」と自認してるにも関わらず、何かと「迫害された」だの「攻撃された」だのマイノリティ的な言動をするんだよね
もはや自分たちが迫害する側に立っていて自制が求められているんだって意識が薄い
中年以降の過去に迫害された経験を持つオタクが言うなら「アップデートできてないな」と理解はできるんだけど、迫害された経験もないはずの若いオタク層が被害意識だけ拗らせてるのは何なんだろうな
こういうとこよね
Amazonで売ってるノーブランド令和最新はたしかに三流品質のゴミ中華と言われても仕方ない(それでも不良にさえ当たらなければ機能性やコスパは納得できるレベル)。
なんだけど、それは三流中華パラダイスになってるAmazonに無策でいつまでもしがみついているから不満がつのるだけであって、自分のせいである。
ちゃんと見識を鍛えて各製品分野で手堅い製品作ってる国産や欧米ブランドを知る手間をかけたり、一流二流のブランド中華を自分で輸入してきたりすれば買い物体験が毀損されるような被害意識を抱えなくて済むのである。
怠惰でワンパターンな買い物習慣を続けて、消費者としての行動をアップデート出来ない人が割を食うのは中国とか関係なく世の摂理なのである。
こんな本があった。日本でも同じような本がいずれ出るのだろうか。
【内容紹介】
書名:ミレニアル世代よ、わかったよ!
帯:ピューリタニズム、被害者化、アイデンティティ政治、検閲……「ベビーブーマー」世代による、Woke世代の神話についての調査
説明:
文化大革命が進行中だ。今度は中国発ではなく、アメリカ発なのだが、中国の文化大革命と同様に大きな被害をもたらすものである。新たな紅衛兵は「社会正義の戦士」だ。ロレアル社は「白(blanc)」「美白(blanchissement)」という言葉をカタログから削除し、エヴィアン社はラマダン期間にプロモーションを行ったことについて謝罪した。レゴ社はBlack Lives Matterとの連帯を示すために、警察が登場する広告を削除した。Wokeが北米の大学に残存する民間伝承にすぎないと言っていられるだろうか?
文化大革命が進行中だ。アメリカの名誉ある大学の女性研究や黒人研究、クィア研究からこの革命は始まった。この革命が、民主党を有害な左傾化へとおいやる「アイデンティティ・ポリティクス」を生み出し、衰退しつつあるプロテスタント的土壌を置き換えた。民族間の分裂に沿って社会を分極化させ、アメリカを内戦の危機にさらしている。黒人と白人、女性と男性、同性愛者と異性愛者を対立させるこのやり口を、われわれの世俗的な共和国、フランスに輸入したいだろうか?
普遍主義的理想と1960年代の解放思想を擁護するベビーブーマーである著者ブリス・クチュリエが、ミレニアル世代に呼びかける。あなた方の過剰な繊細さ、被害意識を伴うナルシシズムは、あなたたち自身に対して検閲や禁止を課すことになるのではないですか、と。私たちベビーブーマー世代は、可能性の領域を広げたい。あなた方は逆に可能性の領域を狭めている。それはわれわれ全員の不利益になる……
【感想】
ちなみに、著者の属するベビーブーマーとは1946年から1964年ごろに生まれた世代と言われている。
Wikipediaによれば、著者は若い頃に毛沢東主義や社会主義に傾倒していたらしい。
60年代の観点からミレニアル世代を批判するというのが、日本とは文脈の違いがあるのかもしれない。
https://livre.fnac.com/a15552213/Brice-Couturier-Ok-Millennials
巷では小山田圭吾のイジメ問題で大炎上している。……どんな時代でもイジメはなくならないというが、イジメのスタイルや感性は時代とともに変わってきたようにおもう。
70年代は、ゴリゴリの暴力やカツアゲという"利益目的のイジメ"だった。社会全体が貧しく、不良はイカつげで、弱者や障碍者はカモだった。だが大多数の層は「見て見ぬ振り」か、せめて白い目では見ていた。
80年代は、お笑いブームと金余りもはじまり、不良はヤンキー臭があってもお笑いもイケる奴が「モテ」になった。暴力や貧しさという負の側面はイジることで笑い飛ばす風潮になった。ヤクザはヤッちゃんと呼ばれ、貧乏長屋はパロディになり、弱者や障碍者はイジりの対象になった。暴力的な不良でなくとも、弱者のみっともなさや不自然さを笑えば勝ち組に回れる。暴力より笑いのほうが平和じゃん?と。弱者をマジ顔で擁護する正義漢なんてアナクロだしダサい。強きを助け弱きをくじくタケちゃんマンは笑いにくるんだ本音としてウケた。そんなライト感覚で従来の一般層も弱者を笑うほうに回った。
90年代は、社会が隠蔽する負の側面を見世物小屋的に取り上げるサブカル民の一部……つまり従来のモテの条件だった暴力も金も顔も微妙だが面白いことは言えるし弁は立つ……が、80年代モテ系のイジメ作法を真似し始める。知的階級は弱者や障碍者を擁護すべしという戦後リベラル的な不文律を、「だーってそんなんじゃモテないし、助けてもいいことないし、素直に見たら笑えるじゃん?」と開き直った感じでもある。つまりはビザール系な知的興味の"対象物"扱いである。
かくて不良系のみならず知的とされる階層までが、「ジョークだよジョーク」、「悪ふざけが過ぎたけど一緒に遊んでただけ」、「社会参加しさせろというから仲間に入れて遊んでるんじゃん」とうそぶく、そういう笑いにくるんだ「道化イジメ」に精を出す時代ともなった。
小山田圭吾が「俺はアイデア出してただけよ?」と言い募るのは当然だ。彼はサブカル民だから、「あたまのわるい不良みたいに直接暴力に訴えるなんてダサイ真似は、この俺がするわけないよ?」と言いたかったわけだ。
前フリが長かった。
この時代のEテレに、児童向け特別支援教育番組の"グルグルパックン"というものがあった(1994~1999年放送)。かの有名な"ストレッチマン"が最初に登場した番組である。当時の生活リズムとちょうど合う時間に放送されていたのと、自閉症や知的障害の児童たちのゆるさとストレッチマンのハイテンションの不思議な空気感に、何となく習慣的に見るようになっていた。番組内容はゆるくて差別感や悪意も感じず、むしろ怪人に扮した支援学級の先生たちの奮闘や障害児童の頑張らない日常……チャリティ番組的なお涙頂戴ではない……は穏やかでいい感じであった。
ある日、寝ぼけまなこでテレビをつけた時、そこには隅に小さく番組のロゴが映っていた。自分は目を疑った。
https://pbs.twimg.com/media/EubSIAtVIAEI9Rp.jpg
寝ぼけた目に小さなロゴは、"クルクルパークン"……"くるくるパー君"と読み取れたのだ。(画像を縮小して、目を細めてぼやっと見てほしい。) ものすごい悪意を感じて、たじろいだ。
もちろん。「自分の目がボケてた見間違いでしかないじゃん」、「差別意識や被害意識のある奴はどこにでも差別を見出すんだよな」、「障害児童を画面に出すのも微妙なのにそんなヤバいことしないでしょ?」と、矢のような反論が飛んでくるのはわかっている。ただの見間違いから因縁をつけているだけと言われるだろう。ただあの、「弱者や障碍者に親切顔で接近しながら裏では小馬鹿にして嘲笑うことは、知的でイケてる層のウィットに富んだ身振り」とされていた90年代の雰囲気を踏まえると、何とも奥歯に物がはさまったような釈然としない気持ちにもなる。ましてや、「NHKでは知性や学歴を鼻にかける高慢で反抗的な奴はEテレに回される」という風説を耳にしていると、陰でイジメをする優等生が「見間違いで妄想して何を言っているんだ。邪推でみんなの善意と努力を否定する気なのか?」とうそぶくような、抜け道確保済みの確信犯的な振る舞いじゃないかとも思えてくる。いや、出てくるみんないい人だよ。それら全部を身内ごとひっくるめて嘲笑うような"見間違い"だから、知識人特有の底意地の悪い見下しを感じたのだが。
そういえば、このあたりから日本の成長は失われていったな。二枚舌が使えない者が"発達障害者"としてあぶり出されはじめた時期でもあった気もする。
真偽は謎の上に、四半世紀前のことを持ち出して因縁つける気もないが、世間の話題にのっかって「90年代はそういう風潮だった」と確認し、「だれか同じようにロゴに気づいてた人いなかったのかな」と書きおいてみたかっただけだ。読み捨てていただきたい。
https://anond.hatelabo.jp/20210303094023
個人が批判された時に、まるでオタク全体が批判されてるって感じでオタク全体の話に広げるのもおかしいってのも全くその通りだと思う。
直接あてはまらない俺が見てても
なぜかそれがある程度は受け入れられてる時期があったんだよね。
まったく批判されないどころか逆に持ち上げられてたりした。
さすがにこれはまずいということで受け入れられなくなったけどね。
だから、何か言われた時に
オタク側が「それ〇〇(オタク以外)にも同じこといえんの?」とか
ただ、今は以前ほどフェミの横暴が通じなくなってきてるので
一度片方がやりすぎると、そのやりすぎた時が基準になるって話なのかもね。
最近徐々に減ってきていると思うが、性被害やセクハラを告発する文に対して「でもイケメンならいいんでしょう?」「同じこと〇〇(所謂イケメン俳優)がしたら股開くんでしょう?」って言ってくる人間を見るとゾッとする。猛烈なコンプレックスと、痛々しい他責を感じ取ってしまうからだ。
実際、イケメンが同じことをしても被害意識を持つ女性も沢山いる(持たない女性がゼロとは、可能性の問題として言いきれないが)。イケメンがしていても、悪いことは悪い。
上記のような発言をする人間は、自分の人生が上手くいかない理由(例えばモテないとか)を、とにかく容姿一点に求めたいのだろう。俺は良いやつなのに、顔が悪いから……。そんなことは無い、そんなこと言っちゃう時点で心根も腐ってる。
容姿は整形しない限り(整形も魔法では無いので元の容姿によっては限界があるし)不可変だから、「変えられない」ことに原因を求めることによって自分が努力しないことを正当化したいのだろうな。
言うやつは論外だけど、内心思ってるやつ、お前のことも言ってるぞ。
まず
・暗数はあります。ペドフィリアによる被害の特徴として、被害者が被害当初は「何をされているかわからなかった」ため、発覚が送れる場合が多いというものがあります。私は最初の身体的外傷を伴ったものだったのですぐ判明しましたが、その後にあった出来事でも、成人してから「あれは被害だった」と気づくものは少なくありません。「当時被害意識がないならいいじゃん」と言う方もいらっしゃいますが、それって本気でそう思ってるんでしょうか。
そして
・フィクションの所持自体を私は否定しませんが、今回の件は少し「加害匂わせ」が強すぎたように思います。私が否定しているのは確実に存在する「実際に行為に移すペドフィリア」であり(この場合のレイプは挿入を伴わないものも含みます)、今回の件で擁護派に回る人々にはそういう人物の実在から目を背けている人が少なからずいるとも感じました。「そんなに事件はない」と何故か言いきれるあなた含めです。
小学生の時、公園によく現れて女児と戯れてたおじさん、冷静に考えるとヤバいおじさんだった。
・虫かごに入れたハムスターを公園に連れてくるから「ハムスターおじさん」→ハムスター飼ってたからわかるけど、とにかく不自然。害が及ぶ可能性が高いからハムスターを飼うことが主目的ならしていいことじゃない。
・私の世代はハム太郎が流行った世代だった。要はハムスター持ってると女児がわらわら集まってくる。
・20〜30代のおじさんが平日休日問わず昼間に公園で女児と遊んでるのは違和感がある。
そんなおじさんと公園で2人きりになってしまったことがある。「2人じゃかけっこも出来ないし、お喋りしよう」と言われて隣に座ったら、膝に座るよう促された。言い方は柔らかいがちょっと切羽詰まった感じで、「ほらいいから!おいで!」と有無を言わせない感じで膝に座らされ、腕でガッチリホールド。話した内容はろくに覚えてないが、ホットドッグって単語が出てきたような気はする。
何が一番怖いって、その1年後くらいに同級生伝いに「ハムスターおじさん、逮捕されたって」と聞いたこと。小学生の噂話だからどこまで信じていいかわからないが、別の女の子に「いたずら」したらしい。
あの時はあまり意識していなかったが、10年以上経った今、思い出す度にゾッとする。児童(どころか中学生くらいまで)は性に対する意識が曖昧な子が多いから、私みたいに被害意識が生まれるまでにタイムラグがある人も多い気がする(映画「ジェニーの記憶」みたいに)。
私はそういう感覚の発達が遅かったから、当時はそこまで気にしてなかったんだけど、中高生の時、駅で通学中のうちの学校(女子校)の生徒をガン見しながらズボンの中弄ってたおじさんも、風が強い日の通学路に何故か大量発生する定点観察おじさん達も、下校中の同級生(セーラー服)に求婚してきたおじさんも、今思うと最高に不快だ。
児童や学生に対する性的被害、結構被害者の方が何されてるかわからなくて埋もれてる事件も多いと思う。大体の人は成長してから被害に気付いて泣き寝入りだ。外国のことはよく知らないが、これでもヘルジャパンって言っちゃダメなのかよ〜って思う。
ロリコンって生まれつきなのか?それとも後天的なものなのか?小学生を狙うロリコン(ぺド)は国際的に話を聞くが、やっぱり女子中高生(制服)を性的に崇め奉るのはうちの国独特のような気もする。頼むから制服を性的な目で見ないでくれ。
小学生の時、公園によく現れて女児と戯れてたおじさん、冷静に考えるとヤバいおじさんだった。
・虫かごに入れたハムスターを公園に連れてくるから「ハムスターおじさん」→ハムスター飼ってたからわかるけど、とにかく不自然。害が及ぶ可能性が高いからハムスターを飼うことが主目的ならしていいことじゃない。
・私の世代はハム太郎が流行った世代だった。要はハムスター持ってると女児がわらわら集まってくる。
・20〜30代のおじさんが平日休日問わず昼間に公園で女児と遊んでるのは違和感がある。
そんなおじさんと公園で2人きりになってしまったことがある。「2人じゃかけっこも出来ないし、お喋りしよう」と言われて隣に座ったら、膝に座るよう促された。言い方は柔らかいがちょっと切羽詰まった感じで、「ほらいいから!おいで!」と有無を言わせない感じで膝に座らされ、腕でガッチリホールド。話した内容はろくに覚えてないが、ホットドッグって単語が出てきたような気はする。
何が一番怖いって、その1年後くらいに同級生伝いに「ハムスターおじさん、逮捕されたって」と聞いたこと。小学生の噂話だからどこまで信じていいかわからないが、別の女の子に「いたずら」したらしい。
あの時はあまり意識していなかったが、10年以上経った今、思い出す度にゾッとする。児童(どころか中学生くらいまで)は性に対する意識が曖昧な子が多いから、私みたいに被害意識が生まれるまでにタイムラグがある人も多い気がする(映画「ジェニーの記憶」みたいに)。
私はそういう感覚の発達が遅かったから、当時はそこまで気にしてなかったんだけど、中高生の時、駅で通学中のうちの学校(女子校)の生徒をガン見しながらズボンの中弄ってたおじさんも、風が強い日の通学路に何故か大量発生する定点観察おじさん達も、下校中の同級生(セーラー服)に求婚してきたおじさんも、今思うと最高に不快だ。
児童や学生に対する性的被害、結構被害者の方が何されてるかわからなくて埋もれてる事件も多いと思う。大体の人は成長してから被害に気付いて泣き寝入りだ。外国のことはよく知らないが、これでもヘルジャパンって言っちゃダメなのかよ〜って思う。
ロリコンって生まれつきなのか?それとも後天的なものなのか?小学生を狙うロリコン(ぺド)は国際的に話を聞くが、やっぱり女子中高生(制服)を性的に崇め奉るのはうちの国独特のような気もする。頼むから制服を性的な目で見ないでくれ。
かもしれない、というか当にそうなのだが。
特徴の一つとして「周囲から見ると何を考えているかわからない」が挙げられ、この障害を知らない人からしたら、ただただ取っ付きにくいタイプの人間だと思われがちで、少しでもこういった障害があることを多くの人に知って貰えたら、という願いを込めてここに書くことにした。
端的に言うと、他人に興味関心がなく社会的関係を育みたがらず一人でいることを好み、感情表現に乏しい。
以下の項目の4つ以上が当てはまるとこれに診断される。
殆どが後天性のもので育った環境や人間関係の縺れ、うつ病などの経験を通じてこのような障害が生じてしまうらしく、他の人格障害である「回避性パーソナリティ障害」「妄想性パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」なども併発していることが多いらしい。
また、一見して感情的に冷めていて無関心であるように見えるが、実際には非常に感受性豊かで何か大きく感情が揺さぶられるとすぐに泣いてしまい、それを"恥"だと認識している為、他人の前では見せたがらない。
他人にどこまでも寄り添う正義感を冷ややかな目で見たり、同調して特定の人物を叩きたがる傾向のある現代社会(特にソーシャルネットワーク)においては豊かすぎる感情の露呈はやや「変わり者」と見られる風潮があり、それを"回避"するべくして無関心を装っているのかもしれない。
ここからは私の話をする。
両方において少しやりづらい点は、他人に興味関心をあまり持てない故にコミュニケーションにおいてやや近寄りがたいと思われがちなところだ。
その上、他者との対立を望まず、「波風立てない優しい人」を演じている為に、一般的に社会的弱者と呼ばれるような方や精神的障害を抱え悩んでいる方、主に年下から懐かれやすいと感じている。
そう思うのは、もしかしたら私自身の精神年齢が低いからかもしれない。
表面上では波風立てずに他の人の意見に賛同・同調したり、話が進展しない時は自分から立候補して意見を出すなどしているが、そもそも「自分の本心での考え方」が意識下にあり、その大凡がその場の空気に逆らう考え方や批判的な内容なのだ。
勿論同じ世代の人間と会話をすれば本心から同意・納得するのだが、こうして自分の本心を隠して「いい顔」をすることによってメンタルの弱い子相手には「自分はこの人に肯定されている」という気にさせてしまうのだろう。
普遍的・平均的価値観の人間からすれば私のようなタイプは「本心では何か考えがあるのにそれを表に出そうとしない」ことが感覚的に伝わって近寄りがたく感じているのではないだろうか。
また、上の項目に関しては、性的活動に対する興味と親しい相談相手以外の全ての項目が当てはまった。
家族に育てられ今もなお健在だが、今まで一度も「親孝行をしよう」という気持ちが持てなかったのである。
大人にもなれば自分の誕生日を祝われるのも気が引け、両親の誕生日も自分から祝うことはなくなった。子供の頃は、社交辞令としてそれを受け入れていた節がある。
誰にも打ち明けていなかったが、自分はなんて薄情な娘なのだろう、と何度も自分を責め立てていた。一般的に親子は仲良しであるという理解があったからだ。
シゾイドパーソナリティ障害の多くは、小児期の育ての親に冷たい態度を取られたり育児放棄をされるなど、なんらかの切っ掛けがあり他者との交流を拒むようになるらしいが、私の場合そんな大それて分かりやすく暗い過去は持ち合わせていない。
せいぜい、躾の為に押し入れに閉じ込められたり、大声で怒鳴られたりしたぐらいでそれが自分の今後の社会性に繋がっているとはあまり考えられなかった。躾だと分かっていたから。
むしろ自分の友人が悲しい過去を背負う人たちばかりで、自分は親に愛されて育ったのだと実感したぐらいだ。
何故人は喜び、悲しみ、笑い、傷つき、怒るのか?
その理屈を探るべく、クラスメイトに様々なアクションを起こし(聞こえは悪いが決して悪意はないもの)経験を得て人間が何をされたらどう感じるのか、どんな過去があればどの解釈が生まれるのか等々、自己陶酔気味に理解を深めていった。
今よくよく思い出して考えてみれば、若干サイコパスの素質はあったのではないかと思う。
自分自身の成長が遅く、それらを"恥"だと感じて回避するようになったのは高校の途中ぐらいからだった。
私はその頃ようやく、自分自身の性格が酷く醜いものだと悟り、表に出さないよう気を付けて生活するようになった。
ちょうどバイトを始める時期でもあり、結局若さ故に大人とぶつかっていくことになるのだが。
思い返せば、こうした気付きや自覚から、トラブルメーカーである自分は常に一歩身を引かなくてはならない、と抑圧を始めたことでシゾイドパーソナリティ障害は生まれたのだろう。
社会に出てからも若い時は大人とぶつかり最大のトラウマを抱え、しばしのうつ病闘病期間の末にある特定の人種との関わりがアレルギーになるなどしたが、もともと感受性と被害意識が強い為、感情を表に出せばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。わざわざあの内容を書くほどでもないだろう。
長々と書き綴ったこの身の上話を誰が読みどう感じるのだろうか?
出来れば、私と同様に「何も感じない」で終わって欲しい。ただ、シゾイドパーソナリティ障害というものが存在すること、それを患う人間がどんな人間であるか、だけ分かってくれたらいい。
インターネットには批判をすることが好きな人間がしばしばいるようなので、私がコメント欄を開くことはないし、肯定的な意見に全身全霊で耳を傾けることもないだろう。
なぜここに書いたのかという経緯を最後に綴る。
他者への興味関心が薄く、打ち明けてどうこうされたい相手もいない。(相談相手はいるが、解決できないと私が結論付けた問題を提起したくない)
カウンセリングや心療内科の先生にすら、これらの障害・過去を「私」と結び付けられることが"恥"だと感じている。
受診したところで、気持ちを落ち着ける薬を処方されるだけなら、むしろそれだけでいい。
だけどたった一度だけ、どこかにこの思いを落としておきたかった。
残念ながらこの障害を抱えていることに対して「辛い」「悲しい」等の感情は持ち合わせていないが、心の奥底に眠る承認欲求と抑圧前の煮えたぎる反社会的な感情が私の手を動かしたのだ。
気になるところ
・元ツイ主がゲイであり、ロールモデルをBLとして提供されたという被害意識
・元ツイ主は「日出処の天子直撃世代」を主張しており、現在のBLは読んでいない点
・仲間意識を示しているのは「腐」ではなく「ゲイ」のコミュニティである点
考えたこと
→消費する腐女子? 消費されるキャラクターや二次創作であれば版権? それとも現実の男性同性愛者?
→あるし、あるべきだ
→そうではない
→そうではない
→ゾーニングの観点からいえばそうであるが腐女子の定義が曖昧である以上誰でも読むことができる
・架空の恋愛や性行為について、現実世界に当事者は存在するのか?
→難しいけど、あるとしても性別による性的指向の合致ばかりがその軸とされるべきかは不明
・ていうかなんで腐女子が発生するんだ?
→分からん
→人によるっぽい
・腐女子って治る?
ツイ主は、ぶっちゃけ腐女子に対しては敵対的な態度であるし、彼にはそうする理由があるが、彼が攻撃したかった腐女子と実際いまツイッターでBL創作をしている腐女子は別人である。腐女子個人は彼個人が敵対的な態度であり、自分たちの表現の自由を毀損しようとしていることを理由に反論する権利がある。
それはネットフェミ個人と男性向けの「エロ」を消費する男性個人にも同じことが言える。
個人的な願望
あのツイートが今後のBLに影響を与えるかという話になるなら、とにかく与えるべきでない。それでもBL自体は変化していくはずである。
変化は現在のBLに続く過去の男性同性愛を描いた作品に被害者意識のあるゲイ男性や過去にBLを読んでいた人を含む、BLを読まない人によってではなく、進行形でBLを読み、書く“当事者”によってなされるし、そうあるべきだ。