はてなキーワード: 収束とは
脚本最高だった
色々展開予想したけどそれ以上に腹落ちした
やんちゃしすぎず、それでいて納得できる丁寧な仕上がりだった
現実でも起こり得るテーマで、しかもキャラが皆しっかりした意見持ってる上でのすれ違いって脚本として難しいと思うんだけど
歌も最高だった
歌詞泣ける
スコスコのスコティッシュフォールドだった
(CGなのか仕上げが上手いのか演出が上手いのか、もはや境界が分からん。こういうやり方もあるのか)
ぼく「ふらんしゅしゅー!がんばえー!」
そらデスおじも泣くわ
さくらも泣くし、俺もそれ見て泣くわ
さくら一番頑張ってたしな
2位がレコード大賞
5位が帯電
全話何あったかちゃんと思い出せるアニメは久々かもしれない(年1くらいかな?)
円盤買うか
これって名前付いてないのかな?
「私がAと思うんだから皆Aにするべき」とか
「このグループでは皆Aで揃えましょう」みたいな、差を許容しない同質化の考え方と
「私はAだけど、隣の人はBで構わない」とか、基本個人の自由で不干渉みたいな異質許容の考え方
世の中にある用語はどうにも歴史的に要らない意味が拡張されてて当てはまりづらい
どちらが良いかと言えば、正直どっちもメリット・デメリット出てくると思うんだけど
どちらをより好むかで、その人の性格が分かれる印象がある
規律・規範・ルールで縛る なのが同質化側、真面目で保守的でお硬い印象、和を大事にする、最たる例は学校や軍隊
自由で最低限のルールにするのが異質許容側、行き過ぎるとアウトロー、他人とは別の行動するタイプ
世界的には異質許容が主流なように見えてるがそうでもない
「『一部の異質なこと』を許容する」ことを同質化しようとする動きも多くて、あれは同質化側だと思ってる
これ厄介で、自分は異質許容だと思ってるようでいて、実はよりマイノリティーを許さない同質化側がいる
社会的に認められた「異質」は「許容を同質化」するが
社会的に認められていない「異質」は「排除を同質化」するタイプ
あれはやっぱり同質化
社会的に認められているかどうかってのは個人の観測になるから、ややグラデーションが存在するし、年齢によって下手すると真逆の答えを出す
だから一瞬その人がどっち側の性格なのか分かりづらくなるが、何個か話を聞いてみるとやはりどっちかに偏る
もちろん両方をバランスよく使ってる人も居ると思うんだけど、有能な経営者とか
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我ながら説明がわかりにくい
言いたいことは「同質化タイプと、異質許容タイプの人が分かれているのでは?(名前付いてないのかな)」って主張
そして色んなラベリングをされながらお互い殴り合ってるけど、一個のルールで説明つくのではないかと
例えば
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」が同質化
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」は、同質化
に見えるけど、①が異質許容、②が同質化であるとすれば、それぞれ矛盾したことになり一貫性がない
主体が考えて決めたのか、社会のコンセンサスで決まったのか、誰かに影響されたのか、あるいはそれ以外なのか(感情的など)
もし、主体が考えて決めたのではないのであれば、「主張」はまだ成り立つのではないかと思った
例えば同性愛の話をすると
それをベースに考えれば
これを最近にすると、「同性愛は許容すべき」が社会的に主流だから
主張が逆転してるんだけど、考え方の根っこはお互い変わってないんだよ
最近は「◯◯の人たちが以前と逆のこと言ってる。彼らは本当に◯◯なのか?」みたいなことを言われるが、こういうからくりなんだと思ってる
そういう風なラベリングがされたら、話がスムーズなんじゃなかろうか
ていうか、同じ結論の中でも同質化/異質許容が混ざってると思う
どうしても「同じ結論」「同じ思想」でグループは分かれちゃうからしょうがないけど、内部でお互い仲悪い印象
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こんな分かりづらい意見聞いてもらえて嬉しいのでもう少し書かせてくれ
差別なんかで
みたいな話がたまに出るんだが、あれの考え方もこの話に似てる
異質許容タイプってのはおそらく、世界を一貫性を持った小さいルールベースで理解したいタイプで
「差別はいけない」を「グループを作って排除する行為」と捉えている
そのため「差別するものを差別する」という行為が頭の中で矛盾してバグる
差別をもっと深掘りすれば「肌の色で差別してはいけない」「性別で差別してはいけない」みたいな社会共通認識があるが
何故それが特別化を理解できないので、異質許容タイプは受け入れられない
一方同質化側は、「差別」を特別ななにか(例外)だと脳内で定義できている
(ただ、「それは差別だ/差別じゃない」に揺れがあるのでボーダーラインで矛盾を起こす)
(どちらが良いという話ではなく、会話がぶっ壊れる理由の話)
2.同質化が嫌いで、異質許容を同質化したいタイプ(不寛容排除タイプ=寛容同質化タイプ)
3.同質化が嫌いだが、異質許容を異質許容するタイプ(関わりたくないタイプ)
それをもとに3タイプの人が嫌韓になったが、結局別々の道を辿っている
実は1は少なく、その後攻撃的になったのが2だと思う
最近の所謂フェミニストへの反発や、何か立法で制限を加えるといったときに反発するのが2だ
(これについては名前ついてそう)
よくそういう一群を指して「あいつら」とか言われるのは、思考タイプが同じだからではないだろうか
「ルール vs 定義は話が平行線になる」と言ったほうが説明しやすいかもしれない
スマホとガラケーってわりと長い期間並行して存在しつつ、最終的にはスマホに収束したけど、どちらも似たような機能搭載していってたよねぇ。
中身もなにもタイトル通りなのだが、最近再生回数を気にするのがつかれた。再生回数だけではない、アクティブユーザー数、イベント参加人数、累計イベントポイント、イベントランキング、ファンクラブ登録者数、等々。ありとあらゆる数字と向き合うとこに疲れた。私は疲弊している。何故こんなに数字に追い立てられなければならないのか。それは私がなかなか数字の出ないコンテンツを応援しているからである。女性向けアイドル育成ソシャゲの比較的人気のないキャラクター、なかなか表に出してもらえないジャニーズアイドル、なかなか数字のでないジャニーズJr.。私の好きなもの全て、「もっと数字が出れば」と言われている。私はそれがすごく辛い。
そもそも私は性格上ルーチンワークがとことん苦手である。毎日カバンを変えるし、毎日異なる系統の服を来て、毎日違う業務になるように調整して生活し、毎日違う道で帰り、毎日違うアニメを見て寝る。そういう性格の私が毎日同じゲームにログインして、毎日同じ動画を再生して毎日同じようにアイドルを好きと言い続けるのは到底無理な話である。だけど数字を求める人たちはそれをよしとしてくれない。毎日ログインしないと所属チームからは外され、ゲーム内アイテムや経験値がたまらず永遠に弱いまま。毎日動画を再生しないと怠慢と言われ毎日同じアイドルの話をしないとリムられる。そういうところでオタクをしている。あまりの性のあわなさにそろそろ疲弊してきた。
数字が全てという社会の仕組みは単純でよくできているとは思う。しかしまぁまぁ生きてきた人生の中で数字の多いものに惹かれたことがない私には数字が全てと言われる社会はどうにも納得できずにはいる。もう何もかもめんどくさいので固有名詞を出すけど、私にはあんスタとキンプリとSixTONESは1ミリも心の琴線に触れないのでコレが数字を獲得してそのジャンルの代表のように捉えられると????????となってしますのだ。まったくわからないので。しかし数字によってある種市民権のようなものを得たコンテンツはでかい顔してでかい顔してる。数字がとれているので。そして数字がとれていないコンテンツのファンは「数字を詰めば同じ扱いをしてもらえる」と思う。だから数字に固執する。数字のとれるコンテンツこそ優で数字のとれないモノは劣なのか。私は自分の好きなもののみが優でそれ以外は無なので何も思わないけど。その世間の事実と自分の価値観がグワングワンにズレて、あまつさえ数字を取ろうとしない私を遠回しに批判されるようなことになれば私は疲れてしまう。私のエリアに入ってこないで、と。
自分の価値観と世間の目がズレている。要はそういう話だ。でも、数字のとれないコンテンツそのものを劣あるいは弱と決めつけてほしくないなと私は思う。数字に関わろうとしないオタクも許容してほしいと思う。ファンならこうであるべき、ファンだからガンバロウは、多分違う。100人のファンがいれば100人の思念があるのだ。それでも、母数が大きくなれば大きくなるほど思念は大きくなり、多数派が相違のように収束する。でもさ、でもね?個が個である限りどれだけ大きくなろうと個の思念の集合体であることには変わらないと思うんだ。だから強要は良くないしそれが原因で仲違いするようなことがあっては良くないなとも思う。最近はそればっかりが心配になってしまう。
いろいろ書いたけど、数字を出すには数字が出るだけの理由があると思うし数字がとれるコンテンツを大々的に取り上げたいのもわかる。わたしも食べログ3.5以上の店しか行かないし。だから自分の好きな子たちも数字が取れるようなアイドルになってほしいとも思う。でもそのためにオタク同士でギスギスしないでとも思う。
なんだろうね、世の中みんなジャスティン・ビーバーに見つかれば良いんじゃないかな。
渋谷のハロウィーンの様子を見て、昔の「祭り」っていうのはこういう無秩序なものから生まれたんだろうと思う。人間の非常に原始的な姿を見る事ができる。
この異様な盛り上がりは自治体やまつり協議会に管理された「祭り」とは異なるものだ。
渋谷にいる彼らは心から盛り上がっていて、内側から湧き出るひとりひとりのハロウィーンが渋谷の街に祭りを産み出しているのだ。
自由ゆえに、無限のエネルギーを持ったお祭り状態になっている。
反対に、世の中には管理が行き届きすぎた祭りもあるが、自由の無い祭りはどうも面白みがない。
そう考えると、逆にガッチガチの自治体主導でクソつまらないハロウィーンイベントを行うことで、渋谷の街はしらけて収束に向かうのではないか。
悪気はないんだろうけど、残念な地域の祭りの運営って誰しも見たことがあると思う。力入れるのそこじゃないよっていう。ピントがずれてるよっていう。
そういうのを渋谷でやればいい。
渋谷区や東京都が「市民ファースト」を謳い文句にハロウィーンイベントを大々的に企画しよう。
きっと良い結果をもたらすはずだ。
※キズナアイの公式設定が無性と言及されていることはここでは脇に置いておく。気に入らない方は「女性型」と適宜置き換えてほしい。
①は個人的に許容範囲内ではないかと思っているが、感覚が麻痺しているだけかもしれない。これは今回のNHKキズナアイ起用に問題を感じている人の間ですら意見が別れていたように思う。問題は②である。
②のロールモデルの問題については、確かに問題だと思う。今回の件以外でも同種の構造を見つけてはモヤッとしたものを抱えていたのは確かだ。キズナアイをそのキャラクター設定に沿って扱ってもなお、このロールモデルから解放することはできたと考える。考えるのだが、みんな本当に常日頃真面目にそれ考えているのですかと思ってしまうのである。
たとえば荻上チキ氏のセッション22という番組でこの問題に触れたそうである。聴けていないので恐縮だが、この件についてジェンダーロールの問題を主に扱い、自分の番組が同じ構造であることにも触れたそうである。立派な態度であると思う。
※インターネットでは「自己弁護に終始した」と書かれているが、聴けていないのでその内容がどのようになっているかわからない。触れているだけとても偉いと思う。
ところでこの番組にはわりと多くのフェミニストの学者がゲストに呼ばれていたように思うのだが、チキ氏が自己言及する前にこの構造を指摘していた人はいたのだろうか。個人的には観測できていない。
そのようなわけで、今回の件が「萌え」をフックとしてジェンダーロールについて啓蒙するための生贄にされてしまったように見えてしまってモヤモヤするのである。もちろん日本に性差別がないなどとは口が裂けても言うつもりはないのであるが。
だからこうなってしまったからには、この問題に噛んでしまった皆さん(もちろんオタクも含むよ)には常日頃からこの問題について考え自分の立場に近いからといって妥協せずに問題視していってほしいのである。決して「萌え」が焼かれただけになってほしくない。
アニメは衰退、スマホゲームも去年の暮れからブームは終わったけど今は?次は何が来るのだろうか?
シャニマスCDの構成とかユニットの売り方とか女の子でやったSideM感があるよね。
ゲームに主軸を置かない感じも同じかな。
1stもなんとなく構成がにた感じになりそう。
コメの時点で伝統のアンフィとかあったけど、所詮4年程度のことなんだけどね。
シャニマスの飛躍は嬉しいけど、同時に可能性や方向性が過去のなにかに収束させられた感じもする。
バンナムがIPとしてアイマスを運営する場合のテンプレートはこうしていくんだろうか。
ドルコンテンツは結局他のコンテンツが歩んだ道を歩くことをファンもどこか望んでいるし、目的とするから仕方がないのかな。
ドリフェスやナナシスが武道館目指したり、Aquorsがドームがゴールみたいな感じとか。
そういえば、ミリオンはひとつのタームの終了として武道館やってグリマス終了でミリシタでリスタートがうまくいったパターンか。
オリンピックの影響で都心の箱取れないだろうから、次も奇をてらった箱がみたい。
昨日からバズってるハッピーエレメンツのチャイナアイドル、あれアズレンのユニコーン使ったCMと似てるよね。
多分、中国のステマ路線はああいう感じなんだろうけど、日本が出したものじゃもう乗っからない人も、やっぱ国が違うとのっかちゃう感じがある。
そんな堺雅人が、ひょんなことから殺し屋の香川照之と入れ替わることから始まるドタバタ劇とホロリラブコメディ
運命じゃない人見て面白かったので同じ監督の映画を探したら、あっこれ聞いたことある、と思って選んだ
結果、すごくよかった
運命じゃない人よりも好き
運命じゃない人が街だとしたら、こっちは428って感じ
言い換えると運命じゃない人は群像劇がバラバラでそのまま終わる感じだけど、こっちは一本に収束していってきれいにまとまって終わる
なので1本の映画としてはこっちのほうが爽快感があってわかりやすいエンタメになってる
有名な人もいっぱい出てる
それにただのアイドルで終わらずに女優として活躍してるのはすごい
話それるけど水着グラビアばっか出てた人が女優としてドラマでまくってるのもなんか個人的に不思議ですごいと思う
タイトルがよくわからずになんとなく意識高い系で敬遠してたけど、
いざ見てみると、すごくわかりやすかった
ラストのスタッフロールの途中でオマケが始まるのもこの監督の伝統?
運命~と違ってまるまる2時間あったから描写不足や時間不足も感じられず、必要十分に終わった印象
運命~よりも少ない登場人物で長い時間を描いたんだからまあ当然か
いやほんと今の所運命じゃない人の比じゃないくらいこっち好きだわ
アフタースクールも見てみるかな
すでに見たやつより評判はよくないみたいだけど
Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180923-00010006-jisin-ent
女性自身 https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1667047/
雑誌に掲載された写真に写っている被害を訴えた女性の外見のパンチ力(表現のマイルド化)も影響しているのか、16年前の話を今頃蒸し返してくるのは金目的かー、って話が主流になっているっぽい。
あとは、日頃の彼らの言動やキャラクターで救われている部分も大きい、とは思う。
「お笑い芸人」としてはこういったスキャンダルで炎上してでも有名になってナンボかも知れないけど、「芸能人」として長寿命を狙うならこういった収束が良いのかも。
長らく続いたバンプフォロワーみたいなバンドブームでなくようやく別のブームが来たようだ。ここ数年はバンプにシティーポップ(笑)を混ぜたような感じのが若干流行っていたっぽいし今でも流れは続いているっぽい。でもなんでこう半端なサブカル野郎達が好きになる音楽はこういうスカスカなやつなのか。大抵の人間の中身がスカスカだからか。
一時期GReeeeNみたいなの流行ったけどそれを例示すればわかりやすいかな。結局それを一段(たった一段のみ)表現を深くしたのがシティーポップ(笑)の流れなんだろうし、結局ファンはまだスカスカ民族の層であることには変わりはないんだろうな。別にここで言う「人間の中身」というのは「いかに精神的にいろんな論理武装を備えているかの量」的な尺度なので別にそれがミッシミシに詰まっていても現実社会では全く偉くはないんだけど。
なんで流行る音楽って、わざわざ表現が浅いやつなのいちいち。なぜいちいち文化的に少しレベルが低いやつが流行ってしまうのか。それはやっぱ最初に書いたとおり「大衆が文化的にレベル低いから統計的に売上がそうなっていってしまう」ってことに収束しちゃうんだろうか。どうでもいいな
「お父さん、これ気持ち悪い…」というツイートを発端にもう何度目かわからない表現の自由論争が巻き起こっている。
ただ今回の問題、いつもとちょっと様相が違うのではないだろうか?
というのもこれ、数多ある意見・見解を突き合わしていくと、事の本質は「ある人たちにとって不快感を催すものがそれを見たくない人の目に入ってしまう場所に置かれていることへの是非」に収束する。
それがラノベなのか、それともBL本や女性誌であるかどうかや、表現されてる内容が教育的に不適切か否か、はたまた昔に比べて今は云々、女性蔑視、オタク差別等々は枝葉の議論に過ぎない。
敷衍するとこの問題の第一の当事者と呼べるのは、「過激な表紙の本を目立つところに並べている特定の書店の担当者」と「見たくないものを見せられてしまっているその書店の利用者」であり、「過激な表紙を描いている人(創作者・表現者)」や「過激な表紙の本を作っている人(出版社)」の当事者性は一段低いところにあるのだ。
だから「本屋で不快感を催す人」と「表現自由を守りたい人(創作者等)」がいくら言い争ったところで、微妙に話が食い違うだけでこの問題はなんら前進も後退もしない。
つまり、この論争はいくらやったところで決着が付くはずもないもので、こんなものはさっさとやめるべきなのだ。
...で終わってしまうと本当に無益なので、問題解決の一助になればと、拙いながらも私見を披露したいと思う。
先に述べたように、この問題の当事者は「過激な本を並べる本屋」と「不快な思いをしているあなた方(やその子供)」だ。
ゆえに本当に今の状況をどうにかしたいのであれば、ネットでブツクサ言うのではなく、その本屋に直接クレームを入れるべきだと考える。
本屋さんを利用する一顧客として、「子供の目に映るところにああいうの置いてあるとちょっとアレなんで少しばかり置き方を考えてもらえませんか」と苦情をいれるのだ。
もし反応が悪かったり個人で言っても効果がないなと感じたなら、子供の通うPTAに掛け合って不健全店舗として校則なりに指定して子供が行かないよう指導してもらうように活動する。
ちなみに出版社に苦情を入れるのは無駄なのでやめたほうがいい。
過激な表紙の本を売る出版社にとってあなたは別に「お客様」ではないからね。
(もちろん、書店への苦情が功を奏して売り場改装がすすめば出版社も最適化して穏当な表紙に変えていく可能性はあるが。)
あくまでもそのお店の利用者として、あるいはそのお店を利用する子供の保護者として、意見しよう。
お店だって「大事なお客様の貴重なご意見」なのだからきっと何らかの策は講じるはず。
さて、ではもしあなたの身近なお店に過激な表紙の本が売っていなかったり、売っていたとしても目立たないところにそっと置かれているのであればどうするか?
それは幸運にもあなたはこの問題の当事者ではないということだ。
この一連の論争に参じても、時間と精神を浪費するばかりで何も得られるものはないから、心の平穏のためにもこれ以上追うのはやめよう。
増田を見ているとコンテンツ長文愚痴というのが多くて、マジでうんざりすることがある。
さも自分だけがこんなに苦しんでいるかのように長々と愚痴っているが、中身を見てみるとキャラ格差だの声あり声なしだの周りのウザいファンだの、毎度毎度同じようなネタに収束するのは見ていて正直笑える。
自分の観測範囲だと、だいたいはアイマスか女性向けゲーム、そしてたまにFGOといった感じだ。
これらの共通点を挙げるとすれば信者ゲーという点だろう。熱量の多いのがいる分、厄介も湧くということらしい。
ところでモバマスやFGOに関して言われることの多い、「既存のIPを下敷きというか踏み台にしている」のはよそのコンテンツも割と同じだ。
例えばグラブルは俗にスーパーサイゲ大戦と呼ばれているように、神バハなど他作品のキャラを使い回している。(一応神バハの側にもアリーザやサラが出張してはいるが)
フォルテがドラフ設定になって、おまけに体形まで変わってるのなんか、あれ原作の熱狂的なファンがいたらそりゃもうグチグチ言いそうなもんだが、そこんとこどうなんだろう。
似たような理屈でまどマギ原理主義者によるマギレコ愚痴長文なんてものがあってもおかしくはないのだが、そんなものはめったに見ない。
一昔前はあの界隈もずいぶんうるさいのが多かった気がするのだが……。