はてなキーワード: ポリティカルとは
面白いと思った。
個人的なことは政治的なこと(The personal is political)っていうスローガンは60年代の初期フェミニズムの文脈において、個人的なことが政治的にあつかわれて"なかった"時に有効だった。
社会科学(とそれと相互に依拠しているリベラル思想)は、そういう情勢に反発して、それまでパーソナルだと思われてきた事実がどれほどポリティカルかを語り、論証してきた。あたりまえだけど、社会っていうのはパーソナルな人たちによって構成されているので、パーソナルな事実をポリティカルな構造に関係していると示すのは、難しくなかったはず。今では古典の一部になった社会科学理論によって、パーソナルなことはまさにポリティカルであることが今では自明とされている。
いや、そこで、お前の疑問というか、痛みね。
個人的なことが政治的なことになったら、個人はそりゃ幸福から遠ざかるわな。
そういう視点は、確かにリベラル思想には欠けていると思う。今でもそうだ。
リベラリズムは、個人の幸せを得ようとしていたのに、かえってフーコーの言うところの生権力による支配を、むしろ強力に推し進めてきたのだと言える。
そういう状態に対するバックラッシュっていうのは、これまで無かった訳じゃあないけれども(携帯をわざと持たないことが一部でもてはやされるなど)、今後もっと広く強力になっていくのかもしれないな。だって辛さのほうが強力になっているもの。増田ですら、頻繁に、リベラリズムがむしろ人の自由を縛ってくる、それがうざい、ということが言われている。世界全体で見たときにも、リベラリズムの今の衰退についても、原因の一端ぐらいにはなっているのかも。
なんもかんも正しくあろうとするの疲れるよ。
正直自分が世の中の甘い面しかみていないからこう考えてしまうのだろうけども。
やれ差別だやれ蔑視だのもううるさいなあ。岡村さんのやつもそう。わざわざ叩きに行く必要もあるめえ。これを書き記している時点で僕も同じ穴のムジナだけど、どうしても言いたい。
深夜ラジオまで荒らさないでくれ。これ以上ポリティカルにコレクトではない人を叩きのめすのはやめてくれ。
俺は岡村さんのラジオは聴いたことがない。夜に強い方でもないので深夜ラジオをそんな頻度で聴くわけでもない。だから思い入れが強いわけじゃない。
でも、なんだろうか。「人の不幸をだしにして」「女性への蔑視」という批判をめちゃくちゃ見たけど深夜ラジオってそんなもんじゃないの?それとも俺の価値観が古いのか?
夜中の居酒屋とかそんなノリのもんだと俺は思ってたのね。酒飲んでぐでんぐでんに酔っ払った状態でのアホらしいけど愉快な時間。そんなところに倫理観とか求めるか?
アジア人はガチの被差別階級なのでポリコレパワーすら弱い 黒人の方が強い
LGBTの中でも最強の属性 LGBを倒せる稀有な存在 ただトランス女性にするかトランス男性にするかは難しいところ 身体的に女性の方が強そうだからトランス男性ってことにした方が良いか?
本人の性能を落としてしまう諸刃の剣だが、ポリティカル・ストレングスを高めるには必須 アスペルガーとかだと傀儡にするしかなくなりそうなのでADHDあたりが無難か
思考能力に何ら影響を与えずにパワーを強化できるお得な属性 ポリコレ力を極限まで高めるなら全盲+四肢欠損くらいが良いか
上の条件を満たしつつこれになるのはかなり難しそう(四肢欠損者をレイプする鬼畜はそうそういなそう)だが、あると嬉しい属性 身体障害を腕一本くらいに抑えてこっちを取るのもアリか
今回のコロナの一端で分かった、やっぱり(今の)自民党はダメだと。
まあ、定型文な言い回しだけど、恥の多い人生を送って来ましたよ、この三十年。政治とかよく分からないまま、特にどの政党にも投票することもなくのらりくらりとそれなりに上手くやって来たけど、やっぱり今回のことで思ったのは俺たちみたいな若い人間がもっと政治について興味を持って活動していれば日本はもっとよくなっていたかもしれないし、コロナに関する問題もここまで大きくならなかったってことだ。
政治バカだから詳しくはパッと出て来ないが、専門家の意見を聞かずに思いつきで政策進めるとか、友達(政治献金してる人?)優先で政策進めてるとかさ。ありえないよな。ポリティカル・ステマとか言われる懸念があるから政党名は出さないけど、ちゃんと批判してる政党はまともだなって思う。
まあ、とりあえずさ、後世のために記録に残そうぜ。
おれ達日本人、行動力ないじゃん?こんな状況でもデモしないじゃん?人前で自分の意見言うことすら、恥ずかしいじゃん?だからさ、みんなで今回の安倍政権がどこでどうダメだったのか、せめてネットの上だけにでも記録にしてまとめようぜ。そのまとめが後世に伝われば良しだし、今この世界に拡散されればなお良しじゃん?それでみんなの意識が変わればって思う。。。
でも、俺たちの行動次第では真冬が三年続くかもしれないし、五年十年続くかもしれない。下手したら真冬が終わっても冬がずっと続くのかもしれない。でも、春を手に入れたいなら行動するしかないと思ってる。現在の政権に対して、まずは噛み付くしかないと思ってる。だからこそ、こんな駄文をこんな夜中になってまで酒の勢いに任せてまで書いてる(ストロング0ではない。ムートンの2011年だ)。
ということで、増田の皆さんには3日やる。その間に、今回の政権の采配がどうダメだったのか、皆の思うところを書いて欲しい。4日後におれが後世に残るようにまとめる(気が変わったらごめん。その時は誰か頼むわ!)。いいか、増田、3日だ。その間に、将来に伝えるべき話をコメントして欲しい。
いいか、良く聞け。過去の話ってのは今につながる過程だ、だが今は、未来に繋がる糧だ。今どうするかで全ては変わる。お前の意思と行動で、未来は変えられるんだよ。
待ってるぜ、Cheers♪
俺は蒸し暑い日本に胴長短足顔ブサイクの黄色人種として生まれ、「精神論に囚われてばっかり」で「古臭い価値観が蔓延し」、「ジェンダーギャップがひどくて女にとって地獄」の社会で育った結果そういう価値観を内面化しちゃったわけだ
あと「教育システムが時代遅れ」だから全然批判的思考ができないし、意見を発信するのも苦手、精神的に未熟
GDPなんかは全体的に落ち目で、自殺率も高くて幸福度も低いし、労働生産性も先進国とはいえないような数値
それに比べてノルウェーとかフィンランドに生まれた奴らは全然ちがう
高身長白人(個人差があるとはいえ)だし、素敵で先進的な教育システムのなかで育ってるからバリバリクリエイティブな意見が出せて、ジェンダー平等の概念を幼少期から学んでるんでポリティカルにコレクトな行動を本心から取れる 俺が後天的に学んで内心ムカつきながら表面上だけ取り繕うのとは違う
そういう恵まれた環境に生まれたやつらが素晴らしい現代的な人々として持て囃されてるのを見るとはらわたが煮えくりかえるような気分になる
俺だって北欧に生まれてたら先進的だったんだよ 社会に不満もなかった 運がよかっただけの人間になんでデカイ顔されないといけないんだ
ーー
(追記)
でも梅雨がないから… 俺は湿気をめちゃくちゃ嫌うので(布団が2回カビてまじで嫌になった)日本の気候が嫌いだけどその辺は完全に人によりそう
あとクルマとサウナとビールくらい娯楽があったら充分じゃない?俺はインドア派なのでゲームと音楽と映画とネットと読書くらいできれば文句なし マイサマーカーはちょっと気になるけどパソコンが低スペックだからできない
メタルかっこいいとはボンヤリ思うんだけどハマり方がわからん どうやってハマったらいいんだろう
これマジで便利で、地理のテストとかで北欧が出てきたときいつも思い出してた
お前は金持ちに生まれたくないのか?匿名ダイアリーの愚痴に生産性を求めるな!
なんかそういう余裕?憐み?みたいな態度が逆にムカつくんだよなあ(僻み)
だよね
かなり好き
俺は実際顔がデカくて普通サイズのヘルメットが入らなかったりするのでドキッとした
あれどうやって食うのが正解なの?喜んで食える人類がいるっていうのが信じがたい
俺は表現の自由戦士なので
抗議するのも自由だと思うからこの投稿もそれはそれで良いと思う
そして擁護するのも自由なので「異種族レビュアーズ」を擁護させてもらう
俺は表現の自由戦士なので
表現活動とそれを見るのが大好きだ
俺の評価基準は政治的に正しいか、誰かを傷つけない表現であるかではない
表現として納得できるかどうかだ
まあ、納得できない表現もなくせとは思っていないが
具体的には
そして変節するならそれなりの理由があることだ
大した理由もないのに主人公を好きになり奉仕する女キャラが嫌いなのは、ポリティカルにコレクトでないからではなく、キャラクターとして人格が感じられないからだ
他にもあるが、今回関係するのはそのあたりだ
そのような意味で今回のことは「風俗通いが趣味のオッサンの視線として」納得できる表現だと俺は思う
現代の常識的な感覚で言えば嫌悪されるようなキャラであり、こいつらふざけんな、と思うのも正しいだろう
でも妙にゲイに理解があるほうが俺は違和感を覚えるだろうな。もちろん見せ方しだいだが
とはいえみな性に貪欲なので、お尻をほじられるのも悪くないな!となったり
クリムきゅんが可愛すぎてムラムラするので男も女も関係ないぜ!となる可能性もある
それでも同性「愛」、というよりは性欲や快楽の観点からいくのが「レビュアーズ」のテーマであり
それもまた人間の一面の真理であろうと俺は思う
いや問題点はエロかどうかですらなく、自分が不快なのでなんとかやり込めてしまいたい、そういう対象にポリコレと思しき今一番硬直してる何かの価値観を棒状にしてぶっ叩いてやろうという事なのではないのですか。
エロですら芸術というかアートと放言すれば不快感勢をアートポリティカル棒でズンズンとコレクトネスする事ができる現状がありますよね。
自分の歩く道に犬の糞と思しき他人の権利を見つけると私様の出歩く公共に相応しくないので犬は死ねとおっしゃる。
私様の人権をもって他人の生産性という人権よりは一つ格下の項目を攻撃する事によって犬の生命線を断つ補給線破壊作戦に、私様が「私が死んでもいいと言うの?人権は?」と自殺を引き合いに自爆テロにて訴え出られる事についてどう対処すべきかという議論が必要なのではないでしょうか。
だいたい「専門家に対する素人感覚の優越」なんて図を求めたの左派の皆さんだしなあ
専門家の言う通り金をジャブジャブつぎ込むことに対する弊害があったのはたぶんある程度事実だし、まあそれ自体はわかるんだけど
現代アートの発展に公金投入が必要、さらにはある種のエリート主義が必要というのも認めるが、現代の民主主義でそれが受け入れられるとは思わない。
アートだけ「税金よこせ、でも素人には分からないんだから庶民、役所、政治家の文句は一切聞かない」という聖域的立場を得ることが許容されるとは思えない。
温泉に行ったぐらいで首長をクビになるぐらい税金の扱いはウルさいというのに、アートだけなぜ?と言われるのが現実ではないか。
私個人はボーナスで作品を買う程度には現代アート好きだが、それでも現代アートはハイコンテクストすぎて国民的理解を得るのは不可能だと思っている。
税金は基本的にわかりやすいものにしかつけられないものなので、本質的に現代アートと民主主義は相性が悪いのだと思う。
もしタウンミーティングなどで直接民主主義的に作品を一つ一つ審査したら、現代アート、ましてやポリティカルアートなんてまず予算通らないだろう。
こういう話はMOTのリキテンシュタイン購入なんかでもあって、今までも薄氷を踏んでいたところがあった。それがいよいよ本当に破れてしまったのがあいトリだと思っている。
アーティストや美大教員なんかと話しているといつも思うのだが、アート業界の人は現代アートがどれほど好かれて「いない」のかの自覚が弱い。
結構な年のアーティストが「業界外の人と飲みに行ったらあまりにアートに理解がなくて傷ついた」みたいなことを言っていたりする。
興味ない人なんてそんなもんでしょう?と私が言うと「アートは絶対に正しく素晴らしいモノであり、わからない人は無知か騙されているんだ」といったイスラム原理主義者のような返事が返ってくる。
私からすれば、現代アートなんて変なガラクタをありがたがっている裸の王様みたいに思っているのが多数派だと思うのだが、彼らにその自覚はないらしい。
無理解の人間が多数派なのだから、アート業界はその意義を相当戦略的に説明しないといけないし、それでも徒労に終わることはある程度覚悟しないといけないと思っている(私は後者)。
だがそういった認識は極めて弱く、業界内の内輪に引きこもり、あいトリみたい事案が起きれば活動家まがいに騒ぐだけ。粘り強く合意形成を目指すことはなく、熱が冷めたらうやむやになって終わり。
アーティストは左翼が多い業界のはずなのに、アート好きとばかり固まり「多様性」がないし、アートに興味ない人と「対話」や「共生」する気はないように見える。
彼らの言う「民主主義」とか一体何なんだろうか?本当は民主主義とかどうでもよくて、単にアート至上主義の人間だけが集まり独裁する社会を望んでいるだけなのでは?と感じている。
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。