はてなキーワード: 普遍とは
お母さんがそういうコミュニティで生きてるからだと思うよ。たぶん旦那さんのお金でハイブランドを買うのが常識なんだろうと思う。増田がいうようにハイブランドに限らず、ものに絶対普遍の価値なんかないけど、ハイブランドは高っっかいという点で相対的な価値を認められやすいし、とてもわかりやすい。「いい」かどうかを定めるプロセスは人によって全然ちがうけど、ハイブランドは「いいですね!!」と言いやすいし褒めやすい。そういうところでハイブランドが絡んだコミュニケーションには間違いが起こりにくい。ついでにハイブランドに金を払っているというのは、それにに価値を見出して、たくさんお金を払ったという覚悟や意思表示のプラカードでもある。いろんなことがとにかくわかりやすいので、わかりやすさを求める人たちに人気がある。そういうビジネスが成り立っている。基本的には幼稚園でお友達がポケモンの話をするから私もほしい、と似たことだと思うけど、お母さんにはお母さんなりの大人の事情があるのだと思う。ただ、きっと所属を変えれば影響されて全然別の価値観を持つようになる。ハイブランドの服飾品それ自体を自分の生きた言葉で品評できる人はハイブランドにハマりづらい。富にも寒貧にも美しさがあって、理解さえできるなら、より洗練された寒貧のほうが味わい深いというのは誰にでもわかることだから。
最近は自分がリベラルでもなんでもないかもしれないと自覚する機会が増えた。ネットでニュースに接した時のもやっとした感じ、おぼろげな不快感によってそのように思うのだ。
なにが不快か。自分が正しいと思って声を上げている人間が不快。そういう人間の主張をあたかも「多様性」を認めることが正しいかのように、予断をもって報道するメディアの姿勢が不快。
そういうことを他人の面前で表明することはないものの、不快だと感じていることには変わりない。この他者、いなくなってくれないかな、という感覚。
まず女性の権利に関する主張。この手の報道に接するたびに、いつもクソどうでもいいと思う。じゃあ男性の権利はどうなんだと思う。
だれが権利をより多く持つのがよいかという問題について争う綱引きはすればいいと思う。つまり概念としての男女(これをジェンダーと呼ぶのか、どうでもよいが)が社会の中でどのように関係していくかという問題、あるいはその関係そのものがつねに闘争であるということ。それはそれでよいと思っている。議論はしていい。争っていい。生き残りたければむしろそうしろと。
だが、女性の権利が拡張されていくこと、あるいは権利の主張をして男性を攻撃することが、あたかも初めから認められている、あるいは正しいと思い込まれている状況、空気が醸成されていくことには断固として反対する。
お前の真理はおれの真理ではない。勝手に押し付けるな。押し付けるのであれば、おれはお前を潰す用意があるということだ。無自覚に正しさを主張し、正しくないと勝手にみなす人間を敵と認定して悪罵する人間が大嫌いなだけだ。
次に性的少数者の権利に関する問題。これも上記女性の権利に関する問題とほぼ同じ反応を自分はしている。嫌なものは嫌だ。おれはお前の行動が不快ですということが原理だ。
ある人が自分はゲイだとカミングアウトした場に同席したことがある。そのときは彼の決断を心から尊敬し、親愛の情を持ち、これまでどおり付き合っていきたいと思った。
近くにいる人がゲイであろうとレズビアンであろうと、自分はどうでもよいと思っている。普通に友人、知人、同僚として付き合っている。だがその性的少数者であることを旗印にしてプライドだとか言い出したり、社会の不寛容さを批判したりするのはちょっと違うのではないかと思っている。嫌だなと思っている。どういう思想を持つかは本人の自由だが、その思想の表現を見て不快に思う自由もこちらにはあると言うことだ。
ダイバーシティなんてクソどうでもいい。
社会の構成員が多様であることには利益があると思う。それは自分自身にとっての利益だ。いろいろ違う人間、全員がなんとかうまくやっていく。貧困、病気や飢えで死なないように、社会全体で労働力を確保して、協力し合っていく。それが自分の生存にとって大事。他人はどうでもよい。あくまでも自分が死なないように他人を利用できることが大事。だからできるだけいろいろな人間が社会に参加して協力し合うこと、つまり多様性を実現することは大事。これはそう思う。
だが、ダイバーシティがあたかも普遍の真理であるかのようにふるまって、ダイバーシティを認めない人間を排除するような圧力には絶対反対だ。多様な考え方を持つ人間を認めないなら、それのどこがダイバーシティなのか。いいかげんにしろバカと思う。
ようするに「これまで虐げられてきた立場にあると思っている人間が自分の権利を主張すること」は好きにやってどうぞ、それは自由なのでと思う。
だがその主張にこっちが同意するかどうかはまた別の話だ。説得しようとするな。同意しないので。あたかも自分の主張が普遍的真理であるかのように振る舞って、違う見解を持つ他人を攻撃するな。そのようなことをする人間には絶対に従わないので。
権利を主張する「マイノリティ」と、それを支持して「不寛容な他人」を攻撃する人間はリベラルな人間などではない。違う考えを持つ人間を抑圧排除しようとする人間がリベラルを標榜する資格などない。
人類普遍の共通価値をおびやかすようなことにはNoとちゃんと言える家庭をもつべきだと思うよ
でないと利益追求だけを求める人生逃げ切り型の子供を育てることになる
政治「的」な、というのは、政治に近い性質を持つ話題全般を指す。最近はフェミとアンチフェミの対立などがそれだろう。
何故それらを避けるべきかと言うと、そうした話題は基本的に相手によって正解が変わるからだ。
どうすれば理解されるか。どうすれば共存できるか。それはそういう見地のもとに初めて成立する会話であって、相手を明確に想定できないネットではこうした論法はそもそも通用しない。
するとどうなるか。相手の「粗探し」の繰り返しが始まる。
このループに陥ったら人間はおしまいだ。相手はもちろん、自分さえも幸せにはならない。
昔ならこの価値観のコンセンサスはあった。しかし今は無い。だからこそ絶対に避けろ。
教養になったは、さんきゅー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動
検索に移動
真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。
目次
1 例
2 使われる例
4 脚注
5 関連項目
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
使われる例
真のスコットランド人論法は主張者が以下の条件を満たしたときに使われたといえる[7] [3] [4]。
特定の都合の悪い反例を定義的に除外するよう変更した主張をする
レトリックを用いてその変更を隠す
純粋さへの訴えは、一般的に、肩入れしている集団の擁護に関連している。スコットランド人と見なされている誰かが凶悪な犯罪を犯した場合、スコットランドの国民の誇りの問題が危機に瀕していると想像できる。このとき、あるスコットランド人が犯した罪が他のスコットランド人と関連付けられる(これは関連性の誤謬である)ことを恐れ、この特定の構成員や行動がグループに所属することを否認する動きが出てくるかもしれない。「真のスコットランド人はそのようなことはしないはずだ」というのである。すなわち、「そのようなこと」をする人はトートロジー的に(定義的に)グループから除外され、そのグループのよい性質に対する反例にならないようにするのである[4]。
ロバート・アンダーソンは、「真のスコットランド人は……」というフレーズは必ずしも誤謬ではないと主張している。それは、このフレーズに含まれる「真」という用語の構文的文脈に依存するのだという[7]。
一般に、「真のスコットランド人」論法は「スコットランド人」にあたるものが文が指す対象と相容れない場合には正しい可能性がある。例えば、菜食主義は肉を食べないことであると明白に定義されている。したがって、「真の菜食主義者は肉を食べない」は「私の友達は菜食主義者だが、肉を食べる」に対する間違ってはいない応答になりうる。肉を食べることはベジタリアンであることと語義からして相容れないからである[8]。
そもそもVtuberって金投げるに値するコンテンツちゃうやろ。
…
1年後か2年後にまた見返しておもろいなって思えるもんか?承認欲求や流行という文脈から切り離しても評価できるもんか?
お前がスパチャとか言って投げた合計金額を5年後か10年後かに提示されて「経験としてこれだけの金や時間を費やした価値があった」って肯定できるか?他人にその価値を説明できるか?
価値は時代や状況に普遍じゃない。高級ホテルで飲んだコーラは都会で飲むコーラとは価値が違う。体験はその人がどんな状況にいるかに大きく左右される。
価値が変わりにくいエンターテイメントはあるが、そちらの方が優れているという理由はない。手堅い投資先というだけに過ぎない。
お前が絶対的価値を信じるあまり、祭りに乗り損ねている間に、他のみんなはそのノリを楽しんでいる。瞬間にしかない興奮は他では味わえないし、感謝の気持ちもその場所にしかない。丁寧なフィードバックもある。だからコスパは結構高い。
趣味のコスパについて、それを語るのを忌避する人は多いけど、俺はそういう視点はキライじゃないな。
小説や漫画のような従来型のエンターテイメントは、コミットすればするほど体験の価値は上がる。
だけどこちらが投入できる資源はほとんどが時間と集中力だ。情熱のエネルギーや想いをつぎ込む手段がほとんどない。即売会に行って作者に感謝するとか、グッズ買うとか、間接的でロスが多い。時間のない現代人にとって、スパチャにみられる贈与経済はコミット手段の革命であり、情熱解放の未開の領域だ。
Vtuberのほとんどは承認欲求とか性欲とかそういうもんを煽って金集めてる賎業をオタク向けにチューニングしただけで本質は同じ賎業やん。
いや賤業なんてない。職業に貴賎はない。
ここにも重要な認識のズレがある。スパチャに込めてるのは応援したい気持ちだよ。楽しい時間をありがとう、という感謝だし、純粋な賞賛なんだ。だから実感をともなった確信を持って、完全に肯定できる。
馬の穴という日本最大で1000万人も若年ユーザーのいる同人販売サイトが婚活マッチング業をはじめた。
本人の男女と相手に希望する性別だけ出してもらい、あとはとりあえずその人が買っている本でカブりが多い相手や買っている本の筆者とのマッチングをしてみる
カブリ買い本の売り上げは2人で1冊を買えばいいというので半分まで下がるかもしれないが二世代目がうまれればきっと馬で本をかってくれる、先行投資だ
するとみるみるうちに婚活成功して婚活だけ退会しはじめた(本は買ってくれる)
それに本は印刷代の都合で売り切れるだけしかつくらないのでいずれにせよ本の売り上げもさほど下がらなかった
最近YouTubeで切り抜きチャンネルというものが流行っている。
有名人やYouTuberが話したことをわかりやすく、短くまとめてくれている動画だ。
様々な有名人やYouTuberに切り抜きチャンネルが存在するが、岡田斗司夫の切り抜きチャンネルはかなり成功している部類だと思う。
3年ほど前、友人達とどんなYouTuberを見ているかという話になり、みんな登録者100万人クラスのYouTuberを挙げていく中、私は岡田斗司夫と答えた。
すると周りの反応は誰?や、岡田斗司夫はYouTuberじゃないでしょ。
と言った反応だった。
それがいまや切り抜き動画によって、彼の考えや言動は拡散され、ものによっては100万再生にすら届きそうな勢いだ。
最初彼を見たのは「真剣10代しゃべり場」という番組で、相談者はオタクの少年でオタクの何がいけないの?というテーマだった。
彼の相談内容はまとめると「オタクは普通じゃないというレッテルを貼られ、生きづらい。そもそも普通って何?」というものだった。
自分もオタクとして生きてきたけど、ある程度レッテル貼られるのはしょうがない。と答えその冷たすぎず、かと言って耳障りの良いことだけを無責任に言ってる感も無く、気付けば彼の番組をニコ動で漁って観たり、当時彼のやっていた、今でいうオンラインサロンのはしりのようなクラウドシティというサービスの有料会員になっていた。
私は彼の相談解決法やアイデアの作り方、特にジブリや、ガンダムに対する考察が好きだった。今まで何となく観ていたアニメだったがここまで製作者側は考えて作っていたのか。と関心することが多く、彼の話を聞いてから私のアニメに対する見方は大きく変わった。
そしてあろうことか私は当時付き合っていた恋人や周りの友人に、岡田斗司夫からの受け売りだとは言わず、あたかも自分が考えのように彼の話したことを話していた。
そんなインプットとアウトプットを繰り返すうちに、私の考えや思考法は徐々に彼に染まっていった。
それが今や彼のアイデアの作り方、アニメの見方はYouTubeで切り抜き動画で拡散される。そしてそのことをひろゆきや、インフルエンサーが取り上げて拡散が広がる。
登録者2万人のビジネス系YouTuberと20万人のYouTuberがいたとして、どちらの発言に価値があるかといえば、もちろん内容にもよるがあ私は後者だと思う。情報とは希少性があるからこそ価値が生まれるのだ。よってDAIGOとかがいくらありがたい話をしても、その情報はもう何万人に晒された時点で価値は半減する。これをわかってない人は意外に多い。
よって私は岡田斗司夫があまり広まって欲しくない。これは私のわがままだということもわかっている。でもこの数年、大量の岡田斗司夫の話をインプットとアウトプットした結果、意識せずとも私が考えていることや、話していることの成分に岡田斗司夫要素が入ってしまっている気がしてならない。
前は彼の知識や考察を脳内で切り取って話すだけで、周りの人が話を聞いてくれていたのに、広まるにつれて「それ岡田斗司夫が言ってたやつでしょ。」と言われたり、思われたりする確率が高まる。
昔から応援してたバンド、芸人、アイドルが売れていくにつれて、寂しくなる人がいるとは聞いたが、もしかしたらその感情に近いのかもしれない。
>いろんな人がいろんな説明を試みるが、それは「その時の時代や社会情勢によって女性をそう扱わざるを得なかった」というものでしかない。
環境以外の理由だったら、生まれつき、という話しかならないだろ。
そして生まれつきでないのは明らか。現に現代社会で俺たちは、文化の変化で変わっているからね。
お前の求める説明は、どうやって「その時の時代の社会情勢が文化を生んだ」という説明にしか、どうやってもならない。
>血統を保存しようとした。
>という理屈は一見通るが、そんなのは一部上流階級でのみ通用するものだ。人類において普遍ではない。
そんなことはない。
そもそも、社会性、という性質は自分の子供以外の遺伝子を守るという意義のもとになりたつ。
原始人は家族を守った。貴族社会の血統主義は、その延長に過ぎない。
>つまりこの時点では浮気がどうとか、お世継ぎがどうとか、本当にどうでもいい世界だった。
婚姻という制度は、神の名のもとに村の中で浮気を禁じるための制度だ。
なぜそれがあるのか? まず浮気がいさかいのもとになるという状況があって、それから制度を作ったに違いない。少なくとも婚姻制度の誕生よりも、浮気の悪は古い。
>画一的な論理によって「女性の抑圧」というものを説明しきることができないということでもある。
モデル化や一般化と、画一的な説明を、ごっちゃにしていると思う。(本筋からズレるから説明しないけど)
>「女性は抑圧すべき(もうちょっというなら女性の扱い方はこれが正しい)」という人々がずっとおり、~この辺って誰か話してる?話してるなら資料のありかが知りたい。
男性が本能的に支配する、などというラディフェミの言説が眉唾なのはその通りだね。最初に言った通り、生まれつきではない。それは絶対だ。
で、何がそういう文化を産んだかというと、まあだいたいは戦争だ。
村村が互いに争っている地域であるほど、力の強い男性がリーダーでなければならなかった。子供を育てる役目のある女性は戦争のリーダーなんかやってる場合じゃなかった。女性はどうあがいても財産でもあるので、しばしば戦争の勝ち負けに際して取引されたし、リーダーが取引可能な存在であるのは望ましくなかった。高等教育とはは軍事的リーダーを養成するものであるから、男性が独占していた。などなど。
実際、戦争のごく少ない地域では、女性がリーダーをやっている原住民みたいな人たちが、多く見つかっている。ジャングルの奥地や、離島とかで、隣の部族との戦争が必要なさそうな場所でよくある。
逆に、例えばキリスト教起源の中東やヨーロッパでは古代からめちゃくちゃ戦争多かったりする。
そういう訳で、かつて女性抑圧(というか男性の権力独占)は合理的だった。
現代社会での、女性差別ってのは、かつて合理的だったけど今は不合理な伝統なわけ。
都市には家電や社会制度があるから女性が一日中家事してる必要はない。戦争は銃であるから兵士が筋力のある男性である必要はない。したがって女性がリーダーをしてもかまわない。なのにそうなってない。それを禁じられている。それが今日の「女性抑圧」だ
確認の意図がよくわからないですけど、確かに全くそんな話はしてないですね。
それはどこまでいっても個人の経験の内のことであってそこから個人の内面に沸き上がった価値観を普遍化してまったく別の表現をしてる人にあたり散らすようなことになってるから
「お気持ち」とか言われてるわけじゃん。
「公共の場で男性が女性を性的に扱うことが当然視されることで多くの女性が被害を被ってきた歴史的経緯がある」って話をしてるつもりです。個人の経験というよりは、社会全体として経験した事実のつもりで書いてますし、それ以外の解釈はあり得ないと思いますけど。
加害者側が「まったく別の表現」と言いたくなる気持ちまでは理解しますけど、私に言わせれば構図は全く変わってないです。そして「同じ表現か、違う表現か」を決めるのはあなたではないです。
一貫して被害者側の感情への配慮の必要性があるのは当たり前という話をしてるので、まさに「お気持ち」の話です。「お気持ち」といって揶揄できると思う気が知れないです。
いきなりというか、この話題については最初からそういう批判がなされてるものだと思ってましたけど。
その加害性に気付こうよ。
被害者側の感情に配慮せよって主張が加害とは…とてもやわな主張に思えますけど。何か傷つきました?それも「お気持ち」ですか?
最近盛り上がっているので、再掲しよう。
これは、過去2000年の歴史の中で顕在化した天皇家の跡継ぎ問題を解消し、来たる西暦4000年代に再び同じ問題を起こさない為の、新提案である。
よって、市中の女系男系論争とは別物であることは、最初に断っておく。
万世一系を証明するためには、客観的な遺伝情報が必須である。この時、父母の両方から由来する可能性があるものを追跡指標とする場合、何世代か経つと殆ど辿れなくなる。
そのため、生物学的に必ず片親からのみ受け継がれるものが良い。最良の追跡指標は母系のミトコンドリアであろう。 (※ 父系遺伝の研究も存在するが、完璧なものはまだ無いように思える)
天皇家 β は、現代科学を用いて皇統を国内外に客観的き証明しながら公正に代を積み重ねることに重点を置く。この観点から、母親経由で必ず継承されるミトコンドリアを指標とし、女系に切り替えることが最適であると思われる。
ミトコンドリアを指標にした女系継承には公証以外にも多くのメリットがある。それは昨今大きな話題となっている、皇族の結婚相手の問題である。
本家の血筋が途絶えても、ミトコンドリアを追跡することで、より正統な後継者を分家から機械的に選出することが出来るのである。
これは、過去の天皇家を振り返っても画期的である。揉め事が起きても、ミトコンドリアの遺伝情報を解析するだけで、瞬時に誰がより正当な後継者か、私情を挟まずに判断がつくのである。
父親が誰になろうと母系で継承されるミトコンドリアには影響しない安心感はさることながら、天皇家にどれだけ近い血筋か遠い血筋か、国民全体を量的に分布し可視化することが出来るのである。つまり、親族か否かという変動する離散的な属性から、普遍の連続的な国民の順位付けが可能になる。
これはただの提案であり、100年、200年後の時点では戯言に過ぎない、しかし2000年以上先の将来を見据えた唯一の解であることを認識する人が増えると、日本の未来と皇統は凡そ安泰であろう。