はてなキーワード: 鴨川とは
友人と二人で夜道を歩いていた。我々は苦学生だった。家はお互いに田舎で裕福ではなかったので、何とか現状を抜け出そうと高校時代にやみくもに勉強した。おかげで、通える範囲内で一番よい大学に合格できたものの、片道三時間通学だった。『往復六時間だぞ、一日の四分の一だ。四年通ったら一年間電車の中にいることになる』このフレーズを当時自虐ネタとして、よく使っていた。ただ、悲壮感はなかった。我々はおどけたピエロになるのは好きだった。
夜道は暗かった。実家の近くは8時を過ぎると人通りが無くなり、国道なのに車が通ることも少なかった。製材場の近くに通りかかったとき、道端に何かが落ちているのが見えた。自動販売機の明かりのしたにあったので気がついた。財布だ。特に変哲もない黒い長財布だった。見た目からして薄かったので大して入ってないだろうと我々は思っていた。ところが開けると一万円札が七枚。金には困っていたが猫ババをしようという気はなかった。ただ、警察に届けて三ヶ月落とし主が見つからなければ、そのお金は我々のものになることは知識として知っていた。我々は夜道を引き返し、交番にいき、財布を渡した。
三ヶ月後、我々は七万円を手に入れた。一人三万五千円。当時の我々には大金だった。そこから事件が起こった。
五月の暖かい日、鴨川でサークルのメンバーと川の中でふざけていたとき、身体を押され足を滑らせて転んでしまった。手を川の中でついたとき、尖った石がわたしの手のひらを突き刺した。傷口は大したことが無かったので、ほおっておくとその後、身体中に蕁麻疹が現れ、病院にいくと入院することになった。今まで入院なんてしたことがなかったので『なんだこれ』と思っていたが、かかった入院代金が三万五千円だった。
友達に『こないだの三万五千円、入院代に消えたわ』と連絡すると、友達から『俺も今入院している』と返事が返ってきた。後日確認すると、自転車に乗っていたときに電柱にぶつかったとかだった。そして、その友達の入院代金も三万五千円だったらしい。
実は我々は、財布を拾ったときに、一つしたことがある。財布にはお金の他にはほとんど何も入っていなかったのだが、数枚の名刺が入っていた。我々はその名刺をその場で捨てた。そのことが影響してるとは思えnwea
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASLBB3GQFLBBPLZB002.html
これだけの人に当然と思われている京都人、反省しろや!!!!!!!!
id:don_ikura 京都でしょ?平常運転です
id:hiromi163 タイトル見ただけで京都だと思った。
id:taizomaru1123 な?京都だろ?
id:clonicluv 京都かなと思ったら、やっぱり京都だった
id:junpeso まあオタクらのお国柄やったらつい出てしまうのも分からしますけども、うちら鴨川の人らはよう言わはりませんわホホホ
id:matchy2 京都かなと思ったら京都だった
id:Koganes ぶぶ漬けでも喰うていかんかコラ、じゃないのか。
id:nikousatsu ぶぶ漬けでもどうどす?(はよ行かんか。こら)
id:n_y_a_n_t_a 京都だよなと思ったら京都だった
標高40メートル前後の平坦地がどこまでも続く大阪北部のベッドタウン。万が一淀川や神崎川が氾濫したとしても、千里丘陵に被害は及ばない。急傾斜地も少ないので、土砂災害の危険も少ない。ただ、6月の大阪北部地震の震源地に程近いことには留意。
大阪・天王寺から南部の一帯(ただし大和川沿いは除く)。JR阪和線から東側一帯の広大なエリアは基本的に地盤が強い。生駒山の稜線群からも離れているので、土砂災害の危険性も低い。
3.京都市北区
京都御所と船岡山に挟まれた一帯。周囲を山に囲まれている京都盆地の中では、標高が比較的高く、山の麓や鴨川・桂川の河道から少し離れているあの辺りが一番安定している場所。
伊丹空港から西側一帯は、地盤の固い場所がどこまでも広がっている。神戸のように山が市街地に迫っていないので、土砂災害の危険性も低くなる。
5.徳島平野
徳島平野内を流れる吉野川は古くから氾濫を繰り返していて、逆に治水がしっかりしている。今回の豪雨でも高知や愛媛が甚大な被害を受けていても、徳島は特に被害は無かった。
広大な讃岐平野の中央に位置する地盤の強固な丘陵地帯。この辺りは水不足はひどいが、近年の豪雨の増加によって、あまり欠点にならなくなりつつある。
22歳の頃は京都駅から地下鉄で数駅のところに住んでいた。京都駅までは真っ直ぐな通りを歩けば辿り着く事もできた。東本願寺でにわか雨に遭って屋根を借り、駅前のヨドバシカメラの地下にあるスーパーで食材を買い込んでから帰った。夏の明け方にバイクで琵琶湖まで走った。祇園祭の宵山を見た。三条のお気に入りのカフェはコーヒーが美味しくて煙草が吸えて、いつも賑わっていた。冬の鴨川の河川敷や高瀬川沿いの桜が好きで、木屋町から祇園へ抜ける小道の小川が好きで、思い出せばきりがないけれど、石畳みを跳ねるように歩きながら私は本当に必要なものや人たちを東京に置きっ放しにしていること、この自由な振る舞いには時間制限があること、もっともらしい理由と確かな結論から逃げている後ろめたさにいつも潰されそうだった。ただただ楽しい毎日の中でいろんなことを忘れたけれど、地に足がつかないまま判断能力をなくしていく自分の不健康さに胸が焼けた。
「アニキまってやした!」
「アニキおもしれえ……」
「おまえ本当はおもしれえって思ってねえだろ」
「アニキ違うっす」
「何が違うんだよ」
おれっちがアニキに初めてカニ道楽連れてってくれたときのこと思い出したんすよね。
アニキ、カニが嫌いだとか言いながら、
おれっちがカニ好きなこと覚えてて、それでも連れてってくれて
声でなかったんす、アニキすいませんでした!」
「ノブオーーー」
「はい!」
「はい!」
なんか以前見た増田で
”たしかに、と言うとき人はカニのことを思い出す”って言うの読んでから
たしかにって聞くたびにカニのことを思い出しちゃって仕方なくなっちゃったわ。
もうあれカニの歌よね。
あれたまに食べると美味しいわよね。
と思いながら食べてみました。
パクパクパク、
いや、まだ食べてなかったけど。
カニかまウォーターと行きたいところだけど、
カニエキスをそこに移すぐらいな風味付けの
今度チャレンジしてみようかしら。
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!カニカニ!
京都って、鎌倉や川越や佐原と並んで有名な歴史観光都市だろうけど、京都に越してきてから何度か行ってみて、失礼ながら「あれ、こんなものなの?」という印象を持ってしまった。
なんだか、鎌倉や川越や佐原にたくさんある古い町家みたいな感じだし、最近洗練されてきてて古都っぽさをあまり感じないし、むしろ神戸最高って思ったり。
お寺や神社の中では、八坂神社がいい感じで、後その近くにある親子丼が美味し、という感じだとか。
あと、鴨川の方にいくと、ドチャクソセックス大好き人間が沢山いて、びっくりした。川沿いにはおしゃれなカフェや由緒正しい料理屋とかがあるんだけど、文化圏の違いを感じて、ちょっと気が引けてしまったり。
なんだろう、面白いんだけど、何度も通うには、もう少し魅力を分からないといけないな、と思うんですが、京都の魅力って、一体なんなんでしょうか。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
実は増田を使うのは初めてであったため(増田の意もさっきググって知った)、このような反応を貰える場所ではなく、投げっぱの便所の落書きLikeと誤解していた。
しかし実際は僕がここ数日間血眼で見続けていた「デート ドタキャン インフルエンザor機会があれば」を見ているより余程心の助けになるのーべるな内容であったことには違いない為、そして安易な承認欲を満たす為、ここに感謝の意を表します。
前日思いの丈を綴り、女系家族のカースト最下位たる僕は風呂が愚妹に占拠されていることを確認した後、羽毛布団に頭のみを突っ込み永久に自己を下げる発言と承認欲を捨てよと続けジタバタしていた。
聞く曲はやさしくなりたい、Shadow behind,虹色バスである。Hikkiは復活後のも良いじゃんと友人と話していたことは忘れた。東京に行ったことはないがやはり東京NIGHTSが好きなのである。ADHDはすぐに話が脱線するのである。
見ざる聞かざる言わざるを念頭に復学後のラボ生活を送ってきた私は他者との関わりを最小限に留めるべく、周りの一つ下となった同期には目もくれずやっていたつもりであったが、だめであった。
彼らはとても良い子達であった。中でも妙に僕を気にかけてくれる彼女は気づいたらまあ勉学の妨げにはなっていた。
バタバタしている途中でそれを思い出し、残り湯の中でこの相手に対して依存的な思考は俺の考えるべき所ではなかったと思い直したのだった。
風邪、本当にごめんね、機会があれば誘ってやってくれ、そして文章の後ろに必ず付く三点リーダーの全てが僕を追い込んでいる。
今まで映画しか誘ってなかったくせに、あわよくば唾棄すべき鴨川等間隔男女女男に参列するつもりだなコイツとニュータイプばりに感じ取られたのか。
しかしまあ、時間的拘束が強まる前に決めてしまおうと言う邪な考えが不味かったんだろうと今では思えている。
当たり前なのだが、インフル発症でわざわざ出る阿呆なぞいない。移してはいけないと言う優しさをも汲み取れる。そういう当たり前の思考すら奪うのであるから末恐ろしい。
NGワードが出た次に行けとはやはり皆さん仰るが、僕だってNGワードな事くらいは分かっておりますとも。
しかしもう一度誘っても構わんだろう、病気だったのだから来れなかったのだ。
わしが若い頃はドライブデートで決めたなどと言うジジイ達の妄言を無視するが如くスルーさせて頂く。そもそも僕は二輪乗りである。
休学中に世話になっていた厨房の裏で君はまだ本当に愛せる子と出会っていないのだなあとバツイチの昔はイケメンだったろうおっちゃんが僕のタバコを吸いながらしみじみと言っていたのも思い出すわけである。
週が明けたら調子はどうですかくらい送ろうと思う、やっぱ歩き回るコースはしんどいから辞めた僕は谷六にあるバーに行きたいのだと言うのである。決めにかかるのも延長だ。また手が繋げればそれで良い。
春からの生活はとっても不安定で、どうしようもなく不安なのだが、恐らく元気になりました!と一言来れば全て忘れるに違いない。
東京おさぼりマップ https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%8A%E3%81%95%E3%81%BC%E3%82%8A%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E2%80%95%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88230%E4%BB%B6%E5%BE%B9%E5%BA%95%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89-%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%A8%E6%86%A9%E3%81%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/dp/4381086287
学生なら大学の空き教室とか保健室とかで寝られるけど、スーツ着てると大学では浮いてしまうかも(大き目の国立大学で院生や留学生がたくさんいるところだと割と目立たないかも。)
京都だと鴨川がある。ホームレスさんもいるけど、昼間から日光浴して半分寝てるおっちゃんたちもいてのんびりしている。東京にもそういう所があるといいけど。
渋谷区で生まれ、そのあたりに30年ほど住んでいる間に東京の学校を大学院まで出た。
数年前に京都でアカポスに就いてから家族で京都暮らし。アラフォー、女、既婚、子供(幼児)有り。
とは言っても、不満がないわけではないのです。
いま思いつくのはこれくらい。東京が刺激にあふれているのはその通りだけど、子供が小さいと夜はでかけられないし、仕事も忙しいし、京都のゆるさがちょうどいい。
故あって左京区内で引っ越すことになった。いやはや、大変ですわ。初期費用が家賃の四倍という相場を聞いていたけれど、本当にそういう額になった。そうでなくてもバイトしながらの健気な院生なのに。金ないので、結局、勤め先の上司に原稿料の未払い分を請求&前借して金を調達した。貯金って必要ですね…。よーく、考えよー、お金は大事だよー。
いろいろと悩んだし、数件は見て回り、ちょっと詳しくなった。京都の賃貸事情は他と違うらしい。時期も違うのでアレだが、おもしろかったので、以下にメモ。
【13:28追記】投稿者が探した物件は単身用・25平米以上・風呂トイレ付
京都が他と違うところは二つ。
1.畳の大きさが広いこと
畳の大きさは「京間」という。ググれば出てくる。また礼金は、最低でも家賃一か月分とられるし、場合によっては三か月もあり得る。更新料は最低でも一か月、多くの場合、2か月分である。なので、二年で更新料がかかるにしても、合計で24か月分ではなくて、27か月分以上支払うことになるし、そこに敷金が加われば、さらに増額。なんとも納得いかない話だ。
いろんな事情があるから一概には言えないが、元不動産屋の友人からもらって役立ったアドバイス。
②家賃は出せる額の最大まで出す(安ければその分環境が悪くなる)
京都の左京区暮らしでおもしろいことが幾つかあるので以下羅列。
京都は人口の一割が学生であるといわれるが、大学数だけでいえば、全国7位である。
http://ozaemon.com/blog/kyoto-student/
1位 東京 138
2位 大阪 56
3位 愛知 52
4位 兵庫 41
5位 北海道 36
6位 福岡 34
1位 東京23区 94
2位 京都市 26
5位 札幌市 14
6位 横浜市 13
大学生の数 143,162人
つまり、京都府下の大学の八割が京都市内に集中している。10人に1人は大学生だ。しかし、そこに専門学校生や厖大な数の修学旅行生も含まれていない。大学数1位の東京23区はだいたい18人に1人。3位の神戸市は22人に1人らしい。
他区とくらべて大学が多い。ざっとあげれば、以下7つの大学がある。京大、工芸繊維大学、府大、精華、造形芸大、ダム女、情報大学院大である。従って市内26校のうち、7校(26%)が左京区に集中している。北区、上京区、中京区、下京区、右京区など他区には、だいたい3~4校前後が設置されている。
左京区は、他区と比べても1.5倍弱は大学が多く、その学生人口は鉄道(京阪)と自然(鴨川)で、三条・四条という京都市の繁華街と直結している。左京区の状況は他区でもある程度までは言えることだが、それでも少しばかり状況が過密だろうという話。
余談だがマンションの購入という話になると三条・四条あたりの中古物件でさえ、数年で1,000万円単位で値上がりしたとも聞く。たぶん他府県では、こういう意味不明な状況はないのではないか。
また京都市を訪れる観光客数は年間約5,500万人、うち宿泊者数は1,300万人超、外国人が180万人程度である。訪日外国人の7人に一人が京都に泊まる。つまり体感として、京都市の中心部(三条・四条)では、5人に一人が学生か外国人になる。加えて、歩けば分かるが、住んでいる人間よりは観光客の方が圧倒的に多い。おそらく修学旅行生や国内の観光客を含むと、かなりおもしろい数字になるのだろう。
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/chosa/image/kanko_chosa26.pdf
移民政策の是非は置いておくにしても、移民受入れ後の日本の日常生活は、京都の三条・四条を歩けば体感できると思う。ということで、左京区暮らしの所感。普段みれないところを案内するから、みんな遊びにきてね。
なんか色々反応くれて有難う。まあ、ただの所感だから気にしないでくれ。個人的には、良さげな物件に明日引越なので、まあ良かったかなと思っている。いままでは北大路付近だったが、今度は丸太町沿いになる。大学までの距離は変わらないが、良かった。広くて安い家もたくさんあるし、とにかく安い家もある。また事故物件も検索すれば出てくる。とくに「心理的瑕疵物件」とか何だよ、と思うが、皆さん良いところ見つけて好きに住んでください。左京区楽しいよ。
京大生のなかでは"鴨川デルタ"と呼ぶひとばかりで、"鴨川三角州"と呼ぶ人がいるのを初めて知りました。
京都の出町柳駅のそばには、賀茂川と高野川の合流地点がある。土手から対岸の土手まで亀石と呼ばれる、人が乗れる石が点々と置かれているので有名で、通称「三角州(または鴨川三角州)」。
が、なぜか最近の観光ガイドやネットの情報だと、ここは「鴨川デルタ」という通称で紹介されている。はて?
あの場所をそんな呼び方で呼ぶ人なんて見たことないぞ。しかも「鴨川デルタの愛称で知られる三角州では~」といった意味不明な記述もあったりする。前述のとおり三角州も通称であり、正式名称は「鴨川公園」のはず(行けばわかるが、鴨川公園と彫ってある石の看板がある)。
最近、地元のイベントであり、この場所が集合場所となっていたが、ビラには「集合場所:鴨川三角州」となっていたので、自分の周りでしか使っていないというのも考えにくい。あそこは地元では「三角州」の通称で間違いない。
誰が「鴨川デルタ」なんて言い出したの?そして誰が使っているの?