はてなキーワード: 難関大学とは
横だけど、実質、中で大学別選考が行われてるのは当たり前としても、
選考基準として、"旧帝大以上限定"とかって書いちゃうのは言うのはOKなの?
"大卒"は1つの資格だから問題無いと思うけど、大学別になると差別になるかと(実際選考の際にされてるんだから明らかにしとけよ、ってのはまた別の話として)。
そういうのって書いてある公募って実際あるの?
何も持ってなかったら仕事しちゃ駄目なのか。
こういう事が言える奴は、実際に求職した事ない低レベルの奴しかいねえよ。
そもそも、高学歴が欲しいなら、希望要件に大卒以上だとか難関大学尚良しとか書いてるもんだぞ。
どうせ学歴:不問とかにしてて、且つ経験や資格も不問とかしてるんだろうが、それで低学歴ばかり来るって嘆いてるんじゃ
また、その人を見下したような書き方だが、第三者が見たらどう思うか、考えてないだろ
端的に言えば、他者への配慮がないからレベルが低いって言ってんの。
言ってる事は概ね同意なんだが、書き方がとにかく人を見下してる。そんな会社、高学歴でも敬遠するわ。
増田は初めてか?肩の力抜けよ
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その後、空っぽになった僕は地元に連れ戻され、予備校の寮に叩き込まれて今に至る。休憩時間にこつこつと書き続け、ようやく回想が終わった。
結局、どこで間違えたのか。学校を選び間違えたのだろうか。何かのイベントや団体を組織しなかったのがいけなかったのか。そもそも東京に行ったこと自体が間違いだったのか。
皮肉にも夢破れて地元に帰り、死人のように予備校で勉強しているうちに、今更ながらわかったことがある。
「何事も基礎が大事」ということだ。W塾の先生が言ってた「前提」がそれだ。
勉強も、基礎がわかっていないのに発展問題をやろうとしてもそれは無理があるのと同じで、一高校生の身分で大学生や社会人の真似事をやろうにも所詮限界というものがあるのだ。
ここまで読んでもまだ、「いや、コイツは残念に終わったけれどオレはビッグな高校生になれるはずだ!」とか、「何言ってんだ、マークザッカーバーグやスティーブジョブスを見ろ。彼らは皆学校を蹴って新しく起業したんだ」とかいまだに思い過ごしている学生がいるかもしれない。
断言する。お前には無理だ。
「何を言う!まだわからないだろう!」と、画面の向こうから叫びが聞こえてくるが、言い分としてはよく分かる。かつての僕も同じだったから。
だがな、じゃあ何でそんなに崇高な志を持っているのに呑気にPCしてこのダイアリー見てるんだ?
本当の意味で「突き抜けている」学生は、たいていの場合自分が突き抜けていることにさえ気がついていない天才肌なのだ。確かに、「これこれこうで、こうしたいから自分はこうする」と、自らの情熱を制御して結果的に周りから見て突き抜けている学生も、いるにはいる。片手で数えられるほどには。
それ以外は、「気がついたら自分は周りから持ち上げられていて、テレビや雑誌からも取材を受けて、なんか大学にも推薦で合格していた」ってタイプだ。
これは起業とかにもいえるだろうが、どちらにしろ、本気で高校生時代に才能を開花させ、抜きん出ることのできる学生はほんの一握りだということを肝に銘じておいたほうがいい。あくまで僕の予測だが、そんな人は興味を示し集まってきた中で一万、いや十万人に一人いるかいないかだろう。
それでも自己顕示欲、フロンティア・スピリットとやらを押さえつけられないのならば、それは仕方ない。どうぞ自己責任でご存分に持ち前の力を発揮してくださいとしか言いようが無い。
今更になるかもしれないが、僕はそのとてつもないエネルギー自体は否定していない。成功して世の中のためになることもあるからだ。だけど、たいていの場合よく分からない方向へ向けられて、結局エネルギー切れになって方向性もうやむやになり没落する、それをもう見ていられないのだ。そもそもそれは今やるべきことなのか。
W塾でのあの一件以来なんとなく考えていて、地元に帰ってくる羽目になってようやく気がついたことがある。
何事もやはり学力が大事・・・なことももちろんそうなのだが、どうやら僕がそれに気づかない「空気」の中に3年間ずっと浸り続けてきたのだ。
例えば、脳科学者の茂木健一郎氏が、自身のblog上でこんなことを言っている。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2013/03/post-cfd5.html
然るに、「偏差値という縛りから日本の大学は早く抜け出すべきだ」とでも言いたいのだろうか。
しかし、その茂木氏のWikipediaを見てみると何だ。出身校に日本の最難関大学の名前が出てきているじゃないか。
これはどういうことなのか。
もし茂木氏が偏差値30の大学を出て、「僕もこんな大学出たけれど、それなりにつつましく生きています。日本は偏差値教育をやめるべきだ。」というのなら、まだ話は分かる。
茂木氏のほかにも、日本のオピニオン・リーダーと言われてる言論人や政治家、経営者のほとんどが難関大に入っていた。例外としてとらえるべき人は、GMOグループの社長で、放送大学卒の熊谷氏ぐらいだろう。
そんな偏差値70もあるような人が、「偏差値教育は悪い」と言う。抜けているんだよ、「前提」が。そりゃ彼ら自身は一流校を出て、そしておそらくその後も努力して今のポストにいるんだから、それは注目されてしかるべきだろう。そこは当たり前だ。
だが、その言葉を真に受けて結果BF大にしか通らず、企業の学歴フィルターに引っかかって無職やブラック企業、フリーターにしかなれなかった人たちには、どう説明するつもりなのだろうか。
そして、この僕も数々の講演会で彼ら言論人の言うことを純粋に真に受けて今の身分にまで堕ちた人間だ。責任をとれとは言わない。勉強を全然して来なかったのは僕自身の怠慢だからだ。
でも、「学生よ、もっと海外に出ろ」とか、「いい大学に入って、いい会社に入って、それで終わるつもりか?」とか、「安定を求めるな」とか言う前に、「当たり前だけど、勉強は大事だよ」という「前提」ぐらいは、講演会や学生向けの集会なんかでも言って欲しかったな、と。
これでは、自分のポジションを守るためにわざと偏差値にとらわれるべきではないと吹聴していると感じとってしまう人がいても文句は言えないだろう。僕は騙されてしまったのかもしれない。彼等だけでなく、自分自身にも。勉強もすればよかったのだから。
僕も、偏差値は人間性とか社会性とかは含まれていないのだから、偏差値至上主義にはもちろん反対だ。けれど、高い偏差値というのはしっかりと努力して勉学に励んだ証拠でもあるということも、決して忘れてはいけないと思うのである。
同じ事は、読書にも言える。よく読書週間などで読書が世間でも勧められている。書店に行けば「もっと本を読もう!」とあるし、大抵の大人も読書を勧めてくる。
しかし本来は、「自分のやるべきこと(僕の場合は勉強)もした上で、本を読みましょう」と言うべきではないのか。
僕のように新書などを何十冊何百冊と自らの興味のあるままに書籍を読んだって、大学に入れなければ先はないのだ。恐らく、就活とやらにも同じことが言えるだろう。
こんな所にも「前提」が抜けているのである。
最も、「こんな本を脇目もふらず何千冊も読みました。でも勉強はできませんが入れさせてください」「はい合格」という大学や企業があれば話は別であろうが。今のところ、聞いたことはない。
本を否定はしないが、本に逃げたり本に溺れたりして他に何もしないのもいけないのだ。
結局、この約3年間の時間は何だったのだろうか。
それも綺麗事を言って。これが世間でもある程度は通用するからよほどたちが悪い。
こんなんだったら、授業中は寝ててもいいから毎日学校に行くべきだった。その分、今償わされているのだろう。
だが、3年という長い期間のハンデは、そう簡単に取り返せる代物ではない。それでも、地道にやるしか僕の前に道は残されていないのだ。
おまけに先週、風のうわさでかつて僕が通っていた高校、つまりこの地元の高校から同じ学年の生徒が自己推薦でとある大学に入学していた事実まで耳にした。いよいよ、僕のこの3年間にわたる行いの無意味さが証明されたのであった。
さて、長らくに渡った懺悔の文も以上で終了である。本当に、多くの方々に迷惑をかけた。
ここを読んでいる方には、間違っても僕のような判断ミスを犯してほしくはない。
そしてもし中学生や高校生がこのエントリーを見ていたら、直ぐにPCや携帯電話から離れて、一心不乱に勉強して貰いたい(最も僕が言える立場ではないかもしれないが)。
至極無駄な気がしてならない。
なんか、マークシートの正解の欄のところだけマークがされてて、それ以外は不正解っていうアレね。
学歴欄に東大とエントリーに書かれてあったらそれをマークシートの自動認識で読み取って“通過”とするといったシステム。
実際、エントリーシートっていうのはそういう仕組みなので、よく“人物評価”“人で採用する”といったような採用システムを導入している会社に限って
こういった正解付きのエントリーシート方式を取る。
だから、低学歴の皆さんはエントリーしても時間と考えるだけ無駄ですよと公言してればいいのだけれど、法律でそういった差別は良くないって定められてるからさ
いっそ岩波書店のようにコネでしか採らないよって公言してくれた方が潔いし、受験者に親切だと思う。
なんかね、望みを持たせるようなことをして実際そんなことはなかったということはザラで、
件の採用方式を取ってる会社の採用実績を見ると、殆どが難関大学ないし東大京大で底辺四大を採りましたといった実績が大体書かれてない。
要するにマークシート方式だから、東大京大じゃないと不正解な学歴欄のようなもんで、初めから採る人材が決まってるわけ。
エントリーシートって別に応募システムってわけだけじゃなくて、その時点から篩にかけてて、学歴採用であったりコネ採用であったりと分かれてる。
メディア制作会社のほとんどが首都圏にある事もあり首都圏の情報が全国に多く報道されるが、
まず首都圏とそれ以外の地方がどのような構造と関係になっているかを理解する必要がある。
皆が東大・有名大企業に入れる訳ではなく、皆が東京でしか成立しないようなマニアックな分野に関心がある訳ではない。
メジャー分野に入り込むことが出来ないからマニアックあるいはニッチ方面から切り込むしかないという点ではマニアタイプは養分タイプの派生なのかもしれない。
マニアあるいはニッチという分野は一般にメジャー分野のおこぼれ、一過性の流行によって発生するものであり、
地元の旧帝大国立大に落ちたから上京してマンモス私大に行った。地元で希望の仕事にありつけないから上京した。
言葉を選ばずに直接的な表現をすると”地元での生存競争に敗北した”のである。
地方の勝ち組は東京の勝ち組より能力的な意味でのレベルは低い。
相対的に競争が緩いので能力値を過剰に高める必要がないからである。
大学受験で例えると、北大より東大のほうが難しいのは言うまでもない。
大学受験ではなく、地元にいてもパッとしないから東京で逆転を狙うという
抽象化された基準がよくわからない可視化しにくい話になると多くの人は上記の簡単な理屈もわからなくなる。
地方の競争で勝てなかった能力の人が東京の競争でおいしいポストを獲得出来る訳がない。
しかし東日本大震災が終わってからも首都圏への人口一極集中は止まらない。
客観的に他者から見た能力値は高くないが、自己愛と自己評価が高く見栄と外見と評価を過剰に意識するパーソナリティを持った人間は
特に田舎であるほど多く、そのような人間が養分タイプ首都圏民として最も適性がある。
お金がある人=全国レベルでの競争で成功を収めた勝ち組タイプ首都圏民のことである。
お金がない首都圏民=養分タイプ首都圏民はどうなのか? 実は地方民より人生の質(quality of life、QOL)は低い。
地方では公立教育機関が強く、首都圏では私立の教育機関でなければ難関大学に合格する事は難しい
都道府県・地域別有効求人倍率 (千葉・埼玉・神奈川の有効求人倍率は実は全国最低水準である)
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002pf1g-att/2r9852000002pf87.pdf
旧帝に勝てない東工大
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/index.html
研究者が所属する研究機関別 配分件数 上位30機関(平成24年度 新規採択分) 10ページ
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/data/haibun-mext_241026.pdf
現実を見たくないから地方(なぜか養分タイプ首都圏民にとっての”地方”は寒村や離島だったりする)を
意識的に、あるいは無意識的に自らより下位の存在として位置づけて「地方に住むよりマシ!地方に住むよりマシィィ!」と自分を信じこませている。
電通その他のメディア制作会社からマーケティングで煽られて、本来必要のないものを買わされたり、しなくてもいい行為をさせられながら
(政府・企業からのマーケティング実験、勝ち組から過大に搾取される過酷な環境にどこまで耐えられるか絶えず実験されている=まさに人体実験都市圏である)
関東と関西は昔はよく比較されたものだが一極集中が進んだ関東は”関東地方”ではなく”首都圏”と自称することが多くなり、
関西みたいな田舎と比較するなウゼェ!という反応をすることが一般的になった。
表面的な部分だけ見て田舎と切り捨てる関東民も、東京は大阪にタンコブがついた程度の都市であると考える関西民も
現実と統計が読めない無知である。関東民は”見た目の”統計を見て等身大の関西を見ているからまだマシであると言えるか。
(大阪都など、やたらと”東京になりたがる”大阪の某市長はそう言えば数学を捨てて私大洗顔で早稲田に行った人だった)
関西は関東と比較して所得が低く、街の風景も一部を除いては変わり映えがせず古臭い。
それもそのはずで、若いうちから女性の人口が男性より多い。 不詳あん分に用いた平成22年国勢調査の人口 http://www.stat.go.jp/data/jinsui/9.htm
女性の賃金は全体的に低めなので http://nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
関西は貧乏人が多いと決めつけるのは早計である(親元暮らしが多く可処分所得を自分のことに費やしているため、独身女性はむしろリッチである)
(ヤリマンが多い関東 http://2r.ldblog.jp/archives/3341243.html と処女が多い関西? http://anond.hatelabo.jp/20130124013141 これは希望的観測w)
というふうに
それぞれの要素があまりにも対称的なので比較されるのであって、規模を比較されているのではない。
大学受験は国公立大学が普通で、国公立に落ちた人がしぶしぶ通う私立大学は例外
結婚するなら女性は処女が普通で、非処女は性犯罪や不幸な恋愛を経験した女性を許容する例外措置
中小企業がどれくらいあるかご存知でしょうか?
なんとその数は約430万社、日本の企業数の99.7%、雇用の約7割を占めます。
http://www.meti.go.jp/information/recruit/keizai/chuushoukigyou/01.htm
そのため、本来の”例外”が力を持って原理原則を見失い、何が普通なのかわからない人が首都圏に大量発生する。
それが拡声器の役割をするメディアに載って全国に撒き散らされる構造をしている。
首都圏発の情報は割り引いて受け取ったほうが良い。常識や原理原則はテレビ雑誌インターネットの記事になく、
「常識」や「原理原則」は”多数派の人間たちがとっている手段や価値観”と考えるとすると、
2001年にノーベル経済学賞を受賞したマイケル・スペンスによってはじめて分析され、
例として、ある人が難関大学卒であったり、スポーツに優れていたり、字が上手だったりする場合、
その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる
(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。
また、有名人やタレントを通じたCMや広告がその商品やサービスを
実際に使ったりしたことがないにもかかわらず良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
一方、CMに起用されたタレントが不祥事を起こしたりすると、商品自体に何の不満も覚えていなかったにもかかわらず購入意欲が削がれたりする。
一日に一枚アップするために日に何百枚も候補写真撮って加工に励んでたら、
そりゃ勉強する時間は無くなるよねえ。こんなに写真に血道を上げ続けてると
このままでは成績や奨学金が危ない…とは考えなかったのだろうか。
しかし、それはそれとして、このコンテンツに集金価値はあると思う。
可愛い上に、難関大学の女子大生で、ネットで有名人、しかも困っていて、
それを俺様が協力することで助けてやれる!という楽しい参加型コンテンツだ。
彼女自身に援助する価値があるかどうかなんてどうでもいいんだよ。
困っている可愛い女の子に援助して楽しめるチャンスということが重要なんだ。
特に金に困っていない独身男性や中年男性などは、このコンテンツを快く買うだろう。
俺だって当然買って楽しむ。
僕は、高校時代かなりの苦労をした。精神的に追い詰められ、立っているだけでやっとの状況でふらついていた。他人が怖く、知った人以外の顔がまともに見れなかった。黒板を見るのもやっとの状況だった。そのような精神状態で、勉強もまともにできず、大学受験にも失敗した。
そこから、浪人生活が始まった。1年間予備校に通い、ほんの少しの親しい間柄以外の人とはしゃべらず、昼食の時はトイレで震えていた。それでもどうにか精神状態を保ちながら、どうにかこうにか生活を続けていった。ときどき親にも受験で失敗したことをせめられるようなこともあった。それでも高校時代よりはましかなと考えながら毎日予備校に通った。
そして今年、幸運にも難関大学に入学することができた。少しずつ他人の顔が見れるようになってきたし、友達もできた。
高校時代にそういう状況だったことは親にも言っていない。周りも気づいていないと思う。でも、自分にはわかっている。自分自身には「よく頑張ったな」と言ってあげたい。
自分はFランの出身で、入学した当時は本当にコンプレックスに苛まれた。
国立への学士編入を考えたり、なんとか資格取得などで挽回しようとした。
教官から推薦をもらい、偏差値でいうと25は上の大学の大学院へ進学できた。
大学院入学後もいろいろあったけど、最終的にプロパ学生を差し置いて推薦をもらい、
その大学から行ける会社でも、かなり良いところの企業の内定をいただいた。
現在では勝てない相手では全くないと考えている。
(むろん学生の水準は高いし、中には飛び抜けて凄い人間もいっぱい居るが)
自身の経験から、Fランで真面目に勉強することは意味がないとは思えないし、
周囲を見ても、真面目に勉強してた人間の方が、その後の進路を拓いているように見える。
むしろ「遊んだり、学生生活を満喫する」ことに逃げている人間の方が多い。
真面目に勉強している学生に、望みうるゴールを提示し、目的意識を持たせることこそ、
教える側の仕事なのではないだろうか。
少し長い文章になってしまいましたが、高専の特徴とその後の進路、メリット・デメリット(高専に向いている人、向かない人)をまとめました。
6/1追記・想像以上に多くの方が読んでくださったようで、嬉しく思っております。その中のコメントで数点ご指摘を頂きましたので、訂正および追記をいたしました。少々見づらくなってしまいましたが、ご了承ください。コメント及びご指摘をしてくださった方々に感謝いたします。
まず、高専はご存知のとおり普通高校とは違い5年間の学校です。ですが、普通科高校+短大のような学び方をする学校でもありません。エンジニアを育てるという目的をもつ高専では、入学した年からすぐに数学や英語、国語のような一般科目の他に、その学科の専門科目の授業が始まります。
もちろん専門といってもいきなり高度なことをするのではなく、中学校を卒業してすぐの学生(高専では「生徒」ではなく「学生」と呼ばれます)でも出来る内容から始まるので、入学前からなにか特別なこと(例えばプログラミング、電子工作、製図など)ができないといけないという訳ではありません。
ちなみに私のいた学科は情報科だったので、簡単なプログラミングや簡単な電子回路を学ぶ授業(というよりも「体験」に近い)が1年目からありました。中学生の頃からパソコンが好きだった私にとっては専門科目は楽しい授業でした。
この専門科目は高学年になるにつれて増えてゆき、4、5年生のころには一般科目よりも多くなります。
一般科目はどのような事を学ぶのかと言いますと、1〜3年生で学ぶものは「基本的には」普通の高校(理系)と同じです。数学や英語、国語はもちろん、物理、化学、生物、地理、歴史なども学びます。しかしここで注意して欲しいのは、良くも悪くも高専生には大学受験がないという事です。5年制ですので3年生が終わっても4年生になるだけです。地理や歴史、古文や漢文などは普通の高校よりも低いレベルまでしか学べません。高専生は英語が苦手、と世間ではよく言われるのですが、それも大学受験がないためでしょう。
逆に専門科目に直結する数学や物理、(物質・材料系の学科では化学)は3年間で高校生よりも高度なところまで学びます。
高専の目的は「5年間でエンジニアを養成すること」ですので、そのための勉強をするというわけです。
専門は学年が進むごとに時間も増え、内容も高度になります。また毎週のように専門の実験・実習があり、レポートを書くことになります。これによってかなりレポートの書き方、まとめ方を鍛えられるのですが、この力は卒業してからも非常に役に立ちます。実際に内部生(普通に大学受験して1年生から大学にいる人)よりも、高専を卒業した編入生のほうがずっと良いレポートを書いているように思います。
また高専では専門や高校よりも高度な数学や物理を学ぶわけですが、その内容ゆえに学校の他に勉強を教えてくれる、いわゆる「塾」のようなものはありません。そのため自分でしっかりと勉強する、分からないところは友達や先生に聞く、という自立学習の習慣がないと厳しい環境だと言えます。
高専はやはり普通の高校とは異なった環境であり、個性的な学生が集まっています。
6/1追記・高専生はオタクだ、と言われることがあります。しかし、高専生=オタクというとこれにはかなり語弊があるので、個性的な学生、と表現しました。もちろんアニメ、フィギュアなどの趣味を持っている人もいます。しかしながらそういったものに興味がない学生ももちろんたくさんいます。”どんな趣味も否定されることはない環境”と言えば分かりやすいでしょうか。音楽、プログラミング、サッカー、アニメ、工作、麻雀、カメラ、銃、ゲーム、バスケなどなどいわゆる”オタク趣味”を含めた様々な趣味を持った学生がおり、こういった学生らが高専の自由な校風を作り出しているとも言えます。
またエンジニアを目指す学生が集まるところですので、どうしても女子の数は普通高校よりもかなり少なくなります。男子と女子の比率が1:1、ということはまずありえないと思ってもよいでしょう。(6/1訂正・学校や学科によっては1:1もありえるそうです。高専のホームページで確認してみてください)機械系の学科では男子38人、女子1or0人、などということも珍しくはありません。
クラス編成は学科単位なので、5年間クラス替えはありません。(6/1訂正・学校によっては混合クラスの編成もあり、クラス替えがあるところもあるようです。)ですので確かに刺激は少ないのですが、クラスメイトとはかなり親密な仲になります。
また大半の高専には学生寮があります。学校によっては全員が必ず入るところもありますし、学校によっては希望者のみ、あるいは1年間は必ず入る、などのルールがあります。ちなみに私は寮に5年間入っていましたが、一晩中友達と部屋で喋ったり、勉強会をしたり、週末に談話室で夕飯を作ったりと楽しい環境でした。
6/1追記・高専によっては寮が厳しいところもあるようですね。ちなみ私の高専の寮では1年生から基本的に自由で毎日楽しく過ごしておりました。ただ挨拶と消灯に関しては厳しく、1年生のうちはきちんと挨拶をし、消灯時間には寝るよう指導されました。また風呂掃除などの当番も基本的に1年生の仕事でした。2年生になると当番や消灯の拘束はなくなりました。いわゆる「寮のルール」は高専によってかなり差があると思いますので、知り合いがいれば聞いておくとよいでしょう。
部活動もちゃんとあり、3年生までは普通の高校の大会にも参加できますし、高専大会では4、5年生も参加できます。
高専卒業後は就職するか進学するかの二択になります。このご時世でも高専の就職率は非常に高く、ほぼ100%を維持しているところがほとんどです。高専からの就職は基本的に「推薦」という形で行われるので、大学生のように就職活動をする必要がありません。企業の方から来た求人と学生の希望を担任の先生が調整してくれるのです。これが高専が高い就職率を維持している理由でもあります。
自分で行きたい企業に応募する(自由応募といいます)ことも出来ます。(ただし、自由応募で就職する人はほとんどいません)また、人によっては公務員試験を受ける人もいます。(地方上級、国家二種、三種など)
しかし、ここで注意して欲しいことは、高専卒はあくまで高専卒であって、大卒とは違うということです。高い就職率ではあるものの、給料や昇進の面からみて高専卒が大卒と同じように扱われることはないようです。
さて、進学の方はといいますと、基本的に高専が設置している専攻科へ進むか大学3年への編入するかのどちらかです。
専攻科とは高専が作ったさらなる専門の学習機関で、2年間あります。基本的には自分がいた高専に設置された専攻科に進むことが多いです。卒業後は学士(4年制大学卒と同じ学位)がもらえます。
もうひとつは大学3年次(大学によっては2年次)編入です。地元の国立大学に編入する人もいますが、東京大学や京都大学をはじめとした旧帝大のような難関校への編入も全く珍しいことではありません(もちろん受験勉強は必要です)。高専によっては毎年かなりの学生を東大や京大に送り込んでいるところがあります。(各高専のホームページの進学状況を見てみるといいでしょう)ちなみにどの大学でも高専からの編入生は優秀だと言われるそうです。
6/1追記・普通の大学入試とは違い編入試験の日程は大学ごとに異なっており、そのため日程が被らなければ何校でも受験できます。(例えば、6月に広島大学を受けて、7月に筑波大学を受けて、8月に大阪大学を受ける、など)複数の国立大学を受験できるのも高専の大きなメリットの一つです。ただし、大学によっては「入学確約書」の提出や「(入学金を振り込むなどの)入学手続」を求められるところがあるので、この期限を確認して受験することになります。
・圧倒的な就職率
・自由な校風
・就職や進学の場で、普通の人とは違う、というアピールポイントになる
・学んでいる専門が嫌いになると非常に辛い
・留年、という普通高校ではほとんどありえないことがそれほど珍しくない
・女子学生が少ない(6/1追記・学校によっては女子学生が多いところもあるようですが、ほとんどのところが少ないと思われます)
・5年間クラス替えがない(6/1追記・学校によってはクラス替えがあるところもあるようです)
・普通高校が羨ましくなる
・大学1、2生が羨ましくなる
これまでの説明で高専がいかに普通高校と違うかがわかっていただけたと思います。この違いを楽しめる人が高専に向いている人といえます。
高専は5年間で一つのパッケージになっているため、3年で退学して大学入試に挑むことも可能ですが、やはり普通高校に比べると難しくなってしまいます(一般科目の学力が足りない、など)。大学編入でいい大学にいけるから、という理由で高専に入るのはやめた方がいいでしょう。5年間ずっと専門を学びますし、特殊な環境なので一度嫌になったらかなり辛い場所です。毎週のようにレポートがあり、テストで求められる点数もそれなりに高いので、留年するということが普通高校ほど珍しくありません(もちろん、普通に勉強していれば大丈夫ですが)。遊びすぎたり、無気力になって留年や退学していった人を何人も見ました。
しかし逆に、専門が好きでエンジニアになりたい、という人にはとても良い環境だと思います。先生も個性的で距離も近いので、親身になって教えてくれます。
当然ながら高専への合格基準は明確に示されているわけではないので、あくまで参考として読んでください。
推薦は中学校の内申点と面接、作文などが評価されます。出願には一定の成績(5段階評価の平均が4以上、など)が必要なところもありますので、推薦を狙う人はきっちりと定期テストで成績をキープしておきましょう。作文では専門に関すること(例えばインターネットの将来を予想しなさい、自分の住んでいる街の良いところと悪いところを説明しなさい、など)をテーマに出されるところもあるので、普段からいろんなことを観察したり本を読んだりして視野を広げておきましょう。
中学生に専門知識を求められる事はないはずなので、面接では自分がどうして高専に行きたいのかということを明確にしていれば大丈夫でしょう。
学力試験は過去問が7割程度解ければ良いと言われています。高専の問題は普通高校の入試問題とはすこし変わっているので、過去問は絶対に解きましょう。学習指導要領を超える難関私立高のような問題は出ないので、基礎をきっちりと押さえておけば大丈夫だと思います。
こんな質問をされることが高専生(あるいは卒業生)の間で必ずあります。即答で「うん!」という人はあまりいないのですが、なんだかんだで入ってよかったと思っている人は私の周りでは多いです。私自身、在学中は「普通高校に行っておけばよかった」、と思うこともしばしばあったのですが、卒業して大学に編入してから振り返ってみると実はいい環境だったんだな、と思います。大学に入ってから高専出身の人と出会うと仲間意識が芽生え、「高専トーク」で盛り上がりますし、高専卒というのは自分の中のアイデンティティにもなっています。
中学3年生の人はそろそろ進路を決めなければならない時期かと思いますが、高専のことが気になる人は夏のオープンカレッジにぜひ参加してみてください。高専の雰囲気がよくわかると思います。
繰り返しますが、高専に進学するという選択は良くも悪くもかなり特殊な選択です。しっかりと自分の将来を考え、情報収集をし、保護者の方ともよく相談して決断してください。
ちょっと好きだなと思う人がいるんだけど、彼は三十代の後半になったところで、
難関大学を出て固い職場に勤めている一人暮らし。給料にはたぶん恵まれてると思う。
顔はすごくイケメンじゃないけど、普通に好きになれる感じのいい顔。
でも、いままで女とつきあったことがないらしいって聞いた。。。。。
その人の学生時代からの友達に。
女とつきあったり、結婚しようと思えば、たぶん彼のほうが選べる立場。
三十代で仕事もしてて、会社のおばさんとか女の子とかとは普通に談笑してるから、
いい縁がなかったのか、恋愛にストイックな人なのかと思っていたら、
彼は近々ちょっと年下の男性(どういう関係かは不明だけど兄弟や親戚とかではない)
と同棲するかもしれないとか。
彼の友人も、あいつちょっと…って感じではっきりとは言わなかったけど、
積極的に結婚したい素振りもないらしいし、もしかして、男のほうが好き、つまりホモ?
婚活しようと思ったけど、初める前からもう終わってる?
「男のほうが好きなんですか?」なんて聞けない。
他の男友達に聞いたら、「そんな年で男同士で同棲とか、考えられん」と言われた。
人には、何かを目指して努力するが報われずに挫折する、ということが少なからずある。
それは難関大学への入学であったり、事業の成功であったり、ミュージシャンとして大成することであったり、様々だろう。その中には、もっと低レベルなものも存在する。「与えられた仕事をちゃんとこなす」とか「結婚する」とか。
私はナナロク世代のリーマンなんだけど、最近とても痛感していることがある。それは「自分は仕事で成功したことが無い」ということ。
一応、与えられた仕事はきっちりやる。仕事に対する姿勢というか態度は、自分で言うのもなんだが一所懸命でマジメだと思う。「仕事が速い」と一定の評価もされている。ただ、それらが会社の業績に結びついたことがあまりない。
今携わっている仕事も「もう後がない」という意気込みでやっているのだが、決算までに結果が出せそうにない。こんなに頑張っているのに。仕事中もそんな恨み言が口を突いて出そうになる。
結局、自分には能力が決定的に欠けているのだろう。ビジネス書や経営者の成功譚を読むほどに、この人たちと自分との間には、天と地ほどの差があることを思い知る。
まぁ。でも。しょうがない。みんながみんな成功者にはなれない。そりゃそうだ。負ける人がいるから勝つ人がいる。byみつを。
しかしなぁ。
「自分には能力が無い」ということを受け入れて生きるのは、辛い。「ミュージシャンになりたい」とかそんな夢のような願望ならともかく、「仕事で結果を出したい」ということすら叶わないとは。自分には生きてる価値すらないんじゃないかと思う。
「自分には能力が無い」と自覚してる人って、他にもたくさんいると思う。
みんなはそんなときどうしてるの?どうやって明日へのモチベーションを保っているの?
まず、学生時代は男子だけでなく女子にまで陰湿な嫌がらせをされていた。
クラス全体にハブられて、ぼっち状態の俺に罵るような言葉を四六時中浴びせ掛けてきたし、
下校の時はおろか、登校の時まで自宅の前でわざわざ待ち伏せをして粘着してくる徹底ぶりだった。
男子連中から弁当を隠されて腹を空かせていた時なんか、自分の弁当を無理矢理俺に食わさせたくせに、
「礼をしろ」とか言い始めて、俺の唯一の安息日である休日にそいつの買い物の荷物運びをさせられたこともある。
高校を卒業。無事大学に進学してやっとイジメから開放されたと思ったら、同じキャンパスにそいつも入学していた事を知った時は目眩いがしたよ。
クラスの奴らが誰も入れないような難関大学へ、死ぬような思いをして入ったというのに……
「あら、奇遇ね」とか言いながら意地悪く笑ったあいつの顔は今でも忘れられない。
大学4年時。今度こそ確実に逃げ出す為に超一流の企業へ就職すべく廃人のような生活も送ったにも関わらず、
またしても「あら、奇遇ね」と言いながら奴は現れたんだ。
ちなみに、就活シーズンにそいつの顔が死人のようにやつれていたから、柄にもなく心配してやったら
「お前のせいだ」と因縁をつけられたのも覚えている。
そういえば大学受験の時も、あいつは一時期もの凄くやつれていたような気もするが……まあ関係ないだろう。
そして今、人の家に強引に押し入って、食事は疎か寝床すらも勝手に奪ったその女が一枚の紙切れを俺に突き付けてきた。
何だかよく分からない細かい文字が沢山書いてあって、その中にある小さな白枠にハンコを押せと迫ってくる。
嫌がらせに使われると踏んだ俺は、慎重にその枠にハンコを押したらどうなるかを尋ねてみた。
そうしたら、そいつは「あんたの苗字を貰ってやる」と意味不明なこと言いやがった。
なんだよ、苗字を貰うって。
顔を真っ赤にしているけど、きっとアレは笑いを堪えているのだろう。
ハンコを押したらまた酷い目に合うに違いない。
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
[学歴][学閥][シグナリング理論][ハロー効果][情報の非対称性]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C
例として、ある人が難関大学卒であったり、
その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる
(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。
その商品やサービスを実際に使ったりみたりした事がないにも関わらず、
良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
ハロー効果 Halo effect || INVENIO LEADERSHIP INSIGHT
http://leadershipinsight.jp/dictionary/words/halo_effect.html
業務成績が優秀であることは全く関連のないことなのにも関わらず、
「優秀な人物」と判断してしまう
http://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/3edd7aacc7893a7f78957e5910eabad4
[学閥][閨閥][派閥][藩閥][同調圧力][空気の研究][先輩][保身][企業][就職]
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
http://anond.hatelabo.jp/20090922122517
仕事できない人って・・・http://anond.hatelabo.jp/20100702010352
向上心がないやつはほんとにどうしようもないhttp://anond.hatelabo.jp/20100707221911
http://anond.hatelabo.jp/20130816225200
http://anond.hatelabo.jp/20131017012538
一つ勘違いがあるようだけど、私立に入ったからといって塾に通わなくてもOK、ではないよ。
俺は名門私立の中高一貫校卒だけど、東大医学部とかを目指す連中は、中学のうちから鉄緑会とかの難関大学専門の学習塾に通って勉強する。学校の授業自体は、確かに一般の中高と比べれば進度は速いが、それでも6年でやるところを5年でやる程度に過ぎない。高2や高3にもなれば、学力レベル別にクラス分けして夏に特別授業をやったりするが、あくまで受験に向けて最低限の基礎を押さえるというレベルで、これだけで志望大学に受かるというものではない。親や生徒もそれを分かってるから、早いうちから塾に通いだすし、教師側も学校の授業だけで東大に受からせるなんてハタから考えてはいない。
そもそも、俺の母校のような名門私立に入ってくるのは、元々学力が高く私教育にカネを出せる奴しかいないわけだ。東大合格者が多いのは、単にそういう奴がたくさん入学してくるからに過ぎない。それでさえ、東大早慶クラスの入試をパスできるのは、うちの場合上位三分の一程度。残り三分の二は順当なところに落ち着く。
まとめると、特定の名門校に入れば一流大学へのフリーパスが保証される、というのは単なる幻想に過ぎない。そこへ上れるだけの意思と資質とリソースを持つ奴が名門校を通過している、というのが正しい。
http://anond.hatelabo.jp/20081123171535
公教育だけでも社会の支配階層に食い込めるようなシステムづくりをしなければ
一流会社を頂点とする階層構造が実在し、それに乗っかること以外は重要ではない、と仮定するならそうだけどね。
ただ、上でも書いたけど、仮にそれが事実だとしても実際に「支配階層」とやらに入れるのは、一流の学校に所属している人間の中でもさらに極一部に過ぎない。俺は、そんな「機会」とやらのために全ての教育リソースを傾けるくらいなら、もっとオルタナティブの可能性を追求してもいいんじゃないかと思うんだけど。
追記:先ほどから何回も投稿してスイマセン。匿名のは使い慣れないので
確かに勉強が一番だったらいじめるのに労力は使いたくないですよね。
通りすがりに「きもっ」とか「くさっ」とか言ったり、シカトしたりするなんてほんのちょっとのエネルギーでできます。
ですが、そのようなこともどうやら高偏差値の学校ではあまりないようです。
http://d.hatena.ne.jp/REV/20080919/p1
外部性というか、将来ビジョンの共有が生徒の中でできているか、ってことでしょうね。それは逆に風通しは悪いのですが。
http://d.hatena.ne.jp/kazukan/20080919/1221796855
公立高校なら「あそこはねぇ。すこしだらしないよね」とか言われるレベルだと思います。
もちろん共学です。確か全校生徒は千何百人いたと思います。いわゆる「高偏差値の男子校・女子校」ではありませんでした。
生徒は勉強より部活という感じの雰囲気で、実際一部の生徒は推薦等で入学したため偏差値30くらいでした。
けど、大したいじめはなかったように思えます。(気付かなかっただけかもしれませんが)
もちろん「いじられキャラ」はいましたが、いじめはなかったと思います。
それが当時から私は不思議だったのを思い出しました。
先ほど引用したように「勉強中心で将来のヴィジョンが共有できてる」とは思えません。
大学進学先も一番多い層が日東駒専、大東亜帝国と呼ばれる中堅??中堅下位の大学でしたし、普通の中堅高校でしたから。
今思い出して「いじめが少ないのか(無いのか)」理由を考えると
1、生徒指導の教師が毎日服装髪型をチェック&あいさつ
2、部活は強かったのでそっちに忙しい
この3つがあげられると思います。
1、に関してですが、これは全国のあまり偏差値の高くない私立高校で日常的に行われてると思います。
たいして効果はないように思ってます。
しかし私の高校の生徒は一見チャラ男でも注意されると従っていました。
(まもらないと出席停止になるため←こんなことなのにこれをチャラ男が守るのが凄い)
2、これが最有力だと考えてます。インターハイレベルの部活になると毎日練習は当たり前の世界でしたから
もちろんそれが楽しければストレス発散にもなりますし、「全国出場!」という共通のヴィジョンも見出せます。
(そのレベルに私は付いていけず途中でやめましたがw)
3、そのようにして部活をやめた私のような芯の弱い人間もいじめられる、いじめることがなかったのは
「学校がつまらなかった」もしくは「実は進学の維持が強く早く帰って勉強したかった」からだと思います。
というのも、不思議なのは授業が終わると部活に行かない生徒はそそくさと帰宅していました。
これは学校がつまらなかったからだと考えてました。しかしよく考えると卒業時に皆勤した生徒は1学年のうち4割を超えてました。
正勤も含めると7割の生徒が真面目に登校していたのです。
※正勤とは3年間で5日以内の欠席
そうするとつまらなかったのか学校が好き過ぎるのかよく分かりません。
チャラ男の話もそうですが、普通であれば『髪の毛は黒で女子はパーマもダメ』とかだったらやめますよね。
(実際、年に3人ほど学校をやめる生徒もいましたが。)
「実は進学の意思が強かった」というのは、中堅の私立高校というのはどうしても公立上位の抑えとして選択されます。
ですから『もともとは能力の高いお坊ちゃま、お嬢様がしょうがなく通っていた』とも考えられると思います。
実際大手企業の社長の息子がいたり、全体的にお金持ちの家が多いような印象はありました。
だから帰ったら予備校や塾に通っている人も少なからずいたようです。
よって私が考えるに
『部活が大好きで学校生活が楽しい生徒・そそくさと帰宅する生徒・いじめっ子はいじめる相手がいないのでやめるor帰る
・先生もちょっと厳しい・もともと育ちのいい生徒』
この好循環が上手く作動していたからだと考えています。
つまりは『高偏差値の学校=大学合格、うちの学校=スポーツマン;全国大会出場、その他;大学合格』
どちらもヴィジョンがあったからなんだと思いますがね。
難しいのはスポーツが全国大会レベルでも荒れている学校はかなりあるということです。
そういう高校はスポーツをやっていない生徒に対してのケアーがないことがほとんどです。
茨城県のある高校は、昔甲子園にも出場した高校ですが今では東大や医学部に合格者を出している高偏差値の学校です。
(いじめがあるかないかは分かりませんが)
この学校の育て方は凄いと思います。まずは名前を売って有名になって、とりあえず人をあつめて、出来る生徒を伸ばして難関大学に合格させる。
私の通った高校はそこまでは考えてないようです…ケアーというケアーもないようですしw
チャンスだと思うのですが…
「うちの子はあまり賢くはないけれど、いじめに合わせたくない」というお父さんお母さん。
同類のもののうち最も実力のある者。
身分を越えた称号を勝手に名乗ること。
本人自ら「私は○○を僭称している」ということはまずなく、
他者を評価するときに「○○を名乗るべき身分にない者が勝手に名乗っている」という批判的な意味で用いるのが普通である。
また身分の存在を前提とするため、「皇帝を僭称する」や「王を僭称する」という用法は正しいが、
その地位が身分に基づかない「大統領を僭称する」や「社長を僭称する」という用法は正しくない。
この場合は単に「偽称」という。
例として、ある人が難関大学卒であった場合、その人が学力においてだけでなく、人格的にも優れてると思い込んでしまうケースが挙げられる。
また、有名人やタレントを通じたCMや広告がその商品やサービスを実際に使ったりみたりした事がないにも関わらず、良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れ、「これは馬です」と答えたが、「鹿です」と答えた者は暗殺された。
慶応大学 慶応大学 昭和55年 代ゼミ偏差値 青学法60.6慶応法60.5
若き血 堀内敬三 作詞・作曲 慶應 慶應 陸の王者 慶應 http://www.keio.ac.jp/kiku/wakakichi.htm
文中で、福沢は
「欧米列強に対抗するために、朝鮮・中国の開明を待つことやめ、欧米のように処分(侵略)すべきである」という主張を展開した。
寂しげな君のくちびる、もとい日記:そんなもん、はりつけの刑じゃ - livedoor Blog(ブログ)
アジアから見た福沢の姿は
「朝鮮の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」(韓国)、
「日本の1万円札に福沢が印刷されている限り、日本人は信じられない。」といったものなのだ。
しかも日本人は、そのことすら知らない。
『自由と我儘との界は、他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり』
二つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと。
所長 βlog:天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり - livedoor Blog(ブログ)
「幼稚舎の歌」
福澤の 大先生の
お開きなさった 慶應義塾
Reading impression '96/12 - Hiroe's Private Library
他の人はたとえ、塾長でも「○○君」なんです。
人間にとって本当に必要なものは、知識ではなく論理的な思考能力だ。知識はあくまでもそれを補助するものでしかない。知識はどこにおいても通用する物ではないが、論理的思考能力はどのような状況においても必要とされ、また通用するものである。
ではその論理的思考能力はどこで養われるか。脳が成長する時期を見れば、それは12歳〜18歳に形成されるといって間違いない。そしてこの形成期の終盤にあるビックイベントが受験である。
難関大学に入学した人間は、多くの科目を勉強することで、どのような知識下においても通用する論理的思考能力を獲得する。例えば東京大学の入試問題は全面にわたり論理的思考能力を養成する問題構成となっており、この入試に向けて演習を重ねること自体が論理的思考能力の養成につながる。逆に、MARCH以下の大学に入学した人間は(それらの試験が暗記中心で通用するものであるがために)所詮単科目の暗記中心であるから、彼らはそれ相応の論理的思考能力しか有さない人間の割合が多いと見て良い。もちろんこれらの大学にも比較的高度な論理的思考能力を有する人間はいるであろうが、割合で見た場合には著しく低く、結果就職その他の場面において、彼らはそうではない他の大多数と同一視されてしまうだろう。
この面において、「難関大学に進学した時点で、その人間は論理的思考能力を有している」ということができる。彼らは論理的思考能力が育成される時期に、それらを育むような学習をした。だからこそ、学歴差別をすることは正しいことなのである。学歴を有することそれ自体が論理的思考能力を有することの証明であるのだから。
もちろん知識も重要なものである。しかし真に重要なのは、適切な知識と何らかの状況を与えられた際、それに対して適切な判断を加えることの出来る、論理的思考能力ではないか。大学で研究をするにせよ、企業で何らかの活動をするにせよ、この能力はどこにいっても必要とされるし、通用する。
学校での勉強は、それによって得る知識そのものが教養として必要であるという面があるが、それ以上に「多面的に、さまざまな分野で使用することの出来る論理的思考能力を養成する」という面があるのではないか。「暗記系」と一笑されがちな社会科科目も、着目する点を個々の単語ではなく歴史的な流れや時代背景、意義に変えることで、たちまち難しい問題となる。このような場面においても、適切な考察力さえあれば、知識さえ与えられた段階で問題を解くことが出来る。同じことは社会における多くの場面で言うことが出来る。
「学歴差別はクソだ」という人間に限って学歴がない。学歴がない人間がクソなのは、彼に学歴がないからではなく、適切な思考能力が備わっていないからだ。「18歳で人生が決まること自体がおかしい」という人間もいるが、人間の人格が完成するのはその時期なのだから、至極適切なことである。もちろん人生においては知識や経験が必要な場面もあるだろう。しかしそのとき、思考能力がなければ知識も経験も自分の糧とすることが出来ない。
そういえば、「女性は論理的思考が苦手」とよく言う。その意味で、女性と対話したいなら、この時期に勉強をせず、その能力を低く抑えておいた方が良いのかもしれない。
100歩譲って、「好き嫌い」という感情が必要だと仮定してみる。
でも、「好き」だけじゃ難関大学には入れないよね?
そのとき、「良質」を特徴づけるものはいったいなんだろうか?