はてなキーワード: 頭が悪いとは
https://anond.hatelabo.jp/20201217153037
はてな村にはほとんど中流階級のおっさんおばさんしかいないということを忘れてしまうことだ。
自分たちがめちゃくちゃ狭い価値観の中に生きているということを理解してない。
そのせいでフェミニズムの議論の時に弱者女性の話はめっちゃするくせにオタク女の存在をだいたい無視するし
少女漫画って言った時に少女向けなろうマンガの存在をだいたい無視する。
あとマンガの話をするときだいたいジャンププラスの話ばっかりしててpixivマンガやニコニコ静画やComicWalkerやコミックガンマの存在を無視する。
未だに若い子がコンビニで雑誌の立ち読みをしてると勘違いしてる。
ここら辺のトップページにあるマンガの話をないものとして扱ってる
https://seiga.nicovideo.jp/manga/?track=global_navi_top
https://comic-walker.com/girls/
https://webcomicgamma.takeshobo.co.jp/
人によってはLINEマンガのトップページに出てるマンガですら存在を無視する。
https://manga.line.me/periodic/gender_ranking?gender=2
そのくせ、自分たちはマンガについて詳しいと勘違いしてやがるのだ。
花とゆめを読んでる自分たちはもはやロートルであるという自覚すらない。コミックパークって名前知ってる?それすら知らんひとおるやろ
お前らは自分の観測範囲や感性が極端に狭いということをもっとよく理解すべきだといいたい。
といいつつ、自分もめちゃコミ読んでる女性はちょっと…って思ってるからあんまり人のことは言えない
よくも見破ったな。ゆるさん…
ほっとけば愚連隊組織して集団強姦やカツアゲや犯罪しそうな血の気の多いDQNどもを隔離しておくという意味で野球やサッカーやらせてる日本人の先人の叡智があの甲子園とか花園なんだぞ
そういう野球やサッカー崩れの就職先なんてアポ電強盗の実行犯かオレオレ詐欺の受け子とか見たいな半グレしかないわけで
頭が悪いから武器といえば知ってるバットや鉄板入りブーツで武装している程度で済んでいるのが
室町時代みたいに弓矢や薙刀で武装するようになる可能性さえあるんだぞ
なんで「うるさくて無秩序で荒れてる」って意味で動物園って言うの???
サバンナ(訂正:サバンナも基本的に静かそう)とか猿山とか言うならまだわかるけど、動物園ってうるさくもないしむしろメチャクチャ秩序立ってるだろ
一つの檻というか展示場に入ってる動物はせいぜい5匹とかだし、見ててつまんないくらい動きがないことのほうが多いと言ってもいいくらいだ
30〜40人がいち教室に詰め込まれて、延々ギャーギャー言い続けてる状況の例えとしてはどう考えても不適切でしょう
3.動物園だ!
っていう単純極まりない愚かな連想ゲームなんだろうけど、全然的を射ていませんよ
俺はこういう、雰囲気だけでまったく適切じゃない比喩ってものが許せないんだ
冷静になって思い出してみよう!動物園に入って「うるさいな、荒れてるな」なんて第一に思うか?そんなこと思う園はアカンでしょ
まあ日曜なんかに行ったら多少はうるさいかもしれないぜ 少なくとも超静かってことはなかろうな
でもそれ、うるさいのって誰ですか?
人間だろうが うるさいのは人間のガキなわけ 人っ子ひとりいない動物園に行ったら、まず間違いなく第一印象は「寂しいな、寂れてるな、静かだな」でしょ 動物園の実力というか本質はむしろそっちなんだ 本来静かなもんなんだ
うるさいとしたら人間なワケ それをよ、うるさい中学校の比喩として「動物園」ってのはどういう了見だい?
どっちもうるさいのは人間って点で被ってますね 動物を巻き込むな バカなのも騒ぐのもカスなのも人間だよ
遊園地とか言った方がまだマシだよ 「遊園地みたいにうるさい学校」って言われてイメージされる遊園地のうるささは、遊具のうるささじゃなくて人間のうるささでしょう
とにかく俺は許せない ヘタな比喩で噴き上がっている皆さんが許し難い
「低学歴の人間を動物呼ばわりしていいのか?」とかいう前に、そもそもどんな比喩なんだってことに思いを馳せよう
公立中に通ってるガチのヤンキーというか不良というかアホというか、彼らのうるささ・素行の悪さは動物の比ではないです
意味わかんねえ比喩なわけ 流石に動物より頭が悪いってことはない以上侮辱的な雰囲気はあるんだけど、意味わかんなさの方が勝つでしょ
公立中はヤカンを同時に30個沸かしてるキッチンだった!とか言われてもハア?って感じじゃん 人間を無機物であるヤカンに例えるとは何事だ!ってなんねえじゃん 何言ってんの?で終わりですよ
それでいいんだ
俺はそう言いたい
子供の頃から、将来なりたいものなんてなかった。周りは漫画家とか、学校の先生とか警察官なんて言ってたけど、僕には才能も責任感も根性もないのがわかっていた。だから普通のサラリーマンになるんだと思っていた。が、高校生くらいになると、その普通のサラリーマンさえ自分には務まらないのだと悟った。端的に言って頭が悪い。努力が嫌いだし、あらゆることに興味が薄く、他人や会社のために貢献したいと言う気持ちが皆無。
8歳上の僕の姉は、同じく何の取り柄も夢もなく、容姿も十人並みながら、22歳で15歳年上のバツイチ会社役員と結婚した。旦那は僕から見てもまったくモテそうになかったが、レジ打ちもまともにできない姉は仕事から解放され、毎日犬の世話とできる範囲の家事をしながら何不自由なく暮らしている。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、僕の友達には僕ら姉弟と同じで何の取り柄もなく(以下略)な奴が多かった。姉の話をするたびに、彼らは「女はいいよなぁ、俺も金持ちと結婚して専業主婦になりてぇ」とため息をついていた。そこには「女は何の苦労もなく養ってもらえる」と言うニュアンスがあったが、僕はそれは違うと思った。僕を可愛がってくれた姉は、特段才能はなかったが、何も考えていないわけでも、努力をしていないわけでもなかったのである。
例えば、姉は本来ビジュアル系バンドのボーカルのような中性的のイケメンが好きだ。が、そこを大幅に妥協して、容姿的には小太りで禿げたおっさんを選んだ。そのおっさんを選んだと言う事は、そのおっさんの臭い靴下を洗い、おっさんとセックスをし、場合によってはおっさんの子をつわりや体調不良に耐えながら出産し、20年面倒を見ると言うことである。これは大変な覚悟である。
姉は自分が美人でない事は気づいていた。だからこそ、20歳を過ぎてすぐに結婚相手を探し始めた。若さが武器になることを彼女は分かっていたのである。そして、収入以外の条件を緩めに緩めて結婚相手をゲットした。たくさんの男性に会って、気に入られるように振る舞い愛想振り撒いただろうし、時には女に相手にされてこなかったおっさん特有の不愉快な言動にも耐えたのだろう。たくさんのおっさん・非モテの中から比較的マシで自分を選んでくれる男を選んだのだから、我が姉ながら若い身で大した決断力と判断力だと思う。素直に見習おうと思った。
僕も決してイケメンではない。ないが、10歳以上離れると容姿のジャッジが甘くなるらしい。太っておらず、肌が汚くなく、清潔感のある格好をしていれば、可愛い男の子に見えるものらしい。そんな『可愛い男の子』から、「女性として見ている」と言われると、女性たちは思った以上に動揺してくれた。心が揺れるということは、まともな判断が出来なくなるということだ。一時期はセックスなしで家賃を払ってくれる人もいた。
僕は勉強も労働も苦手だし、何より男性に叱られるのが1番苦手だった。だからアルバイトなんかも大体途中で投げ出すことになる。社会不適合者。一方で、女性の機嫌をとることは比較的向いているようだった。言ってほしいことをタイミングよく口にする、いつも味方だよのスタンスを崩さない、あなたは素敵だよを実感させ、たまにはストレスの吐口になる。これらを守れば、女性に生活を支えてもらう事は思った以上に簡単だった。かくして僕も25歳で姉と同じく15歳ほど年上の女性と結婚し、今も彼女に養ってもらっている。子供はおらず、親戚付き合いもほとんどないので、気楽な生活が続いている。これが永遠に続いて欲しい。
たまにネットでは、女性は男性を養う気がないなんて言われているが個人的にはそんなことないと思う。養う力さえあれば養ってくれるはず。養いたいと思う男ならな!
養われるために自分を殺してファッションと身だしなみに注意して、自己主張をせず、相手の言い分をよく聞いて、時には媚び、うざがられない程度に主張し、相手の顔色を伺い続ける。そういうことができる男なら、養われるチャンスはいくらでもある。また、それに早く気づけた男なら。女は若いうちからそれに気づいて、容姿を磨いたり聞き上手になったりしている。
僕が何も意識せず、無頓着な服装と女子ウケしない趣味の道を爆走し、好きなものだけを食べ太り、ニキビを顔中に作っていたら。その上、コミニケーションを学ぶ事なくいい年こいて「女性と話すのは苦手です、口下手なんです」なんて言っていたら、当然養われるなんて無理だったろう。
だから養われたい男性は、まず努力しろ。頑張れ。頑張れば道は開ける。そして妥協し、理想的でない女性を愛する努力をしろ。どんな相手でも、求められたらセックスができるか?これが何だかんだで1番キツいぞ。セックスをしたいと思ってもらえる見た目をキープできるか?女性に合わせて生活ができるか?オチのない話を楽しそうに聞き、その上で褒めどころを見つけられるか?あらゆる場面で女ウケする意見が言えるか?一度考えてみてほしい。
先日、買い物袋を持参して、ある日用雑貨チェーン店で買い物をした。
これには驚いた。
つまり、客であるこちらは、商品の山の下から袋を取り出して、つめる作業が待っている。
それをその店員はぼーっと突っ立って見ていて、フリーズしている。
それによって、多少気分がよいのか、あるいは単純に頭が悪いのかは知らない。
ワイ「すいません、客の持参の袋には入れてはいけないってルールなんでしたっけ」
ワイ「なるほど、その時の気分で入れたり入れなかったりできるんですね」
これは店員がわるいというより、経営オペレーションの話である。
「5年以内にセルフレジに完全移行し」
「バカでもチョンでも」という慣用表現における「チョン」とは「朝鮮人」を指す差別用語である――
という言説に対し、
――「バカでもチョンでも」における「チョン」は朝鮮人のことではない
とする反論がなされて、いまではそれが定着している。
頭が悪い人に対する「ちょん」という蔑称は江戸時代から存在しているので、朝鮮人に対する蔑称とは別物だ、というのがその主張である。
まず、その頭が悪いという意味での「ちょん」の語源はどう語られているのか、と調べてもはっきりしない。
拍子木の「ちょん」という音に由来する説と、「ゝ(ちょん)」という踊り字に由来する説とが一応あるが、それがどうやって「頭が悪い」という意味になったかの説明は曖昧である。
公益役職などにおける役務を帳票に記す際、筆頭名主は役職名と姓名を記したのに対して、筆頭以下の同役に対しては「以下同役」の意味で「ゝ(ちょん)」と略記したうえで姓名を記したことに由来し、「取るに足らない者・物」を意味した。
などとWikipediaに書かれていて多少の納得感があるが、これは定説にはなっていないようである。
一方で「ちょん」の最古の用例として挙げられるのが、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』である。
ちょん
[名]
4 俗に、頭の悪いこと。また、おろかなこと。
「ばかだの、―だの、野呂間だのと」〈魯文・西洋道中膝栗毛〉
しかし、「ちょん」の用例が、明治三年の『西洋道中膝栗毛』よりも遡らないのであれば、そもそも江戸時代からあったとする話は怪しいのではないか。
西洋道中膝栗毛での実際の表記は「馬鹿だの豚尾だの野呂間だの」で、「豚尾」に「ちょん」という読み仮名がついており、これは明らかに当て字である。
日清戦争(明治二十八年)の頃には、中国人の蔑称として「豚尾」「豚尾漢」などが使われていたらしい。
明治三年の時点で「豚尾」と「中国人」が結びついていたかは定かではないが、仮に「チョンは朝鮮人ではなく中国人の蔑称だった」なんてことになるとややこしさが極まってくる。
あるいは、「バカでもチョンでも」という表現は、明治や大正の頃でさえ広まっていなかったのではないか、という疑問もある。
調べてみても『西洋道中膝栗毛』の他に同時代の用例は出てこない。
Google Booksなどで検索してみても、どうも広く使われるようになったのは昭和に入ってからだという感じがする。
一方で、朝鮮人が「チョン」という蔑称で呼ばれるようになった時期はいつごろだろうか。
こちらの時期もはっきりとしないが、戦前に遡ることは確実である。
となると「バカでもチョンでも」が広まった時期と「朝鮮人=チョン」が広まった時期とが接近してくることになる。
朝鮮人のことを「朝公(あさこう)」と呼んでいたのが「チョン公」となり「チョン」となった、というのが一応の定説である。
が、頭が悪いという意味の「ちょん」と掛けて朝鮮人のことを「チョン」と言うようになったという説もある。
そうであれば無関係どころかがっつり関係している気がするが…。
1960年代に自動露出のコンパクトカメラが発売されて「バカチョンカメラ」と呼ばれるようになった(ただしこれはVacation Cameraの日本語読みという説もある)。
一種の流行語のように気軽に「バカチョン」と言われるようになったのはこれ以降である。
それから1975年には三笠宮崇仁親王が言った「バカチョンカメラ」が差別用語とみなされて抗議を受けたという。
以降、散発的に抗議が起こり、「バカでもチョンでも」は差別用語である、とする認識が1980年代に形成されていった。
「バカでもチョンでもは朝鮮人のことではない」といったカウンターが盛んに言われるようになったのは1990年代からか。
以上から、「バカでもチョンでも」のチョンはやはり朝鮮人のことであった…などと強弁するつもりは、もちろんない。
ここで言いたいのは「『ちょん』という蔑称は江戸時代から存在していて朝鮮人に対する蔑称とは別物だ」という主張は怪しいぞということだ。
いわゆるコンピュータサイエンス系の大学院ちほーでしゅうし?をもらったのででっかい会社ちほーでソフトウェア?の開発?をしているのだ!もう10年になるのだ!
すごいのだ!「何が分からないか」分かったのだ!これができるフレンズはすごいさいのーがあるのだ!
ふわっとした「なにか」をコレとコレとコレ、って拡大して見れるのは頭が良いのだ!
仕方ないのだ!ふつーのフレンズは何がわかってるかもわからないからだ!
アライさんのちほーでは「何が分かってますか?」は親切な質問だけどそとのフレンズは怒り出すのだ!むつかしいのだ!
ちょーしにのってはてなだいありーを書こうとしたら記号の書き方が全然わからなかったのだ!むかつくのだ!
>って入れても半角の>にならなかったのだ!なんなのだこれは!
アライさん落ち着くのだ。
そんなことないのだ!さっきも言ったけど「コレがわからない」ってちゃんと言葉で書けるのはすごいことなのだ!
アライさんはそこそこたくさんのほん(ぶんしょう)を読んだことがあるので、ダメなほんがたくさんあることを知ってるのだ!良いほんか良いほんを知っているフレンズを探すのだ!
わからないのはきみのせいじゃないのだ!
アライさんはマジなのだ。教科書を読んでわからなかったら教科書がわるいのだ!違うほんを探すのだ!
アライさんは1年にいっかいぐらいは新しいおしごとをはじめるけど、基本わからないことしかないのだ!
わからないことばがでてくる>調べるとわからないことばでせつめいされてるのだ!なんなのだこれは!
そんなときアライさんはフェネックに聞いたりするけど、はんぶんはフェネックもわからないのだ。つまり誰もわからないのだ。
そういうときはもっといっぱい調べたり、フェネックのフェネックに聞いたりするのだ。それでもそのまたはんぶんはわからないままなのでそこはほうっておくのだ。
それぐらいになると、なんとなくおしごとが進められるようになるのだ。よかったのだ。
わからなくてもフェネックはアライさんのこと怒ったりしないのだ。みんなわからないこといっぱいあるのがふつーなの知ってるからなのだ。
フェネックはすごいけど、アライさんがとても頑張ってるおしごとについてはフェネックわからないので、フェネックにおまかせされてるのだ。
そうやってみんなでつぎはぎして大きなパークをうんえいしてるのだ。
つきつめてしまうと人類はCPUがなんで動いてるのかわからないのだ!ゲージ粒子?なんなのだそれは!
ゲージ粒子のことがわかってるはかせも、やっぱりアライさんのお仕事はアライさんしかわからないのだ。
アライさんうちゅうちほーの本も読んだりするけど、やっぱりわからないままのこと多いのだ。
すごいのだ!わからないことを調べると、少しわかって、だけどわからないことがもっとでてくるのだ!
エンジニア歴の浅いヒヨっ子だけど、めっちゃわかるって思って泣いた。
自分は文系だけど一応大学は出てる。世間的には頭悪くはないかもしれない。
基本情報の勉強は楽しかったし知識詰め込むタイプの勉強は得意だった。
そもそも「頭が悪い」ことがITを理解できることに直接関係していないことはわかってる。なんというか、モノを理解できないときに「頭が悪い」っていう表現をするのはちょっと雑すぎると思う。
いろいろ考えた結果、「頭が悪い」って表現が適してる気がする。
1. 作りたい処理を自力で実装できなくて同僚に質問して教えてもらうところ。でも教えてもらったやり方は知っているやり方で、ドキュメントでも読んだことあるやつ
2. (技術的ではない)問題が発生したとき、簡単な解決法ではなく手間のかかる解決法しか思いつかなくて、「こうしたらいいじゃん」と言われて「冷静に考えればこうしたらいいのは当たり前だな、なんで思いつかないんだろう」と思う
3. 日本語の文章読んだときも、ライブラリのソースコード読んだときも、とにかく理解が遅い
4. 理解しないと覚えられない
1つめは、やり方の存在は認知してるけどそれを使うことができないから自力でできないんだと思う。
思えば自分は数学が苦手で、単純に計算ミスが多いのもあるけど、習った公式を使って応用問題を解くのができない。どの公式使ったらいいかわからない。エンジニアとしては致命的かも。
2つめは、よくわかんないけど解決策を精査し足りてないのではと思っている。まあでも時間かけたって思いつかないものは思いつかないと思う。
でも上司はいつだって最短経路で最適な解決策を導き出す。それは経験なのか、知識なのか、能力なのか、どれでしょうか。
3つめが、最も自分が「頭が悪い」と思うところ。何度も同じ説明されて、それを何度も聞いて/読んで脳内で噛み砕いて、理解したと思って自分から「つまりxxってことですか?」って質問して違うと言われたりしてまた確認して、それを何度かやってやっと理解する。
ちなみにそれは大抵、しばらくして同じもの読んでも「あれこれってどういうことだっけ」となってまた同じ説明聞いて同じ質問する。
質問すること自体は悪くないと思うけど。要領が悪い、頭の回転が遅い、とかが表現としては適切そう。だけど総合すると「頭悪い」んだなと思う。
4つめは、「理屈はわからんけど記憶する、使う」ができないのが問題。昔から自分は理屈を理解しないとスッキリしないし、応用することができない。公式がどうしてそういう公式として導かれたのかを理解しないと、応用問題で使えない。
元増田でも誰かが言ってたかもしれないけど、ライブラリの中身を完全理解しようとせずにただ「使用者」になるべきなんだけど、理解できてないとドキュメントの写経しかできない。
あと基本情報では「どういうこと?」ってなった分野は全然覚えられなくて正解率低かった。
5つめはそのまんま。ある作業中に他の仕事頼まれたら、あとでやるか今やるか判断するためにどんな内容なのか見る。内容の中で気になることがあって調べ始める。そこでメールの通知がくる。メール読んで返す。
ここで急に「そういえばあれやらないといけないんだった」と思い出す。やり始める。定時になって元の作業は全然進んでない。
あとちょっと似てるけど、アプリケーションのソースコード読んでてAの関数がわからなくて、その定義元を見る。するとその中で見慣れないBという関数が出てくる。
Bの定義元を見る。Bはライブラリの関数だった。Bの中身を読んで理解した時にはなんで今自分がBの中身を読んでたのかわからなくなってる、というのも悩み。
前にADHDのエンジニアのブログ読んで完全に自分だと思った。ADHD詳しくないけど。
プログラミングに才能は関係ないという。けどここまで来るとエンジニア向いてないかもしれない。
厄介なのが好奇心があって、現代日本でなくてはならない存在となったIT技術がどうやって実現されているのか知りたいし気になること。(元増田も好奇心あるタイプに思う。)
あとはものを作ったり、書いたコードが動いたり、技術で問題を解決できるとすごく嬉しいし楽しい。
けどそれ以上に自分の頭の悪さ、無能さに絶望することの方がつらい。耐えられない。頭が悪いせいで仕事もろくにできなくて周りにお荷物と思われてると思う。
正直今仕事楽しくない。転職する夢ばっかり見る。他の職種の方が向いてるかもしれない。前職はサービス業だけどもはや向いてるものなんてないかもしれない。頭悪いから。
でもなんかそれって「出来ないことを克服せず、耐えられなくて逃げた」ことになる気がして、変なプライドのせいと、度胸ないせいで別職種への転職は決断できない。
プログラミングで主にやる事は下記の2つ。
①IFでAかBを選択させてどっちかの設定を実行
②Whileで決められた回数分繰り返す
とてつもなく複雑で冗長な処理によって実行されている。
わかりやすいので画像処理でいうと、数十万から数百万の画素(RGBAの24bitで表される数値)を小さなブロックに分解し、数学的に周波数の重なりとして計算して変換、含まれる頻出パターンをテーブルにして圧縮伸張を行なう。みたいなことが瞬間的に行われている。
「まさかそんな事できるわけないだろ」というレベルの処理が実際に行われており、これまた直感的でない。
だからそれをどう書くんだよ。という答えはコレ。有名なjpegの実装だ。
libjpeg というライブラリを書くことはできるだろうか?画像の圧縮の理論から考え始めることはできるか?
正直無理だ。自分はプログラマだがそんなに数学が得意ではなく、頑張ったとしても下手するとコレを作るのがライフワークになってしまい、他のことができなくなる。
例えばブラウザを0から作るとして、jpegの処理以外にも画像だけでpngとかgifとかwebpとか、その他もろもろとてつもない作業が必要になる。
「とてつもなくて想像もできないので流石に無理だろう?」
いや、でも、実際動いてるのよ。ここ何十年、コツコツと積み重ねて実現している。
「積み重ね」とはライブラリであったりフレームワークであったりOSであったりする。
「どういう風になっているのか」
外部に向けたインターフェイスがどうなっているのかは理解する必要がある。「使う」ために必要だからだ。
この2つは分けて考えなければならない。
ちなみに、たとえばChromeのコアであるChromiumはのコードはコレだ。
つまり言いたいことは、実際に動くアプリケーションというのを作りたいのにも関わらず
プログラミング入門書は、これで判定と繰り返しという基礎ができますと言うだけ。
これがもう滅茶苦茶イライラする。
「これで判定と繰り返しという基礎ができます」というのが基本的な理論(定理的なもの)で、その他に必然的だが唯一無二ではないベストプラクティスというものがある(法則的なもの)。
後者をうまく説明する入門書に出会っていないんだろうな。という印象。イライラはやめよう。つかれる。
ベストプラクティスはいろいろあるのだが「層の構造にする・レイヤーに分ける」というのは重要なアイデアだ。
libjpegというのはjpegの処理を行う「ライブラリ」だ。他のアプリケーション...たとえばブラウザはこのライブラリを「使う」。
ブラウザではjpeg画像の圧縮展開というとてつもなく難しい処理を「libjpegの使い方」の理解までで済ませ、過去の蓄積であるlibjpegのコードを利用することで真の意味で0から実装しないようにしている。
この場合、libjpegが「低レベル・低レイヤー」の存在であり、中身については「使い方」つまり「仕様」の理解までしか行わないことで、実際に作りたいものを作れるようにしているわけだ。
完成しているプログラムは二例ほど挙げたがどうですかね?
複雑なことをする、特に低レイヤーのコードはとてつもなく難しい。
でも、とりあえずこんな感じのコードなら解るよね?
こういうレベルから理解して、ちょっとずつ難しい処理を学んでいくしかない。
ハードルは高いんですよ。実際。
なので、木材からだと難しいからプレハブのキット的なものを探すとか、ログハウスのカタログを読むとか、あるいは100人乗れる物置を買うのがいいかもしれない。そういうところから始める。
それらがフレームワークであったりライブラリであったりする。目的に合うものを探して、自分がやりたいことをどう実現するかとにかく考える。
「テキシコー」https://www.nhk.or.jp/school/sougou/texico/ で言われる通り、「小さく分けて考える」「手順の組み合わせを考える」「パターンを見つける」「大事なものだけ抜き出して考える」「頭の中で手順をたどる」をひたすら実行する。
unityはコードが公開されているので、本当に読みたいなら。。
オブジェクト指向は一旦忘れよう。
オブジェクト指向の「隠蔽」というのは層の構造が持っている重要な要素ではあるけど、「低いレイヤーについて考えない」のが基本的な作戦だという理解の方が重要だ。
前述の通り「できる限り作らない」んですよ。「使う」だけ。知るべきことを最小化する。
そして本当に作るべきものに関しては、利用する下のレイヤーのライブラリなりを探して・仕様を理解して、どう組み合わせてfor, if, あるいは計算させれば実現できるのかをひたすら考える。
単に翻訳がしたいのか?表示に割り込む方法を知りたい?日本語に翻訳するのは実行時なのか開発時なのか?
要求される表示エリアが言語によって異なるために、デザイン調整が必要になる問題をどうするか?
分解が甘いので何をしたらいいか調べることができないんだと思う。
ちなみに、アプリ内の文言というのはアプリの外部から変更できないように実装されている事が多いので、利用者が上書きする仕組みはかなり難しい。
AndroidなりiOSの仕様にもそのへんに割り込める機能はないはずなので、OSの開発に入っていく必要がある。結構大変だとおもう。
アプリの開発者が、そういう機能を備えた多言語化のためのライブラリを使うようになれば実現可能ではあるので、そっちの方向で頑張るのがおすすめだが、英語圏の開発者には多言語化のモチベーションが低いという基本的な問題はあるのよね。
この辺の「できる・できない・むずかしい」の判断は、いろいろな勉強をすると常識としてある程度みえてくる...気がする。
ついでに。ウェブサイトやウェブサービスの翻訳だとこういうサービスがあったりする。
ブラウザはページの描画処理のなかに割り込む余地が大きく取ってあるので、ブラウザのExtensionとかならできることがいくらかあるかもしれない。
個人的に気に入らない話はOSのアップデートは使いやすくなるからとてもいい事だからすぐにやった方がいいと宣伝されている事。
まあ、半分は嘘だよね。古いものが残っていると先に進めないんだよ...。
現在のクライアントOSは、巨大なプラットフォームのパーツの一部として理解したほうが正しくて、古いパーツが残っているとツライんですよ。
そして「サービスを受けるための道具であって、あなたが何でも好きにできる機械ではないです」みたいな世界になりつつあって、ちょっと問題と言われてもいる。
これはかなり困った傾向なんだけど、全体としての流れはあんまり変わりそうにない。
オブジェクト指向好きですな...。ここではオブジェクト指向は特に気にしなくていいですよ。
とてつもなく複雑なことをやっているために、すべてのバグを潰すことはコストが高すぎてできないんですよね。
それよりバグは未来を先取りするコストと考えて、本質的に価値のある機能を増やしていくというのが基本的な方向になっている。
だからパソコンはたまに不具合を引き起こすんです。しゃーない。
しかし中途半端に理解している老人などは、そんなことじゃ分からん。自分に分かるように説明しろと言い出す。
説明は出来る。しかし相手はイライラするし理解されない。よって説明をしてはいけないという状況に追い込まれる。
ここでどうすればいいのだと理解不能に陥る。
まあ、説明って得てして難しいよ。しゃーない。
そのとおりです。
オープンソースのプロダクトなら原理的には調べられるけどね。Androidとかはオープンになってる。
それを許容することで先に進んできているという事実は受け入れたほうがいいと思う。
「把握・理解可能な範囲」に留めていたら、数十年前のコンピュータの世界から抜け出せなかった。
deep learningの世界ではそれがより一層進むかも。この辺は詳しくないけど。
ここでの「理解」についてはそのとおり。これはもう諦めるしかない。
これが常にある。IT関連は常に新しい情報が出てくるのでそれに送れると無知になってしまう。
なんでこんなことも分からないんだとか言われ放題で、IT系の企業に努めている人は常に新しい知識を入れられる
面倒くさがらない人が向いている。
「面倒くさがり」の方が問題に気づいて「頑張って面倒じゃなくする」ことができるので、プログラマにとっては美徳なんて言われますけどね。
同時にくじけないとか諦めない、しつこいみたいな素養は必要かも。
応用まではとろうな。がんばれ。
このへん自分も知らんですよ。べつに全部知っている必要はない。
(追記: はてな記法の引用すらもさっきまで知らなかったしな!そんなもん)
層の構造をとっているということと関係があるんですが、仕様が変わると、その上に乗っているものを全部なおさないといけないんですよね。
でも革新のために互換性を捨てなければいけないケースも多い。このへんはハードでもソフトでも同じ。
そして、メンテのコストが上がっても使い続けたほうがトータルで安上がりという場合は、古いものが残ってしまう。
あるいは「(多少の問題はあっても)動いているものは変えるな」という経験則から意図的に残す場合もある。
西暦2020年にもなって、プログラミングが簡単には出来ないし、ハードウェアの規格も完全に統一はされていない。
というかプログラミング言語自体多すぎる。ソフトウェアはデファクトスタンダードのモノ程度は知っているが、
ぜんぜん完成していない荒っぽいものを目にしているのだと理解したほうが的確。
それなのに毎日理解のできないパソコンやスマートフォンを使っている。
オブジェクト指向のおかげ様だがオブジェクト指向に対して無性に腹が立つ。
自分の全く知らない場所でいけしゃあしゃあと演算を行い、そして結果を出す。それも大半が正しい結果で
利便性が抜群だ。些細なミス(バグなど)はあるが圧倒的に利便性が勝っている。
そんな道具に踊らされている自分が滑稽だ。理解できない愚かな自分は正に機械の奴隷のようだ。
本当に理解できない。辛い。
勘違いしてはいけないのは、それらはすべて先人の努力の蓄積によって成り立っているということ。
「よくわからないけど存在している道具」ではなくて、信じられないほど複雑だけど、多くの人々の行動によってなんとかかんとか実現した道具なんですよ。
「オブジェクト指向のおかげ様」じゃないんです。(もちろんオブジェクト指向というのも大きな発明の一つですが)
そしてブラックボックスとして使うのは多くの場合正しいです。そこは諦めましょう。
でもエンジニアとしての立場からは、その裏に隠れているとてつもない技術や思考の蓄積に感動してほしいなと思う。
人類がこんなもん作れたのって、かなりすごいよ?