はてなキーワード: サブタイトルとは
上記を正しい順番に並べよ。
わかんねーよ。
これに限らず、シリーズ物で続き物なのにナンバリングなしのサブタイトルありの作品結構あるんだよ。
あれは基本1巻完結だからまだマシだけど、
たまに過去の人物との絡みがあったりするからやっぱり順番に読みたい。
いやwww裏の発行日見ればええやろwwwwって言う人いると思うんだけど、
仮に発行日順に買ったとするじゃん。2020年4月、7月、11月、2021年5月みたいな感じでさ。
でも、これ揃ってるかはわかんねーんだよ。
実は2020年9月にもう一冊発行されてる可能性だってあるわけだけど、それはわかんねーんだよ。
続きものなら続きもので、何巻目かわかるようにナンバリング振っとけよ。
最悪タイトルには入れなくていいけど表紙背表紙どっかに書いとけ。
頼むよ。シバくぞ。
追記:
yosshi-k 背表紙にある整理番号でわかる。著者頭文字のひらがな-刊行会社内のひらがな内の著者の順番-著者の刊行順の番号になってる/参照) http://pro.bookoffonline.co.jp/book-enjoy/reading-skills/20160610-bunkobon-seiribangou.html
では問題です。
魔術士オーフェンはぐれ旅 我が塔に来たれ後継者 整理番号40-8
正解は第6巻。
整理番号40-1がデビュー作でオーフェンとは全く関係ない話。
整理番号40-7は魔術士オーフェン無頼編という短編集の第1巻。
整理番号40-6まで持っていて、次の巻を買おうと思って
整理番号40-8だけが書店にあった場合、次に買うのはこれでいいのか
それとも整理番号40-7を探すべきなのか、わかんないだろ。
しかも同時並行で全く関係ないシリーズとか書き下ろしとかを書いてる作家だと
発行番号はどんどん入り組んでいくんよね。
気の強い刑事マリコが東京湾岸署の科学捜査研究所(通称・科捜研)で、様々な事件に体当たりで挑んでいく。
ストーリー 1月7日。東京湾マリーナで身元不明の女性の水死体が発見された。女性の所持品から身元は割り出せないかと鑑定した土門弘幸部長刑事は、女性の死体に違和感を覚える。
一方、警視庁では連続無差別毒殺事件が発生していた。被害者たちは皆、同じ毒物によって殺されており、しかも被害者の共通項が見つからないのだ。その謎を解くため、警視庁の佐伯マリコも現場に急行する。
佐伯マリコ (さえきまりこ) 警視庁刑事部鑑識課員 元麻布警察署生活安全課巡査長 現在は本庁科学捜査研究部に所属している。階級は警視正だが、現場を志願して出ているため昇進試験を受けていない。そのため警部補のままである。
趣味は料理で和洋中なんでもこなす。独身寮で自炊しているため腕前はプロ級。ただし、本人いわく「趣味だから美味しいと思うだけよ」とのこと。
土門 弘幸(どもん ひろゆき)警視庁刑事部鑑識課に所属するベテラン警部補。階級は警視正だが、現場一筋のため階級は低い。
藤倉 幹彦(ふじくら みきひこ)警察庁警備局外事課長。階級は警視監。元SAT隊員でもある切れ者。
蒲原 誠(かんばら せい)神奈川県警横浜北警察署生活安全課少年係所属巡査長。階級は警帽徽章から察すると巡査部長の下らしい。
橋口呂太(はしぐち りょうた)国立感染症研究所の研究員。自称・天才ウイルス学者。
榊 真司(さかき しんじ)厚生労働省大臣官房総括審議官兼検疫官。いわゆるキャリア官僚で、警察庁OB。
相馬真之介(そうま まさのぶ)警察庁広域重要指定1号事件の捜査主任官。階級は警部。
エリート意識が強くて融通がきかないところがある。
水木薫子(みずきかおるこ)警察庁広域重要指定2号の事件で被害者となった若い女性警官。
テレビドラマデータベースより(https://tkdramasite.com/db_houjinkaisei_tv.html)
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
見つけるとうおおおおおおおおおおおってなる。
漫画版パトレイバーのサブタイトル、1話が「ザ・ライトスタッフ(あっ軽い人々)」で、最終話が「THE RIGHT STUFF―正しい資質―」なの、見つけた時は鳥肌立った。特車二課の創設から始まって、軽い人々が成長して、正しい資質を示した最終話。
先日読み放題やってたゴールデンカムイ、アシリパさんとの出会いで「人間を殺せば地獄行きだと?それなら俺は特等席だ」って言ってるの、全然覚えてなくて、27巻でその「それなら俺は特等席」という台詞が別の人物から出てきててうわってなった。こちらは最初から意図してたのか、後付けだったのか正直判断つきづらいけど、上手いなぁってなった。
序盤から終盤へのパス、ではないんだけど、のだめカンタービレで、ずっとのだめが嘘をつくときは目を逸らすっていう描写をし続けて、千秋と孫ルイの共演を見たのだめがプロポーズする時に目を逸らさないの。これも流石だなぁと感動した。
大学の構内にあるショッピングモールでやりたいゲームがなくて店内を歩き回った。筐体の形がちがう弐寺が置いてあった。皿や看板が置いてある部分は消失し、液晶のみが壁にくっついてる感じだ。全然弐寺じゃない。ナンバリングは25とされていたが、現実世界とはちがうサブタイトルだった。tripleだった。夢の中の私は何かの単語ととappleを合体させた造語だと思った。
そのあと、(同じ夢の内容なのか、同じ夢でもさっきの出来事の直後かは分からない)大量の箱メタトン(アンテのキャラ。最近やってたから出てきた。)が経営する風呂屋でアヤナミレイ(エヴァ原作は見たことなく、ツイッター上のイメージが固まって出てきたものと見られる)と一緒にお風呂に入った。
1を高校生時代リアルタイムでやったおっさん世代。8(PS2)までやってゲーム自体から距離ができてた。
生活に余裕もある事で、15年ぶり位にSteam版でドラクエXIを遊んだけど、ものすごい進化と集大成感、そして満足したって話を書く。
思いついた事だけつらつら書く。ネタバレ全開なので、少しでもやろうと思ってる人は読まない事をおすすめする。
主人公の育った町が破壊され、やがては復興する。かつてのナンバリングでも同じように街が滅ぼされたり、街を発展させたりするエピソードはあったけど、皆で力を合わせて日常を取り戻そうとする描写とか、強くあろうとする普通の村の人々の声や態度とかが、一見するといつものドラクエなんだけど、震災を経験してから見ると言葉に重さがあってなんかたまらくなる。
また、かつて有った国や町が滅んで、別の地域に移り住んだ人の8人目のあいつのエピソードや、滅んだ国やそこで亡くなった人に思いを馳せるシーンがさりげなく描かれていて、思わず涙した。
一回目のエンディングでのあのじいさんの行動とか表情とか、もう悲しくてたまらなかったな。
シルビア、もうシルビア良すぎだろ。彼と対話する人間が、彼が自認している性別をありのまま受け入れて、それを前提に会話している所でシビれた。仲間の台詞とか、対話相手の言葉とか。厳格な父親でさえそうなの。普通だったら父親との確執に性別に対する由来なんかを脚本に入れて来そうなもんだけど、それを一切入れない、これは性に関する問題や脚本を避けているというより、そんな事はとっくに解決した世界ので出来事として扱われているのが凄かった。
昭和や平成のノリならオネエネタで弄りに行く表現や、それって良くないよね的な表現やメッセージを入れてしまいそうな所だけど、暗にそんな事はこの世界では既に解決してますよ。という状態だけにして物語を進めているんだよね。ちょっと滑り気味世直し隊のギャグもすべてそう。
多分脚本や表現の至る所にそのコンセプトをきっちりマネージメントして最大限気を使っているのがひしひしと伝わりました。保守的なゲームなのにこういう所がしっかりしてるの凄く良い。
そのくせに奴は、特技で「レディファースト」とかいうのを持ってて、戦闘で自分の番を女性キャラに譲り渡す。ってのがあって戦闘中にも関わらず「お先にどうぞ」とかめっちゃ紳士な対応しててげらげら笑ってしまった。
1回目のエンディングまではひたすら一本道のシナリオやゲーム構成で、一つの問題を解決しないと次には進めない構成を徹底してた。
確かにリッチなムービーとかシナリオは満足感高いんだけど、遊んでるというより、ひたすら一本道の簡単な戦闘の合間に映画みてるというか、作業感があるんだよね。悪くはなんいんだけど、なんかヌルい。UIでも「次にこれをやれ」という記述が徹底していた。最初の方の戦闘とかヌル過ぎて、あードラクエもすっかり今風の作業ゲームなんだなあ、って思いながらやってた。
あと「過ぎ去りし時を求めて」ってサブタイトル、後ろ向きでノスタルジーだなって思ってた。
実際にエンディング後はノスタルジー便りの作りになっていた。でもあえてそれをやる潔さがあって逆にこれで良かった気がする。
そもそもドラクエって日本的な文化に根差した凄く保守的なゲームで、要は水戸黄門だよね。
主人公達は様々な街を冒険して、そこでの問題の解決をしたり、人々の悲喜こもごもな出来事に遭遇しながら諸国漫遊をして
最終的にはボスを倒す。という作り。ゲームの内容もひたすら同じことを繰り返せば、だれでも強くなってクリアできるし反射神経や頭を使う作業はいらない。(但しウマレースを除く)
https://www.masurao-channel.com/entry/2019/06/22/142149
オリンピックの開会式でやるらしいけど世界的な知名度低そうなのに大丈夫か?
でもシリーズ3作目までのドラクエって実は1本道感って薄くて、様々な謎やヒントが各所に散らばって並列して謎が提示されるんだよね。ある意味不親切。下手に見えない境界を越えると強すぎる敵に遠慮なく殺されて、痛い目見て学ばせたり、情報の整理や試みをユーザーに委ねる感じなの、HPやMP、アイテムのリソース管理も厳しくて、それが逆に常に緊張感を生んでいた。だからふっかつのじゅもんと共に、街の人の言葉のヒントをメモしてて、その不便さを楽しんでいたというか。文章入力型のアドベンチャーゲームの系譜としての不便さや謎を解く楽しみを持ったゲーム感があったよね。
その昔の感じがゲームの後半からだんだんと強くなって行く感じが良かった。ある時から一気にできる事が増えて、突然理不尽に強い奴と戦う羽目になって全滅とかした。これは今は無理だな。とかちゃんと思わせる作りになっていたのが逆によかったなぁ。
それでもヒントの提示はしてくれたけど、世界での選択肢が多すぎるのであればアリだと思う。
ところでここ数年アニメ化される異世界転生ものが、ことごとくドラクエの世界観や「勇者」という概念を下地にしたものばかりだけど、改めてその影響ってすげえな。と思った。「勇者」って言葉自体、確かシリーズ3が初出だと思うけど、今や「勇者」って完全に概念だよね。ドラクエ前には「勇者」って言葉には世界のを命運を握る意味合いも、特別な力を保持する意味もなかったけど、今やそれ込みの言葉になってしまった。
関連語 豪傑(ごうけつ)
なんかそんな今の流れを知ってか知らずか、ちょうどの現代のドラクエ自体が作り出した「勇者」って概念に1000%フォーカスした物語を今あえてやるってなんかすげえなと思った。
2回目のエンディングなんて特に、ファミコンでリアルで遊んでいた時の思い出がぶわーっと出て来る感じが凄かったな。
世界の名前が既にロトXXXXと付いているので、そこに繋がるんだろうなとは思っていて、途中で出て来る過去の勇者の姿とか構成がどう見ても3で、たけど、どうつなげるんだろうと思いながら最後を迎えて、あーーーーそうくるかーーーーー!となった。
まだナンバリングの時間の相関が把握しきれてないけど、前提として 3→1→2 でしょ。
11の過去に3があって、11の未来に1に繋がる事を示唆していたから 3→11→1→2 ってことか?
そもそも3→1 の間には結構時間が流れているって事だったけどMAPは同じだったから間に入る11のマップとの整合性が付かないけど、その辺のこまけー話はいいんだろうな。
ドラクエの3やった時に1に繋がる事で、あーそうなるんだー!って強く思った経験が、後にスターウォーズのEP3でも感じられたけど、今回再度同じような感じを味わえたのは良かったなぁ。
ドラゴンクエストのナンバリングは今後も続くのだろうけど、堀井雄二、鳥山明、すぎやまこういちの構成は年齢的にももう厳しいかな。
この構成ならではの保守性を味わえるゲームなので、今後自分が楽しめるドラクエが出る事も無いのかな。という気もしていてる。それこそ過ぎ去りし時の中だけに留めたいと思った。
皮肉としては面白いけど、そういう皮肉をぶつけるドラマでもないだろうし、
「今起こってることをテーマにするのが逃げ恥」ってニュースじゃないんだから、
ttps://www.crank-in.net/interview/84333/1
そうやってプロデュースという制作側に色々詰め込まれて原作の良さが壊れるとかあると思うし、
最近だと劇場版のSTAND BY ME ドラえもん 2が不評だったりとか、
というか、落ち込んでるときに頑張れってあんまり意味がない気がするんだよね
仮にコロナで落ち込んでてガンバレ人類を言うのはうつ病と同じで逆効果というか、
コロナと関係ないものとか、サバンナの動物をナレーションなしで観てるとか、
そういう方が落ち着くと思うんだよね
なんとなくだけど、こういう自分の神経を逆なでするようなサブタイトルとか、
バブルから氷河期近辺のフジテレビって漢字がするんだけど、ドラえもんのもそうだし、
まあテレビ観ないしどうでもいいけど、
id:BigHopeClasicです。以下Twitterから転載
#シンエヴァ 見た
もちろんネタバレはせんよ
せんけど、これだけは言わせて
b:id:p_shirokuma シロクマ先生、これで解呪されん人は、この後どれだけ生きても解呪無理ですわ
庵野秀明、やりきった
① これ、旧世紀シリーズから入った人と、新劇場版から入った人で、物語の強度が全く異なると思う
そして、どちらの人にも、きちんと落ちている
そういう意味で、本当に庵野秀明は、エヴァを見事に荼毘に付して、骨の髄まで焼き切って供養したなと思う。
「すべての子供達に、おめでとう」
今度は全ての人の胸に、すんなり落ちると思う
なので、これは同人ドリヴン、二次創作ドリヴンで動いてきた21世紀20年のネット創作の潮目が変わる、ことになるのかもしれない、とも思った(ここは完全に個人の偏見)
シンエヴァの物語の「強度」について言えば、劇場で序を7+1(2020)、破を10、Qを3回見た自分が、これは一度でいいと思ったということ
(以下、Twitterに書かなかった部分)
庵野秀明のアンチが庵野に浴びせる罵声の典型的なもののひとつとして、「畳んだ風呂敷を畳めない男」というのがあったけど、24年時間はかかったけど、今回しっかりと畳み切った。
厳密に言えば「○司令とhogehoge」とか「イスカリオテの☆♯*」とかなくはないんだけど、この作品見終わったあとでそこをウダウダ突く人はいなさそう。
CG技術が当時なかったとかそういうことを別にして、多分97年の夏にエヴァファンが見たかった「夏エヴァ」が、それはシン・エヴァだったのではないのかなと思う。
もしあのタイミングでこの映画ができていたら、エヴァは見事に綺麗にそこで終わっていた反面、四半世紀も鮮度を保ったまま続くコンテンツにはなっていなかっただろうなと。
この新劇場版シリーズが「Rebuild of Evangelion」として始まり、序・破・Qが見事にTV版をRebuildした作品であり、そしてシンが夏エヴァの最高のRebuildとして終わったことを、ただ、嬉しく思う。
(追記)
とはいえ、あのラストシーンは、TV版最終話の英語サブタイトル「Take Care of Yourself !」を旧劇場版ともう1回、都合3回目やったんだろうなと思えて苦笑。先にああは書いたが、これでも呪いの解けない亡者は当然出るわけで、そういう人に対する「もう出せるクスリはないのでお大事に」が、あのラストシーンに込められているように思えてしまった。
(だからこその英語サブタイトル「Thrice Upon a Time」(『未来からのホットライン』の原題だけど、直訳すれば「3回目に起きたこと」だし)