はてなキーワード: 原宿とは
テレビ局のプロデューサーと親しくしていたら、私生活を番組にされた。
やりとりをそのままドラマに使われたり、
でかけた先が数カ月後ロケ地になったり。
やめろといってもきかなくて、そんな生活が2年。
アカウントに鍵をかけたら、私とやりとりをするオープンアカウントのツイートを元に番組制作。
気持ち悪い。
バンドマンと付き合って歌にされた時は、本当にあるんだ〜って別れたけど、テレビは怖い。
漫画も番組も歌も、業界の人からしたら当たり前の手法かもしれないけど、
別にこっちはコンテンツにされるために生きてるわけじゃないんだよなぁ。
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と益田に書いたのが先方の耳に届いたそうで。
じゃあ少し別件を。
原宿にいた女の子に黒くて太くて硬い円柱状のお菓子を頬張らせる映像が流れていた。
2018年春、番組MCが出演者の学生に手を出して大騒動。番組は終了した。
連絡したときに虐待で動いてくれたら、今もMCはメンバーだったかもしれないのにね。
2019年6月10日、上記の番組と同じ放送局・同じ部署が制作している夕方のこども番組で、
出演者(成人男性・子役男)が卑猥な言葉(珍珍・棒と玉の演出有)を連呼し、
出演者(子役女)に聞かせる・卑猥な言葉を聞かせられる様子の全国放送がおこなわれた。
普通に痴漢で児童への性虐待だけど、子役だから金銭を支払って卑猥な行為をさせているよね。
局とBPOに連絡、警察に通報した。番組は現在も放送中。見てないから内容は知らない。
私の被害妄想はテレビ見なければ解決するけれど、ターゲットが別の視聴者に変わるだけなんだよね。
私をストーキングして番組制作をする犯人は、私が親しくしていたプロデューサー本人ではなく、
上に記した2つの虐待が事件として正しく対応されれば、私の件も止まるんじゃないの?
嫌がらせや虐待をスタッフに強制するパワハラもなくなるんじゃないの?
しらんけど。
しらんけど、私がやられる原因はこれをネットに書くからだろうし、
あと病院の件。残念ながら私の頭に異常はなかったんだよ。
http://sharyoemi.hatenablog.com/entry/2019/07/09/215955
ホッテントリにあがっていたお○んこの話題で思い出したので書きました。
私の父は新潟の中越出身で、母は神奈川出身、母方の実家は新潟に親戚があり、そんな縁でお見合いすることになったらしい。
父は背が高く若いころはスマートな感じだったため、母にはそこそこ好印象だったらしい。
ただ、父は地元の稼業を継いでおり母には嫁として新潟に嫁いでほしいということが念頭にあったようだ。
母としては都市部での生活を捨てて新潟に行くことにちょっと抵抗があり、というのもお見合いの席で父の言葉は、かなり訛りがきつくて、田舎くさいと感じてしまったようだ。
#今も父が丁寧に話す時、当人は標準語を話しているつもりでも、こちらからすれば越後弁が多彩に使われている。
結局、私が生まれている事から分かるとおり母は決断し、お見合いは進んだ。
母は、姉妹が3人おり、そのうちの年の近い妹(これが叔母)を引き連れデートのような面談のような会食のようなものに父を誘った。
さて、田舎者の父が都会でのデートのため、半端な知識をもつ近所の若者に相談しながら、何とか計画を立ててデートの日に臨んだ。
まず待ち合わせには原宿で、竹下通りをぶらつきながらご飯でも食べよう。と、そういう計画だったらしい。
都内の電車網に四苦八苦しながらも、何とか時間通りに待ち合わせ場所について母と妹(叔母)に挨拶も済ました。
父「じゃあ、そろそろまんまんしようか」
母、妹(叔母)は、一瞬何を言われたか分からず、「は?」と聞き返したところ、父はもう一度
父「いやあ、まんまんしようかなーと思ってて、妹さんも一緒にどうです?」
と恥ずかしげもなく返したそうだ。
稼業の影響もあって父の地声は人よりも大きいため、周囲の人はみな振り向き、妹(叔母)は「いや私はいいです」とドン引きして走り去り、母は顔面蒼白になり、「このお見合いは最悪なものだった」と絶望した。
越後弁に通じる聡明な方々であれば明らかだと思うけれど、「まんまんしようか」は越後弁で「まんま(ご飯)ん(に)しようか(しませんか?)」である。
叔母から笑い話として聞いた範囲ではここまでなので、この後どのような急転直下があって私という塊が生まれたのか定かではないけれど、
父は今でもお昼時になると「そろそろまんまんしようか」と言い、母は訛りのない言葉で「そうね、もうお昼ね」と笑顔で返す日常が続いている。
東京なんかに観光に行っても楽しくないよ。上海やニューヨーク、シンガポールと同じようにただ都市の生活があるだけだよ。
ショッピングやグルメに興味なければ行く意味ないよ。服なんか見ても買う気起きないし、混んでるだけで行ってもつまらないよ。
同上
というか、そういう公園なところ普段行かないじゃん。東京観光だからって無理していくことないよ。
ただの寺があるだけだよ。普段寺に興味がないのに無理して浅草行くこと無いよ
あそこ全体がショッピングモールみたいなところだよ。東京でしかやっていない企画展? 科学展? それ東京である必然性なくない?
それ東京である必然性なくない? ヨーロッパあたりの絵画を持ってきているだけだから、それならヨーロッパ行ったほうが良くない?
ショッピング興味ないのに無理していくことないよね。そもそも普段スーパーとかで乾物や魚買うのに無理して変なところで買う必要なくない?
今日は這ってでも会社行かないといけないのだが、全く眠れない。
深夜に眠れないとなにか書きたくなるもので、なにか書く。
増田を読む人というのは20〜50代の活字好きでネットに強めな人が多い気がするので、最近少しバズったネタに絡めると、ヲタク向け婚活サービスか。
ヲタク女性は適応能力が高いので綺麗な人が多いが、ヲタク男性は不潔で汚くてミスマッチ! みたいな話。
そもそもヲタクの定義が曖昧だが、ここでは趣味に没頭している人としよう。
(アニメ見たりゲームすることがあるくらいのライトな定義だと、今時の若者はみんなヲタクになってしまう)
女の人は何か情熱を傾けられるものがあることで他のことも頑張れる人が多いのに対し、男の人は一点集中しちゃうから他のことがどうでも良くなってしまうという、性差の問題な気がする。
そもそも女の人は趣味に没頭する人が少ない説も考えたけど、ライブのために遠征しまくったりとか、あれは完全にヲタクの所業だよな。
女の人は頭の中恋愛のことばっかとかいうのはモテないやつの根拠なくてひどい憶測や。
若さに重きを置かれる原宿文化代表なきゃりーぱみゅぱみゅは福山雅治じゃなくてセカオワ深瀬とくっつくわけですよ。
見た目って大事だよなあ。
女の人は社会的に容姿に求められる最低の基準が高いから見た目への意識がそもそも高いし、逆に男の人はそもそも意識が低いからヲタクとなれば益々低くてそりゃマッチングせんわという、
当たり前のことを延々書いちまったよ!
長いよ!!
世のドラマやアニメを見ると、どーも、「ロマンチックな恋」がスタンダードな恋のように書かれている。
インスタとかでは、そういうのがもてはやされている気がする。
いやしかし、どうだろうか。
「そんなもの、体に悪いし、永遠には摂取できないでしょ」みたいな感じが自分にはする。
世の女性も、そりゃ、インスタ映えみたいな感じで、イケメンとハイスペに恋をしたいのかもしれない。
恋愛漫画とか10割それ(8割かもしれないが)だが、それ以外がマジで需要無いのだろうか。
こう、感覚としては、オードリーの若林みたいなのが本当はいいんじゃないか?って気がする。
なんだろ。
乃木坂とか欅坂みたいなのの司会にハライチの澤部やバナナマン日村がいるような。
なんだろ。
あそこに、キンプリとか持ってきても多分マッタク面白くないんだよね。綿あめ食ってるみたいな。見れたもんじゃないと思う。
恋愛漫画で、ジャニーズ&乃木坂みたいなのバッカリなのはなんでだろう。
BLでも、イケメン×イケメンみたいな、乙女ゲーの乙女いなくなったみたいなのばっかりだけど。
本当にそれ、面白いか?おいしいか?単なるインスタ映えの自己承認欲求とかそこらへんじゃなくて?
でも、お母さんの味噌汁や、お父さんとの釣りには満たされるんじゃない?
そっちのような、本当の家庭料理みたいな恋愛って、求められていないのって本当なのかな?
原宿のすぐそこじゃん。つうか、すぐ隣。
たとえば上野千鶴子を愛読していたり
世の「結婚しない、子供産まない女性」の圧倒的大多数は高学歴ではなく
第三次産業中心社会になるのと反比例して出生率は低下してきました
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5240.html
http://osan-kojo.com/osan/image/osannodata02_01.gif
単純に「働き手」として子供が多く必要だったし、職住一帯で育児と仕事が両立できた
ところが社会の高学歴化が進んでサラリーマン世帯が大多数になると
その必要はなくなり、高学歴化のため子供の教育コストが高騰して一人っ子が増えた
これ、左翼フェミズムと一切関係なく、先進国も今の途上国もみんな通ってきた道
特殊合計出生率が過去最低の1.57を記録した1989年なんかバブル経済絶頂期
で、この第三次産業中心社会化を推し進めたのは、自民党政権下の高度経済成長
この間、左翼フェミニズム本を愛読したゆえに結婚しない子供を産まないという
選択をした女性なんて、大卒女性のなかで多めに見積もっても5%もいませんよ
(女性人口で大多数の高卒未満が本気で左翼フェミニズムの本を愛読するとでも)
試しに渋谷か原宿の路上で、「結婚相手は最低でも年収XXXX万円以上」
とか言ってる女子1000人に「上野千鶴子を愛読してますか?」と聞いてみなさい
つまり、少子化と非婚化は世の中全体が高度成長以前よりは豊かに底上げされたから
仮にフェミニズムだの戦後の個人主義の影響が何パーセントあったとしても
それもまた高度成長以降の社会全体の富裕化の結果
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。