はてなキーワード: 映画館とは
また文字読めない奴かよ ここマジで頭悪い奴が急にわいてきていつもびっくりするわ
失礼とかクズとか言い始めるならそもそも末端で交渉を始めようとする時点で金払おうが払うまいが救いようがないほど失礼だし、普通に次の時間の予約を取るなり管理してる映画館側に言えよっていう
こう書いてんだろアホか?俺はそもそも他人に席を譲ってもらおうなんて考えたことがないし、未来永劫やることはない
俺は絶対にやらないが、仮にやるならせめて金を持ち出すなよボケって話でしかない
そもそも予約時点で席が分かれるのわかってんだろ 社会常識を持っていれば、そこで金払って変わってもらおうじゃなくて次の時間の上映で隣接した席を取ろうって思うもんなんだよ
要するに・・・って書きたいならちゃんと要約してくれ それはお前の願望であって俺の意見の要約ではない
要するにお前みたいな下種と一緒にすんなって話だ
いや普通に無料でダメ元でお願いして、ダメだったらすみませんでした、で終わりの話ではって感じではある
この程度の話で端金でどうこう言われたら自分はちょっと腹立つな逆に
金が動いてないならまぁ金関係なく善意の話だなってフラットに考えられるけど、
ひとたび金の話になった瞬間、先行して予約とった事実とかこれから数時間位置を移動して予定が狂ったりするいろんな労力こみこみでこの値段だって勝手に値付けしてお前は俺の労力をその額だと思ったってことかって思う 100円のプレミア品を事後に100円で売るのかって話とも似てる 例えばデート中に急に金の交渉をしてくる奴とかいたら内心はらわたが煮えくりかえりそうだわ 金払えばいいってもんちゃうぞっていう
失礼とかクズとか言い始めるならそもそも末端で交渉を始めようとする時点で金払おうが払うまいが救いようがないほど失礼だし、普通に次の時間の予約を取るなり管理してる映画館側に言えよっていう
このあたりは人によって常識が違いすぎるので、リプライを見る限り多分このあたりの肌感覚は伝わらないだろうというのもわかる
移動後の席が最後列とかならさすがにちょっとなめんなよって感じだけど、まぁ今回の例くらいなら単に横に移動するくらいだろうからちょっと動けばえーやんとは思うが
まぁでも一回譲ると調子に乗る奴らも多いからそういうの嫌がって譲らん人の気持ちもわかるしいずれにせよ末端で交渉すんなってそこに落ち着くわ
ニコニコとツイッターのせいで根付いた実況文化の影響もあるのか知らんが画面をずっと見てねえんだよ。
あのさあ……「主婦が料理しながらでも話がわかるように全部セリフで説明するのがテレビドラマの最強方程式」とか知ったことっちゃねえんだよ。
登場人物が状況をセリフで全部説明するせいで結果的に感情の部分を表現してる時間取れてねえし、内容も他のことしながらでもついけるようにそもそもペラペラだしさ。
そりゃあんなの倍速で見られても仕方ねえよ。
最初から普通に作った作品の30%ぐらいの内容しか載せてねえんだからさ。
ふざけんなっての。
映画なんて映画館で画面に集中してる前提で作ってんだから瞬きより長い時間目を離せる用に作ってるわけねえだろ。
倍速でいいから画面にずっと齧りついてろっての。
内容わからねえから考察サイトであとで確認したとか言ってんじゃねえよ。
倍速でいいから2回見ろよ。
タイパ重視で作品ゴミにしておいて知らん顔してるっててんじゃこっちのが100倍害悪だろ。
つうか最近はドラマもアニメも実況コメント目当てみてな作りしてるのマジで辞めろよ。
いい加減ちゃんと作れ。
つうかそのノリで映画まで作ってる奴らいんの本当頭おかしいから辞めてくれ。
なんで映画までながら見前提で全部セリフで喋って説明すんだよ。
無音が続いても画面が続いてたら問題ねえだろうに……ラジオドラマと間違えてんのか?
アイツらのせいで文化壊れてんだよ
席で見かたが変わらないなんて映画館エアプか?
スピーカーに近いとうるさいし扉に近いとなんか定期的に光入ってくるし端っこだと微妙に画面斜めだしいちばん真ん前だと首痛いんだよ紺屋の白袴
映画館の座席って事前に指定で買うもんなんだから、交換を申し出たらそりゃ嫌がられるのは当然としか思わなかったし、交換を申し出るという発想がそもそも無かったからびっくりした
座席にこだわりがないとか、隣になれないの可哀想だなと思える人は変わったら良いとは思うけど、正しさの話をするなら座席指定で買ってるものを後から変わってっていうのは間違ってるとしか言いようがなくないか?
だから交換を申し出ること自体に不快感を抱くのだって普通に正常な反応でしょと思ってしまった
とはいえ譲った場合と譲らなかった場合のそれぞれの配置によっては変わった方が良いケースもあるんかな、知らんけど…
それはそれとして、ここからは妄想とフィクションの話ね。カップルに頼まれて座席を代わってしまったがためにアリバイに利用されたり何かしらの事件に巻き込まれる主人公は存在しそう 知らんけど
https://anond.hatelabo.jp/20230507091722
俺も職場の騒音がすげー気になってたことあるからわかるんだけど、
俺もいろんな理由でその職場が嫌になってから向かいの席の人の音が気になって仕方なくなった。
実際客観的にカラ咳がひっきりなしだったんだけど前は気にしてなかったんだから俺の精神病だわ。
増田も親族が嫌いだから音が気になるのかもって言ってるけどその通りだと思うよ。
既に脳の回路が「嫌いな奴の音がムカつく」から「音がムカつく」になっちゃってたら
引っ越しても今度は隣人の音に神経とがらせる迷惑キチガイ人間になっていくよね。
今日のホッテントリの映画館の話も健康な人には意味不明なんだけどさ
別にそんなもん一席ぐらいならかわってやってもいいし
譲れないんなら断ってそれで終わりまでの話じゃん?
なのに一部のブコメでは「バカ呼ばわりされて当然」だの「断るだけでストレス」だの書いてあって結構人気コメになってて
別にいいじゃねえか頼むまではタダで。
俺もそうだったからわかるけど自分では自分が正しくて相手が悪いって思ってんだよな。
別に相手は悪くねえんだよ。良くもねえって言うかたいしたことしてねえ。
いちいち感情的になる奴が作り出してると思わん?
それやってると周りの迷惑なのもそうだけど、自分自身が休まらないんだよね。
大体そういうのって上には上が居るし。
上級キチガイは「隣の席のやつの身じろぎのきぬずれがうるせえ」「非常識」って言うんだぞ?
そうなったらお前等だって「このキチガイの方がおかしい」って言うんだよ。
ていうか俺はめっちゃ映画に集中してみてた時に暇つぶしで入ったっぽい近くの席のジジイのきぬずれがマジでうるさかったんだよ。基地外だろ?
席交換をお願いしてきて断られたら舌打ちして引き下がった相手の属性が「KKOあるいは老人(爺)の友人連れ」だったらブコメの反応真逆だったんじゃねぇかなぁと思う
『また映画館にいましたよ。
「離れた席しか取れなかったから席を代わってくれませんか?」って奴ら。
代わるわけないだろアホカップル。
https://twitter.com/hatsume1122/status/1653677456291930113?s=46&t=UvFEBu5M0FowcJERBgVctw
まあこの人は単純に譲りたくなかっただけなんだろうけど。
昔、とある人気舞台を見に行った時、前から3列目の席を取ることができたんだけど
「すみません、目が悪いんですがコンタクトが取れてしまって。席を譲ってくれませんか?」って話しかけられた。
今思えばその時点でやべーけど、特にこだわりないから譲って自分は15列目に座った。
そしたらそいつが盗撮してて、その隣の席の人が「3-◯の人が盗撮してました」って通報したらしく自分に連絡かかってきた。
かなりの頻度で。
それってこういう事なんですよ。
めっちゃ金かけてホームシアター作った所で映画館以外での鑑賞は「映画体験」とは呼べないんです。
たとえ劇場に居たのが自分一人だったとしても、自宅で一人で見るのとは絶対に違うんですよね。
映画館にいる時点で映画館のルールに縛られるし、自分しかいない映画館で独り占めしているって気持ちや、もしかして序盤は飛ばして盛り上がり所から入ってくる人がいるんじゃないかって予感とかがあるわけですよ。
それに映画って一緒に見る観客も含めての体験で、たとえばカメラを止めるななんてまさにそうだったじゃないですか。
お手並み拝見って気分で見に来てる人達のつまらなそうな雰囲気や、上映開始20分ぐらいで離れていく人、後半で思わず吹き出しちゃってる人、そういうのって映画館でしか味わえないでしょ。
自宅で友達と見て誰かが笑っても、それは友達の家で見てるって空気の中での笑いで、静かにしなきゃいけないシアターの中で思わず溢れてしまったのは別物。
確かにね、友達と一緒に家で見るとか、一人で好きなように止めたり巻き戻して見るってのもいいと思いますよ。
映画として体験したって言えるのは、映画館で見たときだけでしょ。
そうじゃないなら等速だろうが倍速だろうが別に大きな差はないと思いますよ。
録画したテレビドラマを見るような気持ちで好きなように飛ばしながら見れば良いんですよ自宅で見る映画なんて。
オシッコしたくなったり郵便配達が来たら自由に一時停止できるような環境で見てる時点でね、もうそれは普通の映画じゃない。
おかしな映画になっちゃってるわけで、そこで再生スピードがちょっとぐらい変わろうがどうだって良いんですよ。
そりゃまあ5倍速とかにして声がもう聞き取れませんっていうんじゃ流石にどうかと思いますけど、倍速ぐらいならまだ言ってることは分かるでしょ。
ならどうせ大差はありませんよ。
時間の感じ方なんてそもそもが人それぞれなんだから「この速度で見ないと絶対におかしなことになる」なんてことは起きませんよ。
実際、この映画のテンポ早すぎるな遅すぎるなって皆あると思うんですよ。
そんな違和感に対してリモコンの速度変更ボタンを押せれる環境にあるなら我慢せずに押してしまえば良い。
そもそもそうやって「押そうと思えば押せる環境」なんかで映画を見てる時点でもう既に何かがおかしいんだから。
映像が良かった。このシーン、このアイテムの映像解釈がこうなるのか!という驚きの連続。BGMや効果音のさりげないアレンジも良い。
楽しい場面も多くて映画館で何度も笑いが漏れてた。間が絶妙なかんじ。
ピーチ姫のアクションがカッコ良い。ギャルっぽい話し方に最初違和感を覚えたけど格好良いから100点満点です。
映画批評家の評価が低いらしい。これはポリコレは全く無関係で、映画のセオリーを無視した脚本だからだと思う。
映画の脚本術は3幕構成とかセーブザキャットとかいろいろあるけど基本的に「主人公が挫折するパート」が必ずあるはず。
この映画を「普通の映画」にするとこんな感じになると思う(太字が改変部分)
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はピーチ姫は裏切っていた。「ごめんなさい王国を救うにはこれしかなかったの」罠にハマり捕まるマリオ
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はルイージが裏切っていた「いつまでも兄貴ヅラするな。僕はお前が嫌いだったんだ」ルイージに叩きのめされ失意のマリオ
6. 再び立ち上がりルイージと対決。溶岩に落ちかけたルイージの手を掴む。「お前がどう思おうと、僕にとっては弟だ」
上の5に相当する挫折パートがないんですよね。批評家が違和感を覚えるのはその辺かも。
ただ、これはファン向け映画なのでマリオキャラの仲間割れとか過度なドラマはファンは求めていないと思う。だからこれで良いんだ。
いちおう、ドンキーとマリオ主人公の「バディとの友情」としてみるとだいぶセオリー通りな感じなのですが・・・ドンキーはマリオの登場人物でないからうーん???友情出演と思って見ていたのに中盤であれ?こいつシナリオ的にメインキャラだなって
オープニングの前の任天堂のスーパーマリオのシーエムで泣いてしまいそうなほどそんな思い入れは無いんだけど
もうあれはひっちゃかめっちゃかの1-1のステージにクッパが何匹もバトル勝ち残っている終盤には出てくるというカオスさがスーパーマリオなのね!って思って
Switchで色々遊べるスーパーマリオがあったのでそれで遊んでみたぐらいの私のスーパーマリオ歴なんだけどね。
なんかでもゲームの画面がそのまま動いてこれもうゲームにしても面白いのかもね!って思うぐらいなワールドで
あれだわ、
スーパーマリオランのキノコ王国!ってあれがもっと密度がギュッとキノコ王国を集めた感じの景色だったのよね。
自ら文字通り私自ら出る!って勢いで戦いに行くあれファイヤーピーチになるとき服の色が変わるのが最初意味が分からなかったけど、
ああ!そう言うことねってマリオもファイヤーマリオになるのと同じ理屈なんだわ!ってプログラムをあとで読んで腑に落ちまくりまくりまくりすてぃーだったわ。
私が好きだったのはファイヤーフラワーのお花畑が綺麗だったし、
ドンキーコングと戦うときのステージにはてなブロック叩いてアイテムゲットしたんだけど、
あと、
ノコノコが意外と強いってことよ。
おまえそんなワザ秘めていたんかーい!って
踏んづけて蹴飛ばされるだけじゃなかったんだわ。
あんた強いのね!って言って言えそうなレヴェル。
総じて良かったけど、
私もSwitchで遊べるマリオをやろうと思って遊びたい気持ちはあるんだけど、
今はスプラトゥーン3のヨビ祭中だし、
もうさ、
昨日は勝てず調子悪くこんな時は寝るに限るわね!って調子だった。
うふふ。
渋々と思いながら食べるのは良くないわね。
お茶を入れるガラスの容器と私がルービーを飲むガラスのコップがそれを使うと足りなくなるので、
また私の好きなガラスのコップのことについては書くわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ジンカマさんが電車男に「(エルメスたんに)オタクってバレたらどうすんの!?」って言うセリフがあったんだが、約20年前はオタクであることは昔性犯罪で捕まった過去があるレベルで隠さなければならないことだったのだということをふと叩きつけられた。
思いっきり深夜アニメな鬼滅の刃(実際めっちゃ面白かったけど)が国民的アニメだなんだと幼稚園児から会社の定年後再雇用の大先輩の皆さんまでこぞって映画館に走ることになる未来が来るなんて夢にも思わなかった。
そもそもジャニーズが出てる作品ってバンバン宣伝するせいでたくさんあるように錯覚するだけで、実際ドラマの方がバンバン出てるうえ、主演映画はめちゃくちゃ少ない。(出演を数えるなら話が違うと思うけど)
ジャニーズで主演映画やれるのはひとグループに2人いればいい方では?
やたら湿っぽく不幸で救いようもない題材ばかり、女優を不必要に脱がせて「体当たり!」「演技派!」と絶賛したりそういうクソ邦画が多すぎる。
物語上これまた不必要で女性にとっては不快なだけ、一部の男には「ご褒美」の性暴力描写に女優がチャレンジしたらこれまた「体当たり!」という謎の賞賛を浴びる。
そういう上の方のおじさんのニタニタしてる顔が見えるのが気持ち悪い。
同性愛を題材にした映画では「同性愛としてではなくどこにでもある愛の話…」と殊更に同性愛を強調しないことをやたらと主張したがったり、「当事者以外に演じさせるな!」と普段憤慨している当事者が別の作品で非当事者が同性愛者を演じている作品を絶賛していたりなんかクサイのも湧いて出てくる。
そもそも映画館にわざわざ足を運んで1900円も払って観に来てくれる価値があるのか?と製作者側は全く考えていないとしか思えないつまらないジメジメ邦画には本当に腹が立つ。
1900円あったらミスドの食べ放題にも行けるし、回転寿司ではデブ1人が満足できて少食なら2人食べられる。確実に美味しいことがわかってる自分のお気に入りの飲食店にも行ける。
確実に好きな芸能人の顔やら好きなキャラが映画館の大画面で見れて、声もでかい音で聴けるなら1900円は安いと感じる人は多いけど、クソっぽい邦画にミスドの食べ放題以上のお金を普通に払いたくないよね。
三谷幸喜の「ギャラクシー街道」は今でも返金してほしいと思ってる。こんなクソみたいな怒りやモヤモヤを一生抱えたまま生きろと?
「ギャラクシー街道」とマーベルやディズニーが同じ料金なのがそもそもおかしい。
邦画がお金かけられないせいでつまらない、お金がないせいって言い訳するなら、映画なんか作るな。
庵野秀明が趣味みたいなシン仮面ライダーに金をじゃぶじゃぶ使えるんだからあるところにはあるんじゃないの?
漫画原作でアイドルが出る映画以上の価値を提供してないってだけの話なのにジャニーズを勝手に叩くなよ
オタクをバカにしてないで、いかにアスペ傾向のあるオタクをリピート鑑賞で取り込めるか知恵を練ったらいいんじゃないの?と思うんですけどね
そもそも普通に結婚して普通に子供がいる健常者は子供を連れてポップコーンもジュースも買って親が子供を連れてくんだよ
まあこんなクソ値上げしたら家でネトフリ見ながらイチャイチャする方が圧倒的にコスパ良すぎますわ
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。