2008-02-12

学歴差別は正しい

人間にとって本当に必要なものは、知識ではなく論理的な思考能力だ。知識はあくまでもそれを補助するものでしかない。知識はどこにおいても通用する物ではないが、論理的思考能力はどのような状況においても必要とされ、また通用するものである。

ではその論理的思考能力はどこで養われるか。脳が成長する時期を見れば、それは12歳〜18歳に形成されるといって間違いない。そしてこの形成期の終盤にあるビックイベント受験である。

難関大学に入学した人間は、多くの科目を勉強することで、どのような知識下においても通用する論理的思考能力を獲得する。例えば東京大学入試問題は全面にわたり論理的思考能力を養成する問題構成となっており、この入試に向けて演習を重ねること自体が論理的思考能力の養成につながる。逆に、MARCH以下の大学に入学した人間は(それらの試験が暗記中心で通用するものであるがために)所詮単科目の暗記中心であるから、彼らはそれ相応の論理的思考能力しか有さない人間の割合が多いと見て良い。もちろんこれらの大学にも比較的高度な論理的思考能力を有する人間はいるであろうが、割合で見た場合には著しく低く、結果就職その他の場面において、彼らはそうではない他の大多数と同一視されてしまうだろう。

この面において、「難関大学に進学した時点で、その人間論理的思考能力を有している」ということができる。彼らは論理的思考能力が育成される時期に、それらを育むような学習をした。だからこそ、学歴差別をすることは正しいことなのである。学歴を有することそれ自体が論理的思考能力を有することの証明であるのだから。

もちろん知識も重要なものである。しかし真に重要なのは、適切な知識と何らかの状況を与えられた際、それに対して適切な判断を加えることの出来る、論理的思考能力ではないか。大学研究をするにせよ、企業で何らかの活動をするにせよ、この能力はどこにいっても必要とされるし、通用する。

学校での勉強は、それによって得る知識そのものが教養として必要であるという面があるが、それ以上に「多面的に、さまざまな分野で使用することの出来る論理的思考能力を養成する」という面があるのではないか。「暗記系」と一笑されがちな社会科科目も、着目する点を個々の単語ではなく歴史的な流れや時代背景、意義に変えることで、たちまち難しい問題となる。このような場面においても、適切な考察力さえあれば、知識さえ与えられた段階で問題を解くことが出来る。同じことは社会における多くの場面で言うことが出来る。

学歴差別はクソだ」という人間に限って学歴がない。学歴がない人間がクソなのは、彼に学歴がないからではなく、適切な思考能力が備わっていないからだ。「18歳で人生が決まること自体がおかしい」という人間もいるが、人間人格が完成するのはその時期なのだから、至極適切なことである。もちろん人生においては知識や経験が必要な場面もあるだろう。しかしそのとき、思考能力がなければ知識も経験も自分の糧とすることが出来ない。

そういえば、「女性論理的思考が苦手」とよく言う。その意味で、女性と対話したいなら、この時期に勉強をせず、その能力を低く抑えておいた方が良いのかもしれない。

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