はてなキーワード: らするとは
仕事を終えて家に帰ると待っていてくれる存在がいてくれるのは幸せなことだ。彼女と食卓をともにし、一緒に眠る。満たされた日々だ。
彼女を迎えてから、就寝前と起床後に彼女を着替させ、髪を梳かすという習慣ができた。そうなると自分の身なりも整えようという気分になる。生活も規則正しくなり酒量も減った。健康診断の数字も改善しつつある。
そんな生活をしている自分からすると、「幼女型ラブドールの所有者はやがて実際の幼女を手にかけるようになる」などという主張は、何の根拠もない戯言に過ぎない。
ほぼ完璧な美意識のもとに作られた理想的な美少女が自分のもとにいるのに、なぜ汚い上に泣きわめく現実の幼女などに手を出す必要がある?
自分は中学のときクラスの女子たちに嫌われ、様々な嫌がらせを受けていた。理由は「背が小さいから」。それだけだ。
事あるごとにチビだ短足だと罵られ、すれ違いざまに足をひっかけられる。ドールはそんなことはしない。
満員電車の中で臭い香水をプンプンさせながら、蛾の鱗粉のようなファンデーションと血を吸った直後に潰した蚊のような口紅を人の服にべったりとなすりつけ、挙句にこいつは痴漢だ被害者は自分だこれはその証拠だと鬼瓦のような顔で喚き散らしたりしない。周囲の人が弁護してくれなかったら慰謝料をむしり取られていただろう。無理だとわかるとそいつは金切り声を挙げ、人に唾を吐きかけて逃げていった。
それに比べたらドールはただ何もせず一緒にいてくれる。「自分の思うようになる」からではない。自分に対して敵意を持たない存在というものが、どれだけ温かく感じられることか。
自分の同期は結婚から数年で妻の有責で離婚し、それでいながら娘の養育費をせっせと送金している。月に一度の面会日はドタキャンが多く、思うように息子と会えていない。
上司は中学生になった娘からキモい臭い近寄るなと罵られる毎日だそうだ(飲み会で酔って愚痴っていた)。それでも家族のためにと少ない小遣いで頑張っている。
要するに女が男に性的に搾取されているというのは嘘っぱちで、むしろ女こそが男を蔑みながら搾取しようとどす黒い陰謀を巡らせているのである。世の女性がラブドールを目の敵にしてゴチャゴチャ喚き散らすのは、男の理想を体現した人形が現れれば当然男はそちらに夢中になるため、搾取できなくなるからに違いない。つまり実利の上で脅威を覚え、排除しようとしているのだ。
まあ嘘っぱちというのは言いすぎかもしれない。しかし女を性的に搾取しようとする男に群がる女がいるのも否定できないのではないか。さだまさしの「関白宣言」を女性差別だと叩いておきながら、グループ魂の「君にジュースを買ってあげる」で歌われてるような男に夢中になるような女が。
理想的な美女として作られた人造人間・ハダリーと貴族との恋を描く「未来のイヴ」を著したヴィリエ・ド・リラダンも、「砂男」で美少女人形のオリンピア(オペラではコッペリア)に身の破滅を招くほど恋い焦がれる男を描いたエルンスト・ホフマンも、人形にフランシーヌと名付けて娘のように愛した哲学者のデカルトも、現実の女性に幻滅していたのではないかという気すらする。
レイチェルみたいなレプリカントが目の前に現れたらデッカードならずとも駆け落ちしたくなる。
ラブドールで満足できず現実の女児に手を出そうとする不届き者は間違いなく社会に害を為す変態だからさっさと逮捕し宮刑にでもすればよろしい。
・報道されてる人たち全員が“ワクチンの”重い副作用が起こってるのではない。
・HPVワクチン副作用だと言われてる人たち全員が本当にHPVワクチンの副作用を患ってるわけではない
は言えても
とは言えないはずだと私は考えている。
極限的に考えて、副作用が出てない集団と比べてほとんど0%の割合だとしてもそれは、統計的なマクロな視点の話であって、個々人に視点を当てたミクロな視点の話ではない。つまり、副作用がゼロ人ということとは結びつかない。
・HPVワクチン副作用が起こった人数は地球でゼロ人という個を指したものではなくて、母集団から統計して、副作用はそれほど起こっていないはず
ということであると考える。
科学は証明されなかったらその時点ではなかったこととするという体制をとっている。アイデアは無限にそこらへんに転がってるからだ。於保方さん事件がわかりやすいが、発明の案を出した人ではなく、発明を証明までできた人が評価される仕組みを現代科学界ではとっている。
つまり、今科学で証明されていることというのは、「HPVワクチン特有の副作用がある」ことが証明できなかったという事実から「副作用は(ほとんど)ないはず」という事実を導いたことであって、「副作用がなかった」証明をしたわけではない。背理法的な導き方だ。
言葉の揚げ足取るようで悪いが「HPVワクチンで副作用が起こることはない」とまで完全に言い切ってしまっているのは非科学的であると思う。
科学を盾にしてるのだから、様々な背景や前提を取っ払って必要な修飾まで捨てた文章を使わないで欲しい。とてもデリケートな話題であるということを胸に刻んで言葉の端々まで気を使っていただきたい。
あと、副作用の証明というのはわかりやすいバイオマーカーがあるわけではなく、患者のワクチンを打った前後の状況(社会的背景も含めて)、ワクチンを打った時の反応などを総合的に加味して診断されているものであり、副作用と診断する体系的な指針があったとしてもかなり不確かさを含んでしまうものであると言えよう。
100%それが正しいなんて言える段階まで医学は進歩していないと思う。
ここまで何が言いたいのかというと、
・マクロ視点的にHPVワクチンはほとんどないと科学的に締められたのは間違ってるとは言えないだろう
・ただ、それはマクロな話であって、ミクロにゼロ人だと言ってるわけではないから病院に行った全員が副作用被害者な可能性はないとしても、目の前の患者一個人を100%副作用がないとまで断言できるものではないはずだ。
100%副作用がないと断言できない、つまり100%副作用があるとは誰も一患者に対して断言できないということは、万一副作用が(本当に)起こってしまっている人は極めて不利な立場に立たされてしまうのだけど、このことを認識してない推進派が多いと感じる。
つまり、本当に副作用を受けた人は完全ゼロとは言えないはずなのに、副作用が集団的にほとんどないという方針が打ち出されると、副作用を受けた人が副作用被害だと認定されて補償される可能性はゼロに近くなる。
そもそも、その方針が打ち出されなかったとしても補償を受けられるほどの証拠を証明するのが難しいが、逆に証明を求めている側も補償が受けられない証明をしているわけではなく背理法的に導いているだけだ。
だからワクチンの補償ってかなり不確定だし、制度として現行あっても信用できるものじゃない。だから安心して受けられるっていうものじゃない。
もし、HPVワクチン接種を推し進めるなら、この完全に片側が不利な状況をきちんと把握した上で、自身の行動がマイノリティを無視しているがマジョリティにとっては利益になるものだという現実をきちんと認識して、活動してほしいと思う。
わたしは、この非対称性についてはどうしようもないと思っており、ただどうしようもないからといってそれを完全に無視されるのには怒りを覚える。
どうしようもないけど、統計的にはこっちの方が多くの人を救えるからということでワクチン摂取を推し進めるのに反対はしないが、そのどうしようもなさと向き合おうとせず認識すらしないのはどうかと思う。(もしかして認識しながら公共の福祉のために黙ってる?それはある意味肝座ってるわ…)
被害者は一言どうしようもないだけでは終わらせられないから自分たちのことを主張するのは当然だ。
わたしは思うのだが、HPVワクチン副作用だと言われてる人たちが副作用が原因でないというなら、その本当の原因をつきとめ症状を治してあげたら良いと思う。
その症状が、副作用か副作用じゃないかに関わらず治療は適切にされるべきだ。ただ、これを適切にできる医者は、ほとんどいないだろう。これも副作用被害者が大きく声をあげる一因になっていると思う。
こういった人たちをきちんと救う方向へはま動かず、ワクチン推進を推し進めてたら副作用被害者(だと思っている)の人たちはそりゃ反対する。ガン無視と同じだものね。副作用被害ないっていうなら困ってる人たちが副作用被害でないならないなりに治療を受けられるような活動も並行しないと正直都合いいなと思う。
副作用被害者の一部の集団に新種の自己免疫疾患かもしれない結果が出ている。
まだまだ、医学は進歩途中であり、すべてがわかっているわけではないはずだ。それをきちんと認識してほしい。(だからもちろんこの新種の自己免疫が副作用由来かどうかも本当に体に悪影響を及ぼしてるかもなにもかもまだ断言できるものではないという前提である)
過去有名な自己免疫疾患である多発性硬化症や今は認められているその他の病気がヒステリー扱いされていた歴史があったことなどを踏まえて、今一度自分の行動を振り返ってほしい。
自分のわからないことを患者が悪いとしてなすりつけるのではなく、己の限界を認識し、わからないことはわからないときちんと言ってほしい。
自分のわからないことを心因性などとさも原因が分かったように言うのではなく、現在自分のところでできる検査では原因が見つかりませんでしたとただ起こった事実だけを言えばいい。
科学的基準と照らし合わせて患者に心因性って診断つけてる人っているの?原因が見つからなかった→心因性っていう自分が世界の全てをわかってます的飛躍的論理の医者それなりにいない??
科学を盾にするのはいいが、盾にするならするなりに論理を通してください。大事な前提や修飾を省いたバズりやすい文章で人を惹きつけるようなことはしないでください。
あとこれは個人的な意見だけどワクチンって体質的にワクチン無理な人除いて全員に受けさせることによって集団を守るってものだと思うから、個人の選択や責任をそこにそんなに問わず、起こったリスクもコストのうちだと精算できるくらいの仕組みでいてほしいと思います。個人個人の治療の選択に関しては患者に多少の責任があっても、できるだけ多くの人が打った方が効果が出て更に進学や渡航の際に聞かれる類のものは個人責じゃないっしょー
儲かるのならするよ。
だけど、そもそも日本企業はバブル崩壊を境に高貯蓄・低設備研究投資に転じたからあまり先進的な研究をしなくなったんよ。
ただ楽にすぐ儲かるネタを探してねーかねーかとうろうろするだけ。そこに学生を煽って起業させたらイノベーションだって連中が煽ることだけ盛んにする。ろくなもの生まれないし、知識もバックアップ体制もないから変な奴のカモになるだけ。
どこにも吐き出せないからここで吐き出す。
友人の名前はDさんとしよう。
長年仲良くしていたが最近いらいらすることが増えて連絡を無視している。(ブロックすればいいのだがそれは事情があってできない)
通知が来るたび気が滅入る。
今年の初めまではお互いに呼び出しあって遊んでいた。
電話も良くしていた。
最初のきっかけは、旅行に行こうとなったときのこと。(確か2月)
どこ行くホテルどうするという話をしていたときに友人が言ったひとこと。
めんどくせっ 脊髄反射的にそう思ってしまい、連絡をスルーし続けたら一瞬縁が切れた。
結局旅行は流れた。
その後は普通に接していたんだけど、最近エスカレートしてきたから次第に距離を置くようになった。
・電話をかけてきては言葉にならない声を発する。そんですぐ切る。かけてきたんお前だろ。
・「自分には○○(運が良ければ仕事になる趣味)しかない」の妄言。○○するのは辛いけど~みたいなアピール。
比べることじゃないけど俺は仕事しながらそれやってる。
・異性漁りを趣味と言いつつ「自分は同性愛者」だという矛盾した言葉。
この辺りがストレスになってきた。本当はもっとあるんだけど特定されそうだからやめとく。
貸しても返ってこないじゃんそれ。
そのあとご飯行こう(ちょっと高いとこ)って言ってきたのは本当に意味が分からない。
Dさんも色々大変なんだとは思う。
精神科通いだし。
けど、そこまで面倒見きれない。
俺もその片棒を担いでいるのだろうか。
かつて同級生だった俺たち。
過去に歩んだ道が同じでも、今と未来が交わっていないと合わない。
合わないんだよもう。
早く向こうから手を引いてほしい。
今日は非常にだらけた1日を送っている。
実家にいたら親に「あんた1日何もしないでよくいられるね。少しは動いたら?」と言われるだろうぐらいにだらけている。
YouTubeでやりもしないだろう5分で簡単DIYの動画を無感情でみて、なのに何か甘いものが食べたいなー。と惰欲求だけは立派に働いている。
ACだかが戦下にいる子供たちの事をCMしているのを見てもなお、だらけた格好で甘味を求めている。
清々しい程に晴れた格好の散歩日和。歩いて5分のコンビニにいけば求めてるだろう甘味は手にはいる。それすらする気になれず、ただただ部屋でだらけている。
隣の家の洗濯物を干しているあの洗濯バサミがいっぱいついているアレが、ベランダの金属か何かにあたってカチカチ言っているのが少し腹立たし以外にはなんの感情もなく、だらっと時間が過ぎている。
世の中の人達は今、何をしてるんだろうか。
きっと歩いて5分のところにあるコンビニの店員達はせっせと接客をしていて、近くを通る路線バスの運転手は、乗車する人もいないのに定刻通り運行する為に働いているのだろう。
頭が下がるばかりだ。
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
女性に関する嫌な思い出は特にない いや嫌な思い出自体はまあちょくちょくあるけどそれを言うなら男性に関する嫌な思い出もあるし、ことさら女性性を強調する必要なものはないようなものばかり
モテなすぎて拗らせてるって感じでもない 青春時代モテなかったのは事実だけど、大学のときに一目惚れした女性と交際に至り今も仲良くやっている
でも女が憎い 女全体というか、「女であるというだけで性的・恋愛的な価値が高いこと」が憎い
好きでもない相手に言い寄られるのは嬉しくないどころかむしろ苦痛ってのは分かるし、性的価値が高いとむしろ損することが多いって話も理屈では分かるんだがどうしてもムカついてしまう
年収1000万の人間が税金の多さを嘆いているのを聞いたときみたいな気持ちになってしまう
女は「多少モテる」くらいが標準装備だからいいよな!と、「告白されたことない」のがモテないことの基準なんていいご身分だよな!と思ってしまう
俺が学生時代女子と全然話してなかったのは純粋に話しかけてなかったからだし、つうかよく考えたら席が近い人とは普通に話してた気すらするのに、「キモい男であった俺はそれだけを理由に全学の女子から爪弾きにされていた」みたいな修正版暗黒青春が頭の中に生成されて行ってる
怖すぎる
男とか女とかのことを考えないで生きたい Twitterやめたらいいのかな でも非モテ男の拗らせ言論みたいなのって妙に共感性あるしつい読んじゃうんだよな ううう
「俺の思想に沿って発言しろ」の言い換えでしかないだろうとよく思う。
ただ、するならするである程度のスジが通る発言はしなきゃならないし、ファンの側にも「こんな発言をするか。応援するに値しないな」と思って離れる自由もある。
内容に筋が通ってなければ、批判もされる。
また、そういう発言をする人、そういう思想が根底にある人という色もつくこともあるだろうし、そこからファン層が偏る可能性もある。
別にそこらへんにゴロゴロいる労働者が会社の看板に関わる際にリスク回避としてそういう発言を控えるのと本質が変わるものでもない。
ただ単に自由というのはそういうことだという話。
今、コロナで多くの人が大変な時期だと思う。
私もずっと自宅からでれずにテレワークしてる。じゃあ、経済的に困ってるかというと実はそんなことはない。
幸いにして大手だしあまり影響を受けない業界だから給料は普通に振り込まれてるし、ボーナスは流石に下がるだろうけど会社が傾くことはたぶんない。これはだいぶラッキー。
貯金も多少はある。で、そんな時にコロナショックで世界レベルで大不況。こんな時どうするかっていうと買うしかないよね。株。
元々、お小遣いくらいの金額でゆるゆるとやってたんだけど、今回の件で仮想通貨は大暴落するし世界中の有料企業が大幅下落。
特に本質的な需要が減ったり実際に業績が不安定になってるのじゃないのに超有料企業が数十%も下落したんだよ!? そんなのバーゲンハントするしかない。
で、米国株と仮想通貨は早くも回復したのですでに大幅利益獲得。
日本市場はこれからだけど年単位で保持しとくつもりだからリーマンショックのグラフを見ると数年後には回復してる可能性は高いはず。
まあ小心者なのであまり突っ込んでないけど、それでもボーナスの補填になるくらいには儲かった。給付金より普通に多い。
みんながみんな不況だって言う中で実は不況だから儲かるってのは罪悪感もあっていくらかは寄附金に回したけど。
たぶん、もっとセンスや度胸がある人はそれこそ借金してでも突っ込んだだろうし、
私よりも二桁以上の利益を出した人なんでザラなんだろうな。。。
今回は運が良かっただけだけど、余剰資金を持っとくのはやっぱ大事。自分が不況でも多少でも稼げるのはセーフティーネットにもなるし。
でも、株やFXやってるとだんだん不況を望みすらするようになるから、やっぱり経済って怖い。。。 周りが不況って騒いでても儲かってる人はいるよねと改めて思った。