はてなキーワード: ルソーとは
私も短大卒で、低学歴低スペックだし、小説苦手でカツジ読めないけど
たまたまかたい本好きだったからロックとかルソーとかモンテスキューとか読んだよさらっと。
付き合うまで掴んでなかった趣味嗜好の違いを学歴のせいにしてるんじゃないの?
あと何にせよ、「今のままでいい学ばなくていい」って姿勢だったら
確かにその男性と合わないんじゃないか。学歴じゃなくて考え方が。
それが嫌で別れるっていうんなら、相手より自分の居心地がいい場所のほうがいいってだけの話。
つまり、やらなければならないと腹の底で思っている何かを先延ばしにしている自分から
目をそらしたいだけではないでしょうか。
http://www.asahi.com/business/update/0423/TKY201304220465.html
ま、ここで、柳井氏は、国際的な競争下においては成長なければ死ぬしかない、ゆえに世界同一賃金や競争を強化し、ありていに言えば従業員をふるい落としていくことを言っているわけですな。
Grow or Dieという言葉で彼はその考えを端的に示しているわけです。
でもさ、よく考えてみなさいよ、何で従業員が死ななきゃならんのか? いやむしろ、死ぬなら柳井氏もろともって考えてもおかしくないでしょう。
彼はナチュラルに資本主義における競争の敗者は死ぬ、と考えているけど資本主義のルールに則った戦いをしなければならないというのは、まさに彼の勝手な固定観念なわけで。資本主義以外の方法論で戦っているマオイストやムジャヒディーンは世界中に掃いて捨てるほどいるわけです。アメリカじゃ、職場に銃を持ってryなんて事件は普通にあるわけでして。
まさに、グローバル化の一側面しか彼は見ていないんだね。グローバル化は単に資本主義がグローバル化するというだけじゃなく、もっといろいろな意味があるわけだよ。うん。
柳井氏は確かに才覚のある経営者で、お金も持っている。しかし、彼は24時間ボディガードをつけられるか? と聞かれれば、できなくもないだろうけど、ちょっと難しい面があると思う。
そういったボディガードを付けて、さらに防弾車に乗って移動する生活ならかなりの危険は防げるけど、いろいろと困難さはつきまとう。
たとえば、日本でも比較的容易にショットガンを持つことができるし、ソードオフ加工をすることは違法だけど難しいことじゃない。大口径のスラグとか防弾チョッキ着ててもヤバイ。
さらに言えば、信号を自分の通行に合わせて切り替えるなんてのも普通はできないわけで、ANFO満載のワゴン車に横づけされても大丈夫な防弾車なんてそれこそ大統領専用車両ぐらいしかない。
しかも恨みを抱くのは従業員なわけだから、比較的接近もしやすい。
資本主義のルールを大前提とした考え、ロック主義的なそれはスマートだし、まぁそれなりに合っている部分もあるけど、解雇規制なんかまさにロック主義的な所有と契約の関係をルソー的な社会契約という名の暴力(現実的には労基やね)が圧倒している実例なわけですよ(それを山口巌というコンサルは微塵もわかってないhttp://blogos.com/article/60841/)。あるいは、ウェーバーのいう「国家とは暴力の合法的独占ry」という部分もあるわけでしてね。
私はユニクロの従業員でもなんでもないから別に彼に恨みはないけど、あまり従業員なめてるとよろしくないんじゃないかなーと老婆心ながらに思いました(まる)
http://critic5.exblog.jp/20243840/
ブログコメント欄に書き込もうとしても弾かれるのでここに書く。
"「立憲主義」から憲法を概論するという場面に遭遇したことがない。ロック・ルソーの自然法思想と社会契約、フランス人権宣言、ワイマール憲法、平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明されるのが一般論だった。"
個人の人権を擁護保障することにより国家権力を制限するというのが「立憲主義」なわけであり、「ロック・ルソーの自然法思想と社会契約、フランス人権宣言、ワイマール憲法、平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明される」≒「「立憲主義」から憲法を概論する」ということなので、上の引用部分はおかしな記述ですね。
"近代国家の憲法を基礎づける思想は三つで、立憲主義とファシズムと共産主義だと言うのであり、冷戦で共産主義が敗北し、立憲主義が勝ち残ったと言う。"
一般的な理解では、「近代国家の憲法を基礎づける思想」には「ファシズムと共産主義」は含まれず、立憲主義がありますね。明治憲法も伊藤博文等 立憲主義的憲法理解を示していましたが、権力を縛るには不十分であったためアジア太平洋戦争という結果に至り、改めて立憲的意味での憲法として制定されたのが日本国憲法ですね。
"長谷部恭男が立憲主義を説明するとき、何度も「多様な価値観を互いに認め合う社会」の重要性を繰り返し、小林節や枝野幸男が唱えて言論空間を席巻したところの「国家を縛るもの」の契機が二の次になっているので、"
多様な価値観を互いに認め合えるよう国家に自由を保障させることそのものが国家を縛ることですから、二の次になっているというのは全くの誤解ですね。
"政治方面からの改憲論(自民党)には消極的であり、保守的護憲論とも言える立場なので、"
"憲法学アカデミーの主流が護憲であったなら、これほど反動的で反憲法的な政策や法律や判決が溢れるのはおかしいではないか。"
憲法学者は憲法学者であるし、立憲主義者は立憲主義者であり、改憲論者でも護憲論者でもないです。日本国憲法主義者が他者にも日本国憲法主義者であってほしいと言ってるだけの記述ですね。
"憲法改正論のところでも奇妙な記述がある。「憲法9条の改正論についても同じことがあてはまる。従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば、何の『意味』もない改正である」(P.21)。"
憲法改正前と後で国家権力のできることに変わりはないので当然の記述であり奇妙ではないですね。
"この憲法が平和主義の原理を基本として制定されたものであり、300万人の犠牲の上で戦争放棄と戦力不保持が宣誓されていることが考慮されていない。日本国憲法は、立憲主義よりもはるかに平和主義の憲法である。「憲法とは何か」と題を立て、読者・学生に日本国憲法を説明するなら、何より平和主義から説明しなくてはいけないのではないか。前文を見よ。半分は平和主義が語られている。「多様な価値観を認める」などとは書いていない。この憲法は戦争肯定論者の価値観を認めてはいない"
日本国憲法に規定された国民の自由や人権を保障する上で自衛隊や警察のような実力組織は必要ですよね。「立憲主義よりもはるかに平和主義」立憲主義は国家権力を制限し個人の自由や人権を守るという考えであって、その上で平和希求があるものですよね。もちろん今の政府議会の平和希求・実現の努力が充分であるということではないです。
"本当は、他先進国の憲法よりもずっとラディカルな理念を持ち、現実社会にラディカルな民主主義を要請する憲法を、その性格を剝ぎ取り、脱色させ、すなわち憲法の牙を抜く言説が、長谷部恭男の立憲主義とリベラル・デモクラシーなのだ。日本国憲法は、リベラル・デモクラシーではなくラディカル・デモクラシーの憲法である"
「ラディカル・デモクラシー」を理想とするのは結構ですが、「ラディカル・デモクラシー」が日本で実現されているわけではないし、日本国憲法は当然 絶対民主主義の憲法ではなく(というより「絶対民主主義の憲法」はそれはもはや「憲法」ではないが)、「民主的権力であっても暴走することがあるため、憲法により縛る」という立憲民主主義の憲法である日本国憲法なんですよね。
終わり
「片山さつき」という名前を伏せて、「東大法学部卒で大蔵官僚経験者」という人物にルソーの人権思想を教えてあげよう、という気になりますか?
普通なりませんよね。自分より詳しく知ってるだろうと思うから。
でも「片山さつき」という名前を出した途端に、小学生を相手にしたときのように上から目線になるネット民が多いですね。
まあ成蹊大という金さえあれば馬鹿でも入れるお坊ちゃま大学卒の自民党総裁に対してなら上から目線もわかりますよ。
でも東大法学部卒が人権論を知らないわけないんですよ。当然知ってて言ってる。
なぜか?
そうした言説が大衆や自民党幹部にウケがいいからです。それが出世への道だからです。
福島瑞穂を見てごらんなさい。
あの人も優秀ですよ。でも理想論だけ言い続けて、社民党は今や消滅の危機です。
鳩山由紀夫を見てごらんなさい。
あの人も優秀ですよ。でも理想論だけ言い続けて、民主党も今や消滅の危機です。
出世したい人間を思想の面で叩いても、それがウケている以上、その人は主張を変えることはありません。
どうすれば変えてくれるか?
理想論を唱えながらもなおかつ出世できるキャリアプランを示せばいいのです。
今の左翼の最大の問題点は、そうしたキャリアプランが存在しないことなのです。
共産党の掲げる政策はすばらしいと思いますが、選挙で勝つ現実的なプランがない以上、出世したい優秀な人は振り向いてくれません。
官憲に逆らって逮捕されて不当だ!思想弾圧だ!と騒ぐのも自由ですが、それを端からみて魅力を感じてくれる奇特な人は少ないでしょう。
「政治のことを論ずるとは、お前は国王かそれとも政治家か」と問う人がい るかもしれません。この問いに対して私は「そうではない、が、そうではないからこそ私は政治を論じるのだ」と答えるでしょう。そもそも国王や政治家が何を なすべきかについてあれこれ論じて時間を浪費するでしょうか。私なら実行あるのみです。
天下国家の問題に私ごときが何か言ったところで甲斐のないことかもしれません。しかし、自由な国の一市民として、また自治組織の一員として生まれ た私には、投票権が与えられています。それゆえ私には天下国家の問題に熟知しておく義務があるのです。
真実と神話とどちらかが大切なのではなく、どちらも車の両輪のように大切にしなければならない。
想像の中で過ごしている人がいたらそれはロマンチストではなくて現実に対応できない人である。
逆に現実ばかりに眼がいって理想を追わないのは人間として淋しい。
小説や詩歌などでも感性だけの作品はつまらないし、知性だけの作品も読めない。
例えば、童謡で説明すると、野口雨情の「シャボン玉」は感性だけで鑑賞することができる。虹色に光るシャボン玉が空に飛んでいく姿はそれだけで絵になる。ところが、これが子供が亡くなった時の哀しみを思い出しながら描いた作品だということを知れば(つまり知性で考えれば)作品が二重になって見えてくるはずである。長野県中野市の中山晋平記念館には「雨情が旅先で二歳の娘の病死を知らされ、その悲しみを詩に込めた」と解説してあるという。
ただ、娘が亡くなったのは詩ができた二年後という説もあるし、歌手の高石ともやは「間引きの歌」と考えている。ある人から「間引きで死んでいった子どもの歌だ」と聞かされたのがきっかけだ。高石の父親が生まれたのは、間引きが行われたこともある岩手県の山の中。高石も極貧の中で誕生した。父親はとてもかわいがってくれた。が、自分の間引きを考えたこともあったのではないか、という(『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店)。
感性だけで鑑賞するのも知性だけで解読するのも双方が必要だ。
理性だけだと他人の痛みが分からない。感性、想像力がなければ分からない。ルソーが『エミール』でいうように「ひとり想像力のみが我々をして他人の苦しみを感じさせる」のである。
故伊藤和夫の授業をyoutubeで見て、都会の受験生ってこんなスゲー授業受けてたんだと、15年後にカルチャー・ショックを受けたので、田舎の浪人生だった自分が使った大学受験参考書(東大理系96年入学、いまではなんとか研究職)。
内容はスタンダードでよい。
個人的にこれだけで必要十分だと思うし、これだけしかやらなかった。暗記科目とか非暗記科目とか言うけど、試験である以上、数学だろうが物理だろうが暗記科目だと思ってる(日本語の能力だけはどうにもならないけど)。これくらいはマルっと憶えられないと応用もなにもないと思う。浪人生は勉強だけしてればいいから、大学受験の範囲も泣きながらやれば3ヶ月で終わる。あとは、ひたすら復習。ペンだここさえて、ほとんど部活のノリだった。
昔は一冊ものだった気がするが、いまは全6冊になってるな。
日栄社のうっすいやつを適当に2, 3冊ずつくらい。おすすめすぎるシリーズ。
英文法標準問題精講
英文標準問題精講
和英標準問題精講
物理標準問題精講
化学標準問題精講
網羅すれば完璧。
旺文社の標準問題精講シリーズは、コンパクトで軽くて、本当にありがたかった。
ジョン・ロックの民主制とルソーの民主制の違い、という話が印象に残ってる。別に先生と仲はよくはなかったが、田舎の、文系理系分かれてないようなふつーの公立高校で、唯一信頼できた授業だった。そのプリントはいまでもとってある。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート、外国人感想その4。今回は初音ミクという存在についてかなり真正面から書いたものを紹介する。筆者はコンサートだけでなくアニメ・エキスポで行われたいくつかのパネルにも参加したようで、日本から行った関係者の発言も引用しながら初音ミクとそれを取り巻く現象に関する考察を述べている。これを読めば「初音ミクとは何か」について一通りもっともらしい話ができる程度の情報が盛り込まれた、なかなかいいまとめだ。
urlは以下の通り。
ヴァーチャル・ディーヴァ(仮想の歌姫)になるということは、正確にはどういう意味を持つのだろうか? 初音ミクの人気について真に理解できるようになる前に、彼女が正確には何者なのかを確認するのがおそらくは最適だ。しかしながらこのテーマは思いのほか扱いが難しい。最も簡明な言い方をすれば、彼女は明らかにセガとヤマハによって発展してきた音楽制作ソフトのために藤田咲の声を録音しデジタル化した商品のパッケージ用にデザインされたキャラクターだ。だが同時に、彼女が本当の意味では存在していないという主題もそこにある。我々がミクの歌について話している時、我々は厳密に言えば生きていないものに対して隠喩を使っている。思うに初音ミクとは我々が理解しているより遥かに複雑なものなのだ。
アニメ・エキスポ2011は間違いなくミクの全てを取り上げていた。ミクノポリスは、それがノキア・シアターで行われ、かつ売り切れた唯一のものであった点だけを見ても、明らかに週末最大のイベントだった。他のゲスト――クリプトン・メディアの伊藤博之と佐々木渉、ダンスロイド、及び小林オニキス――はミク登場のおまけとして呼び寄せられた。アニメ・エキスポがコンベンション全体のテーマに「ファンの年」を選んだのは、ただのお遊びではない。結局のところボーカロイドは、ヤマハの剣持秀紀マネジャーがコンベンション3日目のパネルMirai no Neiroで言及したように、ファン、製作者、及び消費者の間にある障壁を切り裂いている。
ミクがいくらか人間っぽい性質を備えているのは明らかだが、同時に彼女の存在はメカニカル(機械的)かつヴァーチャル(仮想的)でもある。歌姫という用語は、技術的な能力をほのめかしているのみならず、高い人気という意味も示唆している。だがミクの人気はピンポイントで捉えるのは難しい。小林オニキスがアニメ・エキスポ2011の2日目にミク・カンファレンスのパネルで発言した内容によれば、彼女の成功は3つの要素に拠っているという。ミク自身、制作過程での自由さ、そして世界規模のインターネットだ。私がオニキスの判断に異論を唱えないのは確かだが、彼の指摘した3つの点をさらに分析すれば初音ミクの存在について興味深い事実が判明すると思う。
トヨタの初音ミク・カローラCMを巡る謎がついに明かされた時、トヨタが特にアニメ・エキスポを念頭に置いて若い客に対する濃密な市場調査を行ったことが判明した。トヨタはアニメ・エキスポ2011に2台のitasha(アニメやゲームのキャラを描いた車)、スタッフチーム一そろい、車の前でミクのコスプレをする可愛い女性、そして小さなカローラの絵の上で可愛らしく微笑む子供のようなミクを描いた何千枚ものポスターを持ち込んだ。ミクはただソフトに特色を出すため作られたキャラに過ぎないという事実にもかかわらず、彼女は自動車企業の公式看板娘となるのに充分なほど人気があった。アメリカにおける市場性の存在にはかなりの疑問があったものの、この宣伝活動はミクにとって大きな一歩だった。
初音ミクの生まれは、実際にはどこの馬の骨とも分からないものだ。彼女は、自身が市場に出ることとなった新しいVocaloid2シリーズの、箱に描かれたイラストとしてその生を始めた。つまるところ、それが彼女の全てだ。だが、日本中の製作者たちが楽しく、突飛で、面白い歌を書き、彼女を描いたり動かしたりすることで彼女に性格を付け加え始めたため、彼女はすぐ自らの命を手に入れた。最終的に彼女のイメージにはネギが伴うようになった。
これがなぜ重要なのか? ミクが東方シリーズに出てくるキャラとどれほど似ているかについては、おそらく指摘する必要もあるまい。ゲームに出てくるキャラの多くが極めて限られた背景情報しか持たず、それゆえにキャラの性格をさらに発展させるため製作者とは無関係にファンダム自体が自由に想像をめぐらせる余地があるという事実に、東方厨の一部は対応してきた。同じようにミクの仕様に存在する欠落は、歌やビデオという形式をまとった小さな物語の発生を許し、それが巡り巡って単なるキャラを超えた命の有り様をを彼女にもたらした。彼女は利用者が作り出す製品の力に具象化された肖像であり、概念だ。
そのインターフェイスは、比較的直感的に使える。音楽用語を使う代わりにこのソフトは、メロディーを生み出すためピアノの音程と一致したいくつかの棒の上に長い音符を置く。ピッチとテンポは製作者の目的に合うように変更でき、ビブラートと発音も自由に変えられる。完全な楽曲を作るため、ドラム、ピアノ、ギターなど追加の伴奏も付け加えられる。
ヤマハの音声技術開発チームを率いた剣持秀紀によれば、初音ミクは作曲家と歌手にとって伝統的に必要なものを補完する革命的なソフトの顔を務めたからこそ、ヴァーチャル・ディーヴァなのだという。ミクは、かつてデジタル楽器がやったのと同じように音楽世界のあり方を変えたソフトだと、彼は主張する。それが楽譜制作だけでなく、自然言語における発話パターンの複雑さまでまねしようと試みていることを踏まえるなら、おそらくそれ以上のものと言える。
剣持はプレゼンの際に彼の議論の核心を効果的に実証してみせた。まず彼は、人間の耳とって自然な音をボーカロイドに生み出させるのが、どれほど困難かを説明した。次に英語のボーカロイドソフトSweet Annを使い、極めて短時間でハッピー・バースデーのメロディーを生み出してみせた。そしてボーカロイドは単純に人間の声をコピーしようとしているものではなく、その特別な性質故にある意味で音楽の未来を示しているのだと強調した。極めて広範囲なジャンルにふさわしいものにするため、ライブラリを変更することができる。人間の耳が言葉を理解できないほど速いレートで音を生み出すのも可能だ。どんな歌手より長く引き伸ばして歌うこともできる。最も有名な初音ミク曲の一つ、初音ミクの消失を見るだけでいい。ボーカロイド史の比較的初期段階からソフトが持つこれらの側面を製作者が上手く利用していたのは明らかだ。つまりボーカロイドは、その人間に似たヴォーカルと同じくらい、その機械的側面も売り物になっていたのである。
プロの音楽家とアマチュアの双方に販売されることで、ボーカロイドは間違いなく伝統的に音楽に存在した境界線を壊し、比較的音楽知識の乏しい者たちが数千から数百万ものビューを稼ぐ歌を作り出すのを可能にした。アーティストだけでなく、ネットに詳しい個人がよく知っている視聴者に合わせた歌を作ることもできるようになった。
ニコニコ動画が日本におけるボーカロイド活動の主要拠点であることは否定できない。この動画シェアサイトには、他の種の動画ランキングに加えて人気のあるボーカロイド曲のランキングもある。つまりミクの成功は、彼女自身と製作者あるいはソフトの能力だけではなく、日本のユーザーが新たに作られた歌に関する集計された情報を見つけるのが容易である点にも依存している。
ミクの人気は彼女の声だけにとどまらない。ボーカロイド・コミュニティーから抱き合わせでニコニコ上に出てきた他のコミュニティー、例えば「Utattemita」(歌ってみた)、あるいは「Odottemita」(踊ってみた)などは、それらの人気故に今やニコニコのメーンページにある案内バーにそれ自体のカテゴリーを載せるまでに至っている。国境を越えたアニメ及びゲーム・コミュニティーへのウイルスのようなミクの拡散は、製作者及びファンの双方で似ている情報拡散能力に頼っている。
最初の質問に戻ろう:ヴァーチャル・ディーヴァとはつまり何か?
ミクの「仮想性」は要するにオニキスの言う1番目と3番目の要素に起因する。彼女は世界中の数百数千という人々の想像力に根っこを持ち、一方で彼女の側は人間としてのどのような制約も持たない、骨格だけのキャラだ。同時に、インターネットにおけるファンに基礎を置いて成長するボーカロイド・コミュニティーには、それを統制する法的な枠も基盤も僅かしかないという事実故に、彼女は著作権問題からも比較的影響を受けない。実際、利用者が生み出しファンが作り出す素材に対して日本企業が示す寛大さは、英語を使うユーチューブ・コミュニティーが慣れ親しんでいるものに比べれば衝撃的なほどに大甘だ。技術的にも、誰もが歌わせることのできるミクの束縛のない能力は、有名になるためどんな歌姫にも必要とされる人気と広い支持とを提供する。
理論的にはミクのスターダムへの道は、彼女が完全に作り上げられたキャラではなく、その中身が欠落しているという点にある。オタクの行動様式とポストモダンにおける消費パターンに関する東浩紀の著作から引くなら、ソフトの利用者が作り出した歌と動画に描かれた個人的で小さな物語を生み出すためのデータベースとしてボーカロイドと初音ミクが使われている。同時に人間の声を合成することで達成された技術的偉業が、音楽産業内における伝統的役割に新たな裂け目をもたらした。あらゆる種類の消費者、製作者、ファン、音楽家、個人的技術者が、あたかも300年前にルソーが思い描いた政府のように有機的なコミュニティーへと参加している。
初音ミクとは2つの面を持つ現象だと私は主張する。ミク自身は、情報的に遍在する世界の中にいる個人たちの行動様式に根ざしており、世界的コミュニティー総体の想像力によって生み出されている。一方、ソフトは技術的革新による製品で、それは技術がミクの成長にどれほどの役目を果たしているかを過小評価するのが間違いであろうと言えるほど、過去にあった境界を超越してのけた。
ミクノポリスの会場で照明が落とされ、初音ミクが最初にステージに姿を現した時、聴衆の中で数千のファンが上げた叫びを誤解することは不可能だ。堅実で具現的な光学的幻想を生み出すスクリーンに投影され、ミクはボーカロイド商品の箱を彩る二次元画像という起源から、サイエンスフィクションのポップスターへと素早く進化する。来るべき年月におけるボーカロイド発展への将来性を踏まえるなら、Mirai no Neiroパネルこそまさに新たな造語にふさわしい:「未来の音色」
The Nihon ReviewとAnime Instrumentalityはアニメ・エキスポにおけるミク関連のリポートを協力して提供する。コンサートそのものに対する詳細な報告は、Anime Instrumentalityに掲載されているzzeroparticleのエントリーをご覧いただきたい。
使用画像はPixivにある。この画像がコミケット80で使われたことについて、Moccyにお祝いを申し上げる。
http://www.pixiv.net/member.php?id=191242
この週末にアイデアを論じるという楽しみを分かち合った数十人、同僚のライターであるShinmaruとEternal、同じくAlex Leavittと、そして日本へ戻ったミクノポリス/未来の音色のスタッフに、心からの感謝を。
http://dph.ninja-x.jp/index.html
ミクについてよく知らない人へ、ネット上には利用できる多数の英語資料がある。おそらく外国のコミュニティーを本当に制限している唯一の問題はニコニコ動画への簡単なアクセスができない点であろうが、十二分な興味を持っていくらか賢い検索をユーチューブで行えば、ニコに投稿されたほとんど全てを見つけだせる。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。
自然権(しぜんけん、ius naturale/jus naturale)とは、人間が、社会の仕組みにたよることなく、自然状態の段階より生まれながらに持つ不可譲の権利。人権はその代表的なものとされている。今日の通説では人類の普遍的価値である人間の自由と平等を中心とする基本的人権及びそれを基調とした現代政治理論においてもっとも基本的な概念・原理であるとされている。ただし、その由来については神が個々の人間に付与したとする考えと人間の本性に由来する考えが存在する。
東京新聞:選挙終われば『ドレイ』か:私説・論説室から(TOKYO Web)
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2010032202000084.html
民主党の小沢一郎幹事長は選挙を重視する。選挙至上主義と言ってもいい。昨年には
悲願の政権交代を成し遂げた。「選挙に強い」という神話の当否は別として、小沢氏の
小沢氏はこう言う。
「民主主義の原点は選挙だ。国民が最終決定権を持つ国民主権が民主主義の絶対の
原則であり、その主権者が主権を行使する唯一の機会が選挙だ」
その通りだ。民主党に政権を託したのは有権者自身である。その責任は選ばれた
しかし、小沢氏の言動を見ると、選挙後はとやかく言われたくないと考えているように
思えてならない。
有権者は鳩山民主党政権にもどかしさを感じていても、次の選挙まで口出しできない
のだろうか。政権への注文も、行使すべき主権のうちではないのか。
仏革命に影響を与えた十八世紀の哲学者ルソーは社会契約論に「イギリスの人民は
自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する
間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」
(岩波文庫版)と書き記した。
英議会制度の欠点を指摘し、直接民主制を主張するのが主眼だが、選挙至上主義の
陥穽(かんせい)=落とし穴を言い当てているようでもある。
なんでヤングな彼らは「ポスティング」なる行為に走ったのだろうね。
だって、すんげぇ泥臭くてうざったいイメージあるじゃん。いかにも若者が「安保時代のバカサヨじゃないんだからwwww」とか言って嘲笑しそうじゃん。
ま、それはさ、ともかく。
フツーね、郵便受けン中に自分が想定していた以外のモンが入ってたら不快に思うじゃない? 思わない? や、そういう人はそういう人でいいんだけど。すいません。しかし、俺は「うわっ」、ってなっちゃうわけ。で、内容を一瞥すらせず、デリヘルの型番不明なちっこいチラシと一緒にさ、ストレートにゴミ箱に突っ込んじゃうの。そのゴミ箱ってのがさ、マンション側が用意した迷惑チラシ用のヤツなんだけど、覗いてみたらまたそういうビラで溢れかえっちゃってんのよ。選挙中ずっと。ウヨサヨ自民公明民主社民共産幸福実現生長の家その他その他問わず。
で、思ったわけね。何でこんなに揃いも揃って嫌われてんのかなー、って。思ったわけね。何で俺はこいつら、というかこういうビラが大嫌いなのだろうね、って。別に俺だって宗教も政治もいうほど嫌いじゃないし、ってか今回の選挙にあたっては、選挙権もないくせに珍しく能動的に行動しまくって、まず各党マニフェスト読破、したら「そもそも政治ってなんじゃらほい」って気分になったんで岩波書店の『政治学入門』とか、敷衍してジャンはジョンでもロックじゃないルソーとか読み出して全然わかってないのに理解した気になってちょこずいて『リヴァイアサン』(大塚原作じゃない方の)を二三ページ捲ったところで我に返った。それまで溜めた経験値もリセットされた。誰も褒めてくれなかったよ……。慰めてくれるのは不定期に届くエロい夢が詰まったAmazonのダンボールだけ……。
そう。同じ郵便受けにあってもAmazonは歓迎される。だって自分で頼んだんだもん。しかし、俺は人生を通じて一度たりとも「どこそこの勧誘ビラが欲しい!」などと願ったことはない。
通販も(一応)新聞も人からの手紙や郵送物も各種料金請求書も普通、何かしら先立つの契約や相互の信頼関係があってはじめて投函される仕組みになっている。つまり、受取人に「望まれて」おり、あらかじめ「配達されることが織り込み済み」なんだ。裏を返せば受取人に「望まれていない」郵便物は明らかに異物だ。だから俺は拒否してしまう。いかにアブトロニックの効果が素晴らしかろうと、大川先生が偉大であろうと、招かざる客である以上はほうり捨ててしまう。恐るべきは、その仕分けシステムを受取人の無意識に組み込んでしまった投函ポストの魔術。
俺らはマンションの玄関先で郵便受けを「ああ、今日は待ちに待ったアノDVDの……不在受け取り票が届いているであろう日!」などといかがわしい期待で悶々としながら開錠する。勧誘DMアジメールくさやがその中に鎮座していようなどとは想像だにしない。ダストとしてINしたものはすべてノイズであり、カスであり、ゴミであり、一律にダストとしてアウトすべき障害でしかない。普段の志向/嗜好がどうの、とかはそこでは全く関係ない。ダストに中身なんぞ存在しない。単に無意味だ。一掴みで十数の紙束を一絡げにしてダストシュートへ。なんと見事なまでに洗練された取捨選択の美しさよ。
とすれば、俺自身そこまでアジビラ勧誘メールを憎んでいるわけではないのかもしれない。
ただ、「望まれない」「配達が期待されてない」ブツを分別する手間が疎ましいだけで。
気持ち悪い、と感じてしまうのは、あるいは嫉妬しているだけかもしれない。ポストというシステムに人格を否定されながらもなおも自己主張を止めない彼らに、自分の正義を貫く彼らに。
ああそうか。わかった。最初の疑問が解けた。ワカウヨは、彼らは「真実」や「正義」を突きつければ手段やプロセス関係なく、他人を説得可能と思い込んでいるのか。
ちくしょうめ。なぜ前提としての彼らの「正義」を疑わないのか。なぜなら、教師は悪だ。やつらは束縛する。なぜなら、一党独裁社会主義国家は悪だ。やつらは束縛する。児ポ法は悪だ。俺たちを束縛する。在日は悪だ。俺らが束縛されているのに、やつらは自由だ。
してみると左翼はわかりにくい。景気が悪いのは自民のせいだという。格差社会は自民のせいだという。年金問題も派遣問題も自民のせいだという。どれも社会人生活経験の少ない若者にはピン、とこない。なんとなれば、天下り官僚は宿題を忘れた子供を怒鳴りつけたりなどはしない。それに仕事や景気の話というのはどうしても「自分」を要素として含まなければ成立しない。そうなると「自己責任」というメンドクサイ勘定までいれなくてはいけない。勘定しようにも社会人生活を営なまないことには算定方法も解らない。経済も勉強しなきゃ。数学? ケッヘイ。ならば徹底して「他者」と「エピソード」のみで構成されている右翼の敵の方が信じやすい。迷わないですむ。
俺は信じられない。迷う。彼らが「ネットにこそ真実がある」と学んだように、俺は「ネットにすら真実なんて存在しない」のを思い知らされた。だから常にニュースや情報を目の前にして、いつも迷ってしまう。信ずべきか否か。教科書に出てくるような公式や定理やシステムや歴史や定説は本当に信じていいのか? 「この時計は一日に0.000....01秒遅れます」本当に?
猜疑心と躊躇は決して同世代において、彼らより俺が賢(し)いということを意味しない。大体の場合において、俺は怠惰だ。一次ソースなんてクソ食らえで孫引きに次ぐ孫引き伝言ゲームで捻じ曲げられた捏造情報が事実として流布されるなら、それはそれでかまわないとすら考えている。半分ヤケクソに近いメンドくさがり屋だ。
そうやって踏み出すことをためらっている分、「政治」に貪欲なネトウヨたちより知識において劣るだろう。っていうか俺はそもそもサヨでもない。かといって中道を名乗るにゃ定義に確信が持てない。俺はなんでこんな話をしてるんだ。
率直に言ってさ、http://anond.hatelabo.jp/20090901001358にでてきた男の子がうらやましいと思ったよ。あいつには諭してくれる人間がいる。信念を表明したことを労ってくれる仲間がいる……
今まで生きてきて25年、どうも、俺の考え方が他の人と違っているなぁ、と思いながら、今日、その違いの本質っぽいところにたどり着いた。学校でも、会社でも、目標を作って「壁を乗り越える」ことが評価されるようなのだが・・・
そもそも、壁を乗り越えることに意味ってあるの?
その壁って、すでに他の人が乗り越えたものじゃないの?前人未到の壁だっていう証明はどこにあるの?他の人と同じ壁を乗り越えても、それって意味あるの?社会には人がたくさんいるわけで、あなたが壁だと思っている目標を、軽々と超える人もいるわけだ。あなたが頑張って壁を越えたとしても、それって、何かを達成したことになるのかな?あなたを評価する人・あなたを雇う人から見れば、あなたが壁を乗り越えようが乗り越えまいが、壁を軽々と乗り越える人の方が評価は高いわけだ。「何かを達成する」ということが、他者の評価を上げるということだったなら、別に、壁を乗り越えても乗り越えなくても、評価の順位は変わらない。企業は、あなたを捨てて、壁を軽々と乗り越える人を採用するだけ。
で、そもそも、何で「壁を乗り越えよう」としているんだっけ?壁って何?業績?業績を上げるって、他者からの評価を上げることじゃなかったっけ?あれ?でも、壁を乗り越えても、他者からの評価は変わらないんだよね。企業も大学も、あなたを捨てて、軽々と壁を乗り越えられる人を採用するだけ。結局、あなたは負け犬。
あなたにとって、今やろうとしていることが「壁」である時点で、すでに、もう決着はついているんだよ。競争社会では、壁につまづいて、それを乗り越えたことは評価されないの。壁を壁と思わず、進める人が評価されるの。壁にぶつかった人は、もうその時点で、負け犬なんだよ。壁にぶつかったら、もう、その時点で、評価は決まっているんだ。
でも、負け犬と評価されても、死刑になるわけじゃない。負け犬でも、生きていることは許してもらえる。僕らは怖がりだから、死ぬのは嫌だ。社会には、負け犬のための場所があって、そこで、かろうじて生きることはできる。そこで、社会とのwin-win関係が結べるんだ。社会は、「壁に乗り越えること」なんて求めてないんだよ。壁にぶつからない人を求めているんだよ。社会は、壁にぶつからない才能を持った人だけに用があるんだ。壁にぶつかったら、もうその時点で、社会は、その人に用なんかないんだよ。でも、かわいそうだから、壁にぶつかっても、かろうじて生きていていいことになっている。僕らは、壁にぶつかったという罪を償う代わりに、「生きていい」というお墨付きをもらえる。ここに、僕らと社会との間の、ひっそりとした約束事があるんだ。別の言葉で言えば、win-win関係、難しく言えば、社会契約っていうのかな。ルソーの社会契約論とか、高校の教科書に出てきたよね。
そういうわけで、壁を乗り越えることには、本当は意味なんかないんだよ。「壁を乗り越えよう」なんていうのは、人をタダで働かせるための、スローガンに過ぎないんだ。もう、壁にぶつかった時点で、あなたの評価は決まっているんだ。高校・学部・修士・博士・企業、全部そうなんだよ。壁にぶつかった奴は負け。壁にぶつからなかった奴が勝ち。壁にぶつかった奴は罪人で、壁にぶつかったという罪を、一生つぐなわないといけないんだ。
【追記】
ついでに言っておくと、僕は東大卒です。東大入学は、僕にとって壁ではありませんでした。まぁ、その後、壁にぶつかったわけですが。いろいろ反論はあるみたいですけど、「自分にとっての壁を乗り越えたんだからいいじゃない」みたいな意見は、単なる自己満足だと思っています。たとえ自分の中では成長したと思っていても、他人から見たときに自分が成長していることを示せなければ、「自分の成長」を客観的に示せないわけです。壁を軽々と乗り越えられる人間が、壁にぶつかる人間より優れていることは、明らかです。競争社会では、壁にぶつかった人間は不要なのです。その代わり、壁にぶつかった人間は、壁を乗り越えた人間を恨み、妬み、殺されないように自衛することは許されています。それが競争社会の意味であると思っています。
【追記2】
今までの記述と矛盾するかもしれないけど、少し冷静になってみる。とりあえず、自分の経験は、次のようなもの。高校のころから、「壁を乗り越える」というのは、まず、「自分の壁」を探して、その後、ぶつかることだと思っていた。当時から、「xx君は数学ができてすごいな~」、「でも、数学は自分の壁じゃないから、そこそこできればいいや」というようなことをやっていた。こうやって、ぶつかるべき壁を絞っていった結果、一応、「自分の壁」は見つかったんだけど、今ぶつかろうとしている壁は、数学や英語の「基礎力」がモノをいう壁でした、という話。だったら、最初っから「自分の壁」とか「壁を乗り越える」なんていう考え方をせずに、基礎力を鍛えておけばよかったな、という話。
でも、だからといって、「基礎力をつけようとしたら壁にぶつかったけど乗り越えました」なんていうことをアピールするのはひどい勘違い。企業にしろ、大学の先生にしろ、他人が自分の基礎力を評価するときは、そもそも「壁にぶつからない人」を高く評価する。基礎力をつけるときに、自分の壁を乗り越えた、バンザーイ、なんていうのは、甘っちょろい自己満足。
だからね。何がいいたいかっていうとね。
・個性とかオリジナリティーとかうざいです。結局、基礎力がないとおもしろいことはできません。オリジナリティーの高いものを作るには、基礎力が必要。
・逆に基礎力さえ高ければ、オリジナリティーの高いものが自然に出てくるのです。
・基礎力をつける段階では、「壁を乗り越えたかどうか」は評価されません。壁にぶつかった時点で、あなたは、壁にぶつからなかった人より劣っているとみなされます。つまり、もう、そこで序列ができているのです。あなたは、負け犬です。
・ただ、壁にぶつからなかった人を羨み、妬むことは許されています。個性とかオリジナリティーとか独創性とか、馬鹿げた幻想に踊らされるよりも、人を羨み、妬みながら静かに生きていたほうが、幸せな人生がおくれると思いませんか?
ということです。