はてなキーワード: 殺人者とは
◯◯◯13です。
さて、これは模範解答なのかどうかはさておき、私ならどうするかという視点でアドバイスいたします。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf
麻原彰晃は以下のように説法している。
例えば,Aさんという人がいて,Aさんは生まれて功徳を積んでいたが慢が生じてきて,この後悪業を積み,寿命尽きるころには地獄に堕ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうという条件があったとしましょう。
このAさんを,成就者が殺したら,Aさんは天界へ生まれ変わる。
(中略)
ここで,例えば生命を絶たせた方がいいんだと考え,ポアさせた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは殺生です。しかし,ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば,これは立派なポアです。
そして,智慧ある人─ここで大切なのは智慧なんだよ。─智慧ある人がこの現象を見るならば,この殺された人,殺した人,共に利益を得たと見ます。
例えば,日本赤十字がいて,日本赤十字がキャンペーン周知のために掲出した宇崎ちゃんポスターは過度に性的であるため、不快さを与えたり女性への抑圧を強化したりするだろうという条件があったとしましょう。
この宇崎ちゃんポスターの掲出を,フェミニストがとりやめさせたら,日本赤十字は問題なくなる。
(中略)
ここで,掲出をやめせた方がいいんだと考え,クレームをつけた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは表現規制の要求です。しかし,フェミニズムの考え方が背景にあるならば,これは立派な社会運動です。
そして,フェミニズムを理解している人─ここで大切なのはフェミニズムへの理解なんだよ。─フェミニズムを理解している人がこの現象を見るならば,日本赤十字,フェミニスト,共に利益を得たと見ます。
面白いポイントは、オウム真理教は「魂は存在しその魂に悪業がたまり地獄へ落ちる」と信じ込んでいるため上のような論理展開ができるのであるのに対し、フェミニストは「宇崎ちゃんポスターは女性への抑圧を強化するほど性的である」と信じ込んでいるためできるという点にある。そこには、オウムの根拠同様客観的な証拠など何もないのだ。また、フェミニズムへの理解が足りないとして切り捨てるような言動が観測される(茜さやに対する態度など)のも面白い。
新興宗教にはしばしば「教祖は神の生まれ変わりなので特別な待遇が許される」などの教義が存在するが、生まれによって権利が許される、もしくは許されないというのは現代的な思想からすれば立派な差別で、つまり教義の中に差別が含まれてしまっている状態である。そして、その神の生まれ変わりである教祖があいつはポアしたほうがいいと言えばポアされてしまうのである。そのような差別を含む教義の中で肯定的に殺人が行われるのがオウム真理教であった。
それに対しフェミニズムは一般的に女性を抑圧から解放するために存在するが、それは即ち女性が抑圧されているという差別の存在を肯定しないと、存在意義がなくなってしまうということだ。そして、どのような状態になれば女性が抑圧から解放されたのか、差別が解消されたのかという定義がなされない以上、どのような物事に対しても女性が抑圧を感じればそれを根拠にして際限なく、線引きも自由にフェミニズム的な社会運動ができてしまうということである。そしてそのような思想は「私は特別扱いされるべきだ」というようなナルシズムと親和性が非常に高い。誰でも教祖になれるのである。
横だけど魂の「殺人者」ね
東京都目黒区で、ガリガリに痩せ細らされた5歳の女の子が朝早くから「もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と反省ノートを書かされて死んだのを知った時、子供を育ててるお前らはその子のために泣いたんじゃなかったの?
千葉県の野田市で、父親に日常的に殴られながらも必死で学校に助けを求めた10歳の女の子が、おどしをかけられて引き下がった学校や児童相談所に裏切られて、1月の寒い日に冷水のシャワーを浴びせられながら凍え死んだのを知った時、子供を育ててるお前らはその子のために泣いたんじゃなかったの?
そうやって子供を殺した虐待殺人犯どもが、いつも逮捕されたあと何と言い訳するかわからないの?
一度は学校や児童相談所によって子供から引き離された経歴のある虐待殺人犯どもが、どうしてその子を連れ戻せるのかわからないの?
「手をあげたのは悪かったが、全然しつけられていなかった結愛をここまでしつけたのは自分だ」
「娘がおねしょをしたので、生活態度についてしつけをした」「しつけのつもりで、悪いとは思っていない」
これは体罰だ。
必要な躾だ。
自分は子供を愛している。ちゃんとした子になって欲しい一心なんだ。
私たちは連中が使うその言葉に抗うすべを持たなかったから、2人の子供をみすみす殺人者の前に差し出す愚を犯してしまった。
言えたらよかったんだ。
「どんな理由があろうが、程度の重い軽いを問わず、あなたがやってきたことは虐待です。お子さんを会わせることは絶対にできません」と。
そう言えたら目黒区の女の子と野田市の女の子は死なずに済んだんだ。
どうせお前らは歩きスマホが禁止されようと、お構い無しでスマホを見てうつむいたままそこらを歩き回ってるじゃないか。
傘さし自転車が禁止されようと、お構い無しで片手を傘で塞いだまま自転車を乗り回しているじゃないか。
だったら同じように、体罰が禁止されようがお構い無しで自分の子供を叩いて躾けてりゃいいじゃないか。それしか方法がないって言うんなら別にそれでいいよ。勝手にしろよ。
わざわざ道路飛び出したガキをひっぱたいてる親を通報してしょっぴかせるほど暇な人間もそれの相手するほど暇な警察もいねえよ。ただでさえ児童相談所パンパンなんだから。
自分は今だに思い出すんだよ。ああ冬が来たなって。
この手を洗うのも嫌になるほどクソ寒い中で、氷みたいな冷たい水のシャワーを浴びせられて寒い苦しいって思いながら死んでった女の子が居たんだなって。
育児が大変なのわかるよ。自分もやってるよ。4歳の子供たった1人ぽっち育てるのだってうんざりする我慢の繰り返しだ。
でも人の親だってなら、自分の子供だけじゃなくて、今もどこかでそういう目に遭わされてる子供のためにちょっと辛抱するくらいしてやったっていいだろ。
聞き分けのない子供に耐えかねてパチンとやる時に「やりようがなくて叩いちゃってるけど本当はいけないことなんだよな」とほんの少し後ろめたさを抱えることすら嫌なのかよ。
だったらせめて人殺しの顔をしてくれよ。
私は親であり人殺しです。いっぱいいっぱいの私の育児が余計苦しくなるくらいなら、よその子が死んでもどうでもいいですって。
そんで時々でいいから思い出してくれよ。
あの法律は体罰をするあんたを罰するためじゃなく、あんたの家じゃない、今も酷い目に遭ってるどこかの子を二度と殺させないためのものなんだって。
殺人者を養護することが心の余裕?
「名探偵コナン」を読むのやめた。数年前の話だ。
https://anond.hatelabo.jp/20191120185410
↑この増田とそれについたコメントを見ていたら色々思い出したので、今さらその理由について語ろうと思う。
なぜ読むのをやめたのか、一言で説明すると「主人公が遺体損壊をしたから」。漫画だから別に良くない。目くじら立てすぎ。漫画と現実を混同するなよ。分かってる分かってる。長くなりそうだけど、まぁ聞いて欲しい。
まず、コナンの行った遺体損壊について軽く説明する。簡単に言うと「自殺したおじさんの遺体を運んで、車ごと燃やした」。なぜかというと、黒の組織に命を狙われていたFBIのおじさんの死亡偽装をするため。
「自殺したおじさん」は、「FBIのおじさん」だということにされたのだ。他ならぬコナンの手によって。コナンは組織の人間に偽装トリックがバレてしまわないように、人相が分からなくなるほどおじさんを真っ黒こげに燃やしたのだ。(一応つけ足しておくがコナンは実行犯ではなく、計画しただけだ。それもどうかと思うけど。)
探偵モノあるあるだと思うんだけど、基本的にコナンは「事件解決のためなら何しても無罪(殺人は除く)」の世界観だ。当然そう明言されているわけではない。ただ、人の家に勝手に入り込んでも、個人情報を漏洩しても、スケボーで道路を爆走しても捕まらない。なぜなら事件解決のためだから。(原作だとほとんどスケボーの出番はないんだけどね。)それは別にいいんだ。漫画だし。話の都合だし。
「じゃあ遺体損壊も同じでは?」…うん、問題はこれなんだよ。まず、コナンには「推理で犯人を追い詰めて、みすみす自殺させちまう探偵は殺人者と変わらねーよ」という思いがある。詳細は省くが、ある犯人が事件解決後に自殺したという回があるのだ。ちなみに焼身自殺。コナンはこの一件を深く反省しており、上記の教訓が生まれたのだ。…え?真っ黒焦げに燃やされたおじさんは?自分が追い込まなければ死んだ後いくら利用してもOKってこと?
「コナンの世界には遺体損壊罪がないんじゃないの?漫画だし。」…あのね、あります。このおじさんトリックが判明した後の回で、普通に遺体損壊犯が捕まるんだよ。(この回の犯人は自殺を殺人に偽装した。流石に黒焦げにはしていない。)しかもいつもの通りコナンが推理して、トリックと犯人が判明して、警察に連れて行かれる。警察の皆さんいつもお疲れ様です。…え?犯人はあなたですとか言ってる場合か?コナン君も同じ事したよね?というかもっと悪質だったよね?ちなみにこの回、例のFBIのおじさん(変装中)も現場に居合わせて、素知らぬ顔して推理している。なんなんだい、あんた達は。
今まで「おかしいものはおかしい」と指摘していたはずの主人公が、いつの間にか罪を犯して、でも「自分は正義だ」という顔して事件を解いている。とっても歪。この遺体損壊の話を聞いて怒ったり責めたりする人は誰1人として物語に出てこないしね。本当はおかしいのに、読者もキャラクターも皆見ないふりをしている。臭い物には蓋。遺体損壊の話は読まなかったふりをして今日も謎解きをするコナン君を見る。
今となっては、興味がある年の映画だけを観て楽しんでいる。
最初に見た他人のレビューが安っぽく狂気狂気と書き立てるものばかりで失望した。アーサーは狂ってなんかいない。むしろ最初から最後まで一貫して、彼には完全な判断力があったし、正気だった。
僕が一番好きだったのはゲーリーを逃がすところだ。この映画のそれ以外の全てと釣り合うほどに素晴らしかった。映画史に残る名シーンだと思う。
家に二人で訪ねてきた元同僚の片方を滅多刺しにして殺し、もう一人も手にかける——、手にかけるだろうと、そう観客は予想する。しかしアーサーは彼の事は見逃した。行っていいと。しかしドアの鍵が閉まっており、小人症で手が届かない彼が、殺人者である当のアーサーに開けてくれと頼む。アーサーは鍵を開けてやり、彼を送り出す。ただ気紛れに見逃したのではなく、ゲーリーのことは本当に殺すつもりがなかったのだと、ここではダメ押しでそう強く明示して見せているのだ。「優しかったのは君だけだ」と額にキスまでして。
なんて涙ぐましいシーンだろうか。アーサーはただ愛が欲しかっただけだ。誰かに愛されたくて仕方がなかったんだろう。愛されればそれに報いることができる正常な人間だった。正常だからこそ、自分に降りかかった世間の悪意に正しく報いて、彼はジョーカーになったのだ。映画的なレトリックでそれを説明し果せている。この直後に初めて、あの紫のスーツの、お馴染みのジョーカーの姿になり、あの階段を下った。晴れ晴れとダンスを踊りながら。しかしゲーリーとのあの別れの直後だけに、どこか空っぽの乾いた悲しみを感じさせる。
「優しかったのは君だけだ。」アーサーはすべて、ちゃんと言葉にして語っていた。正常な知能と判断力の賜物だ。ウェインを訪ねた時も。金が目的だろうと言われ、違う、そうじゃない、欲しいのは温もりとハグなんだと、言葉にしてちゃんと主張してみせている。しかし、返ってきたのは暴力だった。最後にTV番組に出演した時も、司会者に自分の主張を過不足なく説明している。何もない奴を笑いものにし、足蹴にするとどうなるのか見せてやると。そして銃で撃ち抜いた。
作中の事件を伝えるニュースでは、犯行の動機として「格差」があると触れている。これも良く計算されて織り込まれていたと思う。今この時代に、悪役を主人公としたこの映画が作られたことの必然性がここにある。
証券会社の三人組も、チャップリンの映画を見ているシーンでも、金持ちたちは皆、小綺麗な黒のスーツを着ていたのが印象的だった。これは明らかに意図的なものだ。創作作品一般の「悪者は黒色で表される」という不文律を上手く利用して、アーサーの目から見た世界を描いているのだ。彼にとって上流階級とは自分を疎外し苦しめる悪者でしかなかったから。ここに善悪の相対化が、全くの反転がある。「狂っているのは俺か?それとも世界の方か?」という序盤の問いかけは、敢えてこう言い換えてもいいだろう。「冷酷な殺人鬼とは俺の事か? それはあいつらの方じゃないか。」
小綺麗でピカピカな正義のヒーローが、正しい暴力を振るって悪者を懲らしめる。その昔ヒーローものといえばどれもこんな風だった。単純化されたストーリー。分かりやすい善悪。悪者はボコボコにされて言葉を奪われ抗議することもできない。何故ならその暴力は「正しい」のだから当然だ。
みんなヒーローの方に自分を重ねていた。勿論バットマンを見て育った子供たちも。しかし現代ではこの悪者の側に感情移入する人も多いのではないだろうか。やんごとなき上流階級の人々が、政治的に正しい暴力を振るい、庶民を搾取し痛めつける。この社会にそっくりだ。皆自分が殴られる悪者の方なのだとうっすらと自覚している。小汚い貧乏人には抗議する権利もない。何故ならその暴力は「正しい」からだ。“悪者”は黙って殴られていろと、社会システムが無言で言っている。
誰がやりたくて悪者をやるだろうか。誰が好き好んで罪を犯すだろうかと、今になって分かるのだ。あのピカピカの正義の味方に殴られていた「やられ役」は、生きていく中で仕方なくそうせざるを得なかった「弱者」ではなかったか?
僕はその後、更に他人の書いたレビューを読んでみて、やはり憤りを禁じ得なかった。
何も持っていないゆとりの無い人間に対して、それなりに足りてる奴が、安全な場所から、もっとこうすれば良かったとか、小人症の男と仲良くすれば良かったのにとか、あまつさえ大して不幸じゃないとか、上から目線の薄っぺらい正論を、自己責任論を披露する。それは正義の味方が「わるもの」を力一杯ぶん殴る構図そのものではないのか。
この映画に共感せずに済むような人たちは、自分がどれだけ恵まれていたかに気付いてない。絶望的に愛情に飢えていて、精神的なゆとりを根こそぎ奪われた人間が、どれだけ不自由でままならないか。それを知らずに済んだ幸運な人たちだ。「こうすれば良かったのに」だと? それができたらああはなってないだろ。「お前は怠けている」とでも言いたいんだろうか。できるならとっくにやっているのに。
「不幸すぎないから共感を生んだのでは」という意見は、少し違うと思った。少しズレている。正確に言うとこれは「福祉の谷間問題」なのだと思う。歩けなくて車椅子とか、目が見えなくて杖をついてるとか。誰の目にも明らかな障害者なら公的な支援を受けられるし、みんなに助けてもらえる。でも微妙な障害だったら? 見た目が普通で症状が分からない、健常者と同じように扱われるのに、しかし健常者ではない。実際には軽微な障害があり、仕事や日常生活で「現に」困っている。困っているのに、誰も助けてくれない。こういうのを福祉の谷間という。発達障害やチックなんかがそうだ。或いはアーサーみたいな、感情が高ぶると笑ってしまうという障害もまさしくそれだった。周りからはそれが障害だと分からないのだ。本人はとても苦しんでいるのに。そして誤解と偏見に満ちた視線のせいで二重に苦しむ事になる。それはこの映画に「大して不幸じゃないじゃん」と言い放った人たちの正にその視線である。ここに地獄がある。
“有色人種なら贔屓してもらえたのに” 白人だから何もない、自分は現に困っているのに、何の手助けも受けられない、ホワイトトラッシュと呼ばれる人たちも、谷間問題という意味では本質的に同じだった。彼らは事実ジョーカーみたいな政治家を支持した——。ドナルド・トランプだ。この映画はこういう人たちの共感を生んだのだと思う。だから社会現象になったのは必然と言えるし、解釈に分断が起こり、理解できる人とできない人とで真っ二つに分かれてしまったのも、必然だったのだろう。
「動物に優しい人は人にも平和的で友好的な優しい人間になれる」
「だから、平和的で友好な社会を作るために、動物虐待には刑罰を科し、法律で禁止しても構わない」
という点を突き詰めると、こういう論理が見えてくる。
この考え方は今まで当然のように受け入れられていたが、
LGBTや外国人に対する差別が次々に撤廃されていく今の時代の流れでは、
近い内にその『当たり前』も見直さざるを得ないだろうと予測する。
実際問題、動物に優しい人が特別人間に優しいかというとそんなことはないし
現に毎年のように野良猫へのエサやりトラブルで近所の人間を殺す愛猫家の殺人事件が起きている。
逆に、よく言われる「動物虐待は殺人にエスカレートするから規制すべき」という言説も特に根拠がない。
ネット上ではたびたびFBIプロファイラーのロバート・K・レスラー氏が
『殺人者の始まりは、ほぼ動物の殺害や拷問に端を発している』と主張したとされるが、著書を読んでも特にそんな記述は見当たらない。
恐らくフェイクニュースだろう。
以前はLGBTへの偏見が社会で当然のようにはびこっていたのが、
ここ数十年で許されなくなったのと同じように、
https://twitter.com/ncc170116/status/1184592526516375554
「差別だ、入れてやれ」と叫ぶ人は感情論で、入れない理由を挙げる人たちは理性的だという声があるけど、本質的にはどちらも感情論だと思う。
見殺しにするということで、あとでホームレスが死ねば気まずい罪悪感を覚えるだろう
一時的に隣に臭い奴がいるのと、のちのち罪悪感をごまかして生きる気まずさ
どっちがイヤかといえば、死ぬまで続くという点で後者の方がイヤである
自分も区民だか市民だかの一人として数千分の―、数万分の一の責任を追うことになる
つまり自分もホームレスを合法的に死なせた殺人者の一人となるわけだ
そんなの精神的に耐えられないよ
――という"感情論"で、俺はしぶしぶホームレスも助ける方に賛同する
なぜ米国はMITメディアラボ前所長 伊藤穣一氏だけ責めるのかと、日経ビジネス編集部 ニューヨーク支局長 池松 由香氏は書いたけれど、全然そんなことない。リード・ホフマン(LinkedIn創業者)は謝罪するまで責められたし、MIT学長も学内のミーティングなどで批判を受け続けている。
伊藤穣一氏も責められた理由の1つは、マスコミを完全に無視したことにある。学術機関の所長でありながら、科学雑誌サイエンスにすらコメント拒否を貫いた。社外取締役を務めていたニューヨークタイムズは、伊藤穣一氏への告発を握りつぶした。伊藤穣一氏が所長だったときのフードコンピュータの偽装隠蔽、環境汚染隠蔽が報道されても、日経ビジネス シリコンバレー支局長 市嶋 洋平氏が米国は犯罪歴がある人間、特に性犯罪者に対して厳しい社会だが、伊藤氏はそうした人々の更生を、公正かつオープンに進めていきたいという考えを持っていたという。と擁護記事を書いてくれる、強力な人脈は健在だ。ただ、「自分は性犯罪者じゃない。法律に触れただけ。殺人者とベーグル泥棒ぐらい違う」というエプスタインの発言が報道されており、彼に更生する(必要がある)という気持ちはなかった。
この記事では、伊藤穣一氏を擁護するために、次の事実を書き換えている。
かばってくれる人がいるのは、伊藤穣一氏に人徳があることに他ならない。
マスコミに狙われても、ビルゲイツのように無関係だとコメントを出しておけば責められることはなかった。そのコメントが嘘だとばれるまでは。
伊藤穣一氏への告発を握りつぶしたニューヨークタイムズがビルゲイツのコメントが嘘だったと詳細に報道している。
Bill Gates Met With Jeffrey Epstein Many Times, Despite His Past ビルゲイツ、エプスタイン有罪判決後に何度も会う
2011年1月31日 ビルゲイツ、エプスタインの別邸を訪問。後に、エプスタインは「ビルゲイツは素晴らしい」と友人に、ビルゲイツは「エプスタインは魅力的で知的」と称賛。
2011年2-3月 TED2011で2人がプライベートで会話するのを目撃されている。
2011年3月3日 ビルゲイツ、ニューヨークにあるエプスタインの邸宅に訪問。JP モルガン取締役や元アメリカ財務長官ローレンスサマーズも。
2011年 ビルゲイツとJPモルガンは Global Health Investment Fund (GHIF) の設立を準備。エプスタインは、JPモルガンの重要顧客だったコネで、設立の議論に関与。
エプスタインは、ゲイツ財団の資金で基金を設立。ゲイツ財団には秘密で、調達資金から手数料を取って稼いだ。
2011年末 ビルゲイツの指示で、ゲイツ財団はエプスタインの邸宅に慈善事業資金調達のチームを派遣。エプスタイン「少女売春強要はベーグル泥棒より悪くない」
2012年初 別のゲイツ財団のチームがエプスタインの邸宅を訪問。
2013年3月 ビルゲイツはエプスタインのジェット機でニュージャージーからパームビーチへ。
2013年9月 エプスタインとビルゲイツが夕食を共にする。ゲイツ財団と慈善事業について話す。
2014年末 「ビルゲイツに会えない」とエプスタインが友人に愚痴る。
学校で慰安婦問題について習ったJKです。長文お気持ち。モヤモヤしたので文にしただけ。Twitterでトリエンナーレ問題とか、韓国人と日本人の言い争いとか見てて、何でこんなに揉めてるんだろ……と思っていたんだが、習った今でも何でこんなに揉めてるんだろ……と思っている。
相当な時間をかけて、残虐さとか、背景とか詳しく教えられたけど、全く罪悪感を感じなかった。これは性暴力が当然なものだった!って思ってるってことじゃなくて、私が罪悪感を感じないといけない理由がわからないという意味だ。痛ましい、繰り返しちゃいけない、忘れてはいけない歴史の一部だということはわかる。ただそれは私とは無関係の赤の他人が行った残虐行為であり、私に非は1mmもない。自分の家の家系図とか見たことないからわかんないけど、もし貴方の先祖が慰安婦問題に深く関わっていました!って言われても変わらないと思う。同じ日本人だとか、先祖だとか、そんな理由で責められても困るし、罪悪感も湧いてこない。その理屈で言うのなら、日本人も韓国人もアメリカ人も中国人もこの世の人間全て、自分と同じ民族の殺人者の罪を恥じながら生きていかないといけなくなる。同じ民族の人間の罪を恥じるって、それこそ団結意識が強い戦時中とかじゃないと無理なんじゃないだろうか。
それを踏まえて、何でそこまで熱くなってるのかがわからない。慰安婦像そんなに嫌か?別にただの歴史の一部じゃん。責められてるような気待ちになるのかもしれないけど、その気持ち自体抱かなくてよくない?やらかした張本人じゃないんだし、他人事っていうか、TVの殺人事件見てるような感覚にはならないの?殺人事件の被害者の女の子を弔う像が建てられてもなんとも思わないだろうに、慰安婦像がダメな気が分からない。韓国の人たちが熱くなる感覚もわからない。殺人事件も強姦事件もほぼ全部の民族の誰か一人は起こしてるだろうし、戦争でのそんな事件も調べれば他に幾らでもあるのに、何でこれにそんなにこだわるの?同じ民族の女性達が辱められた!ってそんなに怒れる気持ちがまたわからない。日本の原爆でも何万人もの人が亡くなってるけど、それは『けして繰り返してはいけない歴史の一部』で、痛ましく思うし、二度と繰り返しちゃダメだって思うけど、アメリカ最低!死ね!って思うか?って言われたら思わない。仮に家族がアメリカ人に殺されたとしても、アメリカ人を恨む人はなかなかいないだろう。恨まれるのはその殺人鬼だ。
なんて言ったらいいんだろう、アニメの一表現とか衣装とかそんな些細なことでもに慰安婦!ってキレたり日本敵視してくる感覚もそれに対して呆れるでもなく、そんなものなかった!ってキレ返す感覚も理解できない。歴史の一部として収束できないものなの?『こういう痛ましいことがありました、繰り返さないために忘れてはいけません』で終わりにならないんだろうか。そこまで民族に熱くなれないというか、恥じる必要性がわからない。歴史というか民族間の軋轢って本当に難しいものなんだな。もうちょっと勉強してみたいと思った。