2020-06-08

アメリカでは白人女性黒人男性、どちらが弱者なんだろうか?(日本では?)

日本だと「女性」に勝る弱者属性は無いように見える

(そんな事は無いと思った皆さん、でも、日本ではシスヘテロ女性トランスジェンダー女性より自分達は弱者だと言う事に成っているのです)

 

ではアメリカではどうなのだろうか?アメリカでは、例えば、白人女性黒人男性、どちらが弱者なんだろうか?

という事をふと考えてみた。が、考えてわかる事ではない、アメリカに行ったことが無い自分には知り様が無い事なので、知って居る方が居たら教えて欲しい

しかし興味深い疑問ではある、日本では、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になるかどうかは疑わしい。

例えば障碍者男性は健常者女性より弱者だ、と公の場で言える人がどのくらい居るだろうか?そしてその発言はどれほどの非難を浴びる事になるだろうか?

先日もADHD自称する人の増田女性差別である揶揄する(もっとも、それは単なる誤読であったようだが)コメントはてブで多くの支持を集めていた。

その後そのコメントへの非難にも多くの支持が集まったが、実の所そうした非難にも「ADHD男性は健常者女性より弱者である」といった観点コメントはほぼ無かったように思える。

多くは「(女性他民族を)差別するべきでないなら、容姿差別もするべきではない」という趣旨であり、「女性弱者とは言え、更なる弱者であるADHD差別するとは」という主張では無かったのだ。

実に自然に、我々は「ADHD男性より健常者女性の方が弱者である」という共通意識を疑いも無く受け入れている事が分かる。リベラル左翼的傾向に批判である人でさえ、そうなのだ

例えばとあるポスター女性差別である問題にされたとして、そのイラスト書き手ADHDであると分かったとしても、ポスターへの批判が失速することは無いだろう(そういえば、岡村隆史発言問題になった際、彼の鬱病心配する傾向は少数ながら見受けられたが、だからと言って彼の弱者性を女性より高く見積もる人は居なかった様に思える)

女性弱者性はこれほどまでに強力なのだ

では、アメリカでは?

 

非対称性」「権力勾配」という言葉はどのような場面で使われるか、それは論理のみでは解決できない・するべきでない問題倫理的条件を追加する為に用いられる。

例えば男性女性性的に消費する事と、女性男性性的に消費する事は、特別な条件が無い限り論理的には等価だ。

しか現実社会での男性女性立場非対称性や、権力勾配を考慮すれば、それを等価だと見做すこと自体差別的だという事になる。

このように、非対称性論理的に等価である事象に差を与える。

従って、現実社会での非対称性を測定したいなら、「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を観察するのが一番であろう。

 

アメリカでの白人女性黒人男性の間の非対称性最初に書いた通り私には分からない。「論理的には等価だが、そうは判定されない事象自体経験から抽出される物に他ならないからだ。

では日本での生活経験から論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を挙げることは可能だろう、、、、と考えたその時、

なんとも地獄な思い付きをしてしまった。

日本では、日本女性黒人男性のどちらが弱者なのだろうか?

 

これは非常に良くない思い付きだ。まず、ここまで来て漸く思い至るのも可笑しな話だが、「どちらが弱者か」などと弱者弱者対立させるべきではない。

けれども、ということは、弱者弱者連帯は、こうした弱者同士の間の非対称性を”見ない事にする”事で漸く可能になっている、とも言えるだろう。

折しも昨日、高須克弥氏が「日本人は黒人差別したことは無い」とツイートして炎上した。右翼でさえこ発言の誤りには気付くだろうが、しかし、

日本では黒人男性日本女性ほど差別されてはいない」という発言だったらどうだろう、いわゆるはてサ人達でさえ、これに答えるに少しばかりたじろぐのではなかろうか。

当たり前の事だが、日本にも人種差別はある。しかし、日本における「女性」の弱者性と比べて、どうか、という事は、実の所かなり判断が難しい。

 

あるポスター女性差別である問題にされたとして、その作者が誰であろうと、論理的にはポスターの是非と何も関係が無い。

けれど、現実非対称性は「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」に差を与える。では、

女性」より弱者である属性がもし存在するなら、ポスターの作者がそこに該当すれば、その女性差別性は非対称性によりキャンセルされるのではないか

何故なら、そもそも男性差別的な表現より女性差別的な表現の方がより問題であるのは、現実非対称性があるからなのだから

(いわゆる腐女子達の表現が、フェミニズム批判対象になりにくいのもこのためである腐女子達は女性であり、従って弱者であるので、その表現の加害性はある程度免除される(尤も、保守側の表現規制はこのような論理を共有しないため、実際にはBL表現はその対象になってしまう、と言う現実がある))

例えば、ポスターの作者が黒人男性だったら?・・・・恐らく女性差別であるとの批判は弱まらないだろう。腐女子達の様に免除されることは無いだろう。

ポスターの作者が障碍者男性だったら?・・・・これも、無い。

ポスターの作者が・・・・いや、もはや何を挙げればいい?

恐らく日本において、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になる事は無いのではなかろうか。

 

蛇足

ここから蛇足だが(これまでの文も全て蛇足の様なものだが)、一連の考察女性にとって不愉快な物ではないか、と心配している。

フェミニスト女性女性差別言及すると、必ずと言っていい程「男性だって差別されている」「男もつらい」等と聞いても居ないのに因縁を付けてくる輩が寄ってくる。

何故そうなるかと言えば、多くの男性は(何故か)誰か自分とは異なる属性の者が自分弱者だと主張すると不愉快になり、何でもいいか因縁を付けてやろうという気になってしまうからなのだが、

そのような傾向は女性例外ではない、と考える。

多くの人間は、他人弱者だと主張すると、不愉快になり、「自分の方が弱者だ」と言いたくなってしまうのだ。

けれど、例え女性がそう思ったとしても、全然悪い事ではない、という事をここに書いておきたい。

何故なら、ここでも矢張り「非対称性」が出てくるからだ。

そもそも女性は実際に弱者であり、差別を受けている。誰かが(特に男性が)「自分弱者だ」と言っていれば不愉快になることもあろうが、それは仕方の無い事なのだ

誰かが「自分弱者だ」と言い募ることに不愉快を覚えるのが男性であれ女性であれ、論理的には変わらないが、「非対称性」を考えれば、両者は異なる。

そして上に示した通り「女性」があらゆる弱者よりも弱者である以上、どのような「自分弱者だ」に不愉快を覚えたとしても、非対称性から正当化されると言えるだろう。

から、仮に女性がこれまでの文を読んで不愉快を覚えたとしても、それは正当なのだ

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