はてなキーワード: エロゲーとは
モーリー・ロバートソンがスッキリで、宇崎ちゃんは遊びたいのことを言っていたが、色々と酷かったので書いておく。
モーリーは、このポスターの件では、欧米ではmetoo以降はハッキリとして線引きができているのに、日本は遅れているという
手塚治虫のエロは浮世絵にも通じるから許容できるだと。ズッコケそうになった。
白人男性が日本人女性に抱いてきたオリエンタリズムのセックスイメージに通じることを言ってたわけ。
モーリーは白人の男で自分が白人特権があることくらい分かってるよね?
その白人の男が、日本のこのエロスは浮世絵に通じるものがあると勝手に断定して、日本のエロを定義する暴力に気付いているのか。
それに、欧米では、西洋では、こんなものはありえないとか、エロゲーなら許されないとか、タブレット雑誌の女性の写真なら犯罪になるかもとか言ってたな。
まず、エロで言うなら、欧米ではモザイクなんかないが、日本にはあって、そのまま無修正なら犯罪になるんじゃないの?
まず、これをどう思うかだ。
それに、欧米のエロではこんなポスターではなく、実際の強姦殺人動画のスナッフムービーが出回ってきたのをどう思ってるのか?
ゲームの性描写には厳しいけど、そちらでは、殺しまくって血が飛びまくってる戦場ゲームやゾンビゲームばかり人気なのはどう思うわけ?
モーリーが言ってることは、白人の男が有色人種の文化を遅れていると断定しながら、
日本人の妻を現地妻にしてきたお雇い外国人に通じるものがあって、気持ちが悪くなった。
浮世絵のエロに通じると思うからそれは許してやるというオリエンタリズムセックスイメージの白人男なんだね。
モーリーもやっぱりそうか。
「性欲に訴えるための下着の広告」も「性欲に訴えるためのものではない下着の広告」も実際に両方あると思う。
そんで、「性欲に訴えるための下着の広告」も、性欲に訴えることで見る人たちの購買意欲をより高めようとするような意図的なものと、広告制作側の性欲が意図せず漏れ出ちゃってるような事故的なものとかにも分かれそう。前者は想定購入者である女性の性欲に訴えたもの、後者は男性の性欲のためのもの、と大まかには言い換えられるかもしれない。
でも、実際問題どういったものがどれくらい性的な広告なのかを厳密な基準で線引きするのはなかなか難しいとは思う。
まぁ例えばエロゲーのキャラデザイナーが普段の作風そのままに描いた女性の下着姿のイラストを広告として採用した場合とか、男尊女卑のツイートをしてしまうような下着メーカーの中の人が広告の企画や制作に大きく関わっている場合とかだと、分かりやすく「これは性欲に訴えるための広告だ!」となりやすいかもしれないけど。
これ以上突っ込んで色々書くと私の立場や価値観を読み取られてそれを好ましく思わない人から殴られそうなのでアレだけど、とりあえず、個人的には、赤十字ポスターの議論の過程で下着の広告云々の話題にまで派生してくれたなら、主義主張で殴り合ったりするだけでなくて、女性の性欲についても色々考えを深め合えるきっかけにしてほしーなーと思ったりしてる。
実際、1989年にオタクを滅ぼせなかったのが日本の失われた30年の始まりであり、平成最初の過ちだったと思いますよ。
細々と生き残ったオタクが90年代以降に調子に乗り、エロゲーを隆盛させまくったせいで、
日本の子育て世代たちは『子供にパソコンを与えるのはエロゲーを勧めるようなものだ』と思って子供にパソコンを与えなくなり、
また、ロリエロマンガや萌え絵が氾濫していることで、『日本ではこんなにも小さな女の子を性の対象として見ている人がいる』ということが可視化され、
『子供を産んでそれが娘だったらその娘も幼いうちから性の対象にされるんだ』と思った人が多かったから少子化になったのです。
全てはオタクが原因です。
わいせつ図画頒布罪という犯罪が刑法175条で定められている。現在の日本には、たとえゾーニングされた場所で大人相手にしか売っていなくとも罪になる物がある。裏ビデオはその代表的な存在だ。
この法律は何を保護しているかと言うと、そのような性的な作品を見て不快になる人の見たくない権利…ではなく、最低限の性道徳である。(増田はこの解釈に激しく異論があるのだがとりあえず現時点ではそうなっている)
必ずしも件のポスターをめぐる問題と同一視することはできないが、『作品の社会的影響力』を問題にしている点は共通している。
そして、チャタレー事件の最高裁判決で『平均ではなく、あくまで最低限』の性道徳を基準とすること、四畳半の襖の下張事件の判決で『その時代の健全な社会通念に照らして』つまり、その最低限は時代に応じて変化し得るという判決が出ている。
これらの判決を覆すような判例は2019年10月現時点では出ておらず、現在も有効である。
なお、ここで言うわいせつ図画のわいせつ性の基準は(※1.いたずらに性欲を興奮又は刺激し、2.かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、3.善良な性的道義観念に反するものをいう)というのが大枠としてチャタレー事件で示された。(増田が漢字・かな遣いを現代に合わせ修正した部分あり)
(余談)
そして、現在の『最低限』の基準は性器を修正しているかである。AV、写真集、エロマンガ、エロゲーその他の18禁コンテンツに共通して、男性器と女性器は修正しなければならない。
いっぽうで、乳房、肛門などはモザイクが無くとも18禁コンテンツとしては流通できる。
『どの程度修正しなければならないか』の線引き上でAVの自主規制団体や出版社はしばしば攻防を行っているが、古典芸術(ダビデ像などの古典彫刻、春画など)や医学書(言うまでもない)を除けばこの原則はヘアヌード以降共通している。
さらに余談だが、AVで女性器内を内視鏡で見るシーンなどではある程度中に進むとモザイクが外れているのでどうやら基準は外性器らしい。
2.絵の影響力
実写の写真や文章(理論上は取り締まられる可能性がある)ならともかく、エロマンガはそこに含まれるのか、を巡って2002年に松文館という出版社の幹部とエロマンガ家が逮捕された。
その事件に対して高等裁判所は『(エロ)マンガであっても(上述したような)健全な性道徳を保護するためにはわいせつ図画頒布罪は適用される』とした上で『しかしながら、マンガのわいせつ性(上述の要件)は実写に比べ相当に低いので量刑は減らす』という判決(意訳)が出され、2007年の最高裁判決でも高裁の判決が支持された。
なるほど、という気持ち。
非常に勉強になった。
一般的にフェミニストたちは感情が先行して結論だけ書くことが多いので、当人がどのような思考回路でその結論に至ったか外側からではよくわからないことが多い。
その結果アウトプットが支離滅裂であることもあり、これがいわゆる「お気持ち案件」が嘲笑される一つの原因なのではないかと思われる。
その点、この元増田は冷静に思考の流れを書いていてくれるので、彼女たちがどうやってその結論に至ったのかがかなり伝わりやすい。
その上で、個人的に感じた元増田の論理の飛躍を以下に数点指摘していきつつ、日本赤十字の擁護をしていこうと思う。
A.) 「誰かに許可なくジロジロ見られない権利」はあるのか?
その人権の中には、
や、
や、
などが含まれる。
さて、人権は非常にデリケートな問題だ。この一点をもってしてもかなりの議論が必要になる。
誰かに何かをされない権利の存在は、本質的に誰かに何かをする権利の規制になるからだ。
「誰かに許可なく触られない権利」の存在は「誰かに許可なく触れる権利の規制」であり、暴行罪の存在がこの規制をしていると言えなくもないかもしれない。
しかし、誰かを許可なくジロジロ見ることを規制する法律は、少なくとも現時点では存在しない。
ストーカー規制法が近い役割を持っているかもしれないが、今回想定されているシチュエーションは間違いなく異なるだろう。
だからと言って街中で誰かが目に入ることを規制するというのは社会が活動を行う以上ありえないことは自明である。
今回想定されるのは「偶然目に入る」以上「ストーカー行為」以下の「ジロジロ見る」という新しい概念の提唱と、その規制だ。
そして誰かの権利を規制したいときは、規制側に「なぜこの権利を規制すべきか」の立証責任がある。
しかし多くのフェミニストたちが、自分たちが不愉快におもう権利は規制されるべきであると考え、それが自明であるかのように振る舞う。
今回であるならば元増田に、少なくとも「ジロジロ見る」の定義を行い、それが規制されるべき理由を示す義務が存在するが、それすら飛ばされていきなり自明のものとして扱われている。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。
そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
「宇崎ちゃん」は、一般的な定義(例えば、Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/萌え絵)による解説に当てはまるかどうか)でいえば、確かに萌え絵だ。
しかし、ここでの「萌え絵」の定義は二、三行目に記されており、これに従うと一見正しく見えた一行目に疑問が湧いてくる。
試しに、以下のように書き換えてみよう。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。
そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
単純に文章の順番を入れ替えただけだ。そしてこれこそ、本来書くべき文章の順序だ。議論のもととなる定義は最初に示すべきである。
「宇崎ちゃん」が元増田定義の「萌え絵」にあてはまる理由の説明がなされていないのだ。
今回の定義の「萌え絵」が一般的な定義の萌え絵を全て内包しているのであれば、
2. 一般的な定義の萌え絵は、全て今回の「萌え絵」でもある。
3. よって「宇崎ちゃん」は今回の定義上も「萌え絵」である。
となるのだが、残念ながらこれは偽である。
一般に萌え絵やアニメキャラがかわいい理由は、それが人間の赤ちゃんに似た特徴を持つからであり(https://www.dplay.jp/article/0000017682)、性的に興奮させられるからではない。
としているが、それなら河出書房新社が発刊する絵本が好きな子供はかなり気色の悪い状態であるということになる。
しかし実際、こうした絵柄が子供達からも人気であることは同社のTwitterアカウントが 2018年11月8日に言及している。
このことからも単純に一般的な萌え絵と今回の「萌え絵」を結びつけ、「宇崎ちゃん」のイラストを「人の目を性的に楽しませる」趣旨であると断定することは軽々にはできない。
C.) 「意図しない隠れたメッセージ」を抽出することは妥当か?
ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージはときに、発信者の意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。
一般論として、これは正しい。
権力者や公共の場に限らずとも、なんらかのメッセージを発するものは、そこに「誤解」がしばしば発生する可能性には注意するべきである。
それはこの文章を書く私も、元増田も同様であり、「匿名の掲示板だから誤解を招くような不完全な文章を書いてもいいや」とはなるべきではない。
しかしそれは、あくまでも誤解を招くことに注意するべきである、ということだ。
「意図しない隠れたメッセージ」の抽出には誤解以上の「曲解」が入ることも多々ある。
そしてその線引きもまた、簡単ではない。
その気になれば誰かの言葉から「意図しない隠れたメッセージ」を抽出することなどとても簡単だし、それを規制したり撤回させようものなら言論封殺も容易に行える。
力あるものが、公共の場で発信するときに、意図としないメッセージを汲み取って、それを批判する。
これを無秩序に行うことを可能とした場合、例えば以下のような芸当も可能となる。
"""
③フォロワーの多いTwitterアカウントを使って
以上、①②③④の全てが揃ったことにより、太田啓子弁護士は「全てのオタクはセクハラの加害者であり、その人権を規制するべきである」という「隠れたメッセージ」を発信した。
これは明らかなる人権侵害であり、太田啓子弁護士は今回の日赤ポスターの件に関して謝罪して撤回するべきである。
"""
以上の命題が真であるならば、日本赤十字の表現を問題視する声をあげることはできない。
このような奇妙な状態が生まれてしまう以上、「意図しない隠れたメッセージ」の抽出には慎重になるべきだし、誤解と曲解の間にもある程度の区別は設けるべきだ。
それをやらずして、この議論を推し進めていくことはかなり難しい。
仮に上記までの問題をすべて受け入れ、あるいは譲ったとしよう。
なるほど、人には「ジロジロ見られない権利」もあるし、「宇崎ちゃん」は今回の定義上も「萌え絵」だし、「意図しない隠れたメッセージ」を日本赤十字はばらまいたとしよう。
そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。
と元増田はしているが、仮に「誰かの身体を許可なく性的な目で見ることは人権侵害」である世界であったところで、それはあくまで、「誰かの身体を許可なく性的な目で見た」人間が悪いのではないだろうか?
まず罰し、規制するべきは「誰かの身体を許可なく性的な目で見た人間」であり、日本赤十字のポスターではない。
そもそも論として、こうしたポスターが存在することにより人権意識が希薄になってしまうということがすでに論理の飛躍だ。
それを示すデータはどこにもないし、数字には見えないなどといって逃げることも許されるべきではない。
オタクコンテンツは昔から、「ゲームをするとゲーム脳になる」「ひぐらしのなく頃には暴力事件を誘発する」などとあらぬ批判を受けてきた。
だからこそオタクは、何の証拠もなくそのコンテンツを規制されることに大きな抵抗を覚える。
真に人権意識を改善し、適切に規制を行いたいのであるならば、こうしたエビデンスを示していくことが規制派に課せられた義務である。
以上、ざっと目に止まったところを書き出してみた。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
この定義にまず疑問を持てよ
自分勝手な定義でレッテル貼りするのは差別につながる、人権侵害につながるぞ
そうやって「萌え絵」を反道徳的存在だとだと定義するならば、それを描く人、好む人も反道徳的存在だと言うに等しい。
この理屈だと例えばロックは反道徳的精神にルーツがあるから公共の場にふさわしくないなんて理屈も通る。
そもそも件のイラスト程度の表現が「萌え絵」だとするならば、世にあふれるイラストは男性向けに限らずに女性向けも児童向けもその多くが萌え絵になる。
萌え絵を公共の場に出すの許さないマンって何でどいつもこいつも萌え絵についての理解がガバガバなの?
そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
ほら、こうやって考えるまでもなくわかるデタラメを書く。
「萌え絵の中に性的なものがある」ことはまったく否定しないけれど、「萌え絵がすべて性的なニュアンスを帯びた絵である」かのような断言はおかしいだろ。
たとえば、萌えおこしの代表例としてよく知られている『らき☆すた』のキャラデザ、泉こなたや柊かがみのイラストに性的な含みがどこにある? やたらと胸が強調されてるとかあるか?
長門有希はどうだ? 伊原摩耶花は? シャナは? ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは? 公共空間に出せないほどのエロスを纏っているか?
つーか、なんでか『はたらく細胞』のコラボはセーフだったみたいなこと言ってるやつが大勢いるけど、あれも様式的には萌え絵やんけ。
ああいったものが文化史的に萌え絵じゃないなんてありえないよね。この時点でこのガバガバ定義は破綻してるんだよ。
一部の性的な要素をやたらと強調した萌え絵が性的すぎるって叩かれてたのは事実だけど、一方で特に性的要素を強調していない萌え絵がある、ということはつまり単に「萌え絵にはエロいものもエロくないものもやたらと性的要素をデフォルメしたものもそうでないものも存在する」ってだけじゃん。
萌え絵のすべてが性的興奮を呼び起こすものであるかのような前提をさらっと紛れ込ませるのはただの詐術でしょ。
それとも、目がぱっちりと大きくてかわいい少女が描かれてるから性的な興奮を呼び起こすものだと主張する? そんならジャニーズも『あんさんぶるスターズ!』もペ・ヨンジュンも性的な興奮を呼び起こさせるのが目的の存在だってことでいい? 女性がアイライン引いたり男性がたくましい二の腕を露出させたりする行為はみんな性的な興奮を呼び起こすための行為だってことでOK? それらは公的空間にはふさわしくないっていう理解で本当にいいのかな?
さんざんイケメンがたくさん出てくる作品とのコラボもしてたよって指摘されてなおこの言い分を振りかざすの? バカじゃないの?
じゃあ『刀剣乱舞』とのコラボもやってるから「男性の体は、目で見て楽しむためのものである」という隠しメッセージもあるってことでいいの?
ここまで言っといて自分の立ち位置を明示しないのはずるいと思うから言っておくと、実在するそのへんの女性にじろじろ見られない権利が存在することは肯うとして、じろじろ見られるのを能動的に仕事で選んだ人(アイドルとか俳優とか)が仕事場(ファンイベントの会場とかステージの上とか)にいるときにはじろじろ見て性的消費してよいのだから、「人を性的消費してはいけない」なんていう一般論が成立するわけはないし(そういう権利を確立したければ限定を付してね)、実在する人じゃなくて架空の人に関してはそもそも人権が存在しないよね。
架空の人をじろじろ見ることが実在女性の権利を脅かすという理屈が理解できない。仮に前者が後者を導くんなら、それは二次元と三次元を混同するその人の問題。そういう人に向けて存分にお説教してください。非実在青少年の人権論には付き合っていられません。絵の中の美少女はお前じゃない。俺がジャニーズのタレントじゃないのと同じ。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。
「人間の身体的な特徴をデフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つ」って、そんなの少女漫画もニューズウィークの風刺画も『あたしんち』もそうじゃん。
ジャパニーズ少女漫画もパッと見ただけで「これ少女漫画だ」ってわかるくらい独特の雰囲気を帯びてるし、色んな風刺画並べられてても愛読者ならニューズウィークのはひと目で見分けつくよね。あんな顔の人間現実にはいないけどでもまあ「おばちゃん」の特徴のデフォルメだよな『あたしんち』って。
まあだから「エロゲーをルーツに持ち」って限定を付して少女漫画や風刺画や『あたしんち』を排除してるんだろうけど、それを措いておいたとしてもこの定義ってよくわからんよね。
いや、学術的定義をするならわかるんよ。様式史を遡っていったところにエロゲの文脈があるのは、まあ、否定はしない(というか様式史について真面目に検討したことがないんでよくわからん)。なので萌え絵の文化史で卒業論文書きます! というならこの定義でいいのかもしれない(いや卒論ならもっと厳密に定義しないとまずいか)。
で、それは社会におけるイラストの立ち位置を考える上で必要な定義ですか?
萌え絵イラストレータの全員がエロゲに携わっていたわけでもなく、萌え絵を楽しむ若いファンの多くはエロゲなんてやったこともないだろう(おっさん世代のエロゲ経験者率は知らない)。ルーツで定義してなんか意味あります?
これって特殊なのかな?
PC(Windows95が出る前後)なかった勢だったけどエロゲー雑誌買ってたしそれは性的に見てた。
けど、エロゲ絵自体がエロいか? と言われると全然そうでもない。
現実だとスケスケ下着とか透けたり透けなかったりだけど、透けてないギリギリの二次元は透けることがないので下着とか三次元は性的だけど二次元は性的っちゃ性的だけどなんか冷めてしまう。
それと一緒で、如何に居乳だろうが、ギリギリのアングルだろうが、見たいところが見えていない二次元はエロではなく、
(但し、3Dモデル動かしているやつは一周回ってギリギリがエロく感じられて来た)
小生が多数派だと仮定すると、世の中の公共の場に相応しくないとかいってるやつらは自意識過剰ならぬタイ式過剰なわけだが無理筋か……
〈追記〉
はなから完璧な文章を書く気などなかった(一般人の匿名ブログにそんな義務もないし)ので、このあたりは反論されるだろうなと思ったところがやっぱり突っ込まれており、興味深く読ませてもらっている。
ただ、ここまで「ひとりの人間として尊重する」ことが大切だって訴えているのに、「頭悪い」とか「病院行け」とか「バカ○○」とか言う人が出てくるのは何故なのか、考えても仕方がないのだが不思議に思ってしまう。
誰かの意見に反対するときは、その人を罵倒しなくてはいけないというルールでもあるのだろうか?
冷静に突っ込んでくれている人はありがとう。もっと勉強します。
〈/ここまで〉
それは、女性は誰かの目を楽しませるために存在するのではないから。
性的な目で見る、という言い方が曖昧なので分かりにくいんだけど、「誰かのことを見て性的な満足感を得ること」とする。
「おっぱいの大きな女がいたらどうしても目で追ってしまう。それは本能だ。どうしようもない。そういう生き物だから。それを禁止されたら、恋愛だって始まらないし、子どもも作れない、人間は滅びてしまうじゃないか」
と言う人がいるかもしれないが、それは違う。
・女性の体を見て楽しむことは”禁じられていない”。
この2つは矛盾しない。
男も女も、ホームレスも総理大臣も、誰にでも与えられている権利がある。
これを人権という。
人権は、人に、その人の身体を、その人のためだけのものとすることを認める。
だから不当に拘束されたり、傷つけられたりすることは、人権を損なうことであり、認められない。
その人権の中には、
や、
や、
などが含まれる。
「女性を性的な目で見る」行為は、女性のこのへんの権利を侵害している。
女性を、尊重されるべきひとりの人間として扱っていないことになる。
というわけで、
「おっぱいの大きい女をどうしても目で追ってしまう」→してはいけない。してしまったら、してはいけなかったな、これ以上見るのをやめよう、と思うべき。
「恋愛も始まらない」→女性を触ったりじろじろ見たりしてはいけないのは『許可なく』そうしたとき。女性は、そうされて構わないと思えばそれを許す。あなたがそれをしても人権侵害にならない。嫌だと思ったら断る。あなたがそれをすると人権侵害になる。
大切なのは『それを女性が良しとしているかどうか』。それを決める権利はすべて女性本人にあり、女性は誰にもおもねることなくそれを決められる。
「実在の女性を性的に見て楽しむこと」と「性的なイメージを見て楽しむこと」は違う。
「①日本赤十字が」「②公共の場、誰の目にも入りうる場所で」「③女性を性的に描いてきた歴史のあるアニメ漫画的イメージを使って」「④公共性の高い事業のプロモーションをした」から、問題になっている。
①誰が言うか
メッセージというのは、誰が言うかでその意味が変わってくる。隣の家のおばちゃんが言うのと、小泉進次郎氏が言うのとでは、その重みや社会への影響力が異なる。だから、何かが発言されるとき、それが誰のものかということは重要である。
②どこで言うか
同じ小泉進次郎氏の発言でも、どこで言うかで、意味や影響が異なる。小泉進次郎氏は、たとえば「石油でトイレ流したいな〜」とテレビの前で言うとヤバイが、クリステルだけにそっと打ち明けるぶんには問題ない。誰に届けようとしているか。発言された場所を見ればそれが分かる。
③何を使って言うか
メッセージを伝える手段はいろいろある。いろいろあるので、伝えたい内容を効果的に伝えるのはとても難しい。ときには、意図しないメッセージが伝わってしまうことがある。見る人が多く、発言者に社会的な責任が多くあるほど、その内容は慎重にならなくてはいけない。たくさんの人が見るほど、その解釈も多様になってくるからだ。
④何を言うか
一見、これがもっとも大切であり、①②③はそこまで重要ではないように思われるが、それは誤りだ。何かを伝えようとするとき、これらの事項は絶対にセット商品として扱われるべきだ。たとえば、何を言っているかだけを見て、その行為を判断することはできない。誰が言っているか、どこで言われているか、どのように言われているか、それらをひっくるめて考える必要がある。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。
そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
「萌え絵」は禁じられていない。
「萌え絵」を見て楽しむことも、禁じられていない。
「萌え絵」を買ったり所持することも、禁じられていない。
理由はいろいろあるが、ひとつは確実に、児童ポルノなどと異なり、「そうすることで、誰の人権も侵害されていないから」だ。
しかし、その、③「身体をディフォルメして魅力的に描いて」、「人の目を性的に楽しませる」という趣旨のイラストを使って、
①日本赤十字が
したら、どうだろうか?
その行為そのものは、禁じられてはいない。現に日赤はポスターを撤去してもないし、謝罪もない。そして、する”義務”もない。
しかし、この4つの要素があわさったとき、そこから発せられるメッセージは本当に、
ということだけだろうか?
もちろん発信者はそのつもりだったに違いない。
ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージはときに、発信者の意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。
そして、そのメッセージによって、傷ついたり、安全を脅かされたりする人がいることを、発信者は常に意識する必要がある。
つまり、ここで伝わってしまう恐れのある、発信者の意図しない、隠れたメッセージとは、
「女性の体は、目で見て楽しむためのものである」というメッセージである。
そのメッセージが、誰の目にも触れる可能性のある、公共の場で、日本赤十字によって、発信されている。
これがアニメイトなら、アニメ好きだけが見るので、まだ良かった。
Twitterだけのキャンペーンなら、アニメクラスタの間だけで拡散されるので、まだ良かった。
やってるのが、雅子さまが名誉総裁を務めておられる日本赤十字ではなく、一般企業や個人なら、また意味が違ってきた。
揃うと、どうなるか。
そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。
自分の体を、許可なく性的な目で見られたくない人は、その社会では安心して生活できなくなる。
ポスターによって、直接傷つけられたり、悲しい思いをしたり、個人として尊重されないような事態は、発生しない。
しかし、そういう社会づくり、人権の守られない、安心して暮らせない社会づくりに、確実に貢献してしまっているのである。
目に見えて血を流す人がいないから、その表現には問題がないと考えるのは、あまりに短絡的だ。
数字として出ない、影響がわかりやすく見えないことだからこそ、慎重になる必要がある。
「宇崎ちゃんがセクシャルな意味合いを含む萌え絵で、献血ポスターにふさわしくないことは、甘んじて認めよう。では、同じまどかマギカでも、マミさんはダメで杏子なら良いのか?」
これは本当に難しい。胸がこのくらいくっきり描かれていたらアウト、とか、このくらい頬が染まって困り眉をしていたらアウト、などと線引きをすることはできない。
では、どうしたらいいんだろう?
議論をしたらいい。公共の場は、どうしたらみんなが安心して過ごせる場所になるか。萌え絵が好きなオタクは、どこに行けば誰の尊厳も傷つけず、自由に萌えを叫べるのか。ボランティアによってなされる献血の尊さや、明日にはあなたが献血に救われるかもしれないことを、まっすぐに伝える広告とはどのようなものか。
声をあげよう。間違っていてもいい。いっしょに考えよう。自分と違う意見の人を、クソなんとかとか、バカなんとかと貶めるのをやめて、同じ社会に暮らす自分と違った考え方のひとりの人間と認めよう。相手の顔が見えないインターネットでは難しいかもしれない。それでもインターネットだからこそ時と空間を超えたフラットな対話が可能なはずだ。
話し合おう。萌え絵が好きな人にも、ロリコンにもショタコンにも腐女子にも進次郎にも、あなたにも人権がある。人権の概念は、まだこの社会に浸透しているとは言えない。あなたにもきっとあるはずだ。こんなことをされたくないとか、自分を大切にしたいとか、悔しく思ったことが。そんな思いをしなくてもいい社会を、次の世代にプレゼントしよう。