はてなキーワード: 法学部とは
もっともらしいこと言ってるつもりかもしれないけど、比較しているのはたとえば「偏差値69の早稲田大学政治経済学部の人間と偏差値49の大東文化大学法学部」で、49の方は大学のボリュームゾーンなんだから偏差値のばらつきは小さい。
そもそもの20というのも雑な数字なわけで、細かい差は本質的じゃない。
科目の話も見当違いで、別に英語の能力が違うと英語の話が合わないと言っているわけではなく、会話を成立させる諸要素と相関する変数として「偏差値」と言っているんだから、個別の科目より数科目総合の方が妥当。
話の本筋を考えずに目についたところだけ見て揚げ足を取ろうとするやつは、頭が悪い。
「偏差値が20違うと会話が成り立たない」
こういう話は上げればキリがないが、この件についても同様のものだろう。
この「偏差値が20違うと会話が成り立たない」という言説については、各々賛否があると思うが、僕はもっと丁寧に言葉を使えば行き違いは減るのではないだろうかと思う。
会話が成り立たないと考える人々は、何も「そこの醤油をとってくれないか」といった単純な日本語が通用しないと主張したいわけではないだろう。
しかし、同偏差値帯の人間と話す場合と比較し、自身より低偏差値帯に属する人間と話題の共有が著しく困難であることや、彼らの論理的な思考の欠如(それについても比較としてだが)について主張したいのだと思われる。
また本来偏差値についてもどの時点のものであるかを正確にすべきであったのだが、私が体験した中学受験と大学受験についてはこの「偏差値が20違うと会話が成り立たない」という言説を用いるのには適当であろうと思われる。
話を戻し、自身より低偏差値帯に属する人間と話題の共有が著しく困難であるとする件について考えるのだが、例として偏差値69の早稲田大学政治経済学部の人間と偏差値49の大東文化大学法学部の人間の話題が合うだろうか。
分布の問題もあるので、数値をもう少し下げても良いだろう。偏差値59の立命館大学法学部の人間と偏差値39の名古屋経済大学法学部の人間の話題が合うだろうか。
勿論絶対に合わないということでないだろう。もしかしたら共通の趣味を持っているかもしれない。しかし、多くの場合において話題の共有が困難であることは想像に難しくない。これらは勉学の良し悪しという面だけではなく、ライフスタイルなども含まれる。
つい先日話題になっていたように、世の中には「学歴フィルター」などもあり、高偏差値大学の卒業者とそれ以外のものは就職についても一定の開きがある。そのため、所得にも違いがあり、異なるライフスタイルを形成する。
ライフスタイルが異なることによって、話題が完全に異なるとは思わないが、一定程度の乖離について想像は容易である。
中学受験についても、受験中は偏差値によって厳格にクラス分けされ、受験後も上位層は無試験で鉄緑に入塾出来たりする。これらからも話題の共有が難しいことは分かると思う。
次に、論理的な思考の欠如についてだ。これに関しては、同偏差値帯においても密度に開きがあり、偏差値が離れているとその差はより大きくなることが多い。最悪の場合、論理的な思考は存在せず、ただ感情のままに喚く人間すらいる。
また、ある事柄についての当否を論じることを、自身への攻撃と捉える人間もおり、これらは偏差値の高低を問わず困った存在である。
話を纏めると、「偏差値が20違うと会話が成り立たない」という雑な言葉を使うのではなく、「偏差値が20違うと話題の共有について著しい困難を伴う」といったような、より限定的で丁寧に言葉を使おうということだ。そうすれば無意味なレスバトルを少しは減らすことができるのではないだろうか。
弁護士になるための司法試験は公的な資格であるだけに、それなりに倫理観も要求されるでしょ。
大学をきちんと卒業したのか、受験資格要件は満たしていたのか、実際に受験したのか、試験の結果はどうだったのか、これらについて何一つ満足に説明しない/できない人間が、弁護士になるのは流石にまずいと思うのが普通でしょ。
そういう人間が、法学部出身者でもないのに、国内有名法律事務所に在籍できたことも、それなりに名門とされる海外大学への留学受け入れや奨学金授与が実現したことも「いずれも異例のことのようだが、きっと彼自身が優秀だから実現したのだろう」と能力の裏書きと見做していたのに、日本よりも合格率が高いとされる弁護士資格試験に落ちた。それを見たら「本当に、正当な評価の下に、留学受け入れや奨学金は決まったのだろうか?本当に、皇室の力による介入は無かったのだろうか?」と疑念を抱くよ。
もちろん、たまたま試験の時にコンディションが悪かったから落ちた可能性もあるよ。人間だから。それならそれで、自分たちが敵と認定した人たちは放って置いても構わないから、自分たちを応援してくれていたと思える人たちに向けて「次回、2月の試験に向けて心機一転、頑張ります!」なり何なり言えばいいじゃん。
報道の使命の一つは「権力の腐敗を監視すること」なんじゃないの?「祝福だけしろ。こんな時に野暮なことを言うな」という同調圧力で国民が押し潰されて、抱いて当然の疑念も表明できなくなるのは、流石におかしいでしょ。今の日本は戦前・戦時中か?
昔話をさせてくれ。
夜中、自転車で都内の公園を通って帰宅中、植え込みの横に服屋の紙袋があるのを見かけた。ゴミのようにも見えず、通り過ぎたあとしばらくして気になったので、引き返して中を確かめてみた。中にはタグのついた新品のジーパンと女性用のカットソー、そして厚めの財布が入ってた。
時間は12時を少し過ぎたころ、周りには人影はまったくない。いま誰かがここに置いてその場を離れているだけとは考えられなかった。周りを見渡し、公園を出た先のあそこに交番があったな、と思い出しながら紙袋をハンドルに引っ掛け、その場を後にした。
街灯は暗かったので財布の中身はちゃんと確かめてなかった。持ち主の手がかりがあるか、いくらくらい入ってるか、どうしても気になったので、園内のトイレに向かった。
すこし緊張しながら個室に入った。蛍光灯がまぶしかった。膨らんだ長財布には、新札のような紙幣が7万円ほど入っていた。カード入れには見慣れないデザインのクレジットカードが数枚。学生証らしいカードにはブロンド髪の女性が写っており、読み慣れないスペルの名前が記されていた。昼に買ったジーパンとカットソーのレシートも入っていた。
どういう経緯で、今日買ったばかりの服と財布が公園にあったのかは分からない。自分で置き忘れたものではないだろう。しかし盗まれたのならどうしてあんなところに置いてあるのだ?いずれにしても、彼女は今日買ったばかりの服と財布をいま持っていないことは事実だ。旅行で来日したのに財布をなくすことがどれだけ悲しいことか。自分が旅行先でこんなことになったら、どれだけ不安になるか。彼女のことを考えると同情の思いがあふれてくる。
それにしても、私に拾われたのがラッキーだった。私はその金をネコババするようなことはしない。7万程度の金で後ろめたい記憶を心に刻むようなマネは決してしない。私はこの紙袋を正直に警察に届けるつもりだ。身分証も入ってることだし、紙袋が落し主の彼女に戻ることは確実だろう。彼女はなくした財布が、現金までもが無事に手元に帰ってきたことに驚き、この国の治安の良さと届けてくれた者の正直さに思いを馳せ、その人柄の良さを痛感することだろう。私はそんな彼女の驚く顔を想像して満足する。彼女が放つ行き場のない感謝の念を、わたしは想像して受け取ることができる。そして、その記憶を何度も繰り返し思い出すことができる。それは私の生涯の喜びとなるだろう。
しかし、交番に届けると、警察官に自分の名前や連絡先を聞かれ、落とし主が見つかった際に、謝礼を受け取るか聞かれる。それを私は知っている。以前、同じように財布を拾って警察に届けた際、何気なく謝礼を受け取ることに了承してサインした。数日後、落とし主から電話があり、謝礼として1万円を受け取った。その時の落とし主の私に対する感謝とめんどくささと義務感とが入り混じった、なんとも言えない表情は、私が2度と思い出したくない記憶ひとつだ。そういえば着信は非通知からだった。
そして私は、財布を紙袋に戻す前に、少しためらったのち、その中から新札の一万円札を抜き取った。これは私が受け取るべき謝礼である。現金を拾得した際には、その金額の2割までを落とし主に請求する権利があると聞いたことがある。私は法学部を出ている。ならば、請求して受け取る前に、あらかじめ2割に満たない金額を受け取っておけばいい。そう考えることに、まったくの躊躇や葛藤は感じなかった。
感謝はされたい。しかし、義務感で謝礼を渡されたくない気持ちも強い。落とした財布を受け取りに警察へ向かう彼女。警察官から落とし主の連絡先を伝えられ、謝礼を要求されていることを知る。その時に彼女が感じるであろう圧倒的な面倒くささ……。外国で、旅行先で、そんな面倒な時間をかけさせたくない。私が彼女だとしたら思うことは、謝礼などほしかったらくれてやるからなぜ先に取っておかない?!なぜ謝礼を渡す手間を私に課すのか?!めんどくさいこと要求するな。という思いだ。
そうして私は一万円を自分の財布に入れ。それ以外は拾ったままの紙袋を警察に届けた。氏名、住所、携帯番号を聞かれ、警察官と財布の中身をすべてあらためて、1円まで数えて記録をつけた。そして最後に、落とし主に私の連絡先を教えない、謝礼を要求しないことを伝えた。
最終的に彼女が紙袋を手にできたかどうかは分からない。しかし、聡明な彼女であれば、財布から一万円が足りないことに気付き、拾い主である私に拾ってくれたこと、そして謝礼を事前に抜いていることに対して、さらなる感謝の念を抱くことだろう。私はやるべきことをした。
若い二人のロマンス、憲法でも両性の同意のみにより成立すると謳われている婚姻制度、オメデタイ限りと。
いやちょい待て。
多くの普通の大学進学希望者があんまり志望もしない割に高偏差値な謎の大学を卒業し、
プリンセスが「ここは退屈」と、「海外に生活の拠点を作って」と、「一切の援助はできないけど」と。
そこからよ、日本国内の司法試験も通過してないのに米国の法科大学院への進学を異例に認められ、
まだ資格はおろか修了も「?」らしいのにニューヨークの法人相手だとかの弁護士事務所に就職の内定を獲り、
いきなり結婚のための帰国にたぶん数か月の休暇を使い、事務所の写真は寝間着。
衆議院選挙の候補者が公示されたので有権者として自分の選挙区の候補者をなんとなく確認してみた。
最近この選挙区に引っ越してきたので全然知らなかったが、この選挙区凄くないか?
自民党44歳の鈴木氏と立民党38歳の中谷氏の若手候補一騎打ち。いずれも現職候補である。(衆院解散したから正確には前職か)
前に住んでいた選挙区の候補者が自民の当選回数だけが自慢の老いぼれジジイと、共産党の婆さんと、希望の党の素性も分からない奴だっただけに余計に驚いている。
前回の衆院選では「何なら全員落ちてくれ!」と思いながらも義務感で投票に行ったが、今回はきちんと2人の主張や実績を確認して投票しなければいけないという責任感すら生まれている。
神奈川7区が熱いと書いたのはこの2人の候補者が若手現職だということだけではない。
2人の経歴が完全に真逆なのだ。
大蔵省入省
福岡国税局勤務、ジョージタウン大学フェロー、ニューヨーク副領事、厚生労働省職業安定局出向(係長職)などを経て2005年8月に退官
(Wikipediaより)
いや、こんな絵にかいたようなエリートがいる?と言う位のエリートである。
なんならエリート過ぎてちょっと庶民の感覚わかります?という点で投票をためらってしまいそうなレベルだ。
しかし、経歴もさることながら政治家になってからも一目置かれているようで、この若さにして外務副大臣と財務副大臣の職を経験している。
どれくらい有能なのかはわからないが、岸田首相と同じ開成出身であり、今回の総裁選で影響力を発揮した麻生派であることだけでも今後の要職も期待できるのではないかと思ってしまう。
一方で立憲の中谷氏の経歴。
貧困な母子家庭で育ち、11歳の時に両親が離婚。埼玉県、東京都、大阪府、神奈川県と転居を繰り返し、幼稚園2園、小学校4校、中学校2校に通学。
公立中学校卒業後、一度就職するも挫折し通信制の高校を卒業後、専門学校で柔道整復師の資格を取得。その後慶應義塾大学経済学部通信教育課程に進み、デジタルハリウッド大学大学院を首席で修了、DCM(デジタルコンテンツマネジメント)修士。gumiの創業に参加。執行役員を経て、顧問に就任。
(Wikipediaより)
本人のWebサイト等を見るとヤンチャ時代があったと書いてあったり、ちょっとヤバ目な若者集団との写真があったりと「おぉ・・」と思わせるところはあるものの、中卒で一度働いてから大学院まで出てgumiの執行役員・27歳で県議会議員という這い上がり人生は本や映画にするなら圧倒的に鈴木氏より面白いものになるだろうし、こちらの方が人間味がありそうで良いと考える人も居るだろう。
正直今回もこの2人の若手候補者に当選してほしいし、何ならどちらかは私の前住んでいた選挙区で出てほしい。そしたら簡単にトップ当選するのにと思ってしまう。
全国にどんな候補がいるのか調べたわけではないが、少なくとも神奈川選挙区の中では最も面白くて、注目すべき選挙区だろう。
そんな選挙区で1票を投じられる喜びを感じている。
自分に関係のないことでやたらと怒る人がいる。おそらく、実害があるから怒っているのではなくて、常に何かに対してイラついているのが好きなのだろう。私はそう解釈している。
昨今、取り沙汰されている眞子さまと小室圭さんのご結婚の話題などは、まさにその典型ではないかと思う。
はじめに断っておくと、私はお二人のご結婚にはとくに反対ではないし、お互い好きなら結婚して問題ないと考えている。
だから、そもそもお二人の結婚に断じて反対という人がこの先を読んでも、不快になるだけだろう。
断固反対という方はどうかこのページを閉じて、世の中に溢れているバッシング記事を参照していただきたい。
***
私は小室圭さんの生き方が好きだ。間違いなく優秀な方だし、これからも活躍してほしいと思っている。
だが、ICUに合格してアメリカへの留学も果たし、卒業後はメガバンクに入行した。
相当な努力家でなければ成し遂げられないことだ。
銀行を退職後はパラリーガルとして法律事務所に勤務しながら大学の夜間課程で経営法務を学び、さらにアメリカの大学で法務博士課程へと進学する。
知っている人にとっては言うまでもないことと思うが、弁護士になるには非常にお金がかかる。
日本で弁護士になるには大学の法学部を卒業後、さらに法科大学院へ進学するのが一般的だ。
もし小室さんの借金が批判に値するのなら、少なくとも日本では金持ちの家庭に生まれないと弁護士を目指せないことになってしまう。
「親ガチャ」という言葉が話題になったが、親ガチャの不運を嘆く層と、小室さんを批判している層はどの程度一致しているのだろうか。
親ガチャに賛同しつつ小室さんをバッシングする、などという矛盾した行動を取っていないことを願うばかりだ。
そもそも、結婚するにあたって借金があるのはけしからん、という論理が私にはさっぱり分からない。
ギャンブルやアルコールへの依存で膨らんだ不毛な借金ならともかく、夢を叶えるための学費として借りたお金ではないか。
「公費で借金を返済するのが目的だろう」などと言う人がいるが、正気だろうかと心配になる。
そんなことが打算的な策略によって実現できると思うのなら、もはや世の中に思い通りにならないことなど1つもないだろう。
お二人は、お互いに惹かれ合って結婚を決めた。
それだけである。
皇族だからといって一般人と完全に切り分けて考える人のほうが、余程きわどい思想の持ち主のように私には思える。
***
身も蓋もないことを言うと、お二人がご結婚されたとしても、私自身の暮らしに何か影響があるわけではない。
よって、正直なところ私には「なぜそんなに批判する人がいるのかが分からない」のである。
どちらかと言えば、これを書いたきっかけは「批判する人たち」の動向を目の当たりにしたことにある。
冒頭にも書いたように、自分とは明らかに関係のない、自分の暮らしに何ら影響を及ぼさないことで怒る人がわりといる。
まず、この事実に驚いた。
これは私の個人的な推測でしかないのだが、批判している人の多くは皇室に思い入れがあるわけでも、日本古来の伝統を重んじているわけでもない。
ICUに合格する学力はなく、メガバンクの熾烈な選考に勝ち残って内定を獲得することもできない。
国際弁護士になる夢を実現するために、メガバンクを退職する決断力もない。
法律事務所でパラリーガルとして働く能力も、アメリカの大学院に留学する語学力もない。
もちろん皇室の女性と相思相愛になることも生涯ないだろうし、世間から猛烈にバッシングされても結婚を貫く胆力も持ち合わせていない。
つまり、批判している人たちの大半は小室さんにかなう要素が何ひとつない。
たとえば、「自分は借金をしていないが、あの男には多額の借金がある」といった発想なら、自分自身が「正しい」側に立てる論拠を獲得できる。
「借金はよくないよね」
「相当な借金があるのに皇室の女性と結婚するなんてあり得ないよね」
もしくは、
「何か悪いことをしているに違いない」
「それならバッシングしても構わないだろう」
この程度の認識の人もかなり多いと思われる。
批判している人々だって、ほじくり返せば過去に汚点の1つや2つありそうだが、さぞかしご自身は一点の曇りもない清廉潔白な聖人君子だから小室さんのことを批判し、許せないなどと断じるのだろう。
***
皇室に関わった民間人へのバッシングと聞いて、真っ先に思い浮かんだのは美智子さまのことだ。
皇室に初めて民間人が嫁ぐのと、皇室の女性と民間の男性が結婚するのでは状況が異なるが、一部メディアから執拗にバッシングされているところは共通している。
美智子さまがご結婚されたのは、私が生まれるずっと前のことだ。
だが、当時一部メディアから激しいバッシングを受けた美智子さまが失語症になられたことは知っている。
令和時代なのだから、皇室の女性の意思が尊重されてもいいのではないか、と私などは思う。
ここでやめておけばよかったのだが、反吐が出るほど嫌いな某ニュースコメントを私はうっかり見てしまった。
中には「このバカ女は……」などと、何とも無礼極まりない罵詈雑言を書き残している者までいる。
人間とは、自分に関係のない出来事にこれほど憤り、自分とは違った世界で暮らしている(と思い込んでいる)相手に対して、これほど無礼になれるのかと驚愕したものだ。
公費に税金が使われているのだから国民は文句を言う権利がある、などともっともらしい持論を展開する者もいた。
一体、この発言者が納めた税金のうち、いくらが宮内庁で使われているのだろう。
微々たるものであろうことは、あえて説明するまでもなく明白である。
仮に結婚なさったとして、この発言者が納める税金が増えるわけがない。
ちなみに、お二人の結婚がこれほど炎上するに至ったのは、どうやら某週刊誌が発端のようだ。
小室さん自身の借金や母親の金銭問題に関して、週刊誌がほじくり返さなければ明るみに出ることはなかった。
一部メディアがバッシングしているのは、美智子さまのときと全く同じ構図ではないか。
お二人のご結婚に対して憤慨したり罵ったりしている人は、週刊誌が作り上げた特異な市場で愚弄されていることに気づいたほうがいい。
週刊誌はそのうち別のネタのほうが部数が伸びると見て、新たな「市場」を開拓するのだろう。
そして、間もなく世間はお二人のご結婚にまつわる騒動を忘れ去っていくのだろう。
***
話を戻すと、お二人の結婚について憤っている人の多くは、自身は安全地帯にいて、自分とは関わりのない世界のことだから安心して批判している。
注目すべきは、そもそも「自分の暮らしには何ら関係のないこと」を批判しているので、批判したところで何も変わらないし、自分の生活圏には1ミクロンも影響を及ぼさないことだ。
まるでストレス醸成と解消のエコシステム、あるいは永久機関のようだ。
自分に関係のないことで憤り、批判する人は、おそらくこの「永久機関」を求めてやまないのだろう。
心から批判しているわけではなく、本気で何かを変えようという気概もない。
勝手に憤って批判し、オリジナリティ溢れる罵詈雑言を撒き散らしている有象無象など放っておいて、お二人にはどうか幸せになっていただきたい。
時を経たら、多くの人を魅了するラブストーリーとして回想されるのかもしれない。
創業経営者と比べると、大企業の経営者による「私の履歴書」はいったいに面白くない。とくに金融系はつまらない。それにしても、石原氏の連載には刮目させられた。底抜けにつまらないのである。他の大企業経営者と比べても、つまらなさの次元が違う。それがたまらなく面白い。
読んでいない方のために内容をかいつまんで紹介する(ある意味で読みどころ満載なので、要約するのが心苦しい。ぜひ原文に当たることをお薦めする)。日比谷高校から東京大学法学部に進学。東京海上に就職する。新人時代の使い走り時代を経て、商品開発部門に配属。専門書で勉強し、世の中の変化に合わせて保険商品をつくる楽しさを知る。仕事が終わると先輩と2時3時まで飲み歩く日々。しかし、非常事態に対応するのが損害保険会社。翌日の仕事に差し障るのはプロとしてよろしくないと、日付が変わるまでに酒席を終えるようになる。
顧客対応の難しさ。人が行きかう駅で土下座をすることもある。代理店から出禁をくらっても、粘り強く何度も足を運び、ようやく納得してもらう。丁寧に意図を説明して誤解を解き、信頼を勝ち得るために努力を惜しまないことが大切と知る。
部下と上司の板挟みに苦しんだ課長時代。ストレスで十二指腸潰瘍を患う。職場の雰囲気がギスギスしていて、3人の女性社員が辞めたいと言い出す。ムードを和らげることに努めた結果、「まだ続けます」といってもらったときの嬉しさ。
■ヤマはない。オチもない。波乱も万丈もない。
畑違いのシステム部門に異動に。勤務先は国立市のコンピューター・センター。初対面の人ばかり。打ち解けるために週末を除いて56日間連続で部下と飲み、本店からの無理難題で疲弊しているシステム部門の現場の悩みを知る。本店との風通りをよくしようと努力を重ねる。ときには丸の内OLになりたくて入社した女子社員が国立に行くのがイヤだと駄々をこねることもある。本店まで自ら迎えに行って、国立勤務を受け入れてもらう。
取締役に昇進し北海道本部長に。当時、取引先の拓銀は破綻の危機。正月、拓銀の守り神の神社にお参りし、「拓銀さん、今年もどうか頑張ってください」と祈る。支援に奔走するが、拓銀はあえなく破綻。「いろいろご支援いただきましたが、こういう結果になりました。本当に申し訳ありません」という副頭取にかける言葉もなかった――。
こういう調子で、淡々とした仕事生活の回想が延々と続く。ヤマはない。オチもない。波乱も万丈もない。強いて言えば、連載17日目(これを書いている時点で最新の回)の次期社長を打診されたときの話がヤマといえばヤマだ。
前社長に「後任は君だ」と言われ、予想もしなかった話に呆然とする。「考えさせてください」とだけ答え、帰宅してから仏壇の両親に「大変なことになりました」と語りかける。それをひそかに見ていた夫人(またこの奥さまが石原氏にお似合いの「古風でしっかりした」女性。女子大を出たばかりのときに高校時代の美術の先生の紹介でお見合い結婚。内助の功をいかんなく発揮。もちろん美人)が「お受けしたら……」。で、受けることにした――と、これだけなのである。
経営者の「私の履歴書」にお決まりの「のるかそるかの大勝負」とか「修羅場での決断」がまるでない。目の前の仕事に誠実かつ真摯に向き合う。こつこつと着実に小さな成果を積み重ねていく。「週末を除いて56日間連続で部下と飲む」ということは、ちゃんと日数を数えていたわけで、この辺真面目としか言いようがない。
大企業の経営者が書き手の場合、月の半ばから後半に入るころに、「次期社長は君だ」のエピソードが出てくるのがお決まりのパターンとなっている。社長のポストを打診されて「青天の霹靂だった」とか「思ってもみないことであった」というのがこれまたお約束なのだが、読んでいる僕にしてみれば「よく言うよ。絶対自分が次の社長になる、それだけ考えてやってきたんじゃないの……」と思わせる人が多い。ところが、石原氏の場合、本当に「予想もしなかった話に呆然」としたのではないかという気がする。それだけ筆致が率直なのだ。
はじめは単に「面白くないなあ……」と流し読みしていたのだが、そのうちぐいぐいと引き込まれ、連載10日目を過ぎたころからは襟を正して読むようになった。その桁違いのつまらなさに、むしろ保険会社の経営者としての凄みを感じたからだ。