はてなキーワード: アクセス数とは
最近、はてな内でインターネット老人会やおい腐女子部の方が過去を振り返っていたので、それに関連して無断リンク禁止からリンクフリーへ至った足跡を記憶を振り返りながら記そうと思う。
ただし、当該エントリのリアクションでも触れられている通り、まだまだ規模が小さかったとは言え個人視点で見れば広大なインターネットの全てを捕捉するのは難しく微妙に個人間で差異があるものと思われる。
違いがあれば私はこうだったと教えてもらえると更におもしろくなるかも知れない。
さて、若者の皆さんはインターネットのオンラインコミュニティではその当初「実名文化」であったことをご存知だろうか?
実名文化となった要因は様々あると考えられるけど、大きく影響を示した要因の1つは「JUNET」であると言われれば、まぁ納得はするのではないだろうか。少なくとも影響ゼロではないだろうなと。
JUNETは学術系ネットワークで、その主要コンテンツは今日における電子掲示板群と非常に似通ったものがあり、つまりは話題カテゴリごとに整理されたページが存在したのだ。
建前上、JUNETはごく真面目な学術系ネットワークだったので書き込みの責任は個々人にあり、書き込みへ責任持ってもらうため実名制が取られていたとされる。
電子掲示板群で「である」調の文体もJUNETで使われていた文体であり、由来は論文に使われていた文体なのだ。
まぁ実名であっても責任?なにそれ?みたいな感じで至るところへ噛み付いたり、唐突にまったく脈絡なく関係のない話をはじめ、それを指摘され叱られたら逆ギレして大暴れする抜き身のナイフみたいな方が居たんだが・・・そのことについては別の機会に。
えっソイツどうなったかって?今でもTwitterで元気に至るところへ噛み付いてレスバしてるけど?
私の年甲斐もなく落ち着かない性分はなかなかだと自覚してるが彼女には負ける。私はそろそろ落ち着かないとと思ってるがキミはそのままで良いと思うよ。
まぁそんなこんなで日本のインターネットはその当初実名文化であり、TCP/IPやWWWがデファクトスタンダードとなりWindows 95が社会現象になるほど売れた時代、ホームページ開設ブームなんてものがあった。
まぁブームと言っても現在に比べればまだまだ小規模のものではあったが、個人が自宅からウェブへアクセスし、何ならウェブサイトを公開するというのは中々に特別感があったのだ。
そのホームページ開設ブーム期のホームページは実名文化の影響下にあり、住所から氏名、電話番号、家族構成、勤め先などなどを載せているホームページが数多く存在した。現代の個人情報保護の感覚からすると実におおらかと言える。
言ってみれば、その当時のホームページは後の時代に登場する「前略プロフィール」みたいなものだったのである。
書いてある内容も個人の日記帳、しかも実像へかなり近い個人の日記帳のようなものであった。実名で交友関係がわかったし、ホームページの管理者が学生であれば甘酸っぱい恋の悩みとかを隠すこともなく実名で書いていた。
この当時のホームページはあまりにもリアルすぎる個人情報の塊であり「ホームページの管理者が広く公開していないURLを無断で他所に転載することはネチケットに反していた」という古の文言を現代で記すこととなる。
現代の感覚からしてみると「広く公開していないURLって何なんだよ」と言いたくなるし、情報技術者から見れば「ローカルにDNSサーバでも立てたのかな?プライベートIPアドレスならば個人利用だと事実上無限みたいなもんだ」と広く公開していないプライベートなURLの可能性を探り始めるが、当時の人の感覚からするとインターネットなんてドマイナーなのでインターネットを使ってる時点で隠しているつもりだったのだ。
実にバカバカしいと現代人は感じるかも知れないが当時の大半のインターネットユーザは至って真面目に本気でそう考えていた。
例えば過去の時代、NTTはハローページという個人の電話番号を膨大に載せていた冊子を発行していた。
この個人情報は公開情報であるが、電話番号所有者に無断で何ら関係しない他所へ公開した場合、倫理的に問題ないか?と言われれば現代人でも問題と感じるはずだ。現代では特殊詐欺とかあるしね。
じゃあ何でNTTはそんなもん発行していたのか?と言えば、当時の電話番号を取得するには加入権というものが必要であり、加入権は金融商品としての側面を持っていたことから、ハローページへ記載されているということはNTTがその個人の信用をある意味で担保しているという判定が得られることがあったのだ。
まぁつまり電話番号すら持ってないヤツは信用ならんから取引しないという考え方がマジで存在したんだ。
現代の、それこそ若者の感覚からするとNVNOで気軽に電話番号を入手できてしまう今では考えられない価値観だ。
ちなみに加入権の反動からか約20年前に契約書すら必要のないプリペイド携帯電話で詐欺が横行するっていう失敗があったので約20年前が最も電話番号の価値は低かった。
まぁそんなこんなで、URLは公開情報であっても勝手に使うのはダメなんだ、URL無断転載禁止なんだ、無断リンク禁止なんだという価値観の時代は存在したが、それが急速に失われて「リンクフリー」が台頭する時代が来る。
リンクフリーが何故一気に広まったのか?と言えば「Yahoo!」が日本国内で営業開始したからであった。
当時のYahoo!はディレクトリ型と呼ばれるウェブ検索エンジン方式で、これはハローページなどと同様に人力でURL情報を収集して掲載するという形のウェブ検索エンジンだった。
掲載されるには審査が必要で、Yahoo!に掲載されるということはウェブサイトへ一定の価値と信用を与えてくれるものだった。まるで本当にハローページみたいだ。
この価値が失われるのは「Google」がロボット型と呼ばれるウェブ検索エンジンを開発したからであったが、リンクフリーはGoogleが登場する前から使われ始めている。
リンクフリーはYahoo!が登場したからだけでは実は説明しきれず、Yahoo!が人気サイトをランキング形式で掲載するようになったからというのが実際の答えである。
人気ランキングが存在するようになると競争が生まれる、当時のウェブサイトにおいてはアクセス数(≠ユニークユーザ数)こそが人気の指標であり、URL無断転載禁止・無断リンク禁止のスローガンはこの人気争いの中で邪魔になっていった。
そして同時にインターネット芸人みたいな人たちも続々と登場するようになり、個人の赤裸々な情報が詰まった日記帳のようなホームページは段々と廃れていき、匿名のインターネット芸人が笑い話やお涙話で人気を集めるようになった。
そうつまり「テキストサイトブーム」の到来である。
テキストサイトの思い出についてはこのエントリを読むインターネットユニークユーザ諸氏の方が詳しいしバラエイティに富んでいると思われるので任せた。
ディレクトリ型ウェブ検索Yahoo!の登場は別にテキストサイトだけへ影響を及ぼしたわけでなく、2ちゃんねるの元になった電子掲示板群「あめぞう」の前身である「あめぞうリンク」は「リンクサイト」と呼ばれる種別のウェブサイトであった。
そのほか後年にはリンクサイトの発展型である「ランキングサイト」も登場しており、ここまで来るともはや牧歌的なインターネットなど想像も付かないような喧騒が起きるようになり、更に現代では当時を喧騒と表現しても良いのか迷う程度に現代インターネットは闘争本能が強すぎる人たちが多く生息している。
アーマードコアの新作発表されたしそっちでやれよ。
URL無断転載禁止・無断リンク禁止派の最後の抵抗はやはりGoogleによるクローリングだろう。
前述したロボット型と呼ばれるウェブ検索エンジンはウェブページからウェブページへのページリンクを自動的に収集するというもので、人力で登録していたYahoo!よりも収集効率が物凄く高かった。
しかし自動で収集するからこそウェブサイト管理者からすると謎のアクセスが急激に増え、何なら当時「Google」という単語など知る由もなかったので特にリンクを多く持っていたウェブサイト管理者からするとDDoSアタックか?と疑念を抱かせる程度には迷惑千万だった。
もちろん静かに仲間内だけで楽しんでいるようなウェブサイト管理者としても急にアクセスが増えることは不快感でしかなく、Googleの人気が増えていくに連れてリンクされない権利を求めるユーザもまた増えていったのだ。
この件であまりにも叩かれすぎたGoogleはウェブ検索エンジンの検索結果に記載されない「noindex」という施策を取ることとなり現代でも運用されている。
ただしこのnoindex、性善説で運用されておりウェブクローリングする側がnoindexを無視すりゃ普通にクローリングできるので完璧な解決手段ではない。
まぁこんな感じでテキストサイトあたりから日本のインターネットは匿名文化へ傾倒するようになりリンクフリーが一般的になっていったのだ。何ならリンクフリーって言葉すら見なくなる程度にはリンクフリーが当たり前の価値観であるインターネットになった。
そう言えば、はてなブックマークでも無断リンク禁止、勝手にウェブブックマークするなという意見が取り沙汰されたこともあったが、その辺の思い出話はブクマカのほうがよく記憶しているだろうし任せた。
例えば詳しく調べたり、論点を整理したり、体系立てたりするのは、長期的には必要なことだがされないか、他の物に埋もれる。
少なくとも日本経済を上向きにするだけの力はなかった(政府が何もしなくてもネットで出てくる新しい物で経済全体のパイは増えなかった)
ネットで何らかのニュースの記事を見る時に、下卑たゴシップみたいな記事のアクセス数を増やしたくない(でも見たい!)という場合、記事のリンクを踏まずに5ちゃんのニュース系の掲示板に行ってそのニュースを扱ってるスレを探し大筋の内容を知る。(スレに記事の内容がそのままコピペされてる場合もあり、それはそれで問題があるが。)
まあ下卑たゴシップというのは半分冗談としても、アクセス数を増やすことで二次被害が懸念されるような踏むのを躊躇してしまうシリアスなニュース記事などでもとりあえず使える手法だ。
正確に言うと、今月に入ってにじさんじとホロライブの記事が更新されなくなったまとめサイトがいくつかある。
どれもシニカルな内容に定評があり、それなりにアクセス数も稼いでいたっぽい所ばっかり。
サイトによっては管理人がこんな遺言めいた書き込みを残していたり。
**は死にました。
お察しの通りです。
ご自由にどうぞ。
要するにこれ、
「その気になれば名誉毀損なり業務妨害なりでいつでもお前を訴えられるけど、来月からもうしませんと言うなら取り下げてやるよ」
と、えにから(にじ運営)とカバー(ホロ運営)から別個にあるいは共同で通告されたとかなのかね?
なんでどいつもこいつも皆怯えてるんだよ情けねえ。
少しは文春の爪の垢煎じて飲めよ。
半導体に関しては、
昔、半導体に関わっていてメディアに移動した人でも、国内半導体に対してずっとダメだしの記事しか書かないことが多い。
「税金つぎ込むのは馬鹿げている」というのは誰でも思いつくものだし、日米貿易摩擦といった過去の話を繰り返すなど、
報道をいくら調べても、戦略を立てるのに役に立たない。ネットの暗黙知も役に立たない。
半導体に関わった人でも、分業体制なので、一従事者から見た範囲の出来事でしかない。
ゴール決めて、「人・金・物」が足りてるかが抜けてるように感じてならない。
あと1つの原因に絞りたがるというのもある。
特にナマモノ(現実にいる人を扱った二次創作)BL界隈等からよく聞こえてくる
「公式の目に入らないように隠れるのが大事(=隠れてればOK)」
って文化が、理屈が、処理プロセスが、正当化方法が、以前から疑問。
よく聞く「どうやってもどうせ届いちゃうだろ」的な批判もあるけどそれは今回は置いといて
この「隠れる」の先にあるものというか、上手く表現しづらいけど、その「隠れた先にある空間」って、どんくらいの規模感なのよってのをいつも思ってしまう。
20年30年前の学生がこっそり友達数人と妄想マンガ書いたノート回し合ってたのとは違うことが起きてるわけじゃない?今の時代って。
公式タグを使わず〜とか、いや関係者はブロックして〜とか、いや鍵までかけて〜とか、まあ色々段階はあるけど、そこへのアクセス数はどれくらいあるのよ?って思っちゃう。上の話みたいな、友達とちょっといけないことやってる的な規模じゃすまないよね?
隠れた先に何十人何百人居て、その人達に見せびらかしても「隠れてる」なの?OKなの?
というか実際何十人何百人ですめばマシな方だよね?
これを、我々は隠れてます!だからOKです!って処理する認知ってなんかぶっ壊れてない?って思っちゃうんだよな。
自分が同じことされたら、仮に自分に見えないようになってたとしても
「いや確かに直接来ないぶんマシかもだけど…いやでもしんどいのそこだけじゃないから…」みたいになる人の方が多数派な気がするんだよな。
「感動を与えてやるからお前らの税金じゃぶじゃぶ使うけどいいよね(ポッケ入れ入れ)」してる連中に対して言うべき言葉だろ。
それをアスリートに対して言ってる姿を発信するってのが露骨にパフォーマンスに過ぎるわ。
たとえば鉄道オタクが鉄道オタク同士で「鉄道オタクは鉄道の歴史を残すために撮影をしているんじゃない!自分の感動を残すためにやってるんだ!」と言ってそれを「感動した」「気付かされる」「うーむ」「学びがある」と共有してアクセス数集めてても滑稽なだけだろ。
お前ら鉄道の歴史を残すためにやっているという大義名分さえ無くしてるならいよいよ迷惑行為を繰り返す言い訳がゼロになるけど、それはどうするつもりなんだよっていう。
これが感動なら、それこそ盗撮者が「俺たちはインターネットにばら撒くために盗撮してるんじゃない!まず自分のオナニーのためだろ!」とか言ってたとしても「わかる」「正しい」「コイツは信用できる」ってなるでしょ。
たとえそれで金稼ぎや自己顕示欲満たしをする気がなくても盗撮してる時点でもう完全にアウトなんだから、どの面下げて正義を語っているんだと。
あのさ、オリンピックってのは既に多くの被害を起こしてるんだよ。
突貫工事のせいで世界中で問題が起きてるし、コロナ蔓延のリスクを開催地に背負わせてる。
税金は大量に投入されるけど、それによって齎される経済効果で国民のもとに生まれるリターンは払った分に全然足りてない。
一部の富裕層だけが更に私腹を肥やすために「感動」という言葉を利用して、利己的なアスリート達が我が身可愛さのために彼らの手伝いを躊躇せずに実行してることが問題なわけ。
そこで今になって「別に感動させるためにやってないけど?」ってのはどうなん?
でも結局またオリンピック開こうとして、それで税金使いまくって開催されたのに乗っかった時に「え?勝手にやってくれたから出るだけだけど?感動?は?自分のためだよ?」って態度をまた取るのか?
ほんまいい加減にせえよ。
「感動」の旗印で興味ない人間の財布にまで間接的に手を突っ込む行為に加担することを選んでおいて、いざとなったらトンズラとか2chみたいな事平気でやりやがるね本当。
ひろゆきを崇拝してそう。
六次の隔たりなんてのが有名な理論になってるのが癪だ。その理論作った人の今頃の承認欲求の満たされ具合を思うとね。
あんなん下手したら本質的に同じような発想は小学生でも過去に思いついてた奴いるだろ。
4桁の素数同士のかけ算は小学生でもできるけど、そのかけられた結果を元の二つの素数に戻すのは東大生でも難しい、という事実も小学生でも気づけそうなことなんだよな。
ようはどの媒体に発表したかってことなんだろ。発表した媒体が幸運だっただけ。
はじめてのお披露目が増田だったら見向きもされてなかったんじゃねーの?
それは、上記のものとは全く毛色は違うけど、ブロックチェーンやABC予想の証明でさえもな。
でも増田で発表したものであろうが等しくグーグル検索にはひっかかるようにはなるのだし、やっぱり価値ある画期的な(←ここ重要)理論は自然とアクセス数が伸びいってついにはより一般的な検索ワードで検索した場合でも上位に表示されるようになっていって有名になっていくって感じなのかな。
仕事辞めたいと思ってる。
もうこの職場いても技術が身に付く気がしないし、なんだったら職場自体なくなりそう。
斜陽業界の自社サイトよりも、自分のやってるWebサイトやSNS育てる方がよっぽど伸びる気がする。
会社のサイトとかSNSより自分でやってるヤツの方がアクセス数もフォロワー数も多いし。
でも、ゆるゆると仕事できる環境は惜しいし、職場もいい人ばっかり。
でももう会社はコロナで存続が危ういくらいだし、どんなに頑張ったって給料は上がらない。
頑張る意味が見いだせない。
もう仕事やめるって言った方が良いんだろうけど言えなくてずっとグルグルしてる。
そして一番イケてないのは、夫にも行きつけのバーにも「こんな会社終わりだ」だの当たり散らしてること。
自分でもクソだと思うけど、グルグルしてる状態をこうやって発散してなんとか保ってる。
夫は、愚痴を聞くのが嫌いだ。
私もそう思う。
でも、私の場合、なにか大きな決断をするときは、まわりに愚痴ったり、酒飲んだり頭グルグルしないと決断できない。
60代の社長からしたらwebの仕事してる私は「何やってるのか分からない」らしく、辞めたら喜ばれるんじゃないだろうかと思うとこれもまた悔しい。
私の仕事はある程度ブラックボックス化して「私しかできない仕事やってる感」を醸し出しているので、私が去った後、みんなが私の事求めてくれたらいいなあ、なんて思ったりして。
ある程度いいタイムを出すと、その一か月後とかに「ゆっくり動画」でRTAで新記録!みたいな動画を作る人がいる。
ゆっくり解説動画というのはリアルタイムでもなんでもないので、ズルはし放題である。
自分は卑怯者になりたくないので、必ずYouTube LiveなりTwitchで生放送したものをアーカイブ動画として上げている。
しかし、世の中はそんな人ばかりでなく、偽物のズルRTA動画を作り、
大量のバイトを雇ってアクセス数を伸ばす、というような、およそ想像もつかないレベルの卑怯者がいると知った。
「そんなことをして気持ちいいのだろうか?達成感はあるのだろうか。」と普通の人なら思うところだろう。
しかし、世の中には「本当の勝負による達成感」より、「ズルしてでも勝ったことにする達成感」を重視する人が一定数いることを知った。
これは「なんでウイグル人の臓器を抜くの?」「人の不幸で幸せになれるわけないじゃん」
といった、基本的かつ常識的な問いを超越したところにあると思う。
「邪悪の信奉」という価値観は、肌の色のようなもので、生まれ変わらないと変更できないのだろう。
だからそういう人は、入れ墨を入れたりして後戻りできないように自分を追い込むのかもしれない。
ブログをやってて、そこそこアクセス数稼げてる。月10万アクセスだから多分バズったっていっていいと思う。
内容は結構踏み込んでいて「Aと思われていた事象を精査したら、実際はBだった!」みたいな感じ。手間と時間をかけてしそこそこ高い評価も貰えてる。
そんな内容だからよくTwitterで引用されるんだが、それを観察しているとどうも変なんだ。
「AはAですよね。こういうソースありますし」といって俺のブログを貼り付ける。でもその記事はAを否定して、実はBなんだ、って言ってる内容なんだぜ? いったい何をおもって俺のブログを貼ったんだ?
もしかしてみんな、俺の記事内容なんて全然読んでないのか? 適当に「そういえばAって話題あったよね! ソースも一応貼っておこう! 検索して一番上に出たブログはっておこ!」って具合に。
じゃあ俺の10万アクセスって数字には、何の意味もないのか? 読んでもない、ただアクセスしてURL貼り付けるためだけのもので、その中に書いてある内容なんて、誰も、誰も読んでないのか? 俺はそんな無意味なことに手間と時間をかけていたのか? 俺に高評価をくれてる人たちは、本当はごくごく少数でしかなかったのか?