はてなキーワード: 客観性とは
「おれ未満は助けるな」という主張は「助けるべきはおれ以上」とほぼ同義で、メリットの享受に同意している
各々同じ主張をする、Aより優れたB、Bより優れたC、Cより優れた・・・・・・と再帰的な構造になる
これを解けば、誰も助けない救われない結果となる
つまり誰もメリットを享受しない。よってメリット享受の同意と矛盾する
これの真逆が慈悲慈愛
法律ひいては自己破産制度は基本的に一定程度以上の客観性と絶対性を持つから
主観的相対的な元増田の条件の具体例として適当でないというだけ
「主観的相対的な条件だから閾値でないし拡大もする」(自己引用)は
ごめん、完全に俺の書き方が悪かった。
これと
これの間を埋めて欲しかったんだわ。
"社会からのメリット"が何についてどこまでを指しているかが不明瞭と思う。
元増田はおそらく、「お前が(元増田の言う)馬鹿なことしたりや努力が足りずに困っても助けないぞ」と言われても、「助けていらない」と言うつもりがあるはずで、
これは(元増田の言う)馬鹿なことする人や努力が足りない人でも助けてもらえる社会という"社会のメリット"を放棄してると言える。
君はたぶん、もっと大きな意味を"社会のメリット"に含めてているんだろうけど、
それだとある社会に属する人はその社会に存在する特定の社会支援システムについての不満を言えなくなってしまうことになるので、
「構成員が--社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と--矛盾しない」のは当然 に矛盾する。
俺は法律が客観性や絶対性を持つか、その程度はどうかなんて話はしてないよ。
・実際に免責不許可事由が定められている社会支援システムは無制限に厳格化していない。
・同様に、元増田はある社会支援システムについて元増田の立場よりもかなり下と思う基準の足切りを新設しても、その足切りが自分まで及ぶことを心配しないだろう。
元増田は発言者なので行為者(主体)なのは当然として、同時に構成員として社会の決定に従う対象者(客体)でもある。
そもそも社会外の立場にあるか、例外的に自分を対象外とする条件を付加する場合はこれに反せる。
法律は法学・社会科学上で作られるシステム設計・要件定義なので基本的に一定程度以上の客観性と絶対性を持つ。
主観的な考えの集合というより主観的な観測の集合だから科学であり、一般にいう客観性を伴う。
真正な客観性と絶対性ではないから「基本的に」を入れて「一定程度以上」は煩雑だと思って書かなかった。
元増田の意見を一般的なものに当てはめ補足補完すれば~で考えているのだなというのは前の投稿時に気づいて、
指摘すべきかと思ったけど、それに付き合うなら話を変えてそちらが論を立てなきゃ無意味だなと思ってやめた。
「構成員が--社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と--矛盾しない」のは当然だし議論にあげる理由がない。
他の君がどうこう思うも余談も関係がないし論拠もないので取り上げない。
もう少し詳しく説明してほしい。
また、「構成員がその社会の社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と何も矛盾しない」は賛成or反対?
お金と時間が有限な以上、誰かのためにそれらを費やすと決めることは別の誰かには費やさないと決めることとイコールだよね。
なので税金の話で書いたけど、別に税金にだけ限定するつもりはないよ。
とはいえ、自発的な募金や助け合いで強制でないなら、他人がとやかく言う筋合いもないしお好きなようにどうぞって思うけど。
運用はまぁそうだろうけど、要件を決定するのは有権者の主観的な考えの集合だよ。
例えば、破産法252条1項4号の「浪費または賭博その他の射幸行為」の元になっているのは公正さに対する有権者の思いだろう。
もし要件決定に客観性や絶対性があるなら、毎年たくさんの法律の要件が変更になったり、死刑や同性婚など喧々諤々の議論になったりしないわな。
で、元増田の基準が主観的相対的な条件であるのは確かだけれど、元増田がその思いを胸に直接/間接的に法律の制定に力を尽くしたとして、その法律が無制限に拡大していくとはならないよね?という話。
まぁこれは余談だけど、
一人一票の民主制社会において社会福祉システムなんて基準緩和の方向に進む力のほうが強いのは明らかで、
(基本的に基準緩和で負担が減る人≒貧困層の数>負担が増える人≒富裕層の数)
基準強化の訴えはアンチテーゼとしても非常に重要だし、それによって基準強化が無制限に進むということは国家の意思決定システムからも考えにくい。
ふと思いついたこと。
人は死んだらどうなるのか、この漠然とした疑問は自分の中ではただ無になるだけだと考えていたのだが、それはあくまでも主観的な無になることと理解しており、客観的な無にはならないと思っていた。
つまり主観的には感覚が感じ取れないわけだから無になるが、客観的(自分以外の)世界までも無になるとは考えていなかった。自分が死んでも他人は生きるし、存在し続ける世界が続いていくんだなと思っていた。
いつかは無になるがそれは時間の順番の話であり、自分が死んでも時間は変わらず進んでいくと考えていた。
今日ふと、もしかしたら自分が死んだら客観的な世界も無に帰すのでは?と思った。
まず宇宙の秩序も有限であるということ。つまり人の一生と同じくいつかは終わることは確実ということ。
次の理由は、私が産まれるまで宇宙の時間は数百億年あったにも関わらず私にその感覚はなく、私が産まれるまでは客観的な世界は存在しなかったということ。産まれてからは歴史からその客観性を学ぶことはできるが、それはあくまでも私の存在が前提条件になっている。
このことは私が死んでもその後の客観世界は時間の経過などないことを意味する。産まれるまでの百億年の感覚は私にはない。つまり私の生命としての終わりは有限である宇宙の秩序の終わりを意味するのではないか。
産まれる前と死んだ後は存在しないということは共通しているのだから。
そのため私の死はこの宇宙の死を意味する。正確には私の死から膨大な果てしない時の流れがあるのかもしれないが、産まれる前の無の存在と照らし合わせるとそうなる。
コロナ禍で完全リモートワークになってから、4か月で7キロ痩せたダイエット方法を晒す。
摂取する栄養のバランスが重要。バランスには客観性が必要。主観は不要。摂取したものを採点してもらう。記録は大事。
*あすけん
ポイントは低GI値食品。カロリーは大事。でも血糖値は上げちゃダメ。お腹がすくから。
でも玄米100%は食べにくい。玄米2:白米1くらいが食べやすい。あすけんでバランスをチェック。
*低GI食品とは
https://www.otsuka-plus1.com/shop/pages/soyjoy_lowgi.aspx
摂取する栄養のバランスが取れる。バランスは「あすけん」でチェック。
なぜか俺が飲んでるやつ公式に乗ってない。ウェイトダウンのヨーグルト味。
2キロ~4キロ程度。「体幹」ウォーキング(金哲彦)、「体幹」ランニング(金哲彦)のフォームを守る。
無音、Audible、音楽、なんでも。apple watchに記録する。記録は大事。夜じゃだめ。朝。
疲れすぎないようにする。
Bluetooth対応の機種でiPhoneに記録する。記録は大事。
おわり
もう駄目ね。
この世界の真の平等を目指していたWEB戦士はどこにもいないみたい。
世の中をよくしたいって気持ちが少しでもあったら、まず最初に障害者がどこかで哭いてる声が聞こえるはず。
それが聞こえない君たちが世界に対して敏感だの分解能が高いなんてことがある?
自分には見えなくても誰かの目には見えているかも知れない何かを想像できること、これが人間の最低条件だよ。
自分の目に今何がどう見えているかの議論だけで満足するのなんて、お猿さんと一緒。
想像力、共感力、客観性、多様性、そういったものがちゃんと心に根ざしてれば、ピンクの違いがわかるかどうかなんて、色覚異常者に対して極めて差別的になるような話題で盛り上がれないはずだよ。
最初に。
この文章は特定の誰か(特に『32歳〜』の作者やそれ関連の増田を書いた人)への敵意で書かれているものでは無く、むしろそれを読んだ32歳より若い、自分にとって同年代や下のオタク、特に女性にとってひとつこういう文章があればと思って書いたものだ。
題名で強い言葉を使ってしまったのも少しでも多めの人達に開いてもらえればと浅知恵をはたらかせたもので、もし不快になった方がいれば本当に申し訳ないと思っている。
その上で。
自分は学生で、腐女子だ。具体的には中学で黒バスが流行り、高校に行くか行かないかの所から松が流行り始めた。18↑ではあるがまだ言ってしまえば「幼い」部類に入るだろう。腐女子としても、人間としても。
若い人間は、社会がどうなっているか知らない。何をすれば死なずに済むのかと漠然とした社会への恐怖をうっすら持ちながら、それでも目の前のことに夢中なままだ。
数日前。同期と繋がっているTLは、「32歳腐女子〜」がバズり、C陰謀説や百合カプでふざけるツイートが大半を占めていた。
しかし、ごく少数。「メイクしっかりした方がいいのかな」「洋服変じゃないかな」という不安も流れていた。
友人たちは今モラトリアムの中にいる。
好きな服を着れるようになった。それを考え無しに買えてしまうほどには幼い。
しかし、何が正しくて何が間違っているのか自分で決めてしまえるだけの強さも無い。
自分も勿論幼い。自分のタンスには何着かしまむらがあるし、バンTにインターネットで買ったシルバーを巻いて足元は厚底スニーカーだ。頭髪に至っては自然界に無い色彩で、馬鹿学生丸出し、むしろイキった高校生にすら見えるだろう。
今だってバイトを入れば髪色は暗くし、初対面の人であればプライベートでも大学生〜社会人一年目くらいのミドルブランドを入れつつなんとか見えるようにやっている。
オタクの言いそうな事だが、本職の「女子大生」に適わないまでもそれなりに見れる格好になっている(と信じたい)。
好きでしている格好なのに何故か?
例えバイトの規定に指定がなくとも、このドンキの前に屯ってそうな格好でいれば周囲の奇異の目だけでなく、「こんな格好で行ったらどう思われるか」「面接で落とされないか」「常識が無いと思われないか」、と家を出る前から起こってもいない不安で仕方なくなる。
精神が擦り切れないための予防、自分は社会的で無害ですよというアピール。
きっと、気を遣いがちで空気を読むことに長けるような人、少し悪くいえば人の顔色を伺う心の弱さとも言えてしまうような人ほどこのファンを顕著に感じ、実行している。
「32歳腐女子の友人」にあたる人達は、多くはこれを意識的にでも無意識的にでも行い、実行しているはずだ(周りを何も見ていない、気にしていないのなら極論裸でもいい。それをしないどころか『お洒落』なのは、とてもリーディングスキルに長けているからだ)。
では逆の、「32歳腐女子」の層はどうだろうか。
おそらく彼女らも服飾に興味はそこそこある。
では我を通すだけの強さがあるというよりは、精神の幼さ故の客観性の欠如、といった方が正しい。
服飾のセンスだけでなく客観性に欠けると、周りの価値観に合わせることも出来ないことが多いだろう。
女性の多くが人生の変革期を迎えがちな30代に価値観がこれの人間は友人として面倒すぎるだろうとも予想できる。
それでも自分は、32歳になって、友人がバカみたいな幼くいても、友人のままでありたい。
これこそ幼すぎる考えかもしれない。そして、この文章は八つ当たりになってしまうかもしれない。ただただ「32歳〜」がバズらなければ良かったとしか言えない。その上で正直まだ幼い人間にとって、「10歳上」の言葉は、絶対に感じてしまうのだ。
人間関係にとやかく言う気は無いし、異物の排除は人類が身につけてきた集団を維持するための知恵で、合理的だ。
でももし、1人でも「32歳〜」とその関連を読んで「自分も変わらなければならないのだろうか?」と不安になっている人が居たら言いたい。
そのままでもいい。
75になってアクシーズファムを着ていてもいい。
子供を持たなくてもいい。
恋人は一生2次元でも2.5次元でもいいし、どこにも居なくてもいい。勿論3次元に居てもいいし、人間じゃなくてもいい。
もし友人や親友だと思っていた人に陰口を言われたり、忠告されたりしたらその時考えればいい。
縁を切るか、友人に合わせるかすればいい。
友人の方が好きだったら言われた通りにすれば良いし、友人より大切だったら切ればいい。
友人が他に欲しければインターネットが今はある。
こんな単純な話では無いのはわかっている。「ダサい」人の多くはこんな増田で擦り切れるほど繊細でないし、「お洒落な」人にとっては苦にもならない日常だろう。
しかし、もしこの文章を読んでいる人が、もし少しでも擦り切れていたら。
あなたの服装が、言動が、内面がどうであろうと自分はそれを肯定する。そしてこの世のどこか、近くか遠くかできっとあなたの居場所が必ずある。
そう32になっても言える人間に、なりたいとだけ願う。
いわゆる一連の「おけパ島問題」でどのような感想を抱く人間と距離を置くべきであるかについて。
何より嫉妬している事を自覚することが出来る時点で、客観性を保っているからだ。
何より自分の持つ縁が少なからず恵まれていると考えられるだけで害がない。
③全ての登場人物に共感できない人間・全ての登場人物に適度に感情移入する人間
いわゆるメンタルが安定している人。逆に共感性に乏しい場合もあるが、気にするほどではない。
なお世界観の外側にいる人間はこれに含まない野次馬であるが、そちらも特に害はない。
④七瀬・友川が嫌いな人間
七瀬・友川はともに薄暗い感情を抱きつつも、ダークサイドに落ち切らず踏みとどまった。
故に七瀬・友川が嫌いな人間は、薄暗い感情を抱くことすら許さない、内心の自由を認めない人間。めんどくさいタイプ。
⑤おケパ島が嫌いな人間
「羨ましい」「ちょっと妬んでしまう事あるかなあ」ぐらいならともかく、ノータイムで嫌いまで行ってしまうブレーキのない人間。
おケパ島は特に悪い事はしていないので、善悪という物差しを、少なくともブレーキが機能しない程度にしか持っていない。
⑥綾城が嫌いな人間
ヤンデレ。鬱。
ちょっと妬んでしまう程度ならともかく、綾城の非を探す人間は本当にマズい。綾城はただ神だっただけである。
推しが死んだ。
それも本当に死んだわけではない。命が尽きたわけではなく人格の話だ。
そのジャンルは未だに更新のある生きたジャンルで、リリースからしばらく経つが人気も高い。
私がそのジャンルに落ちたのは1年ほど前のことでまだまだ新参者の類だ。
でも落ちてからは早かった。
推しに出会い、自分でも驚くほどそのジャンルにのめり込んで何度も同じストーリーを繰り返し読んでは公式最高!推し最高!と萌え狂っていた。
わたしは二次創作も嗜むオタクだったので自分でも推しを書き他人が書いた推しの話も支部の古いものから順にほぼ全てに目を通した。
先に書いた通り人気のあるジャンルだったため公式・二次創作ともに頻繁に供給があって本当に毎日が楽しくて仕方なかった。
推しの変化だ。
二次元のキャラクターは目まぐるしい速度で成長していく。アクション・SF・学園モノ…カテゴリーは様々だが、連載が長引くにつれキャラクターは必ず内心面や身体的に成長していく。
良い成長だけではなく時には悪い方向に向かってしまうこともあるが、不変ほどつまらないものは無いのでそれは話の展開に必要なものだ。そうした成長を見守ることが楽しく胸を熱くさせるからオタクはついつい同じジャンルに長居してしまうのだ。
そしてその日は訪れた。
更新されたストーリー内で、推しが絶対に言うはずのない台詞を口に出したのだ。
絶望だった。
ストーリーが突然グチャグチャになって、推しが支離滅裂なことを言い出したわけではない。あくまでも自然に徐々に推しの中身が異質なものになっていって、私が変化を強く感じたのがそのストーリーのその台詞だったというだけだ。
なんで?どうして?何故そんなことを言うの?
全く理解が出来なかった。変わってしまったと感じた部分は、私が推しに落ちた理由でありその推しの"核"だったのだ。
私はうまく回らない頭でTwitterを開いた。同じように戸惑っている人を探そうとしたのだ。
でも目に入ってきたタイムラインには、
「このページの推しの顔可愛くなかった?」
「今回のストーリーすごく泣けた…。」
といったいつもと何ら変わらない公式への称賛の声ばかりが広がっていた。
どうして誰も推しの変化に気付かないの?自分の好きなキャラクターなのに分からないの?
私が推しの"核"だと思っていた性格は、公式にとっても他のオタクにとっても重要なものじゃなかったの?
私が推しの解釈を拗らせて自分の中に空想上の性格の推しを作り出してしまったの?
推しは絶対にそんな考え方はしないしそんなことは言わない。いつそんな変革があったんだ。
ストーリー初期の推しであれば最新話の推しが言った言葉を絶対に否定すると思う。最新話の推しの性格が初期の推しに反映された場合にこの物語全体が破綻するくらいにはこの固定観念は変わってはいけないものだったはずなのに。作品のテーマだったはずなのに。
そんなことを一人でグルグルと考えて苦しくなって、わけも分からずずっと泣いていた。
例えば、
才能があって乱暴で自分勝手で、だけどたまにぶっきらぼうな優しさを見せるキャラがいるとする。(※これは上で語った推しのことではない)
そうした時に、このキャラを好きになる大抵の人が"ぶっきらぼうな優しさ"に惹かれるとする。ならばこの場合の私は"才能があることを自負している強さ"に惹かれるのだ。だから二次創作で原作の描写以上に終始優しい姿を見せるこのキャラを見ると「解釈違いです!」とそっとページを閉じる。でもどちらの性質もそのキャラが有しているものであってどこを好きになっても間違いではないはずなのだ。
感覚というかそのキャラの重視するポイントみたいなものが他人と違う。
つまり何って私とTLの感想が一致しないのはわりと頻繁にあるということ。
話を戻すと、
そんなことある?
否、そんなことは絶対にあってはいけないし、その場合は解釈違いを起こした私がおかしいのだ!いつだって公式が正しい。だって推しの在り方の正解を知っているのは生みの親である公式だけなのだ。
私の好きな二次創作も公式の原作あってこそのものだから、私はストーリーが更新されるたびに各キャラクターの変化を自分の解釈に反映させてきたし、それはきっとどのオタクだってそうだと思う。
供給をもらうたびに考察して、うまく飲み込めない時には他人の考察を見たりして、自分の中に落とし込んで、その都度自分の中の「好き」をアップデートさせていると思う。
でも私は今回それが出来なかった。
公式が間違っている!なんて独りよがりの最低なことを思ってしまうくらいには納得がいかなかった。
毎日楽しく漁っていたTwitterも支部も、二次創作すべてが見れなくなった。最新話に関係のない時間軸の推しを描いたものでさえ、「でも結局この推しは最新話のような思考に陥るんだ」という負の感情が邪魔して見れなくなった。
疲れているからマイナスな発想にしかならないんだ、時間を置いてもう一回最初から読み返そう。
そう思ってインプットもアウトプットも止めて、身体を動かして美味しいものを沢山食べてどこか退屈なだけど気楽な日々を過ごした。(その間も推しが恋しくなったが私生活に支障があっては困るのでなんとかして推しを脳裏から抹消した。)
そうして約一ヶ月後、もう一度推しと向き合った。が、ダメだった。
離れている間の他人の感想も検索して私と似た人も見つけた。推しと作品の傾向の変化について考察をまとめている人もいた。でもその考察がどんなに納得できる内容でも私はダメだった。
ジャンルを離れてもダメで、新しく何かにハマろうという気も湧かない。
死んだ推しの亡霊を追い求めているのだ。
もちろん前のような気持ちで見ることはできないし、私の許容範囲外なだけでもしかしたら他のキャラクターもおかしな変化をしているんじゃないか?と疑うくらいには公式に対する信頼も無い。今はまだそうはなっていないがもし今後すすんで粗探しするようになってしまったら本当にオタクとして終わりだと思う。
でも、「もしかしたら推しのあの台詞に対する言及が来るかもしれない!」サ終していないから、更新があるからこそ、私はそういった希望を捨てられないでいるのだ。
公式を信頼していないと言いつつ自分に都合の良いどんでん返しがきたらあっさりそれを受け入れられるよう準備をしているのだ。ボロボロになりながら呪詛を吐きながらそれでも追い縋ってみっともない。
だけどSNSで表立って愚痴を言っているわけでもない、公式をsageるようなことも言っていない。このヘドロのような感情を自分の中で室内飼いしているだけなのだ。
耐えきれなくなって開いた穴から毒が漏れ、ついにはこうしてはてなに書き込んでしまったわけだがどうか許してほしい。
恐らく私は公式にどうにかしてほしいわけでもジャンルの人間によしよししてほしいわけでも無いんだと思う。
許してほしい。
死んだ推しの亡霊が見えなくなるまで
その界隈の住人でいることを
どうか許してください。
おまえ何周遅れだよ。
消去法だろうが何だろうが、よりマシな選択肢がなきゃ自民党に入れるしかねーだろーが。
アベガーがどんなに遠吠えしようが民主党政権・立憲民主党・国民民主党よりは自民党のほうがマシってのが日本国民の判断なのは事実。
「賢い私が愚民を導いてやる」とばかりに息巻いたって、自民党の成果を成果として認める客観性が無ければ一生報われないぞ。
大体、自民党の欠点は沢山あるのに見当違いな批判しか出来ないからダメなんだよ。
一つヒントをやるとだな、「ニュース女子」って番組見てみろ。アベガーは「ただの自民党ヨイショ番組だろ」と思ってるだろうけど、実際には自民党や安倍を散々批判してるんだよ。その批判のポイントを勉強しろ。
最初に反応した者です。
2chなんかだと密かに交流があったりするのですが、はてなだと難しいですよね。
私自身は病気のようなものを抱えているので、仕事はしているのですがなかなか外出が億劫です。
心療内科へ行くレベルではないですが、すごい利己的だったり、客観性に乏しい人や、目の前のことしか考えない人に多く触れると
自身の知能が高いとは思いません。知的であったり、知的好奇心が強い人、それ以外にも利他的な人や行動的な人を見ると尊敬します。
理屈で考えるのが基本だと思っており、自己肯定感が低いときは、
みんなも表には出さないだけで本当はすごく論理を積み立てているんだと思い込んでいた時期もありました。
でも、現実はそうではないようですね。
「学問に対する不信」という意味で、社会学と心理学って結構似たような立場でよく外野から突かれがちだけど。自分はどちらも専門ではないけど、自分が大学の一般教養で心理学の授業を受けた時の話。心理学者としても危機感があるみたいで、やたらと丁寧に学問を学問たらしめる部分を説明された覚えがある。「本屋で売ってる自己啓発本紛いのサブカル本は全部偽物」「心理学は万能じゃない」と。
同じく一般教養で社会学の授業を受けたこともあるけど、そっちの先生は如何にも授業慣れしてない学者って感じで、心理学の授業ほど明快な説明を受けたわけではないんだけど。それでもどう説明したものかと四苦八苦してる印象だったし、それほど論理的におかしなことを言っているとも思わなかった。社会学にも学問を学問たらしめるための、客観性を担保するための仕組みはあると思うよ。専門じゃないから知らないけど。
まあ、社会学にも責任があるとしたら、そういう「科学コミュニケーター」的な役割を担う人が少ないんじゃないの、という印象がある。知らないけど。
公害問題の多発によって自然科学、とりわけ工学の権威が失墜しかけた時期もあったけど、結局「科学が起こした問題を解決できるのもまた科学」でしかなかった。「社会学が引き起こした問題」が、あるのかないのか知らないけど、あったとしても、それを解決できるのもまた社会学でしかないと思うよ。
おじさん教授が美術史を教える際に作品の性表現を抜きに絵画を語る事は出来ず(性表現を抜きに語ろうとすると美的要素から人体を抹消しなければならなくなる)性表現込みで美術史を論じると女学生から「セクハラ」と履修感想でと言われるそうだ。こうなるともうそれはただのおじさんへのイジメや偏見ではないのか?と自分は考えてしまう。美術史を教える教授が女性でなければ女性達は満足しないんだろうか。それならジェンダー問題用例辞典とか作ったら良いのではないか。ジェンダーに関する有識者と倫理委員会、ただし性別関係無く、感情論と主観を交えない、客観性がありタフで建設的な話の出来るメンツ限定。個々でバラバラに主張されても、それぞれの価値観に拠るといったような曖昧な基準でセクハラだと決め付けられるのは男性側としても納得いかないだろうから。用例辞典内でセーフラインを明確にし、こういう表現なら問題無いという具体例も載せる。それを判断基準にすれば、セクハラだと感じる要素が用例のこの項目に該当するという話をおじさん教授当人に具体的に指摘も出来て、本人が無自覚にその様なセクハラ的な発言をとってしまっていたのなら自覚できるだろうし、逆にその辞典で言及していない、セーフに当たる内容であればそれを指摘してきた女性本人に、あなたの指摘は不適当であると言う事も出来るだろうから。