はてなキーワード: 中途半端とは
小さめの目、面長でパーツのバランスが悪く、全体的にのっぺらぼう、どう足掻いても幼さが残るこの顔が。
これまで歯列矯正、顔の脂肪吸引、眼瞼下垂の手術兼二重形成を自分で稼いだお金でしてきたが、手術するのが難しい中顔面のせいで理想の顔には程遠い。
メイクを勉強したり、就活で太った時はジム通いで痩せて標準体重以下にできたりもしたが、すっぴんでも可愛い子や、痩せたブスより太ってても可愛い子のほうがいいに決まってる。世の中どうせ顔なんだ。
どうしてこれまで自分の見た目が大嫌いなのか。それは幼少期から、
・クラスの男子にデブと罵られる(※客観的に見たら普通くらいなのに)
・席替えで好きな女の子の隣ではなく私の隣になるのが嫌すぎて男子から延々と泣かれたことがある
・私(当時一重)の前で「一重って可愛くないもんね」って部活の同期から言われる
・部活の同期のマネしておでこあげてたら陰で男子から落武者と言われていることを知る
・SNSで知り合ったオタク仲間に、見せてと言われたので自分の他撮り写真を見せたら無反応だった(おそらく可愛くなくて反応に困ったのだろう)
などなど……書き出したらキリがないのでこれくらいにしておくが、小学校低学年には既に自分の容姿は良くないことは自覚していたのだ。
そんな私でも、中学くらいまでは勉強でカバーできていた。高校は市内でトップの“自称”進学校に進んだのだが、自分よりも可愛いくて美人で勉強できる子がたくさんで心が病んだ。私には何もないじゃんか。こうして中途半端なレベルでしか勉強のできぬブスが出来上がってしまった。
これで東大やら京大やら受かるレベルで勉強できてたら何も憂いていなかったかもしれないのに。残念ながら神様は不平等だ。
有難いことにこんな顔面でも彼氏がいたこともあったが、私が仕事でクソがつくほどの田舎に突然飛ばされ、一年の遠距離の末捨てられた。
私をそんなクソ田舎に飛ばした職場は退職して別の職場へ転職したけど、コロナ禍も相まって時間をいたずらに消費され、無駄に歳だけ喰ってしまった。
現在アラサー彼氏ナシ、見た目には気を遣っているが容姿に自信ナシ。
コロナ禍を経て、現代の男女が出会う場として、マッチングアプリが主要になっている。そろそろパートナーが欲しいな…一緒にいればより楽しめる様な相手がいればな…と思うんだけど…
「自信がなくても顔写真は登録しましょう!」「プロフィールは詳しく書きましょう!」
無理だろ!!!!!!!顔写真見てアッ…ごめんなさい…って遠慮されて誰ともマッチングできないの目に見えてるよ…
ネット上でマッチングアプリや婚活の話題になる際、「本当に良い異性はマッチングアプリや婚活市場には来ない(そんなことしなくても恋人できるから)」「自分は‘売れ残り’だと自覚した上で婚活しろ」という声を見かけたことがある。
私の様なブスは当然売れ残りだ。でも、売れ残りだとしても、後悔のない相手を選びたいし選ばれたいのにな…
その点、美人なら、選びたい放題だし、多少積極性を出しても受け入れられるんだろうなと思う。
少し前に、某動画サイトに投稿されているギタボの人をネトストして特定した結果、その相手と結婚できたという女性が話題になった。
ネトストという行為は決して許されたものではないが、顔が良ければ想い通りの人と結婚できるなんて超絶イージーモードじゃん…と思ったものだ…しかもそのお相手さん関学卒(関東でいうMARCH相当)とかいうハイスペだし…
私はもう遺伝子レベルで生まれ変わらないと、自分の人生に満足できなくなってしまった。だから人生ゼロからやり直したい。自分の容姿に悩まない、恋人やパートナーが途切れることに悩まない人生送りたい。
来世はさ、もう今世ほど勉強出来なくていいから、フォロワー4桁抱えれるコスプレイヤーになれるレベルくらいの、100人いたら100人が可愛い、美人って言えるくらいの女性にしてください。
20年以上も生きていれば自分が持つ能力の立ち位置がなんとなく見えてくる。
人の前では精一杯虚勢を張っているが、二流、三流の人材なんだろうなあと内心思っている。優しいのか、周りの人から直接言われることは無いが。
私は鈍感で、物覚えとか要領が悪く、いわゆる「トロい」人間である。何かを学んだりするのは好きだが苦手だ。センスが悪いので、地道に一つのことを頑張り続けて、ようやく要領が良い人が片手間にやるぐらいのレベルに到達するような感覚だ。
気が弱いので(自信がないのだろう)はっきり自分の意見が言えず、気づけば面倒なことを押し込まれていることもしばしば。
テレビやインターネットでは気の利いたことが言える人、スポーツが上手な人、頭の良い人、容姿に優れた人、絵が上手い人、商売上手な人、まだまだ色々あるが、とにかく才能に溢れた人が可視化され、クローズアップされ、社会的地位を構築し、金を稼いでいる様子が目に入ってくる。マルチな才能を持つ人も少なくない。
凄いな、よくやるな、自分には無理だな、といつも思う。勿論、自分のような凡人には見えていない世界での苦しみがあるはずだが、才能を持たない人間、開花させられなかった人間からすると羨ましく思うと同時に、自分が馬鹿らしくなってしまう。
そこで思う。
自分だって、教育熱心で理解のある裕福な家庭の元に生まれていれば、今頃は周囲から一目置かれるような人間になっていたかもしれない。
何か一つでも、飛び抜けた才能を生まれた時から持っていれば、それを使って人生を切り拓けたかもしれない。
人生は配られたカードで勝負するしかない。そんなことは言われなくても分かっている。
トランプの大富豪のように、誰かが革命を起こしてくれてゴミ屑だった自分の手札が急に光り輝くようなことは人生でほぼ起こらない。最初のカードが悪ければ、どんなに頭を捻って考えたとしても、結局は周りがカードを出し合っているのを指を咥えて見ているか、他人のミスや自分のラッキーなどの不確定要素に一縷の望みを繋ぐしかない。
人生というゲームは待ってくれず、間違えたとしても巻き戻してはくれない。何もできずにカードを手元でシャッフルしているだけで、ゲームは勝手に進行していく。
いっそ、このゲームから降りてみようか。そう思うことだってある。競争することだけが人生じゃないはずだ。
そう思うものの、ゲームから降りた後の行き先がわからない。まず、降りる勇気がない。
仕方がないので、自分なりに足りない頭で考え、一応ゲームに参加しているような感じにはなって、微妙な結果で終わる。そんなことを繰り返してきている。
自分は今まで最善を尽くせていただろうか?即答できる。答えはNOだ。後から振り返ってみると、少なくとも、もっと上手くやることができたはずのように思える。最善手を選び続けようと日々生きていたはずなのに、こうなってしまったのはなぜなのか?
自分自身の判断ミスがあったことは明白だが、それでも、今の現状を形作った原因を外部に求めたくなる。だから、最初に自分に配られたカードが悪かった、と言い訳したいし、最初から良いカードが揃っていた他人をみると嫉妬してしまう。
才能と発信力のある若者が、恵まれていない環境で育った、とインターネットで発言して炎上するのをしばしば見かける。特に実は親が世間的に見るとちょっと裕福だった、なんてことがわかった時の叩かれっぷりは恐ろしい。私は炎上には加担しないが、つい叩きたくなってしまう心情はわからなくもない。ついつい、自分よりも恵まれてたじゃん、いいカード持っていたじゃん、なんて言いそうになる。他人と自分の生育環境を比べてもなんの意味もないんだけど。
もはや、恵まれない環境からの鮮やかな成功劇、という単純なストーリーは成立しづらい時代だと思う。
自分自身を振り返ってみても特段良い環境で育ったわけではなく、むしろ周りを見る限り平均より下だったような印象だったが、それでも下には下がいるだろうし、今までの人生が恵まれていなかったなどと本名を晒して公言する勇気はない。
話が脱線してしまった。私は配られた中途半端な手札でゲームに惰性で参加するトロい人間だ。ゲームの勝ち筋は見えない。面白みのないゲームはこの先も続いていく。私は誰かに、「あなたは、最初に配られた手札の割にはよく頑張っているほうだよ」と言ってもらえれば、それだけで救われるのかもしれない。
結論から言うと、かっこいい禿げとは堂々としている禿げになると思う。
禿げを隠そう、あるいは禿げなのに中途半端に髪を伸ばそうとしている禿げだと
どうしても悲壮感が漂う。どこか当人も自信がなさそうな顔である。
だが、自分で禿げを認め乗り越えた人間は、大抵剃る。つるっぱげにする。
「俺は禿げだ!禿げなんだぁぁー!」と、世界の中心で禿げを叫ぶぐらいの意気込みが必要だ。
昔パリーグの某選手で、お前植毛しただろwwwwww的な人がいたが、
どうも彼は植毛して以降、打撃不振に陥ったように見えた。
いっそ、堂々とつるっぱげにすべきだった。
つるっぱげにした後は、やはりダンディズムが必要だ。そう、竹中直人ばりの低い声が必要だ。
貫録をつけろ。あるいは、身体を鍛えろ。身体を鍛えれば、禿げは似合う。
かっこわるい禿げじゃなくて、かっこいい禿げを目指せ。禿げ共!
リアルでこんなことをつぶやいても誰も聞いてくれないし、真剣に語りすぎても異常者扱いされて終わるだけだろうから、ここで書かせてもらいたい。
モテないやつの負け惜しみ、みたいに思われることもあるだろうが、そう思われても仕方がないのは承知である。
ただ、あまりにも感情のやり場がなくてどうしようもないので、せめて吐き出させてもらえたらと思う。
タイトルにも書いたが、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうイベントを経験して一人前……みたいな風潮が本当に苦手だ。
そういう人たちはほんとに幸せそうにしているし、
何より「守るもの」ができたことによって、生活にもハリが出てきている……ような気がする。
ただ、私がその領域にたどり着けるかというと、そんなことは絶対にないだろうなと思う。
悲観でも卑屈でもなく、本気でそう思っている。
もう30年近く生きてきたが、今までまともな交際をした経験はない。
今まで生きてきてこんな調子だし、今更人間なんてそう大きく変わることもないだろう。
だから私は、このまま、残りの人生を独身で生きる覚悟をすでに決めている。
そうした思いを覆すような「運命の出会い」でもあれば気持ちは揺らぐかもしれないが、
そんな実現可能性があるかもわからない話に期待していても仕方がない。
……という話をすると、決まって、「まだ若いんだから諦めるなよ」みたいなありがた~いお言葉をいただくわけだが、
そもそも私は、自分に恋愛ということへの適性がないと思っている。
人間誰しも得手不得手があるというものだし、わざわざ苦手分野で勝負することもないだろう。
私の場合、その「不得手」にあたるのが恋愛だったと、それだけの話だ。
苦手なことで頑張ってもつらいだけだから、私は苦手なことである「恋愛」をしないという決断をしているのに、
それをなぜ周囲は「恋愛したほうが成長できる」とか押し付けてくるのか、理解に苦しむ。
というか、そもそも、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうのって「人として必ず経験しないといけないこと」なのか?
恋愛をすることの目的のひとつは、子供を作って次の世代を育てるということにあるだろう。
近年少子化だなんだと騒がれているが、子供を作って育てる人がいなくなれば、人口が減ってしまう。
だから私も最終的には子供を残して、次の世代につなげなければならないのだろう。
それは当然、建前としてはわかっている。
だが、「次の世代を残す」ということの重みを考えたことがあるか?
私は大して頭がいいわけでもなく、他人と比較して突出した能力があるわけでもない。
金だってそんなに持っているわけでもないし、仕事が忙しくて時間もあまり余裕があるとはいえない状態だ。
そんな私が、「子供」という「一人の人間」をこの世に生まれさせて、
一人前の人間として生涯かけて育ててやれるような気概があるだろうか?
健康な状態で生まれさせて、大病を患うこともなく、健康な生涯を送らせてやることができるだろうか?
そもそも、私が子供を残すこと自体が社会にとって有益なことになり得るのか?
一口に「子供を育てる」といっても、想定されるリスクがあまりにも大きすぎる。
とにかく、不確定要素が多すぎるのだ。
子供が「〇〇をしたい」と言ったときに、お金に余裕がないからと諦めてもらうことになるかもしれない。
子供が「やりたい」と言ったことは支持してやりたいが、それをかなえてやれるだけの力が、私にある保証がないのだ。
もちろんお金以外にも色々要因がある場合は出てくるかもしれないが、それもひっくるめて、私にはそれだけの力量がないと思う。
子供に不自由させたことで、子供に恨まれることだってあるだろう。
そんなとき、子供はこう思うはずだ。「こんな親のところに生まれたくなかった」と。
そんな状況でも、一度生まれてきた以上、生を全うしなければならない。
日本の平均寿命が約80歳らしいので、仮に80年生きると考えたとして、80年も「生きる」ことを強要されるのである。
この私が親であるというハンディキャップを背負いながら、80年。
どうせこの世に生を享けるなら、何一つ不自由なく暮らせる、いい家庭に生まれてほしいと思う。
ただ、私の作るような家庭では、そんな環境などできないのだ。
そのためには、私が出しゃばってはいけないのだ。
私のような不完全な人間が「親」になるということは、
ところが、「子供を残さなくても恋愛はできる」という考えもあるだろう。
運よく誰かと結ばれたとして、子供を作らずにそのまま家庭を築けばいいのかもしれない。そういう夫婦のありかただってあるだろう。
だが、私が恋愛をしようとすること自体が、そもそも私のエゴにすぎないものであると思っている以上、
私は特に裕福なわけでもなければ、大して仕事ができるわけでもない。
私が人間的に魅力がないのは、今まで30年近く、ろくに異性に相手にされなかった事実が物語っている。
そんな私が誰かを好きになったとして、その相手にアタックをしかけたとしよう。
その相手は、「私のような人間から好かれたこと」を喜んでくれるだろうか?
人から好意を持たれることは嬉しいかもしれないが、よりにもよってその相手が「私」なのである。
相手の立場から見たときに、「私」から好かれることが必ずしも嬉しいとは限らない。
ほかに魅力的な人物がいれば、そちらに流れてしまうのは自然なことだ。
運のいいことに、それでもなお、相手が私の好意を了承してくれたとする。
私は好きになった人と結ばれたことで、幸せで居られるかもしれない。
だが、相手は「私に"付き合わされている"」のであって、私の好意を押し付けられている状態だ。
そんな状態で、私のことをずっと好きでいてくれるような保証があるだろうか?
私に「付き合わされる」ことになった相手は、それで幸せなのか?
よく聞くありがたいお言葉に「恋愛すると人間的に成長できる」というものがある。
そのお言葉はある意味では正しいのかもしれないし、そういう意見は否定しない。
ただ、恋愛対象となる「相手」だって「一人の人間」なはずだが、
「恋愛すれば成長できる」のであれば、交際相手という存在は「自分が成長するための踏み台」に過ぎないのか?
恋愛や結婚なんて、自分だけでなく、相手の人生も大きく変えてしまう、大事なイベントだ。
大事なイベントだからこそ失敗は許されないし、合格点は当然100点満点だ。
そんな一大事なのに、「自分が成長したいから」という身勝手な思いだけで、
「私のような存在に人生を狂わされること」を考えたときに、相手からしたら良い気がするものではないだろう。
むしろ、私が好きになった人だからこそ、私のような存在が関わるべきでないとさえ思っている。
私が関わることで、相手を余計に不幸にさせてしまうのではないかと思う。
そもそも、「私が相手を幸せにしてやる」なんて思うこと自体が思い上がりも甚だしいのだ。
「相手の人生を変えることへの責任」を果たしきれる自信がないのだ。
もろもろのイベントに対して、それに伴う責任を果たせる自信がない。
仮に取り組んだとしても中途半端な結果になり、破滅して終わるだけだろう。
ことによっては賠償金とか慰謝料とか、そういう話も出てくるかもしれない。
自分も相手も、次の世代も守るためには、「私が恋愛をしないこと」が最適解になるのだ。
そうすれば、「幸せ」にはなれなくても、「不幸」は少なくとも避けられる。
こういう話をすると、「責任から逃げてるだけだ」とか「そういう責任を果たしてこそだ」とか言われるだろう。
「責任から逃げている」というのは否定しない。実際そうだと思う。
焦って準備も不完全なまま手を出したとして、それで付き合わされる相手や生まれてくる子供が不幸になるだけで、
私が恋愛をしたところで、相手や子供が不幸になる未来が目に見えている。
確かに恋愛や結婚や子育て自体は大変なことだと思うし、その重い責任を果たしている人は本当に立派だと思う。
それを「逃げ」だというならそれで構わない。それで不幸を再生産することのほうが、結果的には不利益だから。
確かに、「なんとかなる」こともあるだろう。
だが、「なんとかなってる」状態で過ごすことを強いられる、交際相手や子供のことはどうなる?
「なんとかなってる」というのは自分の勝手な思い込みであって、実際はそうではないのではないか?
責任が重いことである以上、100%の完成度が求められてしかるべき話だ。
そんなことが「なんとかなる」で許されていいわけがない。そんな状態で生きてても誰も幸せにならないじゃないか。
あと、「子育て世帯にやさしくない社会が悪い!」という論調もあるだろう。
もちろん、それも理由の一つではある。
だが、私はそもそも「子供を育てること」に適性がないと感じているので、
いくらそういう制度がしっかりしていようが、「子供を育てる」ということをする気がそもそもないのだ。
必要とする人への補償はしっかりされるべきだと思うので、その辺の整備はしっかりしていたほうがいいとは思うが、
それは私が「子供を作りたくない」と考えることとは無関係なのだ。
長々と書き連ねたが、まとめるとこうだ。
・私は「恋愛」やそれに付随するもろもろのことに適性がない
・私が下手に恋愛や子育てをしても、相手も子供も、自分さえも不幸にするだけ
それを「逃げ」とか「もったいない」とか言うなら、それはそれで構わない。
ただ、「お前も早く結婚しろよ」とか「子供がいると仕事もハリが出るぞ」みたいに言ってきて、
交際相手とか子供とかを「自分が成長するための道具」としか見ていないような、
そういう言い分にはすごく嫌悪感を覚えるし、腹が立って仕方がない。
私が恋愛とか結婚とか子育てとかをしたいと思ったとして、それはあくまで私のエゴにすぎず、
それに振り回される人たちのことを考えたときに、そんな自分勝手な真似は到底したいと思えない。
頼むから、私が「恋愛をしない」という決断を敢えてして実行していることについて、
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お読みくださってありがとうございます。
「恋愛」とか「結婚」とか、そういう「人生の大きなイベント」に対して、
ただ「自分が成長するための機会」みたいにしか捉えられていないような、
そんな風潮に嫌気がさしているので、日ごろの思いを書かせて頂きました。
なお、「恋愛する奴が憎い」みたいな話がしたいのではなくて、
恋愛とか子育てとかの責任をちゃんと果たされている方のことは、嫌味でも何でもなく本気で尊敬に値すると思っています。
あくまで「私には能力がないから恋愛したくない」という、私個人の話であって、
恋愛といった一連のことを経験できる方を馬鹿にしたりするような意図はございません。
以上です。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。
私も昔は専業主婦に憧れたよ。
母親もそうだったしね。仕事だって全然好きじゃないし全然無能タイプ社員だし。
でも今や共働きが当たり前じゃん。百人並みの顔面と何にも秀でない能力をもって専業主婦にはなれないんだよな。そこの現実はしっかり理解してるわけ。
でも、というかだから、それでも頑張って色んな修羅場抜けてきたら小賢しさばかりが育っちゃって結婚とか恋愛とか損得で考えるようになってしまった。
私は女なので、ある程度生活の保証をしてくれる相手でないと結婚して一緒の家に住むなんてこと嫌だもんな。
相手の親や兄弟、親族と無難に付き合ったり、家事して、仕事も行って、一応女として夫を立てたりしてさ。
体調悪いときも今なら一緒に暮らしてる犬が散歩つれてけー!でワンワン言ってても無視して2時間くらい寝てたりしてもあいつら後で恨んだり気分害してグヂグヂ引きずったりしないしすげー楽。
でも夫/妻は人間だからある程度まともな態度で体調不良とかもちゃんと人前に出せる機嫌で弁明しなきゃいけなくてそういうの考えると「だりぃ~」ってなっちゃう。
私は帰ってきて服をハンガーにかけるのがものすごく苦痛なんだけど、実家にいるときは制服でボーッとしてると母が「シワになる!なんで帰ってきたらすぐ脱がない?そしてハンガーにかけられない?」としかられまくっていたが、やっぱり即脱いでハンガーにかけることができない。でも私は会社じゃ普通の服とかメイクとか好きな人と思われてるっぽいし、脱いだ服を即ハンガーにかけない、ベッドの上に寝るまで平置きしてもそこまでしわくちゃにならない。一人暮らしってそういうさじ加減が全部自分基準である意味ワガママ放題できて虫が湧かない程度の汚部屋も自分が納得してりゃ人が不快に思うとかそういうの考えなくて済むから自己肯定感むやみに下がらなくていいし、正直コスパのいいライフハックなんだよな。そこに気がついちゃうと人と住むのとかもうごめんだもん。
病気になったりしたらどうしようって思うけどそれ以上に今の楽さを捨てられん。
全部折半か6:4くらいで気ィ使いながら人と一緒に住むためにリスクとるのとかダルすぎる。
よほど好きって気持ちが強ければ出来るのかもしれないけど、今までの人生での自分の恋愛スタイル見てたら自分がそういう情熱的なタイプじゃないのわかってるし。
なんでこんな愚痴っぽいこと書こうと思ったかと言うと、さっき実家の母と電話したら、知り合い(男)が結婚したんだけど、もう二~三ヶ月ずっとその男の子の方がご飯作ってるんだって。とか言うわけよ。
んで、あー、ね。みたいな感じに相づち打ちつつ一人暮らし長いと男の人も料理上手だしね。とか言ってたの。
母親は「嘆かわしいね~」みたいなノリなわけ。でも遅く帰ってくることとかあったら仕方ないよね~っていうと、奥さんの方がいっつも遅くて作らざるを得ないみたいよって話になってきた。
いや、そりゃ当たり前っつうかその知り合いの男の子も全部納得済みでやってんじゃない??って思ったんだけど、私の母は前述した通りずーっと専業主婦で彼女の世界では家事は女がするもので、働きに出てて家事出来ないのは怠慢、みたいな価値観で生きてるわけ。
一世代でこの断絶よ。その知り合いの子の母親もうちの母と同世代。(かといってうちの母のように今現在の夫婦の在り方のオーソドックスについてどのくらい理解があるのかは実のところよくわからない。そこに言及しないことは申し訳ない。)
実家に帰って、何気なくこういうこと親に言われるとその知り合いの子も「そっかー、やっぱ俺って可哀想かも。うちの嫁っていい嫁じゃないかも」とか思っちゃうかもしれねーんだよな。
そりゃ育ってきた環境で、自分の身近な母親って存在だよ?影響されても誰が責められる?
私は何もミサンドリーな事を言いたい訳じゃないのをわかってほしい。
結婚ってかなりハードモードだなって、現在を生きてて肌感覚で感じるわけ。
親との常識の差、経済的な余裕のなさ。そして一人暮らしというのが普通に精神的に楽すぎるということ。
そんな私にも、ごく普通の金はないけど一緒にいてそこそこ楽しい彼氏がいるけど、この人と結婚して働きながら嫁業できるかと聞かれると「無理」なんだよな~
最初に書いたように中途半端に小賢しい人間になっちゃったからもう愛してるの言葉だけで強くなれる気はしないんだよな。
彼氏とセックスしてるより寝っ転がってスマホでYouTube見ながら誰に気つかうことなく屁でもぶちかましてる方が幸せで気持ちいいんだよな~
10年前はたしかにこんな感じじゃなかったけど、この極度に高度化した社会で戦ってるとそんなラブロマンス的な慈味みたいなものをありがたく味わえる感覚なくしてくわ。
それでもこれも私が戦って得てきた経験みたいなもんだし、じゃあ10年前の弱々のセンシティブな自分に戻りたいかっていうと死んでもやなんだよなぁ。
難しいなぁ…正しく我唯足知ってことしたたいけど、もう頑張りたくないし、もう頑張れるキャパシティもないんだ。
幸せになるために頑張ってたはずなんだけどなー。
一部の女の間で
「男は忙しくてもボロボロでも好きな女のためなら死ぬ気で時間を作って会おうとするはず。有名芸能人だってデートして結婚してるんだし『忙しくて会えない』は男が仕事できないだけかあなたが愛されてないだけ」という概念が広まってるらしいが
忙しくて会えないは忙しくて会えないだけです
マジで仕事がシャレにならんくらい忙しくて睡眠時間少なくてプレッシャーもある中でこんなこと言われたらそこで冷めるぞ
好きなら休ませるのが正しいだろ 本気で忙しくて寝てないやつを自分の寂しさで振り回すんじゃなく寝かせてやるのが愛だろ
逆に仕事を中途半端にして◯◯ちゃん好き♡っつってへこへこ腰振って胸しゃぶる男が好きなら自由だけど
まともに働いたことない女(特に夜職経験者)がマウント取ったり自分を正当化したりするために訳のわからんこと言うんじゃねえよゴミ
まあそもそも、「行き過ぎたジェンダー論のせいで表現の自由が脅かされている」というよりも、
https://www.twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1456864014043025409
「セクシュアリティの多様性」を勝手に「対人性愛の多様性」にすり替えたり、「ジェンダー表現の多様性」を勝手に「物理身体に紐づいたジェンダー表現の多様性」にすり替えたりといった態度こそが、まさに直球の偏見であり差別なんじゃないですかねぇ。
という側面の方が大きいというか。ジェンダー・セクシュアリティ論を中途半端にしか理解していない人々が「僕の考えたジェンダー平等とセクシュアリティの多様性」を錦の御旗に掲げてるのが「ジェンダー論」が批判される所以だよね。
ジェンダー論が正しく行き過ぎれば、フィクションの「ちょっとエッチな表現」如きに目くじら立てる人はいなくなるよ。
例えば、古いフェミニズムでは「男に守られるオンナは卒業しよう!一人で生きていこう!」という言説ばかりが持て囃されていた。確かにそれは力強くてかっこよかったけれども、最近は「そうは言っても、自分はイケメンとの恋愛もセックスも好きだし」というフェミニストも現れて、「バッドフェミニズム」という新しいフェミニズムの形も発見されてきた。それはフェミニズムの退化ではなく進歩なわけでしょ。
ツイッターのフェミやアンチフェミのツイートうざい。この手のツイート見すぎて性差の話題そのものが嫌になってくる。中途半端に共感できるせいで自分からどんどん探してしまうのも最悪。絶対中毒になってる。
だから、見た目も中身も中性的で、股間に何もついてない不老不死の妖精さんに好かれたい。好き勝手されたい。
妖精さんに性器を摘出、不老不死、幼児化、妖精化を強要されアイデンティティが喪失。その上殺人も強要。精神崩壊して、完全に妖精さんの奴隷になりたい。
言うてもあやトラ移籍後一カ月くらいで筒井大志の読み切り載せてたから
「もう無くなった」とも言い切れんだろ
とはいえジャンプ+の方じゃスレイブやハーレムが伸び伸びお色気やってんの見ると
最早無くなったのかなとは確かに思う
花粉症が終息した後に引いてしまった中途半端な鼻風邪って、風呂から出てさっぱりした直後に便意をもよおしてしまった時のような敗北感がある。
私は特別な人になりたかった、正確には特別だと他人から評価される人になりたかったんだ。でもそうなれないのなら、どうしたら良い?
昔から要領は良い方だった。とある物事において平均的な人が50点、ある程度頑張った人が60点を取れるとするならば私はほぼ努力せず75点を取れた。これは幼少の頃から社会人の今まで、勉学からスポーツや遊びまでそうだった。ただ、1番になる事はついぞ無かった。本気で取り組み者たちは90点や100点を取る、だが私は努力せず75点を取れる代わりに努力しても85点までしか取れなかったのだ。正確にはそんな気がしていて、自身の限界なんて知りたくもなくて、ずっと努力などしていなかったのであるが。
そこそこな高校、大学を出て、やりがいがあり給料も良い会社に入った。20後半で結婚もした。30になり、都心に家も買った。子供もそろそろだろう。休みに旅行などに行く友人がおり、酒を飲み愚痴を言い合う同僚もおり、妻との仲も喧嘩はする時はあるが全体的に良好だ。貯金も給与も平均は割と超えており、将来の不安は限りなく低い。
「どんな状況でも飄々と、それでいて問題は解決する人」「才能にあふれ、大抵のことは出来るがいまいちやる気のない人」「全てを受け入れ、おもしろいと思える余裕のある人」「変人ではあるが善良でおもしろい人」…そんな人物像が、かつて私が憧れたものであり、そうなるように演じたものであり、実際に今、多かれ少なかれ友人も職場も妻でさえ私の事をそう思っているだろう。まるでそれが私の生来の気質で、あるがままに振る舞っているだけだとだっているだろう。
私は、そう思われたいが故に敢えてそういう行動をしていただけだ。本気でやって出来ないのが悔しくて怖いから中途半端を装っていただけだ。それで何とかなってきてしまった。これからもなんとかなってしまうのだろう。
でも私は何のために生きているんだ。
私がなりたかったのは、特別な存在だった。なれるはずもない、想像もできないんだ。特別になりたいだけで、何で特別になりたいかなんて希望すら無いんだ。特別になりたくて、なれない事に気付くのが怖くて、人並みの幸せに逃げていたツケがこれか。
今更全てを曝け出してちっぽけな人間だと思われるのも嫌だ。このまま順当に平均的な幸せを享受するのも嫌だ。ならば人生は無意味と割り切れるほど悟ってもいない。宗教などに救いを求めるほど純粋では無いし他者を信じても無い。
自分が恵まれていることなんて百も承知だ。私の立場になりたい人なんて割といるだろう。それでも、心が死んでいくんだ。
自分は寂しがりなところがあるので結婚願望が強い、正直女遊びとかできるタイプじゃないし20代後半には結婚したい。
ただ、交際経験は二人しかないし、そのうち1年以上保ったのは一人だけである。
去年、マッチングアプリに手を出してみたが根本的に合わなかった。
ビビリ+ネガティブ思考の相乗効果でほとんどLINEを交換するとこまで行かず、仲良くなってもたいてい相手に退会されていた。
しかも人見知りがあるためもうどうにもならない気がしてきた。
ただ、新しいコミュニティに首を突っ込むのがめちゃくちゃ苦手な上に前述の人見知りがあって
出会いは期待できない。
と、なると社内恋愛くらいしかないのでは?と既に考えてしまった自分がいる。
正直気になる先輩くらいはいるのだが、中途半端にうまく行かないし、何人もアタックしてしまうと
確実に社内で悪評が立つしあんまりやりたくないのは正直なところ。
今の所できる気はしない。
女性と飲みに行っても「彼女できたらめっちゃ大切にしそうだね!」とお世辞を
もらってしまうしどうすりゃいいのこれ。