一般に外向的で社交的な人間はコミュニケーションが達者と思われているが一概にそうとは言えないのである。
コミュニケーションが上手であることと外向性は社会一般に考えられているほどには強い結びつきが無いんだよなあ。みつを。
むしろ、外向的人間のほうが「特殊」と言って良いくらい、コミュニケーションの仕方がまわりくどいことが多々あるのだ。
ここでコミュ力のために重要だとされている要素の一つに人に対する思いやりや人の心を推し測る力がある。
しかしよくよく考えていくと実は社会一般の大多数のコミュニケーションのシーンにおいて本質的なのは人の心を読むといったしばしば無理難題な芸当ではなく実に単純明快空気を読むことである。
ここに一つのつまずきの石があるのだ。人の心を読むことなど到底難しい。苦手な人にとってなおさら。それなのにそれを要求されて社会生活に絶対不可欠だと信じ込みコミュニケーションの難しさに何度となく立ち向かっては打ちのめされるのだ。
そんなことを延々と繰り返している人が非常に多い。だが、「心を読む」と一般に思われている行為のその中身をよくよく見てみると、
なんてこったい単なる空気を読むこと、つまりその場その場の状況にあわせて振る舞うことだったのだ。必要とされていることは実に単純なのだ。
外向的で社交的な人間もしばしばプライベートなコミュニケーションを苦手とするがそれもそのはずである。彼らは決して人の心を読むことに長けているわけではないからだ。空気を察知し、空気に合致した言動の引き出しがあるだけのことなのだ。
むろん外向的かつ内向的な人間もいる。外側だけでなく内側にも心が向いている人間はどうなのか?まず内側に心が向くことで自己の多面性によく開かれている。これに外向性も加わるから自己の多面性を外側に適切な形で表現できる。
だからプライベートな距離の近いコミュニケーションにおいても自己を包み隠さずありのままに表現することができる。さらに、自己の多面性を理解する人間は人間の多面性をも理解しているから他者の多面性にも理解が深いことが多い。
したがって他者の多面性も理解することができ、他者をありのままに理解したり認めたりすることができる。だからプライベートな対話も得意なのである。そしてそうした要件を満たして初めて「人の心が読める」と言えるのである。
しかしそんな人間はわずかである。多くの外向的な人間は内向的ではない。これは断言していい。というのも、外向的な人間種族がどのようにして形成されるかを考えるとわかる。
周囲に合わせなきゃという同調圧力が外向性を促進し、そうした歪んだ外向性が人類の長きにわたる歴史を通じて遺伝されてきて現在に至っているのだ。
だから特に日本のような国においてはそうなのだが外向的な人間はたいていのケースにおいて内向的な気質など持ち得ないのだ。これが外向的人間のコミュニケーションの特殊性である。