はてなキーワード: 対峙とは
クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。
恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっとしたクレームに対して大きすぎる反応を返すこともまた、同じぐらいに間違っている。クレームを恐れることは大切だけれど、必要な大きさだけ正しく恐れて、恐れた大きさに見合った対処を行わなくてはいけない。
同じ不快の表明であっても、それが技術者の人格や、現場の対応に対する不快なのか、あるいは技術者の技量や開発方針に対する不快なのかで、対応は異なってくる。
技術者の人格や対応に対する不快が表明された場合には、まずはその不快に対して謝意を表明しないといけない。不快に対して最小限の妥協を遅滞なく行った後、「その状況を維持します」と表明するのが正しい対処になる。不快を突っぱねれば間違いなくトラブルになるし、こうした不快に対して大きく反応しすぎると、今度は開発ができなくなってしまう。
技術者の技量や、開発方針に対する不快が表明された場合には、一切の妥協してはいけない。開発者は常に「ベストを尽くしている」ことが前提であって、ここで妥協を表明することは、開発側が「ベストを尽くしていなかった」と受け止められてしまう。開発側は常にベストを尽くしており、それに対して不快や不安が表明されたのなら、その人と交渉を続けることは間違いなくトラブルに結びつく。開発に対する不快が表明された際には、速やかに他のソリューションを当たってもらうように誘導しなくてはいけない。
進捗の説明や、開発それ自体に関する説明は、丁寧に行わなくてはいけない。進捗自体に関する説明は、それがどれだけ面倒であっても必ず有限で、丁寧に対処すればいつか終わる。際限もなく終わらない可能性にいらだってしまうと、相手を不快にしてしまう。たとえばデスマプロジェクトを5つ受け持てば、炎上の話を5回繰り返すことになるけれど、これは我慢して同じ話を丁寧に繰り返さなくてはいけない。
何らかの譲歩を求めて、「とりあえず不快を表明する」タイプの人は難しい。不満が無くても瑕疵を探索するし、瑕疵を見つければ譲歩を求める。どこに突っ込まれるのか予測できない。譲歩を求める相手に対して心がけることは、一刻も早い「妥協の表明」になる。「特別扱いしろ」という相手に対して、「特別扱いをさせていただきます」と速やかに表明してみせなくてはいけない。ごくわずかだけ下がってみせることで、相手の瑕疵追求の意志が和らぐ。下がりながら応対して、その後また元の場所に戻る。下がり続けてはいけない。追い詰められてしまう。
自分の現場ではやっていない、あるいは不得意な開発について、客先担当さんやマネージャから「この開発手法はできないのですか?」と問われた場合には、「できません」と答えなくてはいけない。「それはよくない手法です」とか、「やってやれないことはありません」といった答えかたは危ない。
やっていないことに詳しい人は少ない。詳しくないことに対して、開発者が「専門家の言葉」としてあやふやな感想を述べてしまうと、言葉が一人歩きをはじめてしまう。もしも何かのトラブルに巻き込まれてしまうと、そうしたあやふやな感想が、「あの開発者はプロダクトを囲い込んで開発工数を奪った」といったトラブルの種になってしまう。
情報工学の範囲を超えた、精神論を強く希望するお客さんと話すときにも、注意すべきことは変わらない。自身がどれだけ情報工学に詳しくても、対峙する精神論がどれだけいい加減なものに見えても、知らないことに対して git push する人間があやふやな感想を述べてしまうと、将来的にトラブルを招く。「自分はそれに対してこう考える」を述べる際には、「これは個人としての感想ですが」のような前置きを入れて、技術者としての立場を明示的に遮断してから「こうだと思います」を表明しなくてはいけない。
相手を怖いと感覚した人間は、相手に「恐ろしさに見合った賢明さ」を期待してしまう。それがトラブルの種を生む。
原因がよく分からないトラブルに対応した担当者は、分からないその状況を、恐ろしいと感じる。「恐ろしいから」バグレポートを上げる決断をためらって、「この問題はマジやばくなったらだれかが見つけてくれるだろう」と、自分以外の人間にある種の賢明さを期待する。結果としてシステムは、「専門家である技術者」から端末を切断されて、書かれたコードを信じて、状態が悪くなるまで通常に稼動してしまう。
口うるさいお客さんのマネージャが視察したときなどは、「あの人と喋るのは、資料がちゃんと揃った後日にしよう」という思いが頭をよぎる。口うるさいマネージャは、同時にたぶん、もっとも大きな不安を抱えた人でもあって、不安に対する対処を怠った結果として、取り返しのつかないトラブルを招くことがある。
技術者が厄介な状況を感覚したそのときに、技術者の感覚はすでにいびつになっている。危ないと感覚したそのときには、だからむしろ危ない何かに近寄る態度で対処を行うと上手くいく。
世の中には自分にとって「どうでもいい話」とそうではない話が存在する。シャフトがアニメ化を手掛けた作品に限って言えば「夏のあらし!」は限りなく前者に近く、「ef」1期は明らかに後者である。僕たちが現実にタイムスリップを経験する可能性というのはほぼ限りなく0であり、0%の先の世界についての言及は全て予想の範疇を出ず、それは絶対に教訓には成り得ない。それは自らの知見を元にして築き上げた予想ではなく、他者の仮定の連続に寄り添った予想であるのだ。efに関しては話自体のモチーフは既に手垢がつくほど使い回されたものであり、新しさという概念からは遠く離れたものである。しかし全く以て新しくない≒中身がない物語についても、哀愁を喚起させる映像、叙情的かつ繊細なバックグラウンド・ミュージックが合わさればそれは十分消費に耐えうるコンテンツになるということをこの作品は身を持って証明しているのだ。それこそがこの作品が持つメッセージ性である。この例に限らず、何らかのメッセージを受け手に届けることができることがそのコンテンツが「どうでもよくはない」ものであることの証明なのだ。
先の定義で考えると、魔法少女まどか☆マギカという作品は間違いなく前者だ。まどかマギカはワルプルギスの夜という「克服しない限り未来が訪れることのない」困難の象徴に対し、何度も挑戦し続けることで打ち勝つことができると定じた。しかし実際現在の日本社会では本当に僕らが克服すべき困難と対峙できるチャンスというのは極僅かに限られていて、その事実の齟齬のせいであの物語が発するメッセージの信憑性が皆無になってしまっている。「君は独りじゃない」と液晶の中から呼びかけられても僕が本質的に孤独であることは何も変らないのだ。虚構を抜け出せないメッセージというものはそれこそ「どうでもいい」ものであり、虚構の上でしか成り立たないメッセージに価値はない。まどかマギカは最終話においてそのメッセージ性を完全に失い、ただの「どうでもいい」フィクションに成り下がったのだ。
小さな嘘をついてしまうのはその過去を自分が自分の中で消化しきれてないときだ。
今日もまた小さく嘘をついて、いろいろと話していることに矛盾が出てきて焦った。
嘘がばれるところだった。
要するに俺がどれだけクズかということをありのまま語ればよかったのだが
嘘が出てそして矛盾が出た。
焦った。
家に帰ったあともなんかモヤモヤが晴れない。
これは語るべきものではなく
だからおれは今がんばれるわけで
これは人に見せて聞かせるものではなくて
このことはまだ話したくなくて
ここが原点となって死ぬほどがんばって
どうしても結果がほしい。
おれはどうしても上りたい。
そこから自分ので中で咀嚼して消化して最後はネタに昇華して自叙伝でも出すか。
最後ふざけてごめん、でもそんなところ。
君が誰なのかは分からないが、人を傷つけているのは自分が相手している人の方からだよ。
というより、
これは只の状況対人論証だろう。
主張する相手が「どういう状況に身を置く人間か」で相手のしている主張が正しいか正しくないかを決め付けるような判断をしてはいけない。
それは誤謬に繋がる。
(信用金庫の営業課の課長だったらしいが、実際に「嫌な上司」だったんじゃないかと思っている。
笑ってしまうが、なんか会社の人から「死ね」という内容のイタズラ電話が掛かってきたり、プライベートでも何かとトラブルメーカーな人だったので……。)
中学生くらいの頃から家を出る時まで、毎日ネチネチネチネチと暴言を吐かれ続けていたことがストレスとなって精神を病んでしまった。
なぜそんなことをされる羽目になったのかと言えば、父親が別の仕事で失敗してしまって自己破産を起こした辺りから始まったことなので、それが原因なんじゃないかと思う。
それで自分をターゲットにして、八つ当たりをするようになったんじゃないかな、と。
本当の所はなにも分からないけどね。
どうであれ自分の感じた事を正直に言えば、辛かったとしか言えない毎日だった。
父親は自分にどれだけネチネチとしつこく嫌味を吐き続けても、それは全て「お前の為だ」とか「お前が悪いから俺はこうしてるんだ。別にしたくてやってる訳じゃねえんだよ。」というようなセリフで全て自分のせいにされてしまっていた。
というか、あの手の人間と対峙したことのある人になら分かると思うけど、ああいうタイプは基本的に「直接的な暴力や暴言」を振るってこない。
だからこそとてもタチが悪い……。やり返される隙を与えるような攻撃はしてこない。
というよりも、そもそも人の話に聞く耳をまったく持ってくれないので、何をどう言っても会話にならない。
とにかく会話がまったく成立しない。何を言っても「自分が正しくてお前が間違ってる」の一辺倒でどうにもならない。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gyakutai/morahara/morahara.htm
まあ、全然うまく説明できていないけど、↑ここに書かれている事には、本当によく思い当たるフシがある。
当時は「親の言うことなんだから自分が悪いに決まっているんだろう」という気がしてならなかったが、今では判断能力も身について父親がしてきたことは暴力だということが分かるようになっている。
そういう経験があるからこそ、「子供の立場を無視した親にとって都合の良すぎる主張」は許せない。
理不尽な目に遭ってきた親もたくさん居るのだろうけど、それと同様に、私のように親から理不尽な目に遭わされて人生を壊されているような人も世の中にはたくさん居るということも頭に入れておいてくれれば、自分のような人間は助かる。
普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか - nanapi Web
真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
他の記事もひと通り読んだので長くなるが思ったことを。
久々に様々な意見が読めて、数年前までのはてなのようで楽しかったから、感謝として。
「わたし、写真が大好きだと思われてるんですが、嫌いですね。撮るのも、撮られるのも」
写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。それでもGoogle+に写真をアップし続けているのは、「就活のため」だ。
大学3年生になり、就職活動を始めたが、「就活でしゃべれることがないんです。好きなこととか、何もなくて。何も好きじゃないし、何もできないから、流行ってることとか、これから“来そう”なことをやろうと。目標に向かって努力した経験や、自己PRが求められた時、なにか印象に残ることが言えたら」。
「恐怖感」という言葉で感じ取り、理解した者もいたことだろうと思う。自分になにもないような気がして焦燥感に焼かれるような時期のことを覚えている者なら。
彼女は賢い女性だ。自己分析も、目標設定の仕方も。早稲田という学歴を手にしたのはなんら不思議なことではないと思う。「意志が弱い」のに「恐怖感」で毎日朝3時50分に起床できる。これだけでも「普通」じゃない。褒められていい。好きでもなく、むしろ嫌いなことのため。けれど、将来に向けて役立つものを作るため。長所で点を稼ぐことでは行けない場所に彼女はいるのだろう。弱点を克服してこそ立つことができる場所に。
そして、就活を目前に控えても彼女はその方法論を用いて不器用に「これから“来そう”なこと」を選んだのかもしれないと感じた。この選択に自尊感情の低さを読み取ったとしても、病的と謗るのはどうだろう?彼女は自分と自分の人生に果敢に向かい合っている。安易に楽を選ぶような人ではないようだ。きっと彼女のいる場所では自分と同程度に出来がいいだけでは評価されないのだろう。だからこその課題解決と弱点克服。お前は何者だ。その問いにも、その答えにもおそらく彼女は気がついている。
彼女は結果を出した。Google+とInstagramということを差し引いても称えられていいのではないだろうか。確かにそれは誰にもできそうな話だ。お手軽で浅薄にも思える。パソコンとiPhoneがあればできる。インターネットは「自分だって」という幻想をもたらすツールだ。ユーザが少ないから、顔が綺麗だったから、学歴があったからということは自分も思った。嗚呼、またカモネギか、と。けれど、そういう一面もあったとしても彼女の努力は称えられていい。それがどんなやり方であろうとも自らに欠けているものを獲得しようとしている者の痛ましい努力を。壊れたiPhoneに感じるものはないだろうか?もしかしたら、壊れていたのは彼女だったのかもしれないとさえ自分には思えた。
事実、元記事にはこうも書いてある。
「1日1枚はInstagramに上げないと、というノルマに対する恐怖感で起きています。写真を1枚逃したら、私は何もない元の自分に戻っちゃう」
何もないわけがない。そんなに綺麗じゃないか。そんなに有名な大学にいるじゃないか。Google+で一位じゃないか。
ここで大事なのは“彼女にとって”は「何もない」ということだ。Google+を取ったら、彼女のいる環境では普通(以下含め)に埋没する。その恐怖感たるや如何ばかりだろうと考える。自分は自分だろなどと励まされても、“彼女には”そうじゃない。それに「何も好きじゃないし、何もできない」ということは本当に苦しいことだ。それだけ頭が良ければなんて言ってはいけない。彼女以外の者が自分のいる場所から考え言葉を発するのなら、彼女だってそうしていい。なによりも、なにもないという自分との対峙は大学生らしくまっとうな悩みではないだろうか?むしろそこに一度撓んで伸びようとする魂を感じはしないだろうか?
なにもない自分と向かい合うのは力のいる作業だ。彼女はいま奈落と向き合っているところなのかもしれない。それはこれからも時間をかけてやっていくことになる作業だろう。途中で転職や結婚や出産という転機にだって出会うことだろう。そしてそのたび自問自答しつつ、誠実にひとつずつ向き合っていくように感じた。そう信じたい。
「気持ち悪い」と思っていた一眼レフカメラも、最近は欲しくなってきた。「iPhoneのカメラには限界がある。誰かに伝えたいと思うような美しい景色が思うように撮れない時は、ちゃんといいカメラで撮りたいなと」
「気持ち悪いと思っていた一眼レフカメラ」「誰かに伝えたいと思うような」この言葉も印象的だ。
関心や興味は良いものとされがちだが、あまりに強い関心というものは異様に映る。強すぎる情熱を持って自分には興味のないことを続けている者を見かけたとき、つい引いてしまったことはないだろうか。それに、物事への関心が薄い者はネットでは目立たない。彼や彼女の発する情報はあまり役に立たないからだ。そもそもネットに現れないことの方が多いのだろう。語ることがないから。伝えたいことがないから。なぜそんなことをする必要があるのかわからない。ネットと接してきた時間が長い者と彼女のような伝えることのないタイプは互いに異形の者。でも、彼女はネットを選んだ。
何かを伝えたいと思うようなことがなかった女子大生がインターネットで「伝えたい」方向に気持ちが動いた。この先「やっぱりカメラは気持ち悪い」と思うことになっても、ここに自発性や意欲の萌芽を読み取ることはできないだろうか?
彼女は「好き」を獲得し忘れてしまったのか、どこかに置き忘れてしまったのだろう。だからこそ傾向と対策を練り、「型」の反復から入って習得しなければならなかった。そして、恐ろしいまでの勤勉さで、本来は好きというだけで心理的報酬が発生する行為を、他者からの称賛という報酬で自分の中に意欲として還元し定着させつつある。このことがいつか他者からの称賛という報酬がなくても行為自体が報酬をもたらすようなものとして彼女の中に育っていくといいと願う。考えてみて欲しい。多くのひとはもう記憶もないような幼い頃に獲得したか、考えずとも手にしているものを彼女は二十歳を超えてから獲得しようとしているのだ。野暮なことは言わず、讃え見守りたいと思う。もしよかったらあなたもボタンを押し、気が向けばなにかコメントするだけの簡単なお仕事をしてみてはどうだろうか。翼を広げ飛翔する彼女を目にすることができるかもしれない。それはインターネットから翔び立つことかもしれないけれど。
岡田有花という方を自分はよく知らない。しかし、この取材はきっと彼女も困ったのではないかと感じた。岡田氏は「写真大好き」な女子大生と出会うはずではなかったのだろうか?意外な言葉に戸惑ったのは彼女も同じだったのではないか?確かに記事の内容はありがち。わかりやすい良い話にしたかったのだろう。しかし、穿った見方をすればこの方は自分がネットで付与された(と思しき)物語を坂口さんにも着せようとしているような気がしてならない。「普通の女子大生」なんて表現は彼女が京大でなければ出て来なかった言葉ではないのか。また、彼女は一度自らに問うてみるといいと思う。自分が向けられた男性からの視点を内面化していないかどうかを。こうすればネットでは受ける視点が男性目線からのものであるのなら、あざといパッケージは文章を安くする。
そしてこのありがちな文章に対してのカウンターである『普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。』があまりに凄すぎた。素晴らしすぎた。誰もが薄々感づいていて言葉にしなかったことを暴いてしまった。それぞれの方がそれぞれの部分に喝采を贈ったのであろうが、自分は次の部分だった。
3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。
すべてとは言わないがそう思う。自分にとってこの「美しさ」に儚さや弱さも含みたい。多分、ある種の脆弱さという美しさを持った彼や彼女たちはインターネットからも弾かれる。長くネットに表現を置くことができる者は強者であると言ってもいいと自分は思う。
だから思い出して欲しい。「ワンチャンあるかも」ということがどれだけ美しい者たちを潰してきたかを。
女性に「クン」とつける中高年男性向け雑誌のように「タン」などと語尾につけてキャラ化し、持ち上げるだけ持ち上げてコンテンツとして消費し、そして次の対象へと関心を移す。そのとき、賢く、美しく、センスのあり、慎ましやかな者を選んでいたのは他ならぬ「ワンチャンあるかも」という者ではなかったのだろうか?そういう者たちが結局美しい者を淘汰していってしまう。残るのはマシュマロの中に鉛が入ったような女性だけである。「私の名ならば女。それ以上でも以下でもない」と賢い女なら気づく。そして鎧を身につけるか、鉛を飲むか、逃げるかしていく。また、当然の如く逆もある。どちらかだけが捕食者とは限らない。女というだけで入れ喰いならフォトショ覚えるくらい安いものだ。これを楽しめるのもまた人間としてのある種の強さとこじつけてもいいのかもしれない。
男の敵も女の敵もお互いとは限らない。いつの間にやら話の流れは新旧ネットの流れになっているらしいがそれも含めて自分が感じ取ることをどんなゲームにしてもいいし、そんなものはないと木で鼻をくくったように言ってもいい。それが自分の考えだと感じるならそこから行くしかない。そして、それが違うからこそ人と出会うのは面白い。
最後に、個人的にはネットで多数と繋がりたくはないと考えていることについて。
Twitterが普及してからある種の文章をあまり見かけなくなったように感じている。エッジの効いた、ヒリヒリするような、血の滴るような文章を。嫌だったひともいるのだろうが、自分はああしたごりごりとした長文が読みたくてネットを見始めたクチだから大変残念だ。その一因はネガコメとかあの辺もあったんだろうなと思う一方で、ブログならば見えない読者を一人失うだけだったのがTwitterと連動させたことで明確に誰から拒否され関係が切れたのかがわかるからではないのかとも考えていた。それが罰のようなものとして認識されているのではないだろうかと。人間関係の煩わしさがネットに持ち込まれることで混沌と表現と情報は薄まっていく。ネットを現実と重ねていく流れがあるのならば空気を読むのは当然のことだ。日常の罪をネットで告白することの意味に気づかない者たちが晒される見せしめのショーも連日開催中だ。自宅、職場、学校まで晒される。あまりにリスキー。お利口でいい子になっていくのは必然だろう。誰かが自分に関心を向けてくれたときのあの興奮を一度でも味わったことがある者ならば。好かれたい、愛されたい、褒められたい、繋がりたいと願うのならば。
旧世代と誰かを括って責任押し付けるのは簡単だ。若いってそういうことだ。けど次はお前の番だ、お若いの。この流れの先に待っているのがパノプティコンでも向かいの囚人に片目を瞑ってみせようじゃないか。
本人がそう言った。
ああやっぱりそうかという気持ちもあり同時に反射的に「きもい」と拒否感を覚えてしまった私は最低だろうか。
形式とか属性とかで他人を評価することは私が最も嫌うところであるが、
35年間どの女性にも一瞬でも愛されたことがない、
恐らく嫌悪されていたのであろう彼のこれまでの人生がとどめる術もなく想起されると、
同情と軽侮を禁じ得なかった。
努力したとしても叶えられなかったのだとすれば、
遺伝子を継承するという生物として最も基本的な権利を創造主から剥奪され自然界から見放された「非生物」であることの証左、
実力に不相応なプライドを口実として商業的に体験するための金を稼ぐ努力すらも惜しむ怠惰さ、
そしてその怠慢さ或いは非生物性を帳消しにするためのお見合い市場という在庫一掃処分セールへの参入、
そして誰からも見初められずに売れ残った質の悪い商品を購入する貧乏人の自分、
そして購入する自分もそれ相応の価値しかないことが直ちに脳裡に浮かび上がり、
この結婚は互いにとって不幸への第一歩なのではないかという疑念に駆られた。
本人の本質的な内面を知らずに皮相的な条件から判断しようとしている自分に自己嫌悪の念を覚えている。
そしてこのような唾棄すべき感情を抱えながら彼と対峙すること自体が、
彼との円滑な交際を阻害する要因となるような予感もしている。
http://anond.hatelabo.jp/20070827203504
他人の明らかな好意を無下にしてるとこを見ると、何様だと腹が立つことはある。自分のことだと腹が立たない。よっぽどのことだと気色悪くて相手を遠ざけたい気分になる。しかしやっぱり憤慨するところまで上がってこない。
自分は頭が悪すぎて感情の整理がつかないのかと思っていた。知人曰く、私の人付き合いはえらくドライでいつでも切れてしまいそうらしい。
つまりあれだ。怒るところまで他人のことを考えてない。真正面から向き合わない。テレビでも見ているかのように現実を見てる。
その証拠か、どこに行っても浮いてる気分。誰と話していても失敗している気分。
私だけホテイアオイよろしくぽっこり浮かんでいるような気がする。
ぶらぶらと気楽にやっていたら、いつの間にかクラスメートに敬遠され先生からも嫌われている(挨拶無視)完全孤立状態ができあがっていた。
連日のHRでの吊るし上げで監視恐怖になった。パニック発作になった。
相手を観察してみると、自分の受け答えを相手が快く思っていないことに気がついた。相手の表情が一瞬固まる。話が転がらない。私が思った通りに振舞うのはどうやら一般的ではないらしい。ありのままでいたらいけなかったのかとやっと気付いた。
その後は自分の考えや感情を表に出さなかったら人付き合いがうまくいったから、自制心と精神力で一生懸命自分を抑え込んでいった。
高校に上がってからはなかなか具合よく事が運んでけど、パニック発作とうつ病で通学できなくなり結局退学。
当時は精神的におかしくなってはいるものの、身の回りのことがうまくいっていて自分には問題がないと思っていた。
あとから母に聞くと、兄が「妹、おかしい」と言っていたらしい。
この頃の距離感と抑制癖がとれなくなっている。そんな気がする。
人に対してそこまでいれこんでない。どうでもいいのかもしれない。
当然、自分のこともどうでもいい。部屋も散らかる一方。手をつけても、何をどうすればいいのかさっぱり分からなくなってしまったりする。
料理も掃除も途中で飽きる。仕事や授業でのメリハリも一切ない。日常や自分の部屋での延長のよう。全く集中できない。
うつ病とは違うと思う。人とは朗らかに話せるし、楽しいことがあれば爆笑する。
他人の感情のポイントがわからない。何に怒って何に笑うのかがいまいちわからない。相手は私と対峙したら手応えがおかしいことに気がつくに違いない。だから友達もできないんだよ…たぶんだけどな。
やった後にしなきゃよかったなんて思うくらいならやんなきゃよかった
VS.
やらずに後悔するならやった方がマシ
いずれも個人の、狭い認識から継ぎ接ぎした事例と分析なので、広く一般的に通用するわけでもなければ書き手自身に意味のあるものとなるとは限りません
意義や結論を導ききる気は多少はありますがさして信念というものを持たない(保てない)ため
既にやったことに対して、その行為の意義の無さや無常観、もとより始めからそうなることの予感をえていた様子
もうこころからの後悔と、二度とそれをしないことへの決意じみた卑屈さがあります
転じて、後者では未だ結論がでていない事物に対して拙速に取り組もうとする、これから事を成すものの、挑戦者の態度です
彼/彼女は自身や自らを取り囲む環境に対し、現在を事を成す時と定めます
それが未知なるものに対峙する態度として、或いはそれが分かりきったこととして
それが唯一の正解というべきものにせよ、誤りであると気づくための数ある道の一つにせよ
と、ここらで飽きました。
ここで対立する2項はあらかじめ不可分なもので、それをひらいた切り口は、単純に行為をした、前後に分断されているだけだと云うこと。
どちらにもそれなりに合意できる同機と反芻する点があって、それを比較してみたかっただけなのだとわかりました。
(いつもの如く、有意義な結論を探し出すのに飽きた。といってはもったいないけれど)
ただ、両者のような態度のどちらも取り込んでおけば、やることなすことを、同じことを同じように繰り返し続けることはなくなるのではないかという淡い希望を持ちます。
2度はやるまいと思った事を2度とやらない。かつ、未知なること(言い換えると、新しいこと)に対する試行を続けること。
これらの指針/原則に従い行いを繰り返しすことが洗練された方へ向かう手段ともいえる。
(他にもありそうだし、なんかのアルゴリズムで言うところの局所解に陥る可能性も充分ある。)
今日はもういいや。つかれた。
数多くの男が、心を煩わされ、病み、憔悴し、時に、恐れ、逃げ回わったメンヘラビッチ。
この問題を、真剣に捉える必要がある。これ以上、被害が拡大しないために・・・。
メンヘラビッチは、特に、ゆとり世代のネット充女子に、多数生息する。
彼女らは、承認欲求から、数多くの男を、ある種、身体を伴い、虜にしてきた。
彼らを救わなければいけない。そして、もうこれ以上、被害を増やしてダメだ。
「なぜ、ここまで、20代、特にネット充に、メンヘラビッチが多いか。」
そして、本質的な問題は、「自己表現とか、自分らしくという名の弊害」であると考える。
※以下、文章は、個人的な積年の恨み節で、書くことを了承いただきたい。
何にもねぇ自己主張の強い女子らが、「らしく」「らしく」と多用する。
彼女らのコミュニケーション活動を通じた自己実現の過程を考察すると、
リアルとバーチャル(←あえて)の二つの外部環境と対峙しているのだ。
そして、「らしく」生きたい思いを
「らしく」いられないのは、
そこには、全くコミットせず、
「らしく」なれないけど、
いつかは、なりたい、私らしさを、夢見ながら。
なりたい自分のような他者と関わることができる。
関わり続ければ、少なくとも、バーチャルでは、
「なんか、こんな人とも繋がってる私はスゴイ。」である。
しかし、それは、私ではない。
彼女らは、ソーシャルメディアの無数の情報を読み、理想をポストし続ける、動物的に。
そして、「らしさ」を持続するためには、バーチャルに、住み続けなければならない。
恒常性が求められるのだ。
自己成長のために、本来するはずの「リアルの自身を再定義して、内部環境(精神と思考)を掘り下げる」行為はせず、
リアルにおいては、自分らしくなく、ネットにおいては自分らしそうという狭間で、
最終的には、
ココではない、どこかに、行きたいけど、
いけないので、承認欲求が高まる。
その不安定性を埋めるのが、リアルで、ビッチになることなのだ。
少しでもルックスがよければ、うってつけである。
なぜなら、彼女らは、リアルでは承認されてはいないが、ネットでは承認されている。
最も簡単な行為は、触れるである。・・・触れたあと、互いの承認行為として、最も簡単なのはry。
みなさん、所詮この程度なのだ。
大いに刹那的な今を生きよう。
そして、精神性を、持ち込むな。
単純であるとは、全てが一つになっている状態
複雑であるとは、全てが分離している状態
差別ではなく区別、と誰かは言い訳するが、実は言っていることは同じ。
何かを分けるとそこに優劣や好き嫌いを考えたくなるのが人間。
だから、元々一つであったものを二つに分けると、今度はその二つのどちらが優れているか、どちらが正しいものか、決めたくなる。
それが差別。人類は一つであるのに、人種という概念を作ってしまった。人種という概念を作ると、そのうちのどれが優れていてどれが劣っているかを決めたくなる。
さらに、人種を民族に分けるとさらなる差別が生じる。この民族は劣っているから支配すべき、この民族は優れているから他の民族を自分達に組み入れる権利を持つと勘違いする。
戦争は国家というシステムがなければ起きない。さらに言うなら、グループという存在が起きない。このグループというのは人々を二つ以上の集団に分けたもの。すなわち人間を分離させたところに原因がある。
分けるという考えは恐ろしいほどに人類社会の全てに渡って行き渡っている。
これに気づくと、あれとこれと分けるのではなく、あれもこれもと全てを一つに統合することが平和への道であることに気づく。
もちろん、これは人類だけに当てはまることではない。
動物や植物、あらゆる生き物と自分は同じである、一つであると気づくと恐れが消えていく。
恐れ、恐怖とは、自分と繋がっていないものと対峙したときに感じる気持ちだからだ。
あらゆる生物は一つであると気づくと、恐れがなくなる。繋がっているという感覚が安心をもたらすからだ。
さらに先を進めば、あらゆる無機物、一般には生物ではないとされるものも自分と同一である。
これは別にオカルトではない。全てが一つという考え方を進めていけば、
生物と無生物という境界は無意味になり、一つにしてしまっても何も問題はないからだ。
目の前にあるパソコンも包丁も壁も家も水も雲も空も土も山も、地球も太陽も銀河系も宇宙も、全てを一つにすることが出来る。
全てが一つになれば、恐れがなくなる。恐れが消えていく。恐れる必要がなくなる。
だから、ものごとを複雑に考えすぎる人というのは恐れのかたまりであるとも言える。
一般にものごとを複雑に考えるのは大人である。大人は「世の中は単純じゃない」が口癖で、複雑なものを好み、単純なものは子ども騙しだと笑う。
そう、一般的に言えばものごとを単純にとらえるのは子どもだ。子どもは大人よりずっと自由で、恐れが少なく、一瞬一瞬輝いているように見える。
ほとんどの人が気づいていることだが、幸せになるには子どもの気持ちに戻ればいいのである。
子どもの気持ちとはすなわち、すべてを一つに統合すること、ものごとを単純に考えるということ。
世の中が幸せで満ちる方法は簡単だったということだ。それは、分離、区別、差別、複雑、をやめて、シンプルに考えシンプルに生きること。
日本人は欧米人に大きく影響される。日本人は彼らの清潔さ、綺麗さ、美しさを取り入れ、それを自分たちの常識とする。
一方、それに対する価値観までは取り込むことができない、場合が多い。
美醜感だとか、汚潔感だとか、善悪感だとか、そういったものが相対的に不十分であるのだ目指している、憧れている善、潔、美に対して。
だから、その裏返しとして、悪、汚、醜へ上手に対峙することができない。
それらを漠然と、暗いもの、タブー、語るべきでないもの、と見做してしまう。これはどういうことか。
つまり、悪、汚、醜に立ち向かうことをせず、謂わば見て見ぬ振りをしておしまいにしてしまう事なかれ主義に安んずるということだ。
逃げているのだ、おかげで戦いもせず、乗り越えることもできない。
結果として、このような悪、汚、醜、に関する不具合、問題が生じても解決できないのである、それどころか見て見ぬ振りする逃避が主な解決策であると思い込み始めてしまいすらする。
この例は、日本人という蟻(専らよく働くから働き蟻、といったところだろうか)の身近に在る蟻地獄であり、
それはたとえば性犯罪である。被害者が訴えてもその声が聞かれないのは、そもそも周囲が聞こえない振りを大いにしている可能性が考えられる。
と、こんなことは日本人の間には無いだろうか。
「人権」を悪用してるの外野の観客にはばれてないと思ってるのかしら。それは真面目に「差別」や「レイシスト」と対峙してきた人々のこれまでの活動に泥を塗る行為に等しいと思う
それは、どちらかというと話が逆で。
本当に真面目に「差別」や「レイシスト」と対峙してきた人ってのは目立たないんですよね。
なぜなら、「たたかう」ことは手段で、差別の解消が目的だから。
いつもいつも目立ってる「人権」派は、「たたかう」ことが目的で、自分が大上段に構えて他人を攻撃する心地良さに溺れている。
で、そういう困った輩ばかりが悪目立ちするんですよね。
だから、「人権」はそのように悪用して立ち回るものだ、と差別問題に真に関心のない子達は思ってしまう。
高岡さんへの中傷を以て叩き落とそうとしている子達は、そのエセ「人権」派を見習っているに過ぎませんよ。
不真面目に「差別」や「レイシスト」を自分の快感のために利用してきた人々のこれまでの活動こそが、真面目に対峙してきた人に泥を塗ってるんです。
その騒動最初から見てたけどTwitterのTLやアメーバで奥さんのことを持ち出して高岡さんを批判するのって
K-POPを愛するあまり自分が気にいらないことを言った人に、「差別主義者」「レイシスト」というような悪いイメージ操作を植えつけようとしたK-POPファン達は
「人権」を悪用してるの外野の観客にはばれてないと思ってるのかしら。それは真面目に「差別」や「レイシスト」と対峙してきた人々のこれまでの活動に泥を塗る行為に等しいと思う
奥さんは夫とは別の人格なのに、奥さんの立場をTLでつぶやくことでちらつかせて黙らせようとするK-POPファンって
夫の発言が奥さんにも及ぶような言説や状況を黙認するのかしら
「妻は男の付属物ではありません」
右翼の「スパイの子ども」発言を批判するような人達はこの点については触れない
有料のコンテンツでは韓流を楽しめなくて、TV番組か美容院においてる女性雑誌等でしか情報を得られない貧しい主婦層や子どもなら鵜呑みにしてしまうんだろうけど
韓流ファンだって一枚岩ではない 「韓流ファン」というのはアイドルが好きな人ばかりでは無い
K-POPアイドルのイメージ低下を恐れる人やファン同士の見下しあいも激しい
誰かがこの手のつぶやきを抽出して集めてまとめて、K-POPファンの言動の「えげつなさ」について喧伝すれば世間で「K-POP」に吹いてるベクトルは揺らぐよ
「K-POPファン」=「感じ悪い」「K-POPが気にいらない人と言う人には押しかけていって悪口をいうので怖い」というイメージが付いてしまえば「新規」ファンは
増えにくくなる
お昼時間にK-POPファンだという話が出たら、TV番組雑誌で仕入れた知識で適当に知ったかぶりして話盛り上げるとしても、内心一歩引く
ちょっと今なつかしくなってDSのVをわざわざ買ってやり直してきたところなんですけど、
今やり直してみるといろいろ気づくところがある。
例えば、
ただ、よくよく考えてみるとVIIIもV型のような終わり方だから、これは結局引き出しの違いなのかもしれない。
そしてさらによくよく考えてみるとIVの第六章でとりあえず救済されたピサロに不満たらたらな意見を目にするのに、VやVIIIで同じような意見を見ないのは不思議だなあ、と。ドラクエってシナリオに矛盾がないわけじゃないから、救済されるのはおかしいっていう理屈はないなあ。私が最初にFCのIVでデスピサロと対峙したときはロザリーの死とほこらのBGM、直前のデスプリーストの発言が相まってかなり胸に来るものがあったんだけど(それがよかったのかね)
そういう意味ではVIIIのフィールドはすごい。あの走ってるのにゆっくりな移動スピードは、フィールドの壮大さを演出するのによく貢献している。
今なら「マリアNTR結婚でヘンリー何食わぬ顔でパーティ加入√」とか臆面も無く言う人いそうだけども、何が違うんだろう。
私は最初やったときヘンリー抜けるのもキーファ抜けるのも嫌だったけど、復帰しろ、とまでは思わなかった派。
ただ、何が異質なのか、うまく説明できない。
まあなんだかんだあって楽しめました。
東京都の表現規制条例と大阪府の国歌斉唱問題。どちらも似たようなことを感じてしまうな。
なんていうか、どうしてそこまでしないと駄目なのかがわからん。
どうして条約を制定してまでゾーニングを押し付けなければならないのか。
どうして脅迫してまで国歌斉唱時の起立を促さなけえればならないのか。
どうしてこうも極端な対立になってしまっているのか。そこがわからん。
このままの流れが続くと、たぶん五歳の子供が逮捕されたアメリカのようになってしまうよ。
信念とか信条とか、そういった強靭な拠り所に寄り添って人生を謳歌するのが悪いとは言わないけどもさ、あんただけのユートピアを作っては貰いたくないんだよね。
権力とか圧力とか、そういった強大な仮想的と対峙して生活してもらっても別段構いはしないけどもさ、ナルシズムに酔っただけの英雄気取りは見てて痛いんだよね。
無論、東京都と府の教員の側だけに限らないんだけどもさ。やり過ぎだもん、実際。
曲げられない思いとか、内に秘めとけば十分じゃん。手が届く範囲だと、したくなっちゃうんですかね。学者と同じか。アスリートなんかと同じなのか。
可能性がある限り、それを求めたいのか。
ああ、面倒くさい。もしそうなのなら、いやきっとそうなんだろうけど、そういう「やりたい」思いに下支えされているものなのだとしたら、もう反論のしようがない。勝手にやってくれと言わざるをえない。
そこまではいい。厄介なのは、そういったことを認めてしまうと、こちらとしても動かざるを得ないということにある。実に億劫だ。ならやらなければいいのだけれど、やらないと現状が変わってしまう。決着がついてしまう。
いや、激流に身を負かしてしまってもいいのかもしれない。当事者意識を排除してしまえば、そう言った態度をとればいい。それが一番楽そう。でも、違和感だけは残るんだよね。
鬱屈としてる感じ。現状維持派だけじゃなく、みんながみんな鬱屈としているのかもしれない。
何にだろう。よくわからないけど、みんないろいろなことにぶち当たってるんだろうな。いつもいつもぶち当たっていて、すごく身動きが取りづらくて、ストレスが溜まってるんだろう。
どうしてなんだろう。生きづらい社会だなんて言い古された昨今だけど、どうしてそんな社会になってしまったんだろう。
不景気だから? 経済がよくなると、社会は幸福になるの? そもそも社会の幸福って何? 社会の幸福は個人の幸福に結びつくものなの? 個人の幸福って社会の幸福にフィードバックされるものなの?
より幸福な社会を作ろうって、一番最初に誰かが思い始めたとする。なぜならその人がそう思ったその社会には、その人が満足できるだけの幸福が満ちていなかったからだ。
その人はより良い幸福を求めて、何度も何度もすり合わせを続けてきた。繰り返し続けた結果が現在の社会だ。僕らはまだ幸福な社会を求めているんだろうか。それって無理だと思うんだけどな。
幸福な社会と、社会の幸福は別物だ。幸福な社会ってのは、社会の幸福も個人の幸福も含まれた総体だ。要は理想郷。全てが最適化されていて、十分なフリースペースが確保されている、そんな存在だ。生きていける。生きていける……。
そう言えば、さだまさしは生きることは大体辛いことだって言ってた。ならどうして生きるんだろう、なんて野暮なことは聞くまい。その前に存在してしまっているのだから、仕方がないもの。
仕方がない。諦めかあ。諦めが蔓延してるから、こんな社会なのかしらん。そんなはずはないだろうけどなあ。
理想郷ってどんなんなのだろうね。たぶん、今のままの人間は生きていない空間なんだろうな。
脱線した挙句乱文になってしまった。綺麗にまとめてもない。そもそも初めからそんなものは用意してない。
ここらでやめとこう。
私たちの人生が変えられた日から、もうすぐ30年もの月日が経とうとしている。
私とバカ男子は入籍して5年ほど、それぞれ別々の生活を送り、独り身のような身軽さを楽しんだ。
その後どういう経緯か忘れたが私は職場を辞め、向こうでバカと二人の生活を開始した。
バカの子にしてはとても聡明で、私の子にしては素直でかわいい大事な一人娘。
(もちろん娘の前でヤツを「バカ」なんて呼ばないよう注意していた)
この子が成人した日、私はバカとの結婚が強制婚によるものだったと告白した。
意外にも彼女の反応は薄く、「ふーんそうだったんだ」程度。実物の婚姻届を見せてみると、「目にやさしくない色だね」と言った。
「強制結婚制度」が廃止になってからもう十数年になる。当時あったような世間の見方はだいぶ薄れていたのだろう。
ひょっとしたら娘は前から知っていて、私を気遣い気にしない風に装ってくれたのかもしれないが。
どこかの誰かによる気まぐれか明確な意図によって、私は赤い婚姻届と対峙するはめになった。
「同じクラスのバカ男子」は「バカ夫」に変わり、やがて「バカ父」になって私たちの前から去った。
実は数回「元バカ夫」になりそうな事態もあったが、娘はほんとうに聡明だったし、私は寛容さを身に着けた。
なによりバカと結婚することがなければ知ることのなかったものが沢山ある。
ほんのり汗を滲ませながら、ゆるい坂道をのぼっていく。娘には少しきつそう。
無理しないで下で待っててと言ったのに「大丈夫大丈夫。父さん拗ねるだろうし(笑)」とついて来たのだ。
あーあ、もう少しで「バカジジイ」に昇格するかもしれなかったのに。
惜しかったよねぇなんてアホなことを話しながら、ヤツがぐーすか寝ている場所に冷たい水をかけてあげる。
謎が残ったままなんて落ち着かないよ、と直線的にカットされた石に向かってつい零してしまう。
平均寿命までもうしばらくあるけれど、私はもう現世で結婚することはないだろう。
今になって思えば、全ての始まりであるあの婚姻届が赤色だった理由が、ちょっとだけわかる気がする。
せめてあと10年、一緒にいたかったなあ。私たちの結婚を象徴する色の記念年まで。
そこまではさすがにあの紙も強制できなかったけれど。