はてなキーワード: 事象とは
例の会見を途中まで見て、なるほどまあある程度はわかった、人脈がちょっとアレなとこだけ気を付けろ、と思ったのだが周囲は割とそうでもないらしい。私の周りでよく言われる「バンド30代を越えられるか問題」(バンドが解散・休止したら脱退したりして違うことを始めたがるのは大抵30代である。ここを越えるとその後そのような事象が起こる確率はかなり減る)と一緒ではないか、と思うのだが、ジャニーズではそうはいかない。
年甲斐もなくジャニヲタになりまあ大抵のことは楽しいけれど、たまに彼らにとってファンの存在とはなんだろう、と思うこともある。彼らには恋愛の自由も転職の自由もない。いやあるんだろうけど、ヲタの存在がその自由に重くのしかかっている。
一回本当にびっくりしたことがあって、誰だったかの恋愛スキャンダルがあった時に「彼は人間である前にアイドルなんだから職務を全うすべき」的なツイートがあってそれがかなり好意的に受け入れられていたのである。えーーーーーー、人権無視なの?!それ本気で言ってる??と思ったがこれぐらいのことを本気で思ってる人はかなり多い。ガチ恋の若い子たちだけじゃなくかなり歴のある「私ガチ恋じゃないし」タイプの人でも、だ。
アイドルとは夢を見せるものである、そしてその夢に沢山の人たちが夢中になる。というのはわかるんだけど、その夢を守ってもらいたいという気持ちだけで一人の人間の人生をそこだけに捧げさせる、という状況になっている、という現実の残酷さには慣れそうにない。
ジャニーズJr.として事務所に入り、選ばれた人間だけがデビューできる。それは大変大きな夢なのかもしれないけど、デビューしてしまった瞬間からいろんな自由が奪われていく。彼らには幸せをもらっているが彼らは本当に幸せなんだろうか?
余談だが今回の脱退の件に関して「赤西仁はもっと辞めるとき上手にやったよ!」的なツイートを発見し、「仁はほんとにエターナルなんだな…」と懐かしのコピペのことを思い出してしまった。いや彼も相当だったじゃん?とは言えないのでここで吐き出しておく。仁と私のエターナル、すげえ。
もう、そこには誰もいはしない。
だから、
もう、そこには君もいやしない。
そこに只、在るのは。
二度と生を刻むことの無い(元社長と首を切られた社員の)骸―。
首と躯とは離れ離れ。
幸福に沈む、傍ら、磔に。
そして、僕といえば、
二度と地を踏むことさえない屍―。
ああ僕らは
何も知らなかったんだ
ああ何を
違えてしまったのか
僕らはきっと仲良く生きていける筈だったのに
―せめて、君が起業すれば…
そんな思いが、胸を掠めては、 消えた。
こんな恐ろしいところには、
もはや、
一刻たりとてもいられない。
そうしてその足を。
世界に触れてなどしてはならない。
かくも愚かだったのだ
ああ(起業界隈を去った)ボクこそ
そして誰もいなくなる前に
これは心の最奥に刻み込む、墓標。
疑いもせず 手に取る報い
好奇心こそ最大の敵よ
(収益化がすぐにできないにもかかわらずこれが儲かるんじゃないかと好奇心で歩んだゆえに苦しむ)
そう、刻まれるべきだ一人一人
一人夜歩き 忍び寄る影は
(さまざまな人間としてのおぞましさがある。振舞方と周りを見る余裕と金がない人間は絶望的に弱いということ、そして商品に係る知識や、起業に係る事象の知識をしらない幼さ故に気付かなったか)
そう、刻まれるべきだ一人一人
足掻くことさえ 試せぬほどに
聡さとは愚かさと同義か
(余裕はどんどん失われる。試せることも無く最短の経路を選ばざるを得ない、それでもだめかもしれない。先に展望が見えなくても修正は許されない)
そう、刻まれるべきだ一人一人
恋の苦さと 命の甘さ
大人の味は油断大敵
(そもそも起業なんかやるのは人間としての好奇心や使命感に燃えてる、ということは色恋だとか情で折れるだろうと、足元を見透かして捻じ曲げ、おろうという奴がわいてくる)
そう、刻まれるべきだ一人一人
一夜限りの 丑の刻参り
(丑の刻参りのような嫉妬もうごめく。別に売り上げなんざ上がってないからうらやむものなんてないものなのに。なのに何を勘違いしたか嫉妬して、隙を見て邪魔をしようとしてくる。誰が裏で嫉妬しているかすらもわからない。)
そう、刻まれるべきだ一人一人
(ハードワークによる睡眠不足や、ジャンクフードだよりにもなる。ゆえに体調を崩し、メンタルにも悪影響を及ぼす)
そう、刻まれるべきだ一人一人
正直者が 馬鹿を見るのだ
臆病者に進む道なし
(臆病者であればうまくいかないが、だからといって正直者であれば弱くて騙してはめこみやすいからと騙そうとし、そして起業家は馬鹿を見る)
そう、刻まれるべきだ一人一人
ああ何を
違えてしまったのか
ああせめて
君が起業してくれたなら
などと馬鹿めが!
世迷いごとに沈め!
ああ!
墓標に刻んだ数だけ 胸に込み上げる勝利の余韻に嗤う。
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増田が世界線理解できてるのかが分からない。多世界解釈的なものが世界線でBTTFのは過去の行動が自分の未来をかえるんだから世界線じゃないと思うんだが?
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「(シュタゲ型の)世界線概念が適用された物語」と「従来型のタイムトラベルによる事象分岐物語」は、観測者と改変者が同一ならば、基本的には同じモノ扱いでよいのでは?
BTTF・1でいえば、マーティは過去に行き「父がビフを屈服させその子供が短気を起こさない世界線へ乗り換えた(変動させた)」という説明(表現)になる(のでは。
BTTF・2は観測者と改変者が一致しない(部分がある)ので少し異なる。BTTF・2が世界線概念物語だった場合、老ビフ(改変者)が過去に行った瞬間に、マーティ(観測者)がいる未来が変動することになる(観測者にとっては景色が変わる)。※世界線概念物語においてカレントワールドは一つだけ
(認識間違ってたら指摘頼む)
まあ、元増田が
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あの世界線を行ったり来たりする
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君の名はの線は一本では
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三葉たちが亡くなった線と亡くならなかった線がある。
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BTTFは「過去の行動を変えると未来が変わる」からのPART3なんだけど、それはそれとして世界線じゃないよ…一本じゃん。世界線はDBとかだよ。トランクスのいた未来は変わらないってやつ
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まあそもそも従来型タイムトラベルによる歴史改変は事象分岐(平行世界生成)であり、
世界線概念での(結果としての)歴史改変は平行世界間移動である。
なのでシステムの異なる物語世界で別概念のキーワードを使うことに問題があるわな……
「タイム・リープ あしたはきのう」
男性と比べ女性は平等でなければならないという拘りが非常に強い
ただし、彼らがこだわる「平等」とは通常使われるそれとはニュアンスが異なり「業」的な感覚だ
つまり
「真面目に生きている人には祝福が与えられるべき」
「かわいそうな人には救いが与えられるべき」
「悪いことをしている人には天罰が下るべき」
女性と比べ男性は「世の中は理不尽であり弱肉強食」という価値観がインストールされているので、上記を男性的価値観で言い換えると
「真面目に生きていても成果に繋がらなければ無意味」
「かわいそうな人は(運も含めた)能力がないからかわいそうな状況になっている」
「悪いことしてても結果を出しているのなら問題ない」
といったところか
この価値観どちらが正しいとか適当かは判断が難しいし、今語るつもりもないが
ともかくそんな女性的価値観で最も重要視されるのは「悪人(=自分が気に食わない存在)が不幸になっているか」だ
悪人(=自分が不快に思っている存在)は「平等」の名のもとに裁かれねばならず、もし自分が不幸な状況であるならば悪人(=自分が許せない存在)はより不幸になっていなければならない
悪人(=自分が見下している存在)が真面目で正しい自分より評価を得ているなんてことは到底許されることではない
そんな価値観だ
なのでスカッとジャパンやそれに類するストーリーは非常に女性受けがいい
もちろん、男性中心のコミュニティである2ちゃんねるで「メシウマ(他人の不幸で飯が旨い)」といったスラングが生まれるなど、男性(的価値観)に上記のような感情がないかと言えばそんなことはない
しかしながら男性的価値観で語られるそれは「人が不幸になることにより相対的に自身の幸福度が上がる(所謂世界ランキング的な考え)」であったり、多重債務者が命がけの鉄骨渡をするのを楽しむようなエンタメ的な文脈であり、あくまで自身の幸福のための「メシウマ」なのだ
なので「悪人」が不幸になっていないことで、自身のメンタルを著しく病んだりすることは稀だ
一方女性(的価値観の持ち主)の場合、この「悪人が不幸になっていない」ことでメンタルを病んだり、場合によっては自傷行為等に至ってしまう程深刻な状況になるケースは驚くほど多い
所謂「学級会」などに代表される男性(的価値観の持ち主)からすれば「いったい何のメリットがあってやってるんだ?」の思われる女性(的価値観の持ち主)や女性(的価値観の持ち主)が多くを占めるコミュニティの事象は、幻想でしかない「平等」を実現するため
「悪人」をより不幸にするため
「ジンクスは傍観者の論理」は、一般にはまだ知られていないけれど、私の中で有名な格言のひとつ。
ジンクスとなる事象自体は、「カツ丼」と「勝つ」を掛けるような言葉遊びなど、考えてみれば勝負に直接繋がらない非論理的なものばかりだが、
一方でそのジンクスが形成される過程には、ちゃんとした「論理」がある。
そしてそれは、その勝負に直接関わることの無い「傍観者」が生み出す論理なのだ。
その意味では、非論理的であるはずのジンクスは、まさに論理的に形成されたものなのだ。
まず、当たり前のことだが、勝負というものには、その勝負に関わる「当事者」と、
その周りに多数の「傍観者」が居ることに注意する。
スポーツではプレイヤーとサポーターたち、受験では受験生とその親、といったケースがわかりやすいだろう。
勝負がだんだんと近づくにつれ、傍観者は当事者と同様、来るべき勝負に対してだんだんと真剣になるわけだが、勝負にあたってあることに気づく。
すなわち、傍観者はいくら当事者のことを想っていても、その勝負に直接介在できないことに気づき、苦しむのだ。
まあ、端から見れば至極当たり前のことなんだが、真剣になるほど自分も勝負に乗った気分になってしまうというのは、
サポーターを見ても、受験生の親を見ても、その興奮した様子を見るに十分有り得る事例だろう。
だから、傍観者はいつか、その当事者とのギャップに苦しむことになるのだ。
先の例で言えば、サポーターはプレイヤーのプレイスタイルに、親は受験生の勉強方法に、あれこれ口を出してしまう。
なので、傍観者は十分なアドバイスができず、それは大きく的外れにもなる(アドバイス罪!)。
そのため、先に挙げた傍観者の苦しみは、その勝負に直接関わるアドバイスをすることでは一切解決しない。
どう考えても、当事者の方がその知見は豊富なため、傍観者のアドバイスは役立ちも感謝さえもされないからだ。
それゆえ、傍観者のアドバイスはその勝負本体とは全く異なるフィールドに持ち込まれることになる。
「ジンクス」というのは、まさにこの場面で発生する。
すなわち、勝負本体とは全く異なるフィールドで、勝負にコミットするようなアドバイスを目指すのが、「ジンクス」の在り方なのである。
そもそも、勝負本体とフィールドが異なる以上、そのアドバイスは勝負に真に必要なものではあり得ない。
「落ちる」「滑る」という言葉を避けて受験に滑らないようにする、みたいなくだらない言葉遊びに頼るしかない。
以上をまとめれば、「ジンクス」は、傍観者が当事者に何もしてあげられない苦しみから、言葉遊びなりに頼ることで生まれてきたものだと言える。
だからこそ、その苦しみを解消しようとする心の働きとして、「ジンクス」というものは傍観者にとってまさに「論理的」なのである。
言葉遊びに頼ることで、傍観者の苦しみは論理的に昇華されるのである。
さらに、勝負の当事者も「ジンクス」による恩恵を得ることができる。
それは、その迷信でしかないとわかっている「ジンクス」に従っておくことで、傍観者の親切心を満足させて、
代わりに、傍観者からの余計なアドバイス(プレイスタイルだの勉強方法だの)を一切聞かなくて済むからだ。
つまり、傍観者の余計な心配を「ジンクス」という無駄な方向に向けておくことで、当事者は肝心の勝負に雑音無く集中することができる。
それこそ、お遊びでしかない「ジンクス」が、勝負に真剣に取り組まなくてはいけない当事者に好まれる本当の理由であろう。
だから、その「ジンクス」の中身が非論理的かどうかの議論などは全く的外れなのだ。
そんなことは当事者が一番よく知っている。
非論理性など心の底からどうでもよく、傍観者の親切心に対するデコイとして発現すれば、「ジンクス」の機能として十分なのである。
その点では、これまた、当事者にとっても「ジンクス」に従うことは論理的なのであり、
「ジンクス」という傍観者の論理は、こうしてめでたく、当事者の役立つものになれた。
まあ逆に言えば、この傍観者と当事者との共犯関係こそ、言葉遊びでしかない「ジンクス」を今の時代にものさばらせている理由とも言えよう。
先に結論だけ書いておくと、これはダメ人間が書いた掃き溜めだ、読む価値はない、これを読む時間を聖書を読む時間に当てた方が有意義なことを保証する。
自分はいわゆるADHDで鬱というクズだ。税金や公共料金は滞納し仕事を先延ばしにしケアレスミスを多発する、ただ会社の金を貪り尽くす蛆虫だ。いや蛆虫の方が医療等で活躍できるため自分よりはるかに有用だろう。
これら先延ばしのこと等は自分の中ではやらなければならないとは思っている
・まだ実装できていない機能を実装し、残っているタスクを消化する
など、どうしなければならないかの道筋は頭にあり、またそれを実行しさえすれば解決できるものであると確信している。
しかしなぜかできない、なんでと言われても自分でもその理由がわからないので答えようがない。
これらは自分の中ではやらねばならないことだと認識しているので、やれないことに対する不安がだんだん心の奥底に鍾乳洞から滴り落ちる水滴のように溜まっていきいつかこぼれるのだと思っている。いやすでに溢れていてそれが現状の鬱なのかもしれない。
自分は社会で最低限必要なことができないクズだ、ADHDや鬱がなければまともになれたと思うが現状まともでないのでクズであることには変わりはない。
おそらくこれを読んでいる方の中には「やればいいじゃん」と思ってる方もいらっしゃるだろう、まさにその通りだ。やればいいことでやれば終わることだ、しかし今の自分にはできない。今の自分にできるのはだた陰鬱とした感情を吐露することのみである。
もしできることなら自殺できたらと思う、迷惑をかける自分の存在は周りにいる人や社会にとって明らかにマイナスなのだ。
これら特性は今に始まったことではない、大学では引きこもり本を読むか(自分以外に無意味な)コードを書く日々を過ごしていた。この時も本来やるべきである勉強をしていなかった。(私は物理系の学科だが情報系の勉強ばかりをしていた)
大学生だというのにまともに交流も勉強もせず無下な時間を狭い6畳一間の部屋で過ごしていたのだ。さらに大学も中退してしまった。
もっと昔に遡れば高校の時も嫌になった部活や委員会から逃げたり、中学校の時も嫌な勉強から逃げたりしていた。
こう見てみると自分の人生は「逃げ」か「嘘」しかない空虚なものだと思う。結局ADHDとして生まれた時から自分の人生には「逃げ」か「嘘」しかったのだとも思う。
最近、人生をやり直せたらと思うことが多くなってきた、現在20台半ばだがすでに未来は暗い、丑三つ時の夜空の方がまだ明るいだろう。
スキルもなく、人格も悪い、事あるごとに「逃げ」か「嘘」を使い、全ての事象から目を覆うダメ人間に未来などない。
昔は自分の人生は素晴らしいものになると思いていた、自分で言うのも恥ずかしいがIQは高く、記憶力に優れ、芸術的センスも平均以上にあり、会話や交渉が得意、これらの才覚があれば自分は素晴らしい人生をあゆむ素晴らしい人間になると錯覚していた。
しかし、これらはあくまで"普通のことができる"、"努力ができる"人間であればと言う話だ、自分はおそらくこれらの代わりに"普通のことができる"、"努力ができる"と言う一番大切な能力を失ったのだろう。そのせいで無駄に悪知恵が働き、無駄なことを覚え、よくわけのわからない表現をつかい、他の人を騙す、最悪の人間になってしまった。
厄介なのが自分の中に自分の理想像があるのが一番厄介だ、もし自分の理想像がなければ現実との解離で苦しむことはなかったのだろう。
如何しようも無い現実が存在し、それからは逃れられない。現実から目を背けても無意味などころかより悪い状態に陥る、しかし目を背けずにいられない。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
もし、自分が中学生の頃までにADHDだと診断を受け、適切な治療を受けていたら?
もし、大学生の頃、鬱傾向が出た時にきちんと精神科で治療を受けていたら?
もし、ADHDや鬱がなかったら?
これらはあくまで現実と解離した無意味なIFにすぎない。しかし、当事者である自分からしてみると考えずにはいられず、またありえたかもしれない世界という逃げ場所を失うと言うことを避けたいのだ。
自分はいわゆるADHDで鬱というクズだ。税金や公共料金は滞納し仕事を先延ばしにしケアレスミスを多発する、ただ会社の金を貪り尽くす蛆虫だ。
しかし、今までの文章からわかるように改善はもはや見込めない。ただこれからも周りに害を振りまく人生を過ごすだけだ。
もうどうしようもないのだ。
殺意すら芽生える。
死にたい。
最近、天瀬ひみかという人物をツイッターで見かけてから、なんとなく追いかけてみたりしてる。
彼女は予言者で、日ごとに割り当てたコードナンバーから、その日に起こる事象を予言しているらしい。
コードナンバーには、抽象的なものから具体的なものまでいろんな意味づけがされている。
それを天瀬ひみかという人物はツイッターで、事後にコードナンバーと一致したニュースを貼り付け、答え合わせをしている。もちろん当たったものだけ。
1日に複数のコードナンバーが割り当てられてるし、そもそも1つのコードナンバー自体に、たくさんの意味づけがされてる。そりゃあなにかしらかするだろうし、キーワードをニュース検索すればなんでも出てくるだろうと思う。
不思議なことに、天瀬ひみかには信者がすでにたくさんいて、信者たちは、ひみか様と呼び、まるで神のように崇めている様子。
占いをエンターテイメント感覚で楽しむような感じではまったくない。まるで宗教のそれ。
フォロワーも増えていっている。もちろん私みたいに面白半分でみている人もいるだろうし、
初めは、信者たちのアイコンが皆似通ってるし、ひみか様すごいみたいな同じようなことしか言ってないからみんな自作自演かと思っていたが、ちゃんと個別に呟きがされているようなので、ちゃんと存在しているようだ。
シャボン玉せっけんを使うことや、化粧をしない生活をすすめている。
信者たちは、そういう生活様式をとりいれることで、選民思想が芽生えているのかもしれない。
信者ではない、面白半分でひみか様や信者に絡む人たちももちろんいるが、すぐブロックされている。
会ったこともないのに、ツイッターやブログの発信をみてるだけで、そこまで盲信できるのが不思議でならない。
このままものすごく信者が増えていって大きくなっていったら、教祖に会わなくても、ツイッターやブログだけの発信で信者を増やしていく、新しい時代の宗教になるのかな。
ある程度集まったら信者たちを囲って、お布施を集めて、宗教団体として動き出すのかな。
今後の動きに注目したい。
(そんな事は無いと思った皆さん、でも、日本ではシスヘテロ女性はトランスジェンダー女性より自分達は弱者だと言う事に成っているのです)
ではアメリカではどうなのだろうか?アメリカでは、例えば、白人女性と黒人男性、どちらが弱者なんだろうか?
という事をふと考えてみた。が、考えてわかる事ではない、アメリカに行ったことが無い自分には知り様が無い事なので、知って居る方が居たら教えて欲しい
しかし興味深い疑問ではある、日本では、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になるかどうかは疑わしい。
例えば障碍者男性は健常者女性より弱者だ、と公の場で言える人がどのくらい居るだろうか?そしてその発言はどれほどの非難を浴びる事になるだろうか?
先日もADHDを自称する人の増田に女性差別であると揶揄する(もっとも、それは単なる誤読であったようだが)コメントがはてブで多くの支持を集めていた。
その後そのコメントへの非難にも多くの支持が集まったが、実の所そうした非難にも「ADHD男性は健常者女性より弱者である」といった観点のコメントはほぼ無かったように思える。
多くは「(女性や他民族を)差別するべきでないなら、容姿差別もするべきではない」という趣旨であり、「女性が弱者とは言え、更なる弱者であるADHDを差別するとは」という主張では無かったのだ。
実に自然に、我々は「ADHD男性より健常者女性の方が弱者である」という共通意識を疑いも無く受け入れている事が分かる。リベラル・左翼的傾向に批判的である人でさえ、そうなのだ。
例えばとあるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、そのイラストの書き手がADHDであると分かったとしても、ポスターへの批判が失速することは無いだろう(そういえば、岡村隆史の発言が問題になった際、彼の鬱病を心配する傾向は少数ながら見受けられたが、だからと言って彼の弱者性を女性より高く見積もる人は居なかった様に思える)
では、アメリカでは?
「非対称性」「権力勾配」という言葉はどのような場面で使われるか、それは論理のみでは解決できない・するべきでない問題に倫理的条件を追加する為に用いられる。
例えば男性が女性を性的に消費する事と、女性が男性を性的に消費する事は、特別な条件が無い限り論理的には等価だ。
しかし現実社会での男性と女性の立場の非対称性や、権力勾配を考慮すれば、それを等価だと見做すこと自体が差別的だという事になる。
従って、現実社会での非対称性を測定したいなら、「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を観察するのが一番であろう。
アメリカでの白人女性と黒人男性の間の非対称性は最初に書いた通り私には分からない。「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」自体、経験から抽出される物に他ならないからだ。
では日本での生活経験から「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を挙げることは可能だろう、、、、と考えたその時、
これは非常に良くない思い付きだ。まず、ここまで来て漸く思い至るのも可笑しな話だが、「どちらが弱者か」などと弱者と弱者を対立させるべきではない。
けれども、ということは、弱者と弱者の連帯は、こうした弱者同士の間の非対称性を”見ない事にする”事で漸く可能になっている、とも言えるだろう。
折しも昨日、高須克弥氏が「日本人は黒人を差別したことは無い」とツイートして炎上した。右翼でさえこの発言の誤りには気付くだろうが、しかし、
「日本では黒人男性は日本人女性ほど差別されてはいない」という発言だったらどうだろう、いわゆるはてサの人達でさえ、これに答えるに少しばかりたじろぐのではなかろうか。
当たり前の事だが、日本にも人種差別はある。しかし、日本における「女性」の弱者性と比べて、どうか、という事は、実の所かなり判断が難しい。
あるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、その作者が誰であろうと、論理的にはポスターの是非と何も関係が無い。
けれど、現実の非対称性は「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」に差を与える。では、
「女性」より弱者である属性がもし存在するなら、ポスターの作者がそこに該当すれば、その女性差別性は非対称性によりキャンセルされるのではないか、
何故なら、そもそも男性差別的な表現より女性差別的な表現の方がより問題であるのは、現実の非対称性があるから、なのだから。
(いわゆる腐女子達の表現が、フェミニズムの批判の対象になりにくいのもこのためである。腐女子達は女性であり、従って弱者であるので、その表現の加害性はある程度免除される(尤も、保守側の表現規制はこのような論理を共有しないため、実際にはBL表現はその対象になってしまう、と言う現実がある))
例えば、ポスターの作者が黒人男性だったら?・・・・恐らく女性差別であるとの批判は弱まらないだろう。腐女子達の様に免除されることは無いだろう。
恐らく日本において、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になる事は無いのではなかろうか。
ここからは蛇足だが(これまでの文も全て蛇足の様なものだが)、一連の考察は女性にとって不愉快な物ではないか、と心配している。
フェミニストや女性が女性差別に言及すると、必ずと言っていい程「男性だって差別されている」「男もつらい」等と聞いても居ないのに因縁を付けてくる輩が寄ってくる。
何故そうなるかと言えば、多くの男性は(何故か)誰か自分とは異なる属性の者が自分が弱者だと主張すると不愉快になり、何でもいいから因縁を付けてやろうという気になってしまうからなのだが、
多くの人間は、他人が弱者だと主張すると、不愉快になり、「自分の方が弱者だ」と言いたくなってしまうのだ。
けれど、例え女性がそう思ったとしても、全然悪い事ではない、という事をここに書いておきたい。
そもそも女性は実際に弱者であり、差別を受けている。誰かが(特に男性が)「自分は弱者だ」と言っていれば不愉快になることもあろうが、それは仕方の無い事なのだ。
誰かが「自分は弱者だ」と言い募ることに不愉快を覚えるのが男性であれ女性であれ、論理的には変わらないが、「非対称性」を考えれば、両者は異なる。
そして上に示した通り「女性」があらゆる弱者よりも弱者である以上、どのような「自分は弱者だ」に不愉快を覚えたとしても、非対称性から正当化されると言えるだろう。