はてなキーワード: 猥褻物とは
流石におんせん娘達が全裸やそれに近い格好だったら、猥褻物になると思うよ。
実際のおんせん娘たちの短すぎるスカートや胸のふくらみ、頬の赤みなどはアウトかセーフか。
萌え絵は性犯罪を誘発し女性に対する人権侵害である、と主張しているフェミニストとは違う価値観を持っている。
それは「猥褻物を社会に出すな」という理念から、萌え絵の規制やゾーニングを主張しているのだ。
女性のエロは人権侵害と見なすか、猥褻物と見なすかの違いである。
ここから本題であるが、萌え絵を守ろうとしているオタクはこの両者と戦わなければならないのである。
萌え絵を人権侵害と攻撃してくるフェミと、猥褻物は規制しろと言ってくる自民党を同時方面で迎え撃たなければならない。
一方だけを相手にするならまだしも、二者を相手に戦うのは不可能である。
オタクの敗北は既に確定しているのではないだろうか。
オタクゆーのは社会不適合者でな、人付き合いとかコミュニケーションが苦手なんや。
人間関係が築けへん、まともに意思疎通もでけへん故に、社会的な成功とは無縁の、孤独でショボクレた人生を送るわけや。まぁ例外はあるけどな。
そこで一念発起して、前向きに努力してくれればエエんやが、大抵は現実逃避、妄想の世界に逃げるわけで。
それがアニメ・マンガ・ゲームなんかのいわゆるオタクコンテンツやな。
虚構の世界を疑似体験することで、現実社会での欲求不満を解消するっつーこっちゃ。
それ自体はストレス解消、人生楽しく生きるための娯楽、悪いことやあらへん。
ところがオタクは現実社会で報われんがゆえに、オタクコンテンツに異常に入れ込んでまう。
そうしてオタクは、自らの価値観を共有・補強するために同好の士で固まるんやな。
そこんとこは宗教と変わらんな。まぁ布教とか信者とか、親和性は高いわけや。
また、帰属意識の強さは、商売にも利用されて、オタク相手のビジネスも結構ごっつい市場なっとる。
また公的機関やら自治体が人集めやPRにオタクコンテンツを利用するっちゅーのもよう見るようなりましたな。
そこで問題なるんが、オタクコンテンツは現実社会のアンチテーゼであるがために、非現実的・反社会的であることを宿命づけられとるちゅーこっちゃね。
つまり、コンテンツそのものが社会的な良識とは相容れない価値観によって形成されとる訳で。
ガワだけ使うなり漂白するならまだしも、ナマで世間様に開チンしたら猥褻物チン列罪でっせ。
そういうわけで、世間様がオタクコンテンツをキモイ、不健全だ言わはるのは当然のことであり、この程度問題ない、っちゅーのはオタクバイアスですわナ。
表現規制をやめろと言うのも間違いで、むしろ規制されるべき表現がオタクコンテンツであり、我々は迫害されるがゆえにオタクなのである、ちゅーことですわ。
最近の表現規制の問題に関しては、建設的話題というよりは香ばしい話題となりつつあるので論点を整理したい。
似た趣旨の刑法175条(猥褻物頒布罪)は社会的法益が保護法益であると解されるのが専らであり、かつその規制対象は実在の人物を描写したものに限らない(仮想的創作物も含む)。
一方刑法175条に比して児童ポルノ規制に関しては重い刑罰を課しており、同一の法益の保護を目的にしたものと考えるのは難しい。加えて児童ポルノ規制において「性欲を興奮させ又は刺激する」かどうかの要件は記載されていない。そのため、自然な考えとして当該児童の人格権の保護を目的とする考えが生じてくるわけであり、現状においてこの点においてあまり争いはない。
筆者の見解:一般の児童を性欲の対象とする風潮からの保護を目的にする(社会的法益の保護は含まないが、拡大された個人的法益を保護する)。
単純所持も現在規制の対象になっているが、これは児童の人格権保護という観点のみからは正当化できない。何故なら頒布や児童への所持の告知なし、もしくはそれらを目的にせず所持している場合において、直ちに児童の人格権が害されるとは言えないためである(例えば、親族の遺品に児童ポルノがありそれをそのままにした場合など)。
そのため単純所持の規制の根拠としては児童を性欲の対象とする風潮からの保護を目的にしているためと解釈される。これはいわば抽象化された個人的法益とでもいうべきものであり、社会的法益と解釈できる余地があるように思えるが、これは明確に社会的法益を含まない。このことは判例としてもあり、「同条3項にいう「児童ポルノ」とは,写真,電磁的記録に係る記録媒体その他の物であって,同項各号のいずれかに掲げる実在する児童の姿態を視覚により認識することができる 方法により描写したものをいい,実在しない児童の姿態を描写したものは含まないものと解すべきである」(最判令和2年1月27日)
海外では非実在児童ポルノ規制が現実として行われている側面があり、この場合の規制の根拠として模倣説(児童ポルノが実際の児童への虐待を誘発する)及び市場説(児童ポルノの市場の形成自体を防ぐことによりさらなる流通を防ぐ)という2つの説によっている。翻って日本においては児童ポルノの規制が個人的法益の保護が目的であるという判例がでたため、非実在ポルノへの規制を行うには2つの方法があると思われる。
1. 抽象化された個人的法益を保護法益としながらも、非実在児童ポルノへも規制する旨明記する。
2. 保護法益が個人的法益に加えて社会的法益も含む旨加えた上で非実在ポルノへの規制を行う。
1.は(流通するのが非実在児童ポルノである以上)模倣説を採用することにより正当化されることになるが、これは違憲審査基準と合わせて考えると違憲となる可能性がかなり高いと思われる。何故ならいわゆる模倣説は科学的に立証されたわけでなく、児童の人格権が直ちに侵害される、いわゆる明白かつ現在の危険を有しているとまでは言えない。加えて日本においては子供の入浴の写真を撮ることが一般的とまではいはなくとも受容されうるという現状がある以上、国民の一般的な通念上と照らし合わせてみても違憲である可能性が高い。
2.はおそらく現行憲法下において規制の理由とするのであれば最も妥当な論理になると思われる。再度述べるが刑法175条は健全な性道徳という社会的法益を保護することが目的であり、かつそれは合憲であるという判決が何度も出ている。そのため、同様に児童ポルノ規制の保護法益は「児童が健全に成長する社会」を保護するという旨を明記するのであれば、刑法175条と同様の論理で正当化されると思われる(再度注意しておくがこれは筆者の見解であり当然議論があると思われる)。また、保護法益は互いに二律背反ではなく、社会的法益及び個人的法益の双方が保護されうる(下級審判決などに判例がある)。そのため、この場合であれば児童ポルノ規制は個人的法益及び社会的法益双方を保護するものとして解される。
筆者の見解:現行憲法下でも新たな立法による表現規制を正当化することは不可能ではない(難しいかもしれないが)。
ポルノ規制に社会的法益の保護を根拠とするのはふさわしくないと考えている。そのため、
が私の考え方である。
ただ注意しておきたいが、この種の規制の問題に当たってはやはり児童の保護という観点を重要視して欲しく思っている。表現の自由はもちろん保障されるべきであるが、児童の目に触れないための厳格なゾーニングを求めたい。自ら謳歌する自由が他者の尊厳を損なうことがないよう、気をつけて欲しい。
また、議論の際には建設的な議論を求めたい。相手をナチス呼ばわり、もしくは戦士呼ばわりなど持っての他である。安易なレッテル貼りは議論を口論にかえてしまう。健全な民主主義は誰もが自由に参加できる建設的な議論を礎にしていることを忘れないでほしい。
昭和から平成の前半では、ポルノグラフィー・猥褻物への禁止圧力は主に保守系の政治運動と結びついてて、左翼側はそういう禁止圧力の緩和やポルノ開放みたいな要求だったけれど、今では政治的には左翼側の人間が、猥褻を理由とせずに「性差別を助長する表現」を理由として、萌え絵に代表される様な一部の表現の禁止を政治的に主張し、保守右翼側の人間が「性差別的」と決めつけられた表現を表現の自由を旗印にして守ろうとする、俺みたいな者の目から見ると「なんだか変な」時代になった。
日本の右翼保守(要するに自民党)は、本質的には民主主義ではなく「統治者にとって都合よく制度設計された、民主主義と称するもの」を追求しているが、それ故に正面切って表現の自由を否定することは出来ないので、刑罰を以て表現を禁じるやり方(猥褻図画や小説の取り締まり。チャタレー裁判とか、愛のコリーダとか)をなるべく露骨に使わずに、出版業界や映像業界に自主検閲組織を作らせて「自主的に検閲しているので、法的には何の表現規制も存在しない」状態を作り上げることで実質的な表現規制をする様になってる。なので、公共の利益、公序良俗の保護を理由に法的に制限できる猥褻ならともかく、表現の自由が一義的に示す表現である「思想的・政治的表現の規制」はさすがの日本国でも不可能になってる。(少なくとも現状はポルノほどあからさまな実質的表現規制の犠牲にはなっていない)
で、昭和の頃の左翼だと、こういった猥褻表現の禁止であっても、国家による国民活動への制限は最小限であるべきで、猥褻規制はその限度を超えている、みたいな話をするものだったのだけれど、今やその左翼、とりわけフェミニストの中で「猥褻だから」とは言わずに「性差別的であるから禁じられるべきで、規制は全く十分でない」という意見が主流を占める様になってきたのが2010年代じゃないかなと思う。
何を以て性差別的かという理由付けは色々見るのだけれど、メディア効果論(それも強力効果論)に基づいたものが多いと感じるが、(多くは女性である)自分にとって極めて不愉快であり加害的であって、公共の場での存在は許されない、ってものもかなり見かける。これ、伝統的な右翼によるポルノ撲滅運動の題目が「子供の教育に悪い」だの「破廉恥で見るに耐えない」だったのと、ほぼつながってないか?と思うのである。極右と極左は政治的主張は逆だが、粗暴さや残酷さ、頑なさや頭の悪さは同じに見えるのと似た感じだが、そう言ってしまうと純然たる悪口になるので止めておく。
左翼側・フェミニズム側の表現規制主義者(本人たちが自分をそう認めることは絶対に無いが、それは右翼側でも同じこと)も、自民党と同じ様に自らが表現規制者と呼ばれる事を非常に嫌う。そうした中で憲法の示す建前を崩さずに「実質的な表現規制」を行おうとするなら、自民党政府のもとで成功してきた、自主検閲組織を業界に作らせて『自主的な規制を権力側から強いる』事で実質的な表現規制を行うやりかたがやはり踏襲される。
特にフェミニストとされる人達が特定の表現(宇崎ちゃんとか)を特定の場所(日赤)で禁じようとする時には、これが権力による直接的な規制ではなく、在野の民間人による公的機関や企業に対する言論圧力によって当該機関や企業の「自己規制を促した」のだから、これは絶対に表現規制じゃない、って言い方だった。彼らの言う通り、確かに憲法上の建前は守られた上で(彼らにとって存在の許し難い)不快な性差別的表現を「実質的に刈り取る」ことに成功していて、最初にこの自粛要請という「単純だが案外に強力な仕組み」を考えた政府役人や自民党の政治家達、そのアイデアをそのまま利用したフェミニストは賢いなと思う。
左右の違いが全然ないかと言うと、それはそうでも無い様で、大昔の矯風会の様な保守的アンチポルノ団体はあらゆる猥褻表現をあらゆる流通ルートにおいて消滅させようとしている感じなんだが、今の左翼・フェミニズム的な「反性差別表現」をやっている人達は、流石に左翼であるだけあって「ポルノであるならこの世に存在を許さない」などということは主張しない。存在が許されない表現はある程度は絞り込まれていて、大体それが「男オタク好みの性的な表現物」に被さっているし、流通に関しても「表通りに出てこなければ許す」という感じである。 ポルノショップで無修正ポルノが販売されることまで禁じろという主張はしてない。(コンビニ、一般書店で水着グラビアの雑誌販売を禁じろは言ってるのがいるが)
良く知らない世界なのだが、腐女子の世界における「学級会文化」というものがあり、世間に対して目立たぬように「厳しく自粛」(恐らく自己認識としては自粛ではなく相互批判によるコミュニティの自浄作用だろう)する傾向があって、それは同性愛を正面から扱う表現であるために『世間の目を憚る代物』である自覚があり、それ故に何かと謂われなく侮辱されたり非難されたりする『腐女子の表現の世界』を守ろうって云う同調圧力が(人・場所によっては)やたらに強い、って話を聞く。
そういう文化があるためなのか、同様な「当然の自粛」が男オタクの表現物でも行われるべきで、それが全く行われずに結果として表通りの世間に流出し、そこで調子良くのさばるべきではない、って理念が、腐女子でもある一部のフェミニスト(一部じゃなくてマジョリティなのかもしれないが)には潜在的にあるのではないかと考えているが、ちょっと確認が難しい。
この「表現自粛」に対する積極的な考え方は男オタクの世界にはあまりなさそうなもので、この部分では政治的には極右のオタクでも昭和左翼的な「政府による自由の規制は最小限であるべき」って建前を大事にしてたりするし、左翼のオタクならもちろんそう考えるはずなのであるがそうなっていない。これは恐らく今の左翼・フェミニスト達による「最小限の規制対象」の裁定基準が「表現の自由戦士」と悪意と侮辱を込めて呼ばれる人達にとっては理不尽に厳格であるってことなんじゃないかと思う。かくいう俺もフェミニスト達、とりわけネトフェミと悪罵される人達の基準はちょっと、いや全く受け入れられない。
昭和左翼は自民党政府による「公序良俗=保守的性道徳観」の保護に反対した訳だが、基本的に右翼である「表現の自由戦士」はフェミニズム側からの「公序良俗=反女性差別的性道徳観」の保護に反対している訳で、その意味では政治的立場と主張の食い違いは無いとも言える。
どちらにせよ、憲法の建前からして最優先で守られている政治的表現と違い、その殆どがエンタメである文学や映画マンガアニメといった表現は、我国が戦前も戦後も内務省=警察権力が強い強権的国家であったこともあり、公序良俗の保護を理由・目的として簡単に規制を受けがちであることは戦後の歴史が証明してる。
それを守りたいと思うのであれば自分が右翼であれ左翼であれ、機会を捉えて発言して意見し議論することはどんなに嫌でも避けられないのであろう。 ああ嫌だねえ……
VTuberの定番ゲーム・一過性のゲーム(anond:20210625093912)の派生記事
交流にはリスナー参加型とVTuber同士のコラボがあって、それぞれに向いたゲームがある
一般的に炎上リスクの低いVはリスナー参加型コラボに使えるゲームの幅が広く
(ときには信用できるVTuber同士のコラボに使うようなゲームでも参加型ができる)
炎上リスクの高いVは安全にリスナー参加型コラボのできるゲームが少ない
(不運にも最大級のリスクを抱えたVは、V同士コラボ向きのゲームで自身のみならずコラボ相手にもリスクをもたらしてしまう)
リスクは大雑把には人気に比例して大きくなる
・雀魂
・スマブラ
・世界のアソビ大全51
・Dead by Daylight
・PUBG
・Gartic Phone
基本的にリスナーの声が入るゲームは実現難易度が高め。特に女性Vファンは(自分もオッサンなのに)オッサンの声を聞きたがらない。それでもやっているVはいる。にじさんじはリスナーの音声を入れるのに禁止令が出ていたはず。
次いで絵や文字でやりとりできるゲームも鉤十字・猥褻物・放送禁止用語などを書き込まれるリスクがある。
・Minecraft(数十人以上。同時に入れる人数はサーバーごとに制限あり)
・雀魂(2~4人)
・UNO
・スマブラ
・世界のアソビ大全51(2人対戦)
・fall guys
・Gartic Phone(4~30人:実用的には十数人か)
・Unrailed!(2~4人)
・Hand Simulator Survival
・NKODICE(一人プレイだが複数人で一緒に楽しむことも多い)
・VALORANT
・壺おじさん(見守り):追記
・Untitled Goose Game(イタズラガチョウゲーム 2人):追記
V同士の信頼関係の上で行われるので、交流に利用できるゲームの幅が広い。また、これらのゲームを通して親密になることも多い。
多くの参加者を集めることのできるV、欠員が生じたときにすぐに都合を合わせて参加してくれるVなどはおそらく界隈内部でも評価されている。
・雀魂
・スマブラ
・世界のアソビ大全51
・Gartic Phone
性的尊厳の話に絞って言うと、そもそも、わいせつ規制の総本山は刑法175条(わいせつ物頒布罪)なわけだよ。さらに、この数十年のわいせつ規制の歴史を紐解けば、二次エロへの弾圧は青少年保護育成条例の制定運動として行われてきた。そして、言うまでもなく、この手の政治運動は保守的な家父長制の価値観と大いに関係がある。
もちろん、一部フェミニストの主張が保守的な内容を含んでいる(弱者男性が自身の尊厳を貶める家父長制の価値観を内面化しているのと同様に、女性の側にもそういう面はある。青少年育成条例も、その担い手は男性の保守政治家だけでなく「子どもの健全な成長を願う母親」であることも多かった)のも確かなので、それは表現の自由の観点から掣肘する必要がある。ただ、基本的には「保守」が弱者男性と女性の尊厳を奪っている共通の敵であるという点を再認識した方がいいと思うんだけどな。
猥褻物頒布罪の廃止?…いや、冗談ではなくて、そういう事にしかならんのではないか(そもそも表現の最大の敵は「保守」なのに近年は忘れられがち)。どういうネタで抜こうと自由。一方で男女平等化は粛々と進める。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700814602038291234/comment/Dryad
別のブクマで「弱者男性の尊厳を抑圧してるのはフェミよりも保守だぞ」と書いた者だが、即座に実例が出てきて微妙な顔をしている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700810613085061794/comment/Dryad
※いちおう書いておくと、僕は実際の女性が被写体になっている三次エロと二次エロは区別すべきであり、二次エロは表現の自由の範囲内という立場。
※追記: 三次エロが表現の自由に入らないとは言ってないぞ。ただ、被写体になってる女性が真っ当な取引や正常な判断ができない状況で出演させられている状況もままあるわけでな。実際に、日本の児ポ規制が実写のみで漫画、アニメ、CGが入らないのはそういう考え方に基づいている。
※追記2: 今や表現規制の主役はフェミやリベラルである、と言わんばかりのコメントがいっぱい来ているが、具体的にフェミ主体の運動で規制法や条例を成立まで持っていった事例の数を数えて教えて欲しい。お前らの好きなファクトチェックだぞ。ちょっと違う話だが、香川のゲーム規制条例を誰が推進していたか覚えてないんだろうか。
反表現の自由戦士が想定している表現の自由戦士というのは、(1)エロ表現については制約を否定し、(2)著作権者のお気持ちは尊重する、というものである。
本来およそエロ表現はわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)に抵触する違法なものであるから(これ自体は正しい。)、仮想「表現の自由戦士」は、(1)刑法をも無視する無政府主義的な主張であるが、それにも関わらず、刑法より遥かに弱い(2)著作権者のお気持ちには従順なので、矛盾しているように見えるのだ。
たしかにエロ表現愛好家は、刑法によって引かれた制約の線引きは、これを無視して行動している。
しかし実際には、エロ表現愛好家のほとんどは(1)エロ表現について一定の制約を受け入れている。すなわち、現実のエロ表現愛好家の多くは、国内流通においてはモザイクや消しを受容し、公道上でいわゆる18禁の表現物を陳列することは是としていない。
わいせつ物頒布等の罪の解釈からは、モザイクや消しがあろうと18歳未満に販売しなかろうと、いわゆる18禁の表現物は性欲を刺激する猥褻物に他ならない。モザイクやゾーニングといった自主規制は、本来的には法律によらない制約である。
けれども現実には、警察が摘発するか否かを恣意的に決めている(行政府による実質的な立法であり、法治主義からは許されざる行為である。)。
違法ではあるが現実には責任を問われない範囲で楽しむが故に、その範囲を踏み越えることに対しては人一倍敏感である。
したがって、現実に法的責任を追及されかねない制約に対しては極めて従順である。
この、違法ではあるが現実には責任を問われない範囲というのは、二次創作の楽しみ方とも共通している。
刑法においては警察のお気持ちが法的責任の現実化に直結するのと同じく、二次創作においては著作権者のお気持ちが法的責任の現実化に直結する。
結局のところ、エロ表現愛好家は、それが刑法であれ著作権者であれ、法律によらない制約に対して従順なのであるが、それは法律による制約を超えて自由を享受するための知恵であり、そこに矛盾はない。
最初に言っとくけど、今からご飯を食べようとか、なんなら今まさにこれからエッチしようとかしてる男性の方とかはこの下は読まないほうがいいかもしれない。女性の汚れものの話なので(知っていて損ではないとおもうけれどね)。
少なくとも一部の女性(私だよ)の自己肯定感をブチ上げてる、日陰物の話をさせてほしい。
====
簡単に言うと、ぱんつのクロッチのオプションとして使う当て布・当て紙である。
極々小さくて薄い生理用ナプキンみたいな形状をしていて、ナプキン同様にぱんつのクロッチ部分に貼りつけて使用する。
バラとかのいい香りがするやつもあるし、無香料のものもある。天然コットンを売りにしてるやつも、人工素材だけど機能的なやつだってある。
違いとしては、ナプキンよりずいぶん薄くて小さく、ナプキンに必需品であるポリマーの水分吸収体も大抵入っていない点が挙げられる(一部入っているのもある。ちょっと高い)。
何より主な出番が「生理じゃない日」というのが大きな違いである。
ところでなぜこのような当てが、しかも出血のない普通の日に必要になるのか。
おりものは子宮や膣から出る液状の分泌物である。健康であればふつう酸性の液性をしており、膣に入りがちな大腸菌などのバイ菌を殺菌したり、子宮内部の老廃物を排出したり、また潤滑液としての働きをしたりもする。
おりものがないと膣内部はゴミだらけのバイ菌だらけになってしまう。また完全に乾いたお股では摩擦で痛くておよそ歩けたもんではない。
人によって、また日によっても出る量や色、粘り気やにおいなどは様々であるが、大抵の女性のお股は常にしっとりしているのである。毎日である。生理がない日もである。女性の下半身は偉大なるおりものに守られているのである。
さて、そんな殺菌と洗浄と老廃物の運搬を担う偉すぎるおりものであるが、ひとつ問題がある。体内に溜めておく場所がなく、排出に際してコントロールも効かないのである。
おしっこであれば膀胱があるし、緊急事態ならお股を押さえておけばなんとか決壊を防ぐことができる(ような気がする)。大の方は……3日分くらい体内に留まるのは普通だし、緩い時だってストッパとかお薬がある。
おりものにはこれがないのである。垂れ流しである。行き着く先はクロッチである。
同じ垂れ流しの経血とは色も量も起きうる惨事の規模も違うが、クロッチが湿ったぱんつなんてのは穿けたものではない。
ズボンに染みないか、においが漏れないか気になって仕方ない。椅子に座るたびにお股がヒヤッとするし、毛についてぱんつと固まったりすると、トイレで脱いだ時に毛がブチブチ抜けて痛い。奮発して買ったお気に入りのぱんつだって汚れてすぐにいたむし、濡れていることに対して怒りさえ感じることもある。
クロッチが濡れて気持ち悪いのに、ニコニコして人当たりよく仕事や勉強をするなんて、どうしても私には無理である。
洗い立てのぱんつに装着して履いておく。体内から出たおりものはライナーがしっかりキャッチしてくれる。トイレに行ったときに汚れているようなら、すかさず新しいライナーに替えられる。そうすればそのぱんつのクロッチはもう洗い立てのそれと同じである。
個人的には多い日では1日に3回か4回くらい変えることがある。これが他の女性と比べて多いのか少ないのかわからないけれど、3回も4回もスッキリした気持ちになれる。「からりと乾いていて、汚れていないクロッチ」これがなかなか自己肯定感をぶち上げてくれるのである。
強気にもなれる。優しくもなれる。頑張ってもいいかなと思える。
「私もなかなかやるじゃん、ぱんつも濡れてないし」QoLが爆上げした瞬間である。
避難所で生理用ナプキンが猥褻物として扱われてしまうとか、今日もルナルナの件で炎上してたりとか、血が出る「生理」は印象として派手なので話題にものぼりやすいし、議論にもなるし、とりあえずの理解もされやすかろう。
そんな中で日常の生活を支えてくれるパンティライナーは完全に日陰者である。地味だし。話題にされているのを寡聞にして聞かない。
それでも濡れていないぱんつ、あたらしいクロッチをいつでも提供してくれるパンティライナーは、私の気持ちを人並みに人間にしてくれる救世主である。
とまあこう、人に知られざるパンティライナーを称え増田をしたためた訳だが、正直に言うと今日は完全にうっかりしていた。
毎日カバンには替えをいくつか持っているし、会社のロッカーにもストックがあるんだけど、今日はどちらも切らしていて一日中湿ったぱんつで仕事をする羽目になってしまった。
結果は散々である。
半身浴しながらポチポチ書いてたんだけど、そろそろのぼせちゃいそうだからお風呂出るね。読んでくれてありがとう。