はてなキーワード: イタチとは
正社員の待遇を改悪すれば、相対的に非正規を雇うコストが安くなくなり、正社員にしやすくなるって理屈と同じように、最低賃金以下で働いてる人たちをどうにかしたいとか考えてるんじゃないのかな?
最低賃金を撤廃すれば、最低賃金以下で働かせてるグレーな職種に、まっとうな労働者が入り込む余地が出来て、うさん臭い利権で守られた、ワタミが天国に見えるような地下労働に陽を当てるとか。
いや、マジであるんだよ。
日本語をまったく喋れない中国人(大抵は極貧の少数民族)を農業研修生として山奥の養豚場や養鶏場に寝泊りさせてタダで働かせてるとか。
正攻法なら、それらを規制してやめさせるべきなんだけど、それが出来ない事情がいろいろあり、規制したらしたでさらに地下に潜りっていうイタチごっこだし。
お前が読みたがってるような暗い漫画じゃねーんだよと言われたらそれまでだが、俺もおんなじこと思ってた。
じゃあ今はなんなの?
「血なんかFuck!」
が初期テーマだったよな?
それがナルトであり、ハクであり、ネジであり、リーであり。
里の住人だって、一族がなんちゃら才能がなんちゃら、本家が、分家がっと、とくだらないことばっかり言ってばっかりでさ、罪人の弟だとか化け狐の依代だとか、本人がどうしようもないことを影で言うクズどもだったよな。
そういうクズ親どもとそっくりな、嫌なガキどもの間で育ったって話だったじゃん。
そこに、「力こそ全て。お前は無価値なんかじゃない。」
とささやく大蛇丸、ザブザ。
それにそそのかされ、ダークサイドへの誘いに乗ってしまうかどうか。
そういう漫画だったよね。
「一族一族うぜぇ」っと言わんばかりに。
あの感覚すげぇわかった。
一族のしがらみやつながりを全部すて、ただ高みを目指す求道者、一族殺しも、弟を復讐者にするのも、ただ高みを目指すため。
っていう当初の設定のほうがよかった。
で、第二部。
結局血かよ。
里のみんなに愛されて、パパママからも時空を越えて愛されて、化け狐とも仲良しかよ。
承認欲求なんかもうみちみちてるだろ。
手に入れたいものは既に手に入れてる。
http://anond.hatelabo.jp/20120623023851
この増田を読んで、音楽大好き人間のおれからすると、「あぁ、こういう人が音楽業界をダメにしたんだな」とは別に思わなかった。
音楽業界がダメになったのは、そもそもこんな「責任者探し」なんかをしてしまう音楽市場に関わる全員だということにまず気づくべきだ。
http://masahidesakuma.net/2012/06/post-5.html
これにケチをつけたのにケチがついてそれにケチが…というのが流れ。
この一連の流れでまず問題なのは、「いい音楽」の定義があやふやなまま書かれていること。
どうしようもないことだが、万人に共有される「いい音楽」の定義など存在しない。
だから必ずどこかの側面を切り取って、暫定的にでも定義しないといけない。
ここでは、どうも「良い"音質"」や「満足の行く機材や環境」で作られた音楽のことを指しているように思われる(もちろん定義されてないからよく分からない)。
次にカメライターを自称する「かさこ」さんのブログ記事に移る。
「金がないから「いい音楽」作れない?~ビジネス感覚なき職業音楽家の末期症状」
http://kasakoblog.exblog.jp/18220333/
つまり予算とは関係なく、いい音楽は良いんだ、と言いたいらしい。
1000万のストリングスだろうが、200万のストリングスだろうが、そこに聴手が差を感じなかったら、意味のない800万かもしれない。
では、高品質の音楽とは何なんだろうか。誰がそんなことを決めるんだろう? その定義がない。
「金がないから「いい音楽」作れない?~ビジネス至上主義の末期症状」
http://anond.hatelabo.jp/20120622221514
なんか論文テイストなタイトルで、かさこさんのブログに商業主義の極みみたいなものを見出し、ボロクソに書いている。
つまり「商業主義」だからダメなんだ、ミュージシャンが良いと思ったものだけを作らない。
また作っても全然評価されないようにした商業主義が悪い、といって、マスコミ叩きもついでにやってしまう辺りが可愛い。
増田に求めるのは酷かも知れないが、さすがに音楽の歴史をあまりに知らなさすぎて苦笑する。
ビートルズが商業性のない芸術だとか言ってる時点でもうあまり喋らない方がいい。
ここでの「いい音楽」の定義は、歌い継がれる事だそうだが、歌い継がれるということは大衆に商業的に成功したからなのでは…と、これ以上は突っ込みどころ満載なので次に行こう。
「音楽業界をダメにしたのは「レコード会社」じゃなく「アーティスト」だろ」
http://anond.hatelabo.jp/20120623023851
まず音楽は大衆娯楽なんだ、日本にとっては!と強く断言している。
が、この国のみならず、音楽は全世界で宗教や娯楽、芸術と深く結びついていて不可分の存在だろう。そもそもなぜそれらが同時に成立してはいけないのかが分からない。
ある人からすれば芸術に聞こえるし、ある人からすれば宗教的な境地に達するものもある。もちろん娯楽にもなる。音楽とはそういうものではないのだろうか。
また、大衆に迎合せず、自分たちの好きな音楽のみを作り続けるミュージシャンを「アーティスト」とカッコで括り、どういうわけか彼らが音楽業界をダメにしたことになっている。が、論拠がない。
これが一番意味不明だった。なんで「アーティスト」は法律の問題に触れないといけないのか。そしてそもそも声を上げたかどうかちゃんと検証していない。ただ自分の聞こえる範囲内でいなかっただけなのに、一般化している。むちゃくちゃな主張だ。
この記事では、つまり大衆に向けてしっかり受ける音楽を作ることが「いい音楽」で、自分たちの好みや主義を通すことが音楽業界を破壊したということになる。また極端な話だ。
このように結局、「いい音楽」というものが定義されないまま話が進むから、何の実りもないケチの付け合いになっているのが残念だ、と、流れを概観して思う。
最初にも書いたが、もう犯人探しなんかしている段階じゃない。敢えて言うなら全員が犯人なんだと思う。ぼくも君も含めて。
少なくとも、ごねたところで、現状はどうにもならない。
確かに、音楽の状況は変わった。
音楽コンテンツに支払う金額は少なくなった。当然のように市場は縮小する。
予算が下がる。確かに音質は落ちる。ストリングス楽団を必要するような高予算の音楽は簡単に作れなくなった。
ただ、予算は音楽の質と比例しない。ぼくはミックスと音質がクソみたいな初期BUMPOFCHICKENが好きだ。ハイファイで澄んだ音質の新曲は聴きすらしなくなった。
だからといって悪い訳ではない。ぼくにとっていい音楽でなくなったBUMPの新曲は誰かにとってのいい曲になっただろうから。
こんな風に変わっていく現状の中、レコード会社の人たちはレコード会社で、ミュージシャンたちはミュージシャンで各々の問題を考えて欲しい。
ぼくは門外漢なので何も言えない。ぼくはリスナーだから、リスナーの目線でものを言う。
ぼくは、単純に音楽をもっとたくさん聴いて、たくさんお金を落とせばいいと思う。
CDが売れないのが問題じゃなくて、音楽市場にお金が流れない現状があるなら、それは結局のところリスナーが財布のヒモを縛っているからだ。
お金を落とす価値のあるミュージシャンがいない、本当に良いなら喜んで金を出す。よくきく言い訳だ。
違う。逆だ。お金を払って、身銭を切って買った音楽だから、真剣に音楽を聴く。せっかく払ったお金をムダにしたくないから。
いま、音楽は猛然と無料化の方向に向かっているが、それでは絶対に音楽業界は良くならない。なぜならリスナーが育たない。
音楽はタダで聴けてはいけない、とは言わないが、やはりそれは限定的であるべきだ。
イタチごっことは分かっているが、もし本当に無料で違法にダウンロードされることが音楽市場にお金が流れない原因だとするなら、
人件費を割いてでも、YouTubeやニコ動などのストリーミングサイトを巡回する人員をもっと設けるべきだと思う。
先程にも書いたが、音質と楽曲の良し悪しの判断は必ずしも道を同じくしない。
音質が多少悪くても楽曲が気に入ってしまえば、タダを取るリスナーが多い。
そして、音楽が安くなることに関してだけは、大賛成。今、iTunesなどでは一曲が200円かそこらで買える。
作り手には申し訳ないがリスナーからすると、やはりこれくらいが限度だと思う。CDはちょっと高すぎる。
逆に、ダウンロード販売などで安く手に入る音楽の在庫はもっと拡充しないといけない。
iTunesなどで販売されていない曲がユーチューブでタダで手に入るとか、さすがにそれはユーチューブ使うよ。
つまり、リスナーは身銭を切って音楽をきくべき、と同様に、身銭を切りたくなるような仕組みをレコード会社やミュージシャンは考えていかなくてはならないだろう。
少なくとも、パッと思いつく上記のようなことはできないといけない。
保護を何倍も受けるためにわざと貧乏親族の戸籍を分割しまくったり、
その上で収入ある親族は「扶養したくない」と言って保護を丸取りしたり。
不動産購入してそのローン返済で「余裕がない」と主張して生活保護をフルゲットして
しかもその不動産は生活保護受給者のために買ってあげたものだったり。
これなんの発想かっていうと
免税お味噌会社作ってそこから人材派遣させて消費税まる食いしたりとか。
まあどれも開発後しばらくして税務署にとっちめられたけど。
生活保護でもやらないわけがないと思ってたけどやっぱりやってた。
個人個人が思いついてやったとは考えにくい。
いかにも会社の経理とか税務やってる人間が開発しそうなやり口なんだよね。(ねえ吉本さん…)
本当にこれらが取り沙汰されるのを「何も問題ないのに」とか「不当なリンチだ」とか言っちゃう?
そこから生活保護受給者全部叩いちゃいけない、って話とは切り分けた方がいいんじゃあないの?
いよいよモラルのたがは外れるし扶養回避ノウハウやら分割多重受給ノウハウやら
生活保護費がどれほど膨らむか見当が付かない。
有名人の影響力は凄いしね。
だいたい「生活保護の不正受給率はたった0.4%」とか得意げに書いてる人がいっぱいいるけど
その数字がどこから出たのか、どういう出し方してるのか、意味がある数字なのか、疑った?
なーんか検挙率な気がして仕方ないけど。
それこそ一人一人の善悪とか超越した話で、
税金の仕事してる感覚として、不正が0.4%ぽっちなんてぜーーーーったいに。ありえない。
そして不正は、
「やるチャンスがある」「リスクがない」「やっても悪くない」というサインを受ければ
燎原の火みたいにぶわーーーーーーっと増えるよ。
ものすごく甘い見通しをしてると思う。
知ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、中国からのtwitter、facebookなどbanされているサイトに中国から接続するにはいくつかの方法があります。
下にあるURLのように、情弱組女の子たちはフリーゲートを使う子が多いようです。信じられないぐらい遅いので僕はこのフリーゲートは使ってません。
今のところ知っている限りですが、早稲田大学と香港ナショナル大学の学生は自分の大学のvpnを使うことができます。他にもvpnを使用している大学があれば使えるvpnも数多いかと思いますが、僕が把握しているのは2大学だけです。
早稲田大学だと学外からの専用のホストを使用するので、早稲田のvpn接続マニュアルに載ってないこともあり、接続方法を知らない子も多いようです。早稲田のvpnは中々優秀で接続はvpnを使用していないときよりもかなり早く感じます。日本のgoogleから香港のグーグルにリダイレクトされることもありません。
私が通っている復旦大学では、香港人の大きなコミュニティが存在しているようで、香港ナショナル大学の子のアカウントを復旦大学の学生が隠密に共有しているようです。
それ以外の大学の人や、フリーゲートは遅すぎるという人は、有料のvpnを使っていることが多いみたいです。
値段はus10~30ドルぐらいで各種あります。契約するとアカウントがもらえるものです。
しかし、有料のvpnは政府とのイタチごっこである日、突然接続できなくなるというのも日常茶飯事です。ですから、中国ではvpnの長期契約は厳禁です。
ちなみに、海外のvpnの販売サイトさえもbanされているので、そのサイトで契約するのは、
①あらかじめvpnが接続している友だちのpcを借りてアカウントだけ取る
というのが多いみたいです。
フリーゲート
知ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、中国からのtwitter、facebookなどbanされているサイトに中国から接続するにはいくつかの方法があります。
下にあるURLのように、情弱組女の子たちはフリーゲートを使う子が多いようです。信じられないぐらい遅いので僕はこのフリーゲートは使ってません。
今のところ知っている限りですが、早稲田大学と香港ナショナル大学の学生は自分の大学のvpnを使うことができます。他にもvpnを使用している大学があれば使えるvpnも数多いかと思いますが、僕が把握しているのは2大学だけです。
早稲田大学だと学外からの専用のホストを使用するので、早稲田のvpn接続マニュアルに載ってないこともあり、接続方法を知らない子も多いようです。早稲田のvpnは中々優秀で接続はvpnを使用していないときよりもかなり早く感じます。日本のgoogleから香港のグーグルにリダイレクトされることもありません。
私が通っている復旦大学では、香港人の大きなコミュニティが存在しているようで、香港ナショナル大学の子のアカウントを復旦大学の学生が隠密に共有しているようです。
それ以外の大学の人や、フリーゲートは遅すぎるという人は、有料のvpnを使っていることが多いみたいです。
値段はus10~30ドルぐらいで各種あります。契約するとアカウントがもらえるものです。
しかし、有料のvpnは政府とのイタチごっこである日、突然接続できなくなるというのも日常茶飯事です。ですから、中国ではvpnの長期契約は厳禁です。
ちなみに、海外のvpnの販売サイトさえもbanされているので、そのサイトで契約するのは、
①あらかじめvpnが接続している友だちのpcを借りてアカウントだけ取る
というのが多いみたいです。
フリーゲート
酔った勢いで書く。
適当に読み流してくれ。
ちなみに学校ぐるぐる周ってパソコンとかのメンテしてるみかか様の下請け業者の社畜です。
職員室とかよく出入りしてる。
痛いニュース(ノ∀`) : 【ニコニコ動画】 プレイ動画投稿にゲームメーカー激怒…投稿者、示談金支払う - ライブドアブログ
上の記事で407が言ってること。
これその通りです。
先生が普通に「昨日見逃したドラマを帰ったらyoutubeで探してみよう」とか言ってる。
堂々と言ってる。
さもそれが普通なように。
今はそういう時代なんだと。
何を言ってるんだ。
「youtubeで探してみよう」
あほかと。
ばかかと。
でもどの学校にもパソコンに詳しい先生は必ずいて、その人はある程度問題のある行為だという認識を持ってる。
違法だとわかってても、実際問題便利なので「言わなきゃバレないし」となって結局注意まではいかないんだと思う。
まぁ大人はそれでいいと思いますよ。
たとえそれで捕まったとしても自ら責任を取れるので。
私が本当に悲しく思うのは、そんな先生たちに教育を受ける生徒たちです。
彼らは間違った認識を「普通」として義務教育の過程でナチュラルに仕込まれて、
彼らは「テレビとしてもう全国放映したんだから、別にネットに流しても問題ないじゃん」と本気で思ってるし、
その考えが間違っているという認識も全くない。
恐らく言っても理解できない。
正直ゾッとします。
著作権ってなんでしょうかねー。
どの学校もパソコン室には必ず著作権についてのポスターが張ってありますが、
パソコン室なんかどうでもよくて、先生全員の机に貼ってほしいです。
どうせあんな硬っ苦しいポスター、生徒は見ないだろうし。
各テレビ会社も、違法アップロード・ダウンロードの取り締まり強化とかそんなイタチごっこするくらいなら、
私は海外コメントの翻訳まとめサイト系と、2ch系まとめサイトの2種類を日常的によく閲覧している。
はじめに言っておくと英語原文は読めない。
疑問というものを先に言えば、翻訳サイトなどを一通り読んだ後に
ずっと読んでいたら慣れてしまうが、翻訳サイトを読んだ直後だけに起きやすい事象。
純粋に、この感覚の違いは何なのだろうと前々から疑問に思っている。
自分が思う範囲での原因は、
一、海外コメ翻訳サイトでは日本人が気持ちよくなれるようなコメントしか
ピックアップされていない。反面、2chまとめサイトでは様々なコメントが直接載せられている。
当然それらを見ても、あまりいい気持ちはしないが
もっと掘り下げて考察してみる。
・原文ではなく、あくまで翻訳者の翻訳の仕方によって言い回しが異なるから
その時点である意味、翻訳者1人のフィクション創作物となっている。
(つまり掲載された翻訳済みの全てのコメントの書き方や言い回しに(翻訳者による)統一感があるので、
まるで小説や海外ドラマなどを見ている錯覚に陥っているのではないか)
誹謗中傷やコメ内での言い争いを見てもフィクションに感じてしまう。
・(英語が読めないので勝手な憶測だが)英語は日本語に比べ同じ意味でも言い回しや語彙が少なく
ストレートな言葉が多いので、翻訳しても原文で読んでも多くの人の発言や話し方に統一感ができてしまう。
それに加え、ステレオタイプ的な考えだが海外は物事をストレートに表現するという事も一因ではないのだろうか。
・まとめサイトへの載せ方や編集はサイト管理人の思想で左右されるが
転載した書き込みそのものには手を加えておらず(太字や色付けは別)
書き込んだ人々それぞれの言い回しや書き方を知れてしまうため。
・ネット、しかも2chとはいえ大部分は同じ国内の人間の書き込みだから(と思っている)、
誰かが言い争いをしていても他人事とは思えず、リアリティーがある上身近に感じてしまう。
・日本語は語彙や言い回しが豊富だからこそ、書く人が10人いれば、それこそ十人十色の独特な言い回しがある。
このような違いがあると自分としては感じた。
他には、単純に書き方に温度というか人間味を感じるか否かという事も。
これについてはただの私自身の好みの問題。
翻訳サイトは英語原文を映画吹き替えのようなステレオタイプな言い回しで翻訳されている事が多いから
読んでいて面白い。なので英語原文と比べるとどっちがとは言えないと思う。
ここで、その好みの違いを例を出すと
(好み)
「お~、いったいどうしちまったというんだい?」
「一体全体どういうことなのだ??」
(苦手)
「なんだこれ」
「なんだ?w」← w一個がポイント
「マジでなんでこうなったんだよ」
といった具合。
うん、完全にただの好み。
その理由としては掲示板でありながらチャットさながらのスピードを求められるため
感じた事をすぐに入力→反映できるようにするためなのでしょう。
他にも携帯端末などで書き込み&閲覧する人が増えた事による短縮化の必要性、
ニコ動などに見られる短い言い回しの必要性などもあるのでしょう。
たまに日本人のコメントが抜粋される事もある(原文は英語でも)。
翻訳者の意図かは分からないが、日本人のコメントだと翻訳の仕方が
映画吹き替えのようなものではなく、いわゆる日本人がネットで書きそうな
淡々としていてサラっとした言い回しで翻訳されているのである。
恐らく、日本人らしいと思わせるための翻訳者の善意なのだろうが、
私的には日本人のコメントでも、他の外国人と同じような言い回しで翻訳してほしい。
さて、自分で疑問に思いながら、少し掘り下げて考えてみたら
その答えに近づけた気がする。
おまけにネット上や2chだけで生まれた独特な罵倒語も合わさって
罵倒語の数としては類を見ない多さなのではないでしょうか。
(だからこそ簡単に言葉が差別用語指定されたりのイタチごっこも生まれる)
その罵倒語の数や種類の多さも、2ch系に負のオーラを感じてしまう1つの足がかりなのかもしれませんね。
最後に。
言い争いも生まれやすくギスギスしやすい・・・と感じるのは私だけでしょうか。
もちろん本スレでも内容によっては、本スレの時点で大きな論争があって、それをまとめ記事のコメ欄で続けるという事も多いが、
本スレの内容はネタだったり穏やかな内容であれ、時にはコメ欄にて論争や暴言が発生する事もしばしば見かける。
今度はその疑問ができた。
どんどん会社のルールを変更、追加(減らない)して現場に強要するわりに上層がルールを全部理解していないどころか、ルールを遵守すると作業に時間がかかりすぎて客からクレームが来るしまつ。だから結局ルール遵守を言われても適当に手を抜く。ルールに対して手を抜くことが重大なミスにつながっているかというと、必ずしもそうではないと私は思う。
ルールさえ守ればいいような押しつけがあり、仕事を機械的に処理するようにシステムをくみ上げたくせに、機械的に処理した事によるミスを責め立てる上層。いや、機械的に処理するのは職業上絶対に良くないけど、そうせざるを得ないようにシステムやルールをくみ上げているのは上の人間のあんたらでしょ?って言いたくなる。
余裕を無駄と切り捨て、切り捨て、必要な余裕さえ失っているのはなにもうちの会社だけではない。流通会社もそう。こっちが毎回毎回沢山モノを買うのは実績で分かっているのに毎回毎回欠品欠品。せめて月末は絞ってますぐらいなら納得するけど毎日毎日毎日…。あの会社は毎日の在庫を絞ることに命をかけているんじゃないかと思う。
チェックシステムとか、間違いを起こさないようにするためのものなのに そのチェックをしさえすれば良いみたいなモノになってるから、人の心構え部分まで踏み込めずに表ばっかりのハリボテになってるし。
時間に余裕があるときのミスは、機械によるチェックシステムでかなり良くなる気がするんだけど無いときのミスは、思考する時間すら惜しいから機械によるチェックに感覚を依存してしまい、ミスに繋がる。
機械チェックに依存しない自主的な思考による判断を求めているんでしょうに…。
ひよこ性別鑑定士初心者に、30年以上のベテランの判断力を求めているようなもの。
こういう細かいルールが、結局は、私達の仕事の安全性を高める目的と言いつつ、上層が「これだけ指示しているんだから間違えるはずがない。間違えたら下の人間がルールを遵守してないせいだから私達は悪くない。私達は仕事をした!だから評価してくれ!」と言いたいためだけの仕事と邪推するしかないものだから嫌になる。
大なり小なりどこの店でもルール不徹底を隠しているそうで、それでまた何か起こったらルールが増えていくというイタチごっこなのであった。
魚拓とっておいたので
http://anond.hatelabo.jp/20110306184406
を支援。
http://megalodon.jp/2011-0306-1507-51/blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51668903.html
http://megalodon.jp/2011-0306-1553-18/blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51669441.html
http://megalodon.jp/2011-0306-1646-01/blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51669451.html
今も生きてる
http://blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51669451.html
http://blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51669451.html?
どっちみちイタチごっこになるかも。
あの界隈に関わりたくないんで増田でごめん。
というか増田使ったのはじめて。言わせんなおい。
なんで留保しなきゃいけないんだという話になるが?
金持ち視点からすると、消費しなきゃいけないんだ?という話になる。
金持ちなんだから、マインドとしては原則資産を増やすことに興味があって、福利運用したいという要望が強い。だから今の社会が出来上がっている。
という前提で
ありとあらゆる手段を使って、貯蓄や資産増加に励んだ結果、が企業内留保。
企業内にストックオプションでもなんでも、あらたな形式として、法の裏を付く形で個人資産を留保すれば同じ。
認めないことを認めない。のが現実。
だからまずは、お金持ちに増田の方式をどうやって、許容させて協力させるか?という前提を合意させる方法がひつようだけど、それが出てきていない。
大切な事は、優れたシステムとか、みんなのため。という事は『『どうでもよくて』』。
現在のお金持ち、権力者 が それに協力するメリットがあって、本当に協力するか? そして、それ以上に資産を形成する方法がないか?(資産を形成する法保があればそちらがさいようされるので)
という事でしかない。
1.フォロワーはファンだけではありません
前後のツイートどころか、フォロワーの数しか見ない人がいます。
枯れ木も山の賑わいです。
アンチであろうとフォロワーはフォロワーというのは、そういう面もあります。
それでもこちらは、読んでくれているという前提で一貫性を以って話さなくてはいけません。
「どうせ読んでいないだろう」という考えは、いずれツイートの端々に滲み出て、
それは見る人から「軽んじている」「見下している」「決めつけている」と取られてしまうものです。
不快なツイートに心を痛める、そんな当たり前の感受性まで無くして、なんで芝居に魂を込められましょう。
それにお説教はアンチに対してだけしているわけではありません。
見ている人全員に対して「あんな風にはならないでね、これからも仲よくしてね」と言っているのです。
直接、面と向かって罵声を浴びせられる事も珍しくないのが役者です。
この程度で絶望するくらいなら、そもそも表舞台まで登って来られるものですか。
なんてね。
雪印の件は
信頼のあるブランドで、大企業が、組織ぐるみで、一般人がわからないところで、長年にわたり、偽装を 大規模に続けていた
こちらは、
無名のブランドで、単なる個人が、一般人でもわかるレベルで、初犯で、意図的か無知による事故なのかわからないかたちで、結果として偽装を 小規模に発覚した
という話。
ある意味、デパートでブランドもの買ってみたら、そのデパートのブランドが全部偽物で計画的犯行だった。という話と
って話ぐらい違う。
擁護するわけじゃなくて、ネットは危険だという意味で聞いて欲しいんだが
今回の件で言えば、事件性を警察が立証できるか?といえば、景表法違反と業務上過失は立証できるだろうけど
詐欺罪は、結果として詐欺になったでは立証されず、最初から、騙す意図があったことを立証しないといけないが、どうやって、この状況で騙す意図を立証する?
ランプフィッシュとかは、キャビアだと思ってました、缶にキャビアって書いてあるし。(実際ランプフィッシュの缶にはキャビアの文字がある)って言われたら立証は無理。
これが、デパートや高級料亭なら、そんなわけあるか、業務上知っていて当然という話になるが、カフェじゃ、今回はじめてなので知りませんでした。って言われたら終わり。
クールにしても、寒い季節だから大丈夫だと思いました。腐っていたのは即座に受け取らず取り置き期間があったからです。みたいな話をされたら、過失にはなるが詐欺は難しかろ。
まぁ、ネットの話をうのみにするなっていう良い教訓じゃない?
こんなの正直、イタチごっこ。
焼肉でロースは肉の部位の名前じゃありません、料理名ですって詐欺もどきが指導食らっただけなのが消費者庁の状況だし、至る所で起きてるか指導レベルなんだろ、この条件では、被害総額 500万円だが弁償済みで、額面が警察からみると小さいし、逮捕相手も小物だし・・・見せしめ逮捕でもない限り無理だろうが
・・・難しいんじゃね。
http://anond.hatelabo.jp/20110103162631
「里子に出した」でも結果は同じだ。「どこにやったんだ」と詰め寄られるだけだよ。あ、言っとくけど、私は保健所賛成派だよ。飼えない猫は自分で処分するしかない。ただし、兄にやらせなければ意味はない。すっかり忘れているようだが、猫は何万匹もいる。次の猫を拾って来られたらイタチごっこだ。兄に「連れていけ」と詰め寄って、連れて行かないなら一緒に出て行けと言うしかないだろ。母親が病気だというのに協力もしない兄だ。家に居られても世話しなくちゃならない相手が増えるだけだろ。
ところで、なんでお母さんを在宅でみることになったんだ? ソーシャルワーカーさんには相談した? 猫よりも、その兄が居るところに連れて帰ってくるのは「死ぬよりつらい」ことになりそうな感じだが。
マジコンなんかもその一例でネットの知識が少ない人でもマジコンの存在を知るくらいになってきた訳ですよ
そうゆうふうな事を覚えた人間は、ゲームをタダで買えるからハードを買ってあげようと
お客様視点になってくるわけなんですが
ハードで利益なんてでなくてハードを売れば売るだけ赤字なんですよ
そして、マジコンなんかが過激化すると、情報が繁栄し、マジコンがいろんな所でイタチごっこを始めるのではないか
そして、その対応その対応と更に赤字や繁栄してくるんじゃないかなと
個人的にこの流れを止めるのは不可能に近いので
育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機で切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バスの時間も早く、夕方が差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。
電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。
みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。
高校を卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日何時間もかけて都会へと通った。
私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地に最初の下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半で風呂がなく、トイレと玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。
トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。
都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミかミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。
あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅、サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然は存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。
山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。
田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。
大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景をあなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的地から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだ。あなたたちはそれを知らない。
盆や正月に田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかないから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野も秋葉原も新宿も池袋も渋谷も原宿も東京も丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。
ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものだから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的に合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。
ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方のサービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせちの材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのにおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックでくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要ないから、田舎の人間はそれを喜ぶのだ。
そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。
どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイ」のものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。
「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。幻想でしかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときのトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ。
私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。
記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。
父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証の本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。
引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルドも本屋もミスタードーナツもある。旧市街地は門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。
バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。
父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分で都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校も私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙な時間的距離は苦痛だったのだろう。
子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。
そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。
祖父母にとって東京は得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。
たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京にイオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列のショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。
あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウンの生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想に右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。
私の住む東京と千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内とはいっても下町だからここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎を志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。
それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。