はてなキーワード: 認知バイアスとは
負け続けている。
「次負けたら終わり」と言われて結構経っているが、やはり負けている。
負けるたびにファンが減っていき、ずっと定額の小金を落としてきた俺が最大スポンサーになりつつある勢いだ。
応援し始めて、最初の頃は推しが負けるのが耐えられないほど辛かった。
辛すぎて実際の試合を見ず、結果だけを布団にくるまりながら見るという風になっていった。
そして恐る恐る結果を確認すると…
負けている…。
俺は悶絶した。
「やべぇよ…」という空気の中、カラ元気で「次はもう、本当に頑張ります!今から練習します!なので…応援よろしくお願いします!」という言葉がむなしく響く。
うん、そうだよね、次を考えよう!とコメントして定額課金。「〇〇さん、いつも本当にありがとうございます!〇〇さんのために頑張ります!」
うんうん、俺じゃなくていいよ。自分のために頑張ってと思いながらまた布団に入る。
そして来るべき試合。
布団の中で結果を待つ。
今度こそ…と思いながら結果確認→負けている…→頑張ります!→〇〇さん、ありがとうございます!
もしかしたら俺の定額課金が負けのジンクスなのでは?と思い、課金額を変えてみたこともある。
しかし。
負けている…。
こうなれば試合会場に直接行って応援するべきなのでは?と思い、有休をとってチケットを取って飛行機に乗り、いってみたこともある。
しかし。
負けている…。
そしてついに、推しの負けが我が事以上に辛くなり、仕事にも支障が出てきそうになった。
そこでメンタルトレーニングの本を買ったり、体験講座に出てみたりした。
アドラー心理学とか、認知行動療法とか、占い師のところに行くとか。
効果は抜群だった。
「他人と自分を同一化しすぎないこと」を学び、実践を通じて習得した俺は、推しの負けに心は揺るがなくなっていた。
占いはまぁ、毛嫌いする人も多かろうが、占い師というのはある意味で「他者と自分を切り分ける」プロフェッショナルなので、定期的にその切り分けテクニックを盗みに行っていた。
これがカウンセラーだと、自分の担当をとっかえひっかえするのは難しいが、占い師は一回数千年~1万円でいける。かなり勉強になった。お勧めはしないけど。
で、推しと自分の切り分けをなしえた俺は、揺らぐことなく推しの負けを受け入れられるようになった。
メンタルトレーニングの間も推しは負けていたが、推しの負けによる心の動揺度がどんどん減っていくのを実感した。
確実に俺は成長していた。仕事でも、同僚が皆嫌がる厄介な取引先に率先して突入することにより、社内の評価も上がった。
ミスをして手ひどく怒られたときも、俺の心は(あんまり)揺らぐことはなかった。
認知行動療法に確かな手ごたえを感じた。
最近では社内のメンタルトレーニングの講師を始めている。そろそろ何らかのメンタル関係の資格も取ろうと思っている。
話は大幅に逸れたが、そんな中でも推しは負けている。
しかし心は微動だにせず、落ち着いて定額課金して、トレーニングで培った圧倒的に暖かいサポートの言葉をコメントできるようになった。
推しもいつも以上に喜んでくれた。
しかし、負けている。
まぁ、別に負けることはそれほど問題じゃない。推しは負けているとはいえ、一般人からすると雲の上の存在だ。実力は凄い。
なにより、俺が推しを応援する理由は強いかどうかではない。勝っているから応援しているわけではないのだ。
人柄とか、話の面白さとか…。
まぁこれ、普通に自分に認知バイアスかかってて「長く応援しているからそれを続けてるだけ」なんだろうけどな。
別に俺が課金をやめたからって推しはそんな気にしないのではないかと思い始めた。
それは当たり前のことかもしれない。
いや、これだめだな。
やめよう。
本当は、「負け続ける推しを応援する情熱を持ち続けるコツは何か?」と聞こうと思ったんだけど、解決してしまった。
アカウントも引き上げるか。
よし終わった。
でも、あれだけ負けてるのに頑張れるってすごいよなぁ。
むしろあの推しこそがメンタルセミナーやるべきなんじゃないかと思うくらいだ。
めっちゃ通う自信あるな俺。
まぁそれはないだろうけど、試合、がんばってほしい。
「マーフィーの法則ね」
タイナイが言うには、マーフィーの法則というのは“推測可能なことは起こりうる”って前提に基づいている。
そこから失敗の可能性を掘り下げ、ひいては日常で起こりうる不幸や不運について解析するのが、この法則ってことらしい。
例えば、置き傘をしていない時に雨が降るだとか、ニキビは一番カッコ悪いところにできる、なんてのもそうだ。
「うん、マーフィーの法則だね。僕の場合だと、深夜に書いてしまったブログ記事ほどバズりやすいかな」
しかし、挙げられた例の多くは法則というには大袈裟で、言ってしまえば“あるあるネタ”のようなものだった。
どちらかというと、認知バイアスに基づいた経験則といった方が正しい。
「うーん、こんなものを法則っていうのは、少々おこがましくないか?」
「けどマスダの言っていたことも、ほとんど似たようなもんだよ」
確かに、今日の俺の出来事で、いくつかは当てはまるものもあるだろう。
だが、それだけだ。
現時点では、俺の体験には「マーフィーの法則」っていう如何にもな呼称があり、それを知ったに過ぎない。
あの馬面教師のありがたい言葉から拝借するなら、「学んでなくても出来ること」ってやつだ。
計算式を学び、解き方を勉強しなければ答えは導き出せないんだ。
それでも俺は、この法則に自分の求める“何か”が隠されていると感じていた。
その“何か”は、かかっている靄を晴らすには頼りなく、あってもなくても変わらないかもしれない。
精々、ペンライト程度の頼りない光だ。
だが、そんなものでも、目的地の道しるべくらいは見えるだろう。
そんな予感があったんだ。
言葉をオウムのように繰り返しながら、自分の中で咀嚼していく。
そして、ふと違和感の在り処に“あたり”をつけた。
それはマーフィーの法則そのものではなく「法則」という一部分だった。
その糸を手繰り寄せられるかは疑問だったが。
「うーん……やるだけ、やってみるか」
俺は緩く決心した。
「ねえ、結局マスダは何に悩んでいたの?」
「その答えは、これから、だ」
「え、どういうこと」
身バレ覚悟で書いてます。昔、親がネトウヨになっててヤバいみたいな記事を読んだのですが、その逆みたいなやつです。
元々両親ともに政治に関心が高く、幼少期はサンデーモーニングを見るためにチャンネル権を奪われ、プリキュアが見れなかった。まあ、政治の話するのは自由だし(プリキュアが見れないのは嫌だけど)いっかとは思っていた。幼〜高とスクスク育っていった私だったが、小学校高学年の時に「インターネット」に出会った。当時の私はインターネットの情報をすぐ鵜呑みにしてしまい、掲示板に溢れる陰謀論のようなものもすぐ信じてしまい、親に話してしまった。(今となっては黒歴史である)その度に親は「インターネットの情報は嘘が多いんだから、気をつけなさい!」と言っていた。
数年が経ち、私はTwitterを始めた。最初は使い方がわからなかったが、今では慣れ、オタクトークを楽しくやっている。そんなある日の事だった。両親がFacebookを始めた。
まあ、両親共に趣味がある人だったのでそういう趣味のことを話すためなんだろうなと思った。数日後に父親が「面白い動画があるよ!」とタブレットを見せてきた。犬とか猫の動画なのかなと期待して覗いた。
……そこには文字だけがゴテゴテと載った陰謀論を流し続ける動画があった。
「本当に首相そのものだよな〜」父は笑いながら見せた。そうだね、と私はちょっと引き気味に同調した。
まあ、その時からそういう傾向はあったのかもしれない。
話は変わるのだが、私は幼少期から「人の悪口」を聞くのがメチャクチャに苦手だ。たとえ嫌いな人だったり、悪人だとしてもその人の預かりしれぬ所で悪口を言うという行為がなんというかとても卑怯に思え、すごく嫌な気持ちになるのだ。
文字だけの動画を見た時、私が「嫌だな〜」と思ったのは、こういう事なのだろう。
数年後、私は家を出て働きはじめた。そしてこの2~3年前くらいになってから、勤務先が近いとの理由で実家に住むことにした。実家に帰ると、親がTBSのラジオにどっぷり浸かっていた。朝から晩までラジオによる政治の愚痴を聞かされ、部屋に籠ったり出かけることが増えた。食卓でも政治の愚痴や政治家の悪口を聞かされた。同調しないと、納得するまで反論された。
正直しんどかった。いや、全てが全て逆の考えを持ってるとかそういう訳じゃないけどあいちトリエンナーレの件では「一方の政治的な主張ばかりするのはどうなの?」と言ったら、同意するまで「今までの安倍政権が…」「歴史的なものを無視するな」と言われた。福祉とかそういうのに関してはわりかしまあそうだよな…という気がしたけど、めちゃくちゃな事を言うこともあったので話を逸らしたり同意をしながら過ごした。
また、両親が特にキレていたのが「NHKはアベのことばかり報道する」と言う点だった。いや、完全にお前の認知バイアスだろ……と思っていたが、そうだねと同意するしか無かった。
そのうちに母親がTwitterを始めた。「政治の情報収集をするから」との事だった。いわゆるROM専とのことだし、スマホ関係に疎い母親のことだからオタクアカウント(下ネタとかBLのことしか呟いていない)が見つかることはないだろう、と思ったが怖かったので、こっそり盗み見してアカウントを特定した。初期アイコンかつ初期idの母親のアカウントは、ネット論客や偏った報道で有名なメディアが。いいね欄にはツッコミどころ満載のアベアンチの漫画があった。
親の気持ちはわかるし、今の政府に不安な気持ちも分かる。森友問題とか説明しろよと思うしね。だからといって、コロナの件で経済も医療も回すのわりと無理ゲーなのに、四六時中ずっとそういう話を聞いて共感して同調して不満をぶくぶくと膨れ上がらせている人にもなりたくない。というか、不満ぶくぶくクリーチャーに親がなってしまっているのがとてもしんどい。
これをもし親がみているなら、インターネットや政治的な考えと少し距離を取って欲しい。まず、穏やかな気持ちになって欲しい。あなたが不満に飲まれる必要は無いんだ。
正常性バイアス(せいじょうせいバイアス、英: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で[1][信頼性要検証]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい[2]、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる[3][2][4]。「正常化の偏見」[5]、「恒常性バイアス」とも言う。
Twitterの検索って結構ガバガバで、全然目当てではないものが引っかかることも多い。
だから先日検索していたら、全然違う話が引っかかってしまった。
「私は自分の絵に自信があるので納得いきません!公式はもっと実力で選んで欲しいです。」
すごい、いったいどんな素晴らしい絵を描く方なんだろうか!!と検索したかったことも忘れてメディア欄に飛んでみると、
いかにも「クラスの絵の上手い女子」概念を固めて作ったような、人型には見えるがへろへろの絵がそこに並んでいた。
どうやら氏は、公式で開催されたイラストコンテスト?に落選してしまったが、自分より画力が低いと思った人は選ばれていてご立腹という事だったようだ。
このパターンは「客観的に見れてないだけで実際には自分の方が画力が低かった」か「向こうが画力以外の付加価値を多く持っていた」のどちらかだ。
ただ一つ言えることは、公式が実力で選んだとしても、その……。
たぶんこの人は実際に未成年というか、現役「クラスの絵の上手い子」なんだろうなと推測できた。
しかし大人でもこういう人は多い気がする。それを裏付けるのがお気持ち長文に代表される、何かにぷんすこしてるオタクたちの存在だ。
この手の、自分が思ったより評価されなかったことに対する不満。
今朝ちょうど相互フォロワーが、昨日描いた絵が頑張ったのに全然評価されないことを嘆いていた。
前提としてこの人はそもそも字書きであって、絵は正直大して上手くない。神絵師がうじゃうじゃいるネットだと下手の部類ですらある。
しかもその絵で描かれているキャラクターも一次創作。そう、伸びる要素がどこにもないのである。
「絵が伸びる」にはいくつかの要素がある。
本人の需要。誰が描いているか。ネームバリューがありフォロワーの多い神絵師であればあるほどよい。
キャラの需要。誰を描いているか。話題性があるキャラクターの方がよい。
美しさの需要。どれぐらい上手く描いているか。画力は高ければ高い方がいい。
今回この相互フォロワーはどれも満たしていない。つまりどう考えても伸びるはずがないのである。
にも関わらず、この人は自分の絵が何故か伸びそうであると、「頑張った」だけを根拠に期待してしまった。
インターネットにおいて、凄いものは評価されるが、逆に言うと残酷にも凄くないものは一切評価されない。
そして勘違いしてはいけないのがここでいう「凄い」とは技術力の問題ではない。
例えばPartyParrot系MAD動画とか、めちゃくちゃ伸びているが技術力の観点で言ったら誰でも作れそうなものばかりだ。
では何が「凄い」のかというと流行に素早く乗った所だ。瞬発力というか。トレンドをおさえる力というか。
ダニング=クルーガー効果(ダニング=クルーガーこうか、英: Dunning–Kruger effect)とは、能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、実際よりも高い評価を行ってしまう優越の錯覚(英語版)を生み出す認知バイアス。この現象は、人間が自分自身の不適格性を認識すること(メタ認知)ができないことによって生じる[1]。
ダニング=クルーガー効果とは、能力や成績が低い人ほど自らのそれに対して過大評価を行い、自信にあふれるという認知バイアスのこと。自身の能力の客観的な認識、メタ認知ができないことによって生じる。一方、能力や成績が高い人ほど自らのレベルを低く評価するようになる。
能力や成績が低い人は自身の能力の客観的な認識ができず、また他人の能力も正しく測ることができない。ただし、自分の能力を自覚し、短所を改め長所を伸ばすといった取り組みを重ねることで、その認知バイアスから逃れることができるとされる。
能力の低い人は、ただ何かをする能力が低いというだけでなく、自分の能力の程度を
把握する能力も低いのです。このため、仕事のできない人ほど自分の仕事に自信を持っているようにみえるという不思議な現象が起きてしまうのです。物事を理解する能力の低さが自己認知も妨げるため、自分の能力が低いという事実にも気づかないのです。また、このような人は努力を怠ってしまうため、仕事でも何でも成長が止まってしまい、自己と周囲との評価にさらなるギャップが生じます。
おれは対価システム側の人間なので、増田の考察はかなり参考になる。増田自身もかなりの苦労を乗り越えて今の見地に到達したのだろう。
だがしかし、あえて些末な部分にツッコミをいれさせていただくが、世界公平仮説という言葉をこういう話に使うな!!
世界公平仮説というのものは、「努力は報われるとは限らない」とか「ひどい目に遭っているのは努力していないからだ」とか、そういう次元の話ではない。
世界公平仮説とは、精神がやばい側がかかるバイアスではなくて、健常な人間側がかかるバイアスなんだよ。
健常な人間は貧困な人間に対し「お前が貧困なのは努力してこなかったからだ。おれが豊かなのは努力してきたからだ」というような話をよくする。
しかし、そいつの努力が実を結んだのは、そいつの身体や環境が恵まれていたからで、そういう恵まれた状態であれば努力すればおおよそ報われる。そして努力が報われるという経験を得たものは貧困な者を見て「お前が貧困なのは努力してこなかったからだ」と言うのだ。
恵まれているものは、自分が恵まれていたことに気づけない。貧困な人間がどういう状況で戦っているのかを知らない。世界は公平だと思っている。
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
先日こちらのお気持ち文を投下したところ、想像以上の反響があった。私も主にツイッターで感想などを眺めていたのだが、感想をつぶやいてくれた人のうち7割ほどが七瀬サイド、2割ほどがおパ島綾城サイド、残り一割はどちらにも属さないという比率であった。
追記や補足で、七瀬サイドが対価システムに走る理由や、それらが巻き起こす事故についてざっくりと説明をしたが、やや説明不足なところがあったため、あらためて対価システムの成り立ちと、巻き起こった事故などについて書かせていただく。
なお、今回の文章は漫画への関連性が薄く、私の実体験や周囲で観測した事故の話を多分に含んでいるため、人によってはトラウマの想起を招いたり、公平性に欠けるところも多々見受けられると思う。不快に思われたら、体調を崩す前にブラウザバックしていただきたい。
心理学に、マズローの欲求5段解説というものがある。下から順に、生理的欲求、安全の欲求、社会的(愛の)欲求、承認欲求、自己実現の欲求とヒエラルキー型に並び、一つの欲求が満たされると、もう一つ上にある欲求を満たしたいという気持ちが湧いてくるようになる、というものだ(詳しくはググってほしい)。
対価システムにとらわれるコミュ障は、多くがこの社会的(愛の)欲求か、承認欲求に大きくかかわる、ネガティブな経験(いじめ、孤立、暴言、虐待など)がある。要因はコミュ力の低さや容姿、機能不全家庭(いわゆる毒親)や身体的欠落によるハンデなどさまざまだが、とにかく、これらが幼少期に満たされていないと、自己肯定感を持てなかったり、不安障害を発症したりと、成長後の人格成型に大きな傷跡を残すこととなる。
自己肯定感のなさやコミュニケーション能力の欠落はストレスを加速させ、やがて他者の言葉や行為の意味を悪意的にとらえたり、常に攻撃的な態度をとるなどして”周囲に期待をしない”ことで、自分を守ろうとする。これは努力や性格の問題というよりは、本能的な防衛反応である。
ストレスに晒され続けると人間の脳は委縮し、判断力や選択肢を失い、やがて自傷か他傷の二択に追い込まれてしまう。自分含め、人を傷つけるのは世間一般的に望ましい行いではないが、酷寒の雪山で身震いを止めることが不可能であるように、”いま”そうでない人であっても、追い詰められればこうなる可能性があるということは、どうかご理解いただきたい。
無条件に愛されるという経験が少ない人間は、「何かメリットを相手に感じさせないと見捨てられる」という不安に取りつかれがちで、かつ自分をとことん下げているので相対的に相手は雲上人となり、相手の”貴重な”時間を無駄にしないため、関心を引くために、有能アピールを始めるようになる。自己顕示欲というよりは、お友達料金に近い。
親切心で行うというよりは、存在しているだけで周囲に迷惑を与えていると考え、その損失を埋めるべく”他の分野で”役に立つことで相殺しようというシステムだ。
しかし埋め合わせが毎回成功するなどは到底あり得ない上に、対価システムを持つようになる人間は社会的能力が低めなため、昼食に誘ってもらえた際に、誘ってくれた相手に報いようと必死で話しすぎて空気を凍らせてしまったり、面倒ごとを引き受けることでいい顔をしようとして、身の丈に合わぬことを一人で背負いこみ、結果周囲に尻拭いをさせてしまったりと、心臓が痛くなるような失敗をしてしまいがちだ。
埋め合わせに失敗したら、さらに必死に償わなければならない気持ちになる。そしてそういう時に限ってますますやらかし、雪だるま式に焦燥感と無力感と、ストレスが膨らんでいく。とてもつらい。
不平等を相手に飲ませていることに抵抗を覚え、距離を取るようになるのは一般的な考えだと思うが、対価システム保持者はニュートラルの自分という存在に、強力なデバフをかけている。生きているだけで常時-10点といった状態だ。向こうからすれば存在しないその10点分を穴埋めしようと、できれば次にミスった時のための貯蓄をしようとやっきになって空回りし、無駄に疲弊して疎遠になるケースもある。
これを相手視点で見ると、やたら労力の成果を見せてきたり、マウントを取ってあわあわした挙句、急に疲れ果てた様子になり、そのうち連絡もしなくなるという、まったく謎の状態である。相手の期待を裏切りたくないという気持ちや、一緒にいるだけで迷惑だから……という卑屈さは、相手には関係ないのだ。
まだそれだけならただの変な人で終われるが、もっと悲惨なケースだと、最初は完全に捧げる気持ちで書いていたのだが、もらってばかりでは悪いからと返礼があり、やがて絵を描く目的が返礼になって相手を疲弊させてしまったり、見返りを求めず書いていたはずが、自分ばかり書いていて不公平だとなぜか不満を抱き、それを相手にぶつけ不快にさせたり……などがある。
当然のことだが、人はそれぞれ価値観や許容量が異なるし、ルールとマナー、モラルはそれぞれ別物である。自他の区別の境界線があいまいだと、「自分は平気だから○○さんも平気だろう」「自分はこれを守っているのだから、向こうも当然守るだろう」と、無自覚で価値観の押し売りをはたらいてしまう可能性がある。コミュニケーションに自信のない人は、よほど普遍的な事例を除いて、基本的にその都度確認か観察する癖をつけたほうがいい。
七瀬の目的は、一貫して「綾城に認められる」であった。話が進むにつれいろいろと拗らせ、ついには諦めてしまうも、最後までそのスタンスがぶれることはなかった。
気さくなリプライを送り、ジャンル外の話題なども提供してくれ、通話して楽しいおパ島と、まったく交流を持ち掛けてこず、静かに有能アピールをしてくるだけの七瀬。楽しい相手と交流したい綾城が後者を選ぶ可能性は、限りなく低い。
「何かしら対価を支払えば、正当な結果が返ってくるものだ」と思い込んでしまう認知バイアスのことを世界公平仮説と言うが、対価システムはこれに限りなく近い。
しかし、実際は努力が必ず報われるという保証はない。どんなに頑張っても認めてもらえない、ありのままではなお肯定されない状況が続けば、世界を恨むか、オカルトに走るか、すべてを諦めるようになってしまう。頼むから、こうなる前に七瀬はカウンセリングに行ってほしい。
私は心理学の権威でもカウンセラーでもないのだが、私の言葉が、少しでも自己分析の助けになり、気持ちを整理するきっかけになれたなら、この上ない喜びだ。
それと、自己肯定感が著しく低い人には、どうか自分を、ほんの少しでいいので肯定してほしい。全肯定ではなくていい。なにかひとつだけ、人より優れてなくていいから、好きになれる個性を見つけてほしい。箸の持ち方でもお礼をちゃんということでも、声でも足でも字でも、なんでもいい。ひとつあるだけで、少しずつでも自己肯定感をはぐくんでいけるから。
■対価システム人間の面倒くささと負の公平仮説(おけけパワー中島)
https://anond.hatelabo.jp/20200705112649
公平仮説についての補足と、個人的にとった解決手段を他山の石にしてもらうべくしたためた。今回と同様に、科学的な根拠などはほぼないことをご容赦願いたい。