パリ五輪と東京五輪のピクトグラム比較→「どっちも国のらしさが出ていて好き」「ピクトグラム本来の使い方を考えると東京が圧倒的」
ブクマカの反応は否定派が多め、少し肯定派もいるという様子だった。
否定派は「毎回変えるとわかりづらい」「ピクトグラムの目的に達していないから駄目」「何の競技だがさっぱりわからない」など。
肯定派は「「紋章モチーフでパリらしさがでている」「オシャレ」「かっこいい」など。
これらを見ていただくとわかるが、コメントの大半はデザインの役割を一元的なものとしてしか捉えてられていない。
もちろん一般的にはその程度の理解でいいのだが、もしこれからもデザインに物申したいのであれば「デザインには2つの役割(と価値)がある」ということを知っておいてほしい。
「機能的な役割」とはつまるところ「わかりやすい」「読みやすい」「使いやすい」といったような、
ユーザーが見たり使ったりする上で適切に機能するデザインになっているかということだ。
近年話題になるアクセシビリティ、ユニバーサルデザインなども機能的な役割といえるだろう。
一方、「情緒的な役割」とは「かっこいい」「かわいい」や「高級感がある」「安っぽい」といったような、
デザインを見たときに感じる様々な印象に対して、ブランドや商材・目的などに応じて適切な印象を与える役割のことだ。
この2つの役割を踏まえると否定派は「機能的な役割」を重視し、肯定派は「情緒的な役割」を重視していることがわかる。
もちろんどちらをより重視するかは人それぞれだし間違いはない。
が、デザインで重要なのはどちらかではなくどちらも併せ持つ、というところなのだ。
まず否定派の意見として「ピクトグラムなんだから伝わるのが正しい、伝わらないピクトグラムは意味がない」というのがある。
これは間違いではないのだが、こと五輪のピクトグラムにおいては歴史的経緯から「情緒的な役割」がより重視される傾向があることは無視できない。
五輪ピクトグラムの発祥が1964年 東京オリンピックであることはご存知だと思うが、
その理由は1964年 東京オリンピックが「初の欧米以外の開催地である」ことに由来する。
それまでのオリンピックは欧米圏での開催だったため言語の壁が比較的薄かったが、
1964年当時の日本では英語のコミュニケーションが現実的ではなかったため、非言語で伝わるマークとして勝見勝を中心にピクトグラムが考案された。
つまり当時は「機能的な役割」を最も重視してつくられたといえる(とはいえ精緻に整えられたデザインは情緒的にも美しい)。
そのピクトグラム作成が毎回の恒例になるにつれてより重視されるようになったのが「この国らしさ」、つまり「情緒的な役割」である。
加えて60年が経ったいま、言語の壁が比較的薄くなってきたことやデジタルメディアの浸透などによって元来の「機能的な役割」はほぼ役割を終えたといってよいだろう。
当時のブコメにいくつか回答してみる。
なんで毎回変えるんだろうな。わかりやすさで言うと、同じのを毎回使って定着させたほうがわかりやすくなると思うんだが。トイレの男女マークみたいに。
ピクトグラム本来の機能的な役割としてはおっしゃる通り。実際に非常口のピクトグラムは国際標準化されている。
五輪ピクトグラムが標準化されなかったのはつまるところエンターテイメント性、すなわち情緒的役割を重視されたということだろう…。
目的を全く達してないから普通に駄目だと思いますが。デザインのゴールが違うってピクトグラムのゴールは明確。勝手にゴールを動かすな。 欧米でユニバーサルデザインが言われるのはそう言わないとこうなるからか?
五輪ピクトグラムのゴールを「機能的な役割」のみと捉えるのは間違い。
どのようなデザインであっても2つの役割を併せ持っており、どちらか一方を完全に無視することはできない。
北京の今の漢字になる前の象形文字っぽい篆書体みたいなピクトグラムやっぱりいいなぁ、と思う。歴史の長さや重みをピクトグラムでも表現できているようで。
「らしさ」を情緒的に表現しつつ、機能的にもある程度のわかりやすさを担保している。
東京五輪のピクトグラムは100点であり0点。ピクトグラムとしては完璧、でも日本らしさがない。そこを「ピクトグラムは日本の文化(1964東京五輪が初)」で押し通した。『ザ・ドラえもんズ』のドラえもんのようなもの。
非常に的を射たコメント。
ただし「日本らしさがない」は人によっては「あれが日本らしさ」と感じる人もいるので、情緒的な評価は人によって判断が分かれる。
情緒的な役割を重視するあまり、機能的な役割を満たせなかった有名な事例。
ちなみにデザイン炎上の8割くらいは機能的な観点で炎上している(ローソンのPBリニューアルなど)。
理由は簡単で、デザインが情緒的に適切かどうかは高度な審美眼が求められる一方、
機能的に適切かどうかは「わかりづらい」の一言で断罪できるからだ。
それが駄目というわけじゃないが、情緒的にはどうかという視点も持っておくとデザインをジャッジする視点が拡がる。
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