はてなキーワード: 違和感とは
すんごくどうでもいいつぶやきだけど、多様性だかなんだか知らんけど、男子の制服着て髪は普通に長くて歩いてる女子中学生に違和感を覚える。多様性っていうなら男子もスカート履けばいいじゃん。なんか、自分達で自分達を複雑化していないか???
市のHIVの検査をしてみた。オマケで肝炎と梅毒も分かる。会場は50-60くらいの男性が目立つ。女性は1割くらいで安っぽい黒コーデの人が多い。これ、風俗嬢と客がそのまま来てるような感じ。
後ろ暗い空気感があって、なんとなく違和感があった。セックスは悪いことじゃないはずなのに。結婚どころか、恋人だって作るの難しい時代でしょ?でも、抱き合うと脳内物質が出るように人間はできてる。それなら風俗やマッチングアプリで性サービス利用したらいいと思う。人間はそういうことするようにできてるんだから。
試しに一週間通してある程度酔っ払うだけのお酒を飲んでみたんよ
けど、感想としてはフワフワするような多少の心地よい感覚、肌感覚や思考が鈍るような違和感があるだけで、そんな熱心に酒を飲まなきゃいけないようなもんでもないと思った
ただ、酔う初期の初期の段階で、食事が美味しく感じるようなかなり良い側面もある
だから飯食う時にお酒を飲むというのは良いと思うんだけど、それは酔っぱらうためではない
たまに適度に飲んで美味しく食事をとる
それでいいじゃん
何かしらのマウントか?
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
ぶっちゃけMrs.グリーンなんちゃらっていうクソダセえバンド名ですわ。
言っとくけどバンドじゃなくてユニットだよとかそんなツッコミは要らんぞ。
J-POPの流行ってるやつらときどき何やねんっていう名前のやつらいるよね。
ポルノグラフィティとか。Mr.Childrenとか。笑 (古くてごめん)
というか、もし世界進出したらやべえことになるバンド名とか他にあるのかな!?
逆に知りたくなってきたわ。
『阿武ノーマル』 を見るのだ、増田の大好きな弱男がヒロインしているぞ
不器用ながらも両親に認められる優秀な息子であろうとお勉強頑張って国立大を目指していたが、高校で常軌を逸した凄惨ないじめに遭う。
しかし両親に認められる優秀な息子でありたかったので、いじめられていると両親に知られたくなくて、何事もない風を装っていた為、
両親はいじめに遭っていることに気づいてくれない。
ある日、いじめの主犯格が河原の家に乗り込んで来て、河原の友達のように振る舞い、河原両親はあっさり懐柔されてしまう。
心の拠り所がなくなっては耐えられないと意を決して両親に打ち明ける。
河原「あいつは友達なんかじゃない。あいつに俺はいじめられている」
時は流れ、すっかり心折れて引きこもってた河原は、定職につくよう母親に説教をされ続けて癇癪を起こし、手を上げてしまい、
ネカフェに寝泊まりするもすぐに金は底をつき、絶望してたところに、ビックマウスが功を奏してなんか派遣の仕事受かる。
だが、頭が悪いのでビックマウスと上から目線で周囲の大顰蹙を買い、主人公の阿武ちゃんに、秒速で会社を追い出され、再び、無一文になる。
そして、ヤケになり、阿武ちゃんを襲うことにする (違和感・飛躍あるが、阿武ちゃんの異常性を際立たせて物語の起伏を作るために仕方がない)
が、クソ雑魚ナメクジなので、主人公の阿武ちゃんに、返り討ちにあい、足を滅多刺しにされる。
サイコな阿武ちゃんは躊躇いもなく、『正当防衛が成立するので殺しますね』と河原に宣言する。
河原は死にたくなくて、命乞いをしようと考えるが、碌な言葉が出てこない。
"男なら当たり前に社会に出て金稼いで、結婚して、子供作って、老いて死ぬ。
それが普通?ふざけるな!!人間には向き不向きがあるんだよクソがクソが!!"
(スン)
"阿武・・・、お前はいいよな。地頭が良くて、仲間にも恵まれて
当たり前のことが当たり前に出来る、そんな人間だよ
お前は・・・"
滅多刺しにする気満々の阿武ちゃんに命乞いしようと思ったが、あれこれよく考えたら、別に生きてる必要ねーなって気づく河原
"死んだ方がいいな。殺されなかったら自殺しよう"
阿武ちゃんは、誰でもいいから結婚して普通になりたかったので、河原と結婚することにした。
なお、河原は阿武ちゃんとチューすらしたくないし、結婚なんて論外で、隙あらば逃げたいが、足を怪我してるし、
うまく逃げても河原の実家に何するかわからないし、そもそも金もないので、勢いで結婚を前提とした交際を申し込み、なぜか阿武ちゃんに受理される。
このあとも高校時代のいじめの主犯格にタコ殴りにされたり、阿武ちゃんにとってグッピー(魚)よりは上の存在になれたり、
阿武ちゃんが無慈悲にも結婚前提で付き合っているからと河原両親に宣言、いや脅迫めいたことされてるんだがと両親に訴えるも今回も信じてもらえず、
心理テストや占いの類とは違うものだから、信じるとか信じないとかじゃないよね
全て正解ってわけではないけど、どんな思考の人なのかはすごく参考になる
他者理解・自己理解の手がかりとしてMBTIを用いるので、「信じる」という言葉自体に違和感を覚えちゃう...
「私、MBTI信じてないんだよね」
そんな血液型・星座占いと同等に見ている時点で、基礎を知る前から苦手意識を抱いているようにしか見えない。以前言われたことがあるんだけど、MBTIを信じないって言う斜に構えた自分が好きならまあいいか…って思って終わった。めちゃくちゃ好きな子から言われたのもあり、「あ〜そっか...MBTIの話嫌いなタイプか...」ってしょんぼりした記憶
でもこれ以上説得しても彼女自身が信じない!と決めたのであればきっと不快にさせるだけだし、こちらも「そっか」で終わらせるのが最適だからな
先輩は私より7個も下の人だった。
初めはなんともなかったんだけど、だんだんとミスが増えてきた。
それは全部初歩的なミスで、材料や温度に関することばかりで違和感を感じた。
そしてそのミスは私がすると起きて、先輩がすると起きない。
「先輩がわざと間違ったルセットを渡してきている」
そう思わざるを得なかった。
その仮定を強めていたのが、料理長が必ずと言って良いほど先輩の味方をして、私の話は聞かず否定しかしなかったことだった。
私と同じ時期に入った子も同じような扱いを受けていた。
今まですることがなかったミスが増え、それを頭から否定される環境で働いて、さらにミスが増えた。
同期から聞いたのは、
・料理長や例の先輩たちが結託して嘘のルセットを教えていた。
・その調査で今までやってきた陰湿ないじめのようなものが発覚していった
・加害した人たちは処罰を受けて異動した
ということだった。
どうしようもない大人たちが集まって、人を貶めていたという事実が悲しかった。
何よりもこんな人たちに負けたことが辛かった。
同期も新卒もその職場を辞めると言っていたし、もともと少人数の職場はもうやっていけないんじゃないかな。
料理長たちと面談をしたけど、上の人の前でも私のことをずっと否定していた。
うちだったら
「ごめんね、楽しみにしてたのにね」
「何言ってんの、元気になってよかった」
ってやりとりは確実にあるので、
妻がひと言謝った様子もなく
「誰のせいでもない」「偉い」みたいなブコメがちらほらあるのに違和感
誰のせいでもないのはわかりきってるが
それでもひと声あることで納得感が違う
元増です
それは絶対に違うでしょ。ふつーの出会いなら相手のスペックに限らず素敵だなーと素直に思える。
てかスペックって言葉が嫌い。年収のこと?それなら旦那より私が上なんだけど…
相手より優れてる優れてない、じゃなくて、出会いの場をアプリに求めることが違和感がある、それってみんな感じないの?って聞きたかっただけだよ
元増です
それは絶対に違うでしょ。ふつーの出会いなら相手のスペックに限らず素敵だなーと素直に思える。
てかスペックって言葉が嫌い。年収のこと?それなら旦那より私が上なんだけど…
相手より優れてる優れてない、じゃなくて、出会いの場をアプリに求めることが違和感がある、それってみんな感じないの?って聞きたかっただけだよ
群 = 対称性って物理畑だとよく言うけど違和感あるんだよな。
運動方程式とか結晶構造とか波動関数とかが群作用に対して対称性を持っていたらそれは対称性の話だけど、群自体は別に対称性とは関係なく存在するもんじゃねえの?って思う。
百歩譲って結晶点群とかの本来的に対称性から発生している群の話だったらわかるけど、Lie群は連続群であって広がった空間そのものみたいなもんじゃん。
そうそれ。それよ。
それを飲み込まなかった奴が悪い事にする類いのやつよ
いろんな文化があるけど、これだけはどうしても生理的に受け付けない。
曲調とかはわりと好きだったのにどうしても好きになれない、違和感を感じてたのが
今回のことでようやくわかったわ。生理的に受け付けない。
これはですね。秘されるべき体を僕の前では見せているという状況が、その特別感が、エロさを上げている
完璧なプロポーションは外に出しても恥ずかしくないし、恥ずかしくないものを見ても特別感ないし、なんなら外にそれで出ても違和感ないし
ニコニコがこのままサ終したら「弾幕」とかネット映像で横に流れるコメントを使ったアニメや映画を見るたびに「時代を感じる」って感想が書かれるようになるんだな
サイバーパンクというか近未来を舞台にしてんのに横にコメントが流れてたりすると未来のハズなのに折り畳みケータイ使ってるような違和感めいたアトモスフィアに満たされるわけだ
ある日、上長が変わった。
正確には肥大化していた部署をチーム分けして新しく来たリーダーが上司になった。
明るく様々な経験もあり、リーダーシップもあり、交流が広く良い上司だった。
ある日、業務で使っているシステムがおかしいと言われ調査した。
何のことはないただの設定ミスで、その時は「誰か間違えたんでしょうね」で終わった。
調べると設定したのは上司だった。
また別の日、打ち合わせに上司が来ない。
連絡にも応答しない。
取引先を待たせているので電話を鳴らして探し回った。タバコ休憩をしていた。
別の打ち合わせが押していて…と先方に謝り会議に入ると上司からチャットが来た。
ああ謝罪かな、と思うと
「あの件できてるの?」
「これは?まだ?」
何故か突然私の仕事の遅れその他、調整中の内容含めて怒涛の私を責める内容。
正直困惑した。
お前、その前に何か言うことがあるんじゃないの?
こういった違和感が積み重なり、良い点だと思っていた能力やコミニュケーションも
突然他の部署と連携すると言って仕事だけ振り、経緯を全く説明しなかったり
(正直微妙)
その上司が昇進した。
人付き合い上手いし直接関わることなくなるからいいな、と思うと妙な話が耳に入るようになった。
「下の立場の**さん(年配)が伝票持ってったらそのまま挨拶もせずに帰ったんだけど!?」
「人からのお土産人一倍持ってくけど、あの人から何か貰った事ある…?」
全員が黙った。
イエスマンばかり側に配置してること、反論するタイプは評価を下げたり本人に退職意思があると吹聴してること、出社して午後からテレワークとしている日は午後から絶対に連絡がつかない事。
その他にも色々あった。
仕事は極端な話、結果を出していればいいと思う。
次の瞬間には忘れているくらいだった断片的な違和感の全体像が作品内では明確に示されていて、私にとっては悪い意味で相手方の価値観について符丁が合った。
こういうことが向こうでもあったんじゃない?
輝きながら繋がる
というフレーズがあるけど、このようなことがネガティブな方で起こってしまうきっかけがあったんじゃないかな。
単一では断片的で意味をなさないサインが点在してるだけのうちは深く考えなかったものが、相手の行動をネガティブに解釈するスイッチが入ることで悪い一貫性が見えてくることってある。
きっかけは流石に強い違和感を覚えざるを得ないひとつの出来事かもしれないし、アレルギーの発症のように小さな負の蓄積が閾値を超えたのかもしれない。
往々にして相手を美化しがちだった関係で起こるよ。相手の行動をネガティブに考察する発想がない期間が長いとそうなる。気付いたら手遅れの量が一気に来るからね。逆に初めから清濁併せ飲めたら中々起こらない。