はてなキーワード: 不利益とは
ミサンドリと無縁な人は人間関係等で得をするようだと憶測して自分もそうなりたいと思ったのか、ミサンドリ的言動を取ったせいで不利益を被ったからそういうことを起しがちな要因を改善したいのか、内心のミサンドリ的価値観をそのままにするのではなく根本的な人格改善を図りたいのかいろいろ考えられるけど、まずは増田とかから離れて自分の現状と欲求を明確に言語化すべき
アンチフェミも好きじゃないけれど、女性に生まれて不利益を感じたこととか、男性が下駄を履かされているように見えたことって一度もない。
体の構造上妊娠したら働けない期間は出てくるし、そこでどうしても遅れは出てくるかもしれないが、たとえば男性の多い職場は、世間体のために女性を積極的に採用している。
それでもなお女性は少ない。自分ではその道を選ばずにピーチクパーチク言う。
少なくともフェミニストとして代表的な上野千鶴子なんかは40代で東大教授と、男性と比べても順調に出世しているし、本当に男性は下駄を履かされているのかな。
仮病お荷物正社員(以下、仮病)にお悩みの経営者・管理職への一助となれば。
「我慢しよう」は厳禁です。
「ハラスメントは許せない」とこちらから勝手に仲間ヅラをする事が何よりも大事です。
この「相手に合わせる形で自分達も同じ属性だよと意識づける」のが最も大切です。
特に管理職層で勘違いされている方が多いのですが、仮病をバラけさせるのは愚の骨頂です。
必ず仮病属性は一箇所に集めましょう。
自分だけという被害者ヅラをさせないように、「沢山いる悲劇のヒロインの中の1人」という風に環境を少しずつ整えて追い詰めていきます。
仮病をバラけさせると職場の数だけ悲劇のヒロインが生まれます。
これだけは絶対に避けてください。
ここで可能であれば管理職も仮病を揃えます(これは信頼できる者であれは演技を打ってもらうのもありです)。
ADHDやADDは本人がミスをする事には寛容を求めますが、上司や同僚がミスする事には批判的な者が多いです。
上司や同僚も同じ仮病属性でADHDやADDを訴える者が不利益を被るようなミスを「仲間も同じ病気なんだから仕方ない」という環境に追い込む事が大切です。
周りが助けてくれる事を期待するサイクルをぶっ壊すのです。
自分のミスはそのまま、周囲の人間も同じ仮病でミスだらけという環境に落とし込んで自分1人だけの仮病を言い訳にできないようにします。
並みの仮病はこの「全員仮病」に堪えきれず、辞めるか何故か普通に戻ります。
この普通に戻る効果が案外馬鹿に出来ず、仮病をしていた頃が嘘のように以前の真面目な性格に戻るケースが少なくないのです。
一見人材の墓場のように思われる職場が、皮肉な事に再生工場にもなるのです。
本物の仮病キングみたいなのが猛威をふるえばふるうほど、並みの仮病は耐えきれずに立ち去るか運が良ければ目を覚まします。
そして目を覚ました元仮病には仮病を演じた代償を存分に支払ってもらった方がいいです。
このタイミングならハラスメント云々も言わなくなるので、厳しめの営業系に飛ばすのもアリです。
耐えきれなくなればまた墓場に戻り、その先は辞めるかキングになるだけなので。
組織の中に最高の反面教師がいるというのは組織運営と人材育成の上で非常に便利です。
健常者にとっては敵意をほぼ一箇所に集中できるというのは精神衛生上快適になります。
仮病には仮病をぶつけましょう。
話の達者なマイノリティーの声を聞くときは、同じようなマイノリティーを沢山集めて何十分の一に落とし込む事が大切です。
協調性がない人間には、協調性がないと自分の痛みを伝えることも出来ない環境に落とすのが正しい対処法です。
くれぐれも対処療法で相手が言うままに健常者が困るような組織運営はしないように。
全員を同じ場所に集める。
使えない奴は使えない奴同士で同じ場所にいてもらう。
まあ「ぶっちゃけ怖いけど断り辛い」ことを要求して、そのまま何の不利益も与えず原状回復する、という人心掌握術があるんだろうな。
ということを、ぶっちゃけキモいナンパ師のテクニックを見て思った。
騙されないように気をつけないと。
ある人(勤め始めて5年以上は経つ)が私の所属している部署に異動してくるという、一見なんでもない辞令だった。
なぜなら、彼はもう3部署も飛ばされている、言わば問題児だったからだ。
研修も終わり、配属先が決定した当日、伝説となる発言を放ったのだ。
弊社では障害者雇用も行っているため、そういった方々も多少は採用されている。
しかし、クローズで正社員雇用をすり抜けた挙句、雇用が本決定した途端に告白し、開口一番こちらからのフォローを求める発達障害者は初めてのケースだった。
障害者雇用であれば先例があるためこちらも動きやすいし、せめて面接時に「発達障害だ」と告白してくれれば、部署内で多少の受け皿を用意しておくぐらいは出来たのに。
これでは発達障害を言い訳にしているとしか思えないし、発達障害に適した環境を用意することも出来ない。
面接時に必ず申告しなければならないとも定められていない。
という訳で、同じ部署の方々は何も抵抗できず、この発達障害の方(以降Aさんとする)のフォローに奔走することになる。
話はとんで1年後。
Aさんの異動が発表された。
そのまた2年後。
またAさんの異動が発表された。
その間にも、あらゆる部署からAさんの噂は絶えず流れ込んできた。
ここまで特定の人物の多種多様な噂話を聞くのは初めてで、何も知らないながらも大変そうだ、といった印象は受けていた。
そう、この時の私は印象を受けていただけ。
何も分かっていなかった。
そして遂に、私の所属する部署にAさんが異動してくることになったのだ。
ちなみに勤務年数で言うと、Aさんは私の先輩にあたる。
が、この部署での勤務年数で言えば、勿論私の方が長くなる。
そのため、私を含め部署内全員でAさんと指導をすることとなった。
もう一度言う。私はAさんをナメていた。
実際に共に仕事をすると、今までの人達はこんな人と付き合いながら仕事をしていたのかとあまりの大変さに敬服した。
例えば仕事を教える時。メモ1つとっても、以下のような症状が見られるのだ。
・メモを取らない
・とったメモを無くす
・メモが見つかっても内容がぐちゃぐちゃすぎて参考にもならない
これでは迂闊に仕事も任せられない。
1つの仕事を任せる度、1人がAさんについて、1つ1つ懇切丁寧に教えていく。
健常者の新人とは違って、そのままの意味で任せる度に教えなければならないのだ。
つまり、Aさんが仕事をする度もう1人の労働力が無くなることになる。
だがAさんの厄介さはそれだけに留まらない。
・優先順位をつけられない
・凹みはするが反省ができない
・PDCAサイクルを回せない
・人の助言・アドバイスを受け入れられない
これらはいずれも、我々が指摘・注意した際に「発達障害なので…」と言い訳された言動の一部だ。
特に厄介なのが、「人の助言・アドバイスを受け入れられない」だ。
こちらがどれだけ優しく
「どこまで分かってるかな?すり合わせしてみよう」
「褒めて伸ばして欲しい」
「なんで皆いじめるんだ」
と暴れ馬になってしまうのだ。
こりゃ大変だと、様々な対策も打ってみた。
Aさん専用のマニュアルを作ったり、不文律を手順書に明言したり、仕事を同時に複数個与えないよう配慮したり、進捗を定期的に確認したり…それはもういろいろだ。
マニュアルより思い込み優先で動いたり、手順書の存在を忘れたり、やるべき事ではなくやりたいことを優先させてしまったり、進捗を確認しても「出来てます」と虚偽の報告をされる。
勿論そんな人には本当に簡単な仕事(もはや仕事とも呼べないレベルだが)しか任せられない。
いや実際にはコピーや掃除などの仕事すら満足に回せていない状態なのだが…
そんな状況でも、我々は諦めなかった。
閑散期には彼にもう一度仕事を教え直したり、誰かとグループを組んで共に仕事をしたり、打てる手は打っているつもりだった。
しかし、我々が耐えているのと同時に彼も我慢していたのだろう。遂にこう騒ぎ出した。
「なぜ仲間はずれにするんだ」
「なぜ皆自分を育てようとしてくれないんだ」
…恐ろしいことに、彼は自分は仕事ができる、もっと仕事を任せてもらえて当然だと思い込んでいたのだ。
ここまで来て、全員が彼を諦めた。もうお手上げなのだ。
今まで働いてきて人にネガティブな感情も抱いたことも無かったし、むしろいい人ばかりだ。
表には出さないが、もう、誰もAさんの話をまともに聞かない。
しかし既に何かを察したのか、もうAさんに確認をもらったり、助言を求めたり、仕事の説明をしてもらったりすることが無くなった。
悲しい話だ。しかしそれはそうだろう。
こちらがどれだけ寄り添ってももっともっとと強請り、自分は何も与えないどころか足を引っ張るのみ。
その癖自己愛や自己評価は高く、傷つきやすく、現実とのギャップを埋められるだけの能力もなければ、改善策も実行しない、考えることもしない。
そんなAさんの傍若無人っぷりは今も健在だ。
皆耐えている。社会人でいたいから、加害者になりたくないから、解雇する権利がないから。
なぜ我慢するのか?
発達障害者の面倒を見るために、重い体を引き摺って通勤している訳では無い。
我々はママでも介護士でも先生でもなければ、会社は学校でも就職支援センターでもない。
発達障害者の面倒を請け負って仕事を倍こなしても、給料も上がらなければ手当も出ない。
寧ろ、自分たちの1/5も仕事をしていない人間と同じ給料で働かされていると思うと、怒りすら湧いてくる。
もはや、Aさんを起点に部署全体がどんどん悪い方へ向かっているのだ。
分かっている。この状況はAさんにも我々のためにもならない。
もうAさんには直接言うべきだろう。
やりたいことと出来ることは違うと。
だってそんな簡単なことすら、発達障害者は分からないらしいのだ。
彼さえやめれば元の職場に戻るのに…と、心がどす黒いもので埋まっていく感覚は、何とも言い表せない不快感がある。
そして痛々しい位に、苛つく自分自身への自責の念と、怒りの感情の葛藤で追い込まれる。
もう耐えられないと。
私は同士であり、友人でもあった彼女を止めることなどできなかった。
Aさんが異動してきてから、私は嫌という程思い知った。
発達障害は甘くないと。
発達障害者と共にやっていけないという声が上がる度、その内容や考え方に怒る「発達障害擁護派」はちまたに溢れかえる。
お恥ずかしい話、私も当初は「発達障害者も平等に仕事が与えられるべき」と軽く考えていた。
だが今なら断言出来る。彼らは発達障害者のサポート・フォローに苦労した経験がないのだ。
こういった人達は、総じて私と立場が変わった瞬間に掌を返すだろう。
きっと誰だってこうなる。なぜなら人間は聖人じゃないのだから。
そもそも、同じ給料を貰う以上、極端に効率が悪い人がいると不満が出るのは自然な事だ。
特に私のケースでは、正社員として雇用された上で発達障害者のフォローを求めるところがそもそもおかしかったのだ。
健常者と働きたいなら、健常者と同じように雇われたなら、健常者と同じ効率や働きぶりを求められるのは当たり前だ。
勿論、ここで述べたような人間とは違う、もっとまともに働いていらっしゃる発達障害者の方もいらっしゃるのだろう。
そういった必死に努力している方の事は応援したいし、能力を適切な場所で発揮してもらいたいとも思う。
「勉強不足だ」
「悪気はないんだから許してあげて」
と叩かれることが往々にしてある。
そもそも、片方のみに負担を強いるその精神に異議を唱えたい。もはや異常だ。
これらの何がおかしいのかも分からないお花畑っぷりに、グロテスクさを感じる。
健常者だからという理由だけで、我々の人生がイージーモードだと思っているのだろうか?
なぜ健常者が理解を深めなければならないのか?
支援は当然だという声には、こういった反抗心すら覚える。
誰かに足を引っ張られた時に、無限に、穏便に手を差し伸べられるほどの余裕は無いのだ。
こう言ってはなんだが、生産性がマイナスの人間は働かずに生きれるよう、福祉をもっと充実させるべきだと思う。
普通の仕事をしなくても生活できるように社会的な補助が必要だ。
もしくは、フォローする人には別途手当を与えたり、給料を増額したりといった、メリットがあると思わせる程度の手当が必要になるだろう。
そちらの方が、発達障害者に取っても、我々にとっても、お互い適度な距離をとって友好的に接することができるのではないだろうか。
労働という効率や生産性を求められる場から離れれば、我々はもっと上手い付き合い方ができるのではないだろうか。
どうか、どうか。
我々を助けていただけないだろうか。
加害者になどなりたくはない、そして被害者にもなりたくないのだ。
https://archive.ph/2022.08.26-152931/https://note.com/tender_tulip463/n/n6bfa6436ae65
30年以上生きてきて学んだことは、この世は他人に迷惑をかけたもん勝ちだってこと。
小さい頃に学んだ、人様に迷惑をかけてはいけないって教え、あれは嘘っぱちだ。
現実世界では他人に迷惑をかけたって、よっぽどの犯罪でなければ処罰されることはない。
傍若無人で好き勝手に生きることで得られる解放感と、それによって被る不利益が明らかに釣り合っていない。
俺が中学生の時、学校は荒れていたが、先生たちは不良に媚びへつらってろくに注意しないくせに、真面目で大人しい生徒にはどうでもいいことで注意して憂さ晴らしをし、自分達の威厳を保っていた。
俺の家の近くでは頻繁に暴走族が夜中に爆音撒き散らかしているが一向に取り締まられることはない。
ペンは剣よりも強し、なんて言葉も安倍首相の事件で嘘っぱちであることが証明されてしまった。
清き一票なんかより一発の銃弾の方がよっぽど世界を変えられる。
オレオレ詐欺で大金稼いだって大した罪にならないし、人を1人殺したって滅多に死刑にならない。
ここで、じゃあ俺も犯罪犯そうっと、ってならないから俺はいつまでも弱者なんだろうな。
はあ。
「良くないことをした人にペナルティがあって欲しい、あるように制度設計すべきだ」というような思想に俺はあんまり共感しないが、
そういう思想を元に社会が成り立っているし、何が良くないことかに争いはあっても、良くないことにペナルティを与えること自体にあまり争いはないだろ。
誰かに不利益を与えたいという動機がダメっていうのなら、それは人間みんなが持ってる素朴な正義感や天罰応酬的な感情とどう区別をつけるの?
区別出来ないとは言わないけど、相当言葉を尽くして慎重にやる必要があるんじゃないの?
例えば表現の不自由展を批判したり脅迫したり連中について、俺は無知で愚かで許せないと思っているが、連中なりの正義感や道理に基づいて批判しているのだろうとは思っているよ。
実力行使や愉快犯は別として、批判そのものや動機が悪いとは思わない。
あと「少しでも監督にダメージがいくようにムーブメントを起こしましょう!とかいう善意()のやつ」もやっぱり少数派だと思うよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220924173730
あくまで交際相手を選ぶという一場面に限定して言えば、部落出身者かどうかで相手を選ぶのも別に差別じゃないでしょ
部落出身者と結婚する事によって自分や子供に不利益が及ぶのを避けたいから、合理的な選択として部落出身者との結婚を避ける
部落出身者かどうかを基準に交際相手を選ぶ事自体は何ら差別ではないけれど
その前提には差別がある
高身長の方が社会的に評価されやすい、出世しやすく金を稼ぎやすい、という傾向があるから
つまり差別をしているのは社会であって、交際相手を選んでいる人間ではない
リベラルとしては、外見だけでマイノリティが不利益を被るルッキズムは根絶したいし、本能的に生理的嫌悪感を受けた女性がとる忌避行動は擁護したい。
板挟みになる調整役がいつも困る。
警戒すべきは何も考えない人とメンタル絶不調な人だろ
何も考えない人(共感性や想像力に問題がある人)が何も考えず人を殺すとか、
残念ながらデスノートがなくても起きてる
殺人を犯したら殺人犯として収監されるので自分自身が不利益を被る・・・ここまでは理解が出来て思い留まることができても、
逮捕されないとなったら、鼻くそほじるくらいのノリでサクサクいくやろ
あとはメンタルが絶不調の人
間違っていないよな。本当、性自認とかいう西洋宗教滅んで欲しいわ
まぁお外では他人のアイデンティティを尊重するフリはするけどね
宗教滅んで欲しい😡と他人のアイデンティティを尊重するフリのバランスをとって言えば、
『あなたが妊婦であるという自認は尊重するが、肉体的に妊娠状態にない場合は、肉体的に妊娠状態にある人に席を譲って欲しい。
厳密には、「外見の美醜を判断せずに生きることはできない」が正しい。おそらく、人類の99.999%は、生きている内に心の内で他人を美醜で判断する。数字に根拠はない。99%かもしれないし、もっと低いかも。ルッキズムを批判してる人でさえ、それは多分否定しようがない。なお、これはルッキズムと異なる概念だとまず押さえてほしい。
すっげえ素朴な話、鼻毛切らないやつとか髪の毛の寝癖ひどくて頭のフォルムがおかしいやつ見て「なんだこいつ?」って思うの避けられないと思うんだよね。なぜなら、ルッキズムの根っこにある「美しいものがいい」の裏には「嫌いなのは醜いもの」がある筈で、それはおおよそ「醜いものは嫌い」と同質だから。完全に同じとは言わないが、嫌いと醜い、鶏と卵なので。
問題はさ、「みんな美しくあるべき」はうーんって思っても、「みんな醜くなるのは避けるべき」ってさ、すっげえ素朴な感情として「まあ、そうね」ってなっちゃうところ。
ルッキズムの一番ひどいパターンの、「美しさの理想像に合致しない存在は社会的に不利益を被る」みたいなやつ、これはまあ否定すべきなんだけど。この否定って極論「美しくないとされるような見た目をしてるやつは良くない」って価値観を反面で肯定しないといけないんだよ。
これさ、すっげえ難しくね?
前者はまだ否定できるんだよ、社会的には。社会的に不利益を与える規範は絶対によくない。デモ後者は無理。美醜における醜って、不衛生と漸近することが多いんだよ。髪の毛ぼさぼさって風呂入ってないってことじゃん。服が汚れてるって洗ってないってことじゃん。そういうのは生理的嫌悪感を惹起する。
生理的嫌悪感を許容できるかっていうと、理性的な頭では許容すべきってのは言えるかもしれないが、生理的な部分では無理じゃん。それを否定しきれない部分で、究極的にはルッキズムの根っこにある価値観からは逃れられないと思うんだよね。もちろん思考実験として「鼻毛ボーボボOKであるべき」は言えるけど、もっと生活に根ざした価値観としてOKって言えるかってことよ。
なお、この問題は男女関係なく発生しているからな。どっちも男女両方で発生してる問題だ。ただ、その不利益を被りやすいのは圧倒的に女性ってのは間違いない。この増田投稿してるのは男性だけど、男性の中でも何かしらある。自分はおそらく中の中から中の下、くらいだと思う見た目的には。女性の場合は「美しくあるべき」って+側への規範が、男性の場合は「醜くならないようにすべき(清潔であるべき)」って-側への規範が強いんじゃねえかなって思ってる。
だから、増田の意見としちゃ、社会制度としてはルッキズムは否定しなきゃいけない(見た目による差別は罰則を設けるなどの制度を設けるべき)、その反面でルッキズムを人間の感性からは除去できないんじゃないかなってところです。
じゃあどうすればいいかって? そんなのわからん。ただ、過度なルッキズムの否定はおそらく「生理的嫌悪感の許容」に少しずつ近づく(ように見える)ので、筋がよくないってのは前提に議論されねばならないと増田は思う。
(出てきそうな反論に先に返しておくと、国や文化が違えばルッキズムの尺度変わるって話はされても困るからな。アフリカのある部族じゃ男性は服着ない女性ではなく服着る女性に興奮するらしいんだけど、じゃあその例出されて反論されても、お前じゃあ女性は服着ないでもOKであるべきって友人知人家族の前で言えるのかって話よ。言える人もいるかもしれんが社会的にはおそらく狂人なんよ。もうちょい生活に根ざした反論を頼む)
客に性的暴行か、宿泊施設の経営者を逮捕 酒などに薬物混ぜた可能性
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f803691273326deae6b859e1b42e198d09ef4f8
こう言うバカとかさ、真面目に生きてる男としても迷惑でしかなくてさ
殺すのは可哀想だから足枷でもつけて死ぬまで刑務所で働かせるとかそう言うので良くない?
環境も劣悪で良い
人権守るために真面目な人間が何かと謂れのない不利益を被るのって本末転倒だと思うんだよね
人権が最上位じゃなくてさ、頑張って真面目に生きてる人間が報われるようにしてくれよ
ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会を構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である。
違います。政治的に正しいかどうかです。今のポリコレはどこの政治かというとアメリカの極左の政治です。昔はそれぞれの国でポリコレがあってユダヤ迫害はポリコレとされた。
私は「ポリコレ嫌い」が苦手だ。
私と似た観測範囲を持つ人はこの一文で過不足なく伝わるであろうが、もう少しだけこの背景を共有したい。
ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会を構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である。
なるべく多様な人を包摂するような視野で表現しようということだ。
どういうわけかこの「ポリコレ」はいわゆる「オタク」と呼ばれる人たちにおよそ蛇蝎のごとく嫌われている。
何のオタクか?と問われると明瞭な回答を与えることができないのが歯がゆいが、おそらくアニメ・ゲーム・映画等に関心を持っていて、積極的にソーシャルメディアで語り合う人たちと言ってもいいかもしれない。
そして、私はこの「オタク」による「ポリコレ」の嫌いかたが苦手なのだ。
その嫌いようといったらまるで「ポリコレは倒すべき外敵、屈してはいけない」というような具合なのである。
マイノリティの属性を持つキャラクターが登場すると「出たよポリコレ」。
ポリティカル・コレクトネスが無謬の理念であるとは言わないし、理念の実装にあたってプラクティカルな問題が起こり得ないとも言わない。
極端な話ではあるが、例えば「日本の田舎の中学校」を描く作品にアフリカ系日本人と中国系日本人とヨーロッパ系日本人とアイヌ民族と琉球民族と大和民族の全てを出演させなければポリティカルにインコレクトであるとするような言説は、私の感覚では受け入れがたい(し、皆さんもそう感じるのではないかと思う)。
けれども、私の目に映る「ポリコレ嫌い」の批判はそういうことではないようなのだ。
私には「マイノリティが描写されること自体からポリコレを連想して、それに敵愾心を燃やしている」ように見えてならない。
先ほど挙げた「マイノリティを描かなければならない」という理念とは対象的に、「マイノリティを描いてはならない」という理念にすら映る。
おそらく私は、「ポリコレ」という「倒すべき外敵」に抱かれる敵愾心と、それに対する無自覚が苦手なのだと思う。
無邪気に使われる「ポリコレに屈した」という表現にも「負けてはいけない外敵に負け折れてしまった」という含意があり、屈折した被害者意識を感じてしまう。
ポリティカル・コレクトネスと向き合うことを避け、漠然とした怒りの感情を「ポリコレ」に仮託していると感じてしまう。
とにかく、鬱屈としているのだ。
改めて明言したいが、ポリティカル・コレクトネスというのは上でも述べた通り無謬の理念ではないと思う。
しかし、誰もがその属性によって必要以上に傷付けられない表現を目指すという素朴な理念自体は間違ったものではないだろう。
実装にあたって様々な問題が起こってしまう理念自体を陶冶していくためにも、我々はポリティカル・コレクトネスから顔を背けず向き合うべきなのではないだろうか。