はてなキーワード: 共同体とは
俺は文章を書くのが好きで、なぜ書くかというと支配するために書いている。
これは自分の動機を色々な意味で乱暴に表現した言い方だけど、実際この通りで、俺は世の中のたくさんの物事がよくわからなくて、それを自分の言葉で自分自身のために説明し直すことが俺にとっては対象を屈従させたことと同じなので、それが理由で書いている。
一種の、そういう暴力的な方法でしか、この世界にある意味不明さと向き合えない。とにかく俺は「わかりたい」のだが、いまは、まるで真逆のことを言う。
「説明を受けてようやくわかった」
「感じていたもやもやを(自分の代わりに)うまく言語化してくれた」という意見を最近よく目にすることがあって、それを見かけるたびに、正直言うと少し嫌な気持ちになる。
俺自身が「わかる」ために言葉を並べることに憑かれているし、俺が書いたものを読んだり講義を聞いた人に「説明上手ですね」と言われると身もだえるほどうれしいので矛盾しているのだが、本当に、そんな簡単に「わかって」いいのか? と心のどこかで思っている。
俺はそれが怖い。
「わからない」のは不安だし、「わかる」ことで参加できること、貢献できることが世の中にはたくさんある。
というか、ほぼそれしかない。この社会で「わからない」やつはお呼びでない。仕事でも議論でも。そういう風にできている。
「わからない」と正直に言える者が機能するのは、学校の授業のように教える側と教わる側が明確に区別されているか、その共同体が何か重大な問題をはらんだまま、よほど硬直している場合だけだ。
そして、それも結局、みんながよりよく「わかる」ための経緯の一つとして回収されていく。
多くの人は「わからない」を早く手放したい(俺のように、場面によってあえて「わからない」にこだわってトリックスターを気取らない限り)。
「わかった」人も、他の人にも「わかって」欲しい。だから、「わかる」は増加していく。
それはある意味で、みんな同じになっていくということだ。
俺だって普段は「わかりたい」と思っているし、「わからせたい」とやっぱり思ってるけど、それでも、みんな一緒になっていくことは怖い。
きれいごとを言えば、「わかる」が他人と同じになっていくことだとすれば、「わからない」ことには唯一無二の価値がある。「わからない」「わからない」とずっとわめいていることにこそ、その人だけの価値があると思う。
もちろん、その人だけに価値があるというのは、その人が自分で作った独自の貨幣と同じで、何の役にも立たない。まあ、でもいいじゃないか、と言いたい。危うくて、でも、おかしくて愛しくていいじゃないか、と思う。
俺が「わかる」ことに、どこかの誰かの生死がかかっているとしたら、俺は「わからないといけない」。
俺が「わかる」ことに、俺の大事な人の生死がかかっているとしたら、俺は「わからないといけない」。
遠いところからやってきた誰かが俺に銃を向けたとき、俺がどうしていいか「わからない」と言ったら、その人は俺を撃って先に進むだけだろう。次の誰かを撃つために。
それでも、俺はみんなが「わかった」というのが怖い。
このとき、「その『わかった』が間違ってたらどうするんだ?」という疑念と(星新一の『殉教』のような)、みんなが一つになっていくユートピアへの根源的な恐怖(人類補完計画的なものへの嫌悪感)は区別しないといけないだろうし、「なんだろうと、とにかく怖いから、そんな簡単に『わかった』って言わないでくれ!」という俺の稚気も別物だろうけど、俺にもよくわからない。
今回の件はみんな「わかってる」らしい。俺も、それで正しいと思う。
でも、じゃあ、みんな「わかってる」なら俺だけ「わからなくて」いいかな?
このニュースについて。
ウーピー・ゴールドバーグさん ホロコースト発言で出演停止に | アメリカ人種差別問題 | NHKニュース
私は増田ではホロコーストオタクとして有名な人だ(自分でそう思ってるだけだ)が、ホロコーストって調べれば調べるほど深くて広くて細かくて、どんなに学んでもその難しさが一向に消えないくらいの難しさがある。どっかで読んだ話では、どんな歴史学者でもホロコーストの全てを知ることは無理と言われるくらいだ。
私のホロコーストに対する関心部分は偏っていて、否定論にあり、否定論の理屈を反論・批判する部分に特化しているわけだけれども、ホロコースト否定論の中心となっている欧米の否定論者は否定論を主張することを商売にしているプロなので、情報量があまりに多いため、それを調べて反論する方も大変である。欧米にはそれを細かく反論する人たちもいるので、そこを参照すれば済む部分も多く助かってはいるが、一方で知らないことも多いのでその否定論に対する反論の内容がよくわからない、みたいな悩みもないわけでもない。
そのホロコースト議論(否定論に関係ない部分も含め)で難しい部分は色々あるが、当時の一般的な認識を理解するのが難しいというのがある。何故、ナチスドイツ=ヒトラーは「ユダヤ人」を絶滅させようとしたのか? は、簡単なようでこれに答えるのはなかなか難しい。
この問題については、様々な角度からの検討がなされており、現在では明確なユダヤ人絶滅計画はそもそもなかったのではないか? とすら言われているようでもある。否定論者がうるさく言うように確かにヒトラーのはっきりした命令書や、ユダヤ人絶滅を命じたと言う明確な証拠は残っていない。もちろん、間接的な証拠はいくらでもあることは言っておかねばならないが、ユダヤ人問題の最終的な解決を最初に言い出したのがヒトラーではないことだけは確かなのである。
「ユダヤ人」って、何かわかりますか? これ、なかなか簡単に説明するのは難しいのです。単純な説明だと、ユダヤ人=ユダヤ教徒、でありそう思っている人も多いだろうし、間違いでもありませんが、ナチスドイツは「ユダヤ教徒=ユダヤ人」とは見做さなかった、と言われたら「え?」となる人もいるのではないでしょうか。ナチスがドイツの政権を獲得して2年後に発布された「ニュルンベルク人種法」、すなわちユダヤ人の公民権を明確に剥奪した悪名高い法律にはこう書いてあります。Wikipediaからコピペします。
4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」[18][16][3]。
4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合は次のように分類する[18][3][16]。
ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は、「完全ユダヤ人」
ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
これを読めば分かる通り、ユダヤ教徒=ユダヤ人なのではありません。「本人の信仰を問わず」とはっきり書いてあります。この法律でこのようにユダヤ人の範囲が定められたのには理由があって、そもそもユダヤ人とは何か、定義すらなかったのです。そこで、「血さえ繋がっていたらユダヤ人だ」と極端なことまで主張する人も多かったのですが、そんなことを言い出すと、ユダヤ人の範囲が膨大な人口に膨れ上がり、影響が大きくなりすぎるため、その範囲をできるだけ狭めたのがこの定義です。野放図にユダヤ人を認めると百万人をはるかに超える人口になったのが、このニュルンベルク法の定義により77万人程度に収まることになりました。この定義でも、まだまだ十分ではありませんでしたが(有名なヴァンゼー会議では、その大半がユダヤ人の範囲について確認の話だったようです)、要するにユダヤ人をなんとかするべきと考えながら、ユダヤ人がなんであるかはっきりと知っていたわけではなかったのです。
自身の信仰を変える人はそうは多くないので、アバウトには「ユダヤ人=ユダヤ教徒」は遠からず合っているとは思いますが、少なくとも当時は人種、乃至は民族と捉えられており、ユダヤ人だけでなく、ロシア人はスラブ系民族、ドイツ人はゲルマン民族でありアーリア人などと、人種・民族として人間が区別されると考えられていたのです。この辺から話が難しくなっていくので、私にもそんな難しい話はできませんが、人種間で優劣があると考えられるようになっていたのです。その背景には、科学の発達があり、進化論があります。人種・民族の優劣は進化によって決定され、遺伝的なものであると考えられるようになっていたのです。広義的な優生思想ですが、狭義的には安楽死作戦(T4作戦)で障害者を殺したのははっきり優生学として考えられたからです。
そして、ユダヤ人達は歴史上、古くから色々と差別を受けてきたわけです。大きな話としてはキリスト教の発達と共に、ユダヤ人は社会的な差別を受けることが多くなりました。ユダヤ人が「ゲットー」に住まわせられたのはナチスドイツが初めてではなく、中世にもありました(ただしナチスドイツ時代ほど悲惨なことはなかったようです)。しかし、近世代に入ってユダヤ人に対しての偏見として大きな意味を持つようになったのは、ユダヤ人には富裕層が目立つことでした。これには理由があり、歴史的に金融的な仕事は卑しい仕事としてキリスト教社会では規制されていたのですが、ユダヤ人には認められていたからです。ところが、それによりユダヤ人(の一部)が富裕となると、資本主義の発展と共に、ユダヤ人の影響力が大きくなり、20世紀初頭、影響力の大きかった偽署『シオン賢者の議定書』に代表されるように、ユダヤ人が世界支配を企む陰謀者だのようなことまで言われるようになるのです。ヒトラーも相当程度、『シオン賢者の議定書』を信じていたとされます。そして、ドイツが第一次世界大戦に敗れ去って、不当に領土を奪われ、膨大な賠償金を課せられて国が酷いことになったのも、ユダヤ人のせいだと思われるようになったのです。こうした、社会的な悪影響をユダヤ人のせいにする考えは欧州では広く当たり前のように行われていたのです。ヒトラーもその一人だったに過ぎません。
ホロコーストが何故起きたのかについては、以上のような背景事情を認識する必要があります。だから、例えばユダヤ人を根絶させるためにユダヤ人に対する不妊治療まで行われました。ユダヤ「教徒」を問題にするならば、単純に日本がキリスト教にやったように禁教にして仕舞えばいいのですが、そんなことはしませんでした。ユダヤ人はあくまでも「人種」だったからです。ユダヤ人は特徴的な外見を持っており、当時はその外見的特徴をやたらに強調した差別広告も珍しくなく、またユダヤ人の識別図まで公式に作られたのです。これによって、ユダヤ人ではないのにユダヤ人と間違われて収容所送りになる人さえいました。ナチスドイツはユダヤ人排除政策として最初は、ユダヤ人のシオニスト(ユダヤ人の国を作るべきと考える人)と協力してユダヤ人のパレスチナ移住を推進しましたが、途中でやめています。何故なら、それではナチスの管理外にユダヤ人を温存させることになり、将来的な憂慮すべき問題として残ってしまうからです。イスラエルは欧州に近すぎると言うのもありました。だから、マダガスカル計画にように可能な限り遠くの土地に強制移住させることまで考えたのです。結果的には戦況の悪化と共にそれも不可能になり、ドイツ支配地域内で虐殺するしかなくなってしまいました。
それもこれも、ユダヤ人を人種として災厄の元凶=悪と考えたからです。未だにそのように考える人は後を立たず、反ユダヤ主義が絶えたことはありません。ウーピー・ゴールドバーグが番組を二週間出演停止になった理由は、人種問題が黒人・白人間にしかないのような印象を与えることを述べたからだとされているようですが、だとするならば、もちろんそんなことはありません。白人至上主義者の多いアメリカでは、同時にその白人至上主義者の多くは反ユダヤ主義者でもあり、ホロコースト否認論者もかなりいます。その根底にあるのはあくまでも、ナチスドイツと共通する「人種差別」であることは間違いありません。
個人的には、「人種」という考え方にはほとんど意味がないと思っています。不当な差別を生むばかりの概念であり、悪影響しかないのではないでしょうか? 極端な言い方ですが、人種が違っても、人間でありさえすれば基本的には交配が可能なわけですから、こうした「混血」の存在こそ人種という考え方は誤っている証拠ではないか? のようにさえ感じます。
そもそも世界が一つになるということは差異がなくなるということです。
秘すれば花とはよく言ったもので、19世紀のジャポニズムと現代の日本文化の消費は様相が全く違う。
日本もどうせ衰退していくんならグローバリズムに塗れて画一的な衰退をするより、
(移民が増える、文化が変容する、拠り所がなくなって苦しむ、一部は原理主義者になる、共同体内で共有できる価値の尺度がカネしかなくなる)
共同体でクズの面倒を見ると言っても面倒見のいい人がクズの面倒を80%負担して他の人間は大して何も手伝わない。
面倒見のいい良い人だけがクズの犠牲になり、クズはタダでサービスを受け、残りの人間はクズのいない世界で自分の人生を謳歌する。
最近某お悩み相談系ラジオを聴いていてたまに気になるのは、モラハラ夫や毒親などに対して「逃げろ」「離れろ」というアドバイスが圧倒的に多いこと。一言で言うと、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」だ。
目の前の相談者に対するアドバイスとしてはもちろん圧倒的に正しいんだけど、モラハラ夫や毒親は別に社会から消えてしまうわけではなく、そうした人はどこかで社会生活を送り続けることを考えると、結局別の誰かが「犠牲者」になっているであろうことを想像してしまう。
象徴的なのが、その全く逆の、周囲の友人や近親者の関与や説得などによって、モラハラ夫や毒親の行状を改めさせるべき、というアドバイスがまったく皆無なこと。それやろうとかえって疲弊するだけだ、というのはとてもよくわかる一方で、悪人やクズ人間は所詮は変わりようがないから一切関わるな、という人間観はどこかヤバいものを感じる。それは「差別」「排除」につながる発想ではないだろうか。
共同体が強い昔であれば、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」は、そもそも現実に不可能だった。だから「クズ人間」をまともな人間に改めようと周りが頑張った。良し悪しはあったかもしれないが、社会全体で「クズ人間」そのものを減らしていく論理にはなっている。
しかし個人主義社会となって、「クズ人間」と一切関わりをもたなくすることが、比較的可能になった。しかし、全ての人が「逃げろ」「関わるな」で対処するようになると、社会全体で「クズ人間」自体が減ることはない。実際、人間はクズだが仕事ができて金儲けはうまいとか、パワハラで出世している人物はいくらでもいる。
陰謀論で信者を騙して大儲けしている奴とか、ネットの反フェミニストの連中とか、典型的な「クズ人間」が減らずに増殖しているようにも見えるのは、みんなが「逃げろ」「関わるな」という、その場限りでは極めて合理的な行動選択をし続けた結果ではないだろうか。
綺麗な格好している女性は何かしらの理由で経済的な余裕があり、自分と似たような人とつるんでるだけで。
そういう友達がいるのはただの結果にすぎないし、その集団は相互扶助に基づく共同体じゃないから。
そこで背伸びして合わせたって金が消えていくだけで何も増えない。豊かにならない。
テイカーとギバーについて調べた方がいいと思う。一緒にいても減るばかりで豊かにならないのはテイカー。
というかむしろ発達障害系だと、カードローン地獄にハマる可能性すらあるんだよな。
友達に合わせるためにそこまで高価なものは買わなくていい。って思うかもしれないけど。発達系の中にはマジでお金の計算ができない人がいる。
たとえば今月は2万カードで使っちゃったから控えよう。みたいなのできない。限度額まで使っちゃうんだよ。
危ないアドバイスだと思っている。
つまり、今の状況は経済的に余裕がなくても恋愛感情とか家族を持ちたいという気持ちが優先した人達が出産しているのであって、
つまり、未来の経済規模によって子供の数、将来の大人の人口は決定されるべきであり、
これからの日本の経済規模が縮小すると考えるのなら、人口は減少した方が適切であり、寧ろもっと減らすべきだと考える
逆に、将来の日本の経済規模が縮小するにも関わらず、少子化対策だと子供の数を無理矢理増やすと、
というか、今の子供たちも、大人になったら仕事がない、という事態の方が自分はありえると思っている
日本の経済規模が縮小し、仕事も合理化や再編成を繰り返し、他国にお株を奪われ続ければそうなるのは確実であろう
就労できたとしても、今の団塊ジュニアで成功した人達を老人ホームで世話する仕事とかになるだろう
激減しているのではなく、今までの日本の人口が多すぎたのである
なので、「門松」というものが自分で勝手に想像しただけの、現実には全く存在しない事物に思えてきた。
ネットを調べれば、「門松」に関する情報はいくらでも得られるが、それは自分が「門松」という存在を信じているからそれが実在の証拠になると思っているだけで、他人には例えば空想のキャラクターのプロフィールのような、全く滑稽な妄想なのかもしれないと思うようになった。
(その情報はキャラクター同様、あたかも実在しているかのようにイキイキと描かれてはいるが、読むべきフレームがそもそも異なることだってあり得る(皆は、その情報を全くのホラ話として読んでるのかもしれない)。いくら情報を得たところで、そのフレームを私だけが知らない可能性があり、実は虚構なんだという気持ちが捨てられない。)
そんな自ら作り上げた神話を打破するには、実際に「門松」というもの(というか、「門松」が本当に私の妄想だけの存在だったら、この「門松」という文字面から皆は何を連想するのだろう)を見れば良いのだが、今年も結局みつからなかった。
それならやっぱり妄想なんだろうかと思うと、私が存在を信じるすべてのものが本当は実在しないんじゃないかと思えてきた。どうすればいいのだろう。
だからお外で、神話を打ち破るためには「門松」が必要なんだ!と新年早々叫びたいわけだが、この理路を外して叫ぶと、本当に妄想でおかしくなったかのように聞こえてしまう。雪も積もったし、もうダメかもしれない。
(追記)
しかし、インターネットには「門松」に関する記載がたくさんあるのを見ると、「門松」は実在する事物で無いにしても、少なくともこの世界という共同体では共通幻想として認知されていることに気づく。
そうか、私一人のとんでもない謎の妄想なんかではなく、みんな思い付くレベルの妄想なんだ!と思うことができ、それは私の心を癒す事実であるが、しかし、私はそれを実在するものだと思い込んでいたのだ!
これは恥ずかしいことだ。もしそうだとしたら(いやそうに違いないのだ。そうでなければ自分だけのとんでもない妄想になる。それは避けなければいけないレベルの出来事だ)、私は「門松」と同じように、また別な何かの事物をあたかも実在するかのように語っていた可能性がある。
それを相手は「そんなものあるわけないのに」と生暖かく見守っていたに違いないのだ。
陰で失笑されていたに違いないのだ。それなのに、「門松」の態様をあたかも実在するかのように、正月固有の事物であるかのように語ってしまった!ああ、年末の会話をもう一度やり直したい!
(追記2)
ただ、一縷の望みはこの文章を起点として、私の思う「門松」が実現されることである。
これまでは、たしかに「門松」という存在が妄想(それが私の妄想でもいい。共同体としての共通幻想であっても勿論いい)であったかもしれないが、これからは「門松」が私の思う形状で実現されれば、その妄想はもはや妄想でなくなる。
私の思う「門松」という存在が妄想起源だったとしても、それがこれから実在し始める「門松」とイコールであれば何の問題も無いのだ。そういう形でも私を悩ませる神話は解消される。
だから、正月は終わってしまったが、私が見たことのあると思っている「門松」をこれから現実的に作り出していこうと思った。そのためには、インターネットにある「門松」の情報も参考になるだろう。そう考えるだけでも、現実に「門松」が存在するような気がしてくるから不思議だ。
しかし、具現化するまでは気を抜いてはいけない。ゲシュタルト崩壊もあり、何を考えているのか、何を書いているのかわからなくなってきている。結局、私や共同体の意識を占める「門松」という存在はいったい何なんだろうか?
近頃の若年層の間ではもはや経済の低迷は普通の状態とみなされ、
上がらない給料や非正規の増加による経済的苦境に対する対策として、
SNSとシェアエコノミーを利用した金を使わない生活が正解と考えられている
自分とお友達によるマイクロ共同体の中で上手く立ち回ることが良い生き方の指針になっている
Youtubeのチャンネル登録者数やSNSのフォロワー数が彼らにとって人生における成績の目安だが
こうしたマイクロ共同体でも圧倒的に高学歴者と見た目の良い女が有利だ
よくよく観察してみると会社、仕事という戦場がSNSとマイクロ共同体に場を変えただけなのであった
マイクロ共同体では、表面的には優しさに満ちた言葉が溢れ、弱者を含む多様性をも保護するようなフリをしているが、
様々な形で、共同体にそぐわない低ランク人間を排除する、そんなメカニズムが存在することをじっくりと観察していればわかるはずだ
なんか新しいキーボードを買って嬉しいからひたすら文章を書く。書く内容が特に思い浮かばないので頭に浮かんた文章をただひたすら描き続けることにする。牛、馬、さる、キジ、リボンの騎士、岡本太郎。もうダメだ思いつかない。これ以上のボキャブラリティを自分は持ち合わせていない。笛のガムの正式名称って何だっけ。そもそもあのガムは笛の機能はオフィシャル公認のものだっけ。そもそもガムだっけアメだっけ。駄目だ。この世界のすべてが曖昧になる。もうガムでもアメでもいい。何だって受け入れる。お腹に入れば全部同じことだ。ガムはお腹に入らないかもしれないが、それでもいい。すべてを受けれ入れた先に見えてくるものもある。サロンパスもサロンパスの類似品も成分はだいたい同じだって薬局の人がいっていた。だから安い方を買ったほうがいいと。でも自分はサロンパスを買っていた。薬局の人を信用していないわけではない。そういうところで目先の小銭を拾うことは巡り巡って損をすることになると信じているからだ。ポイントカードも持たないことにしている。自分は楽天の奴隷になりたくない。Tポイントも捨てた。Yahooがうるさかったけど全部無視した。最近はコンビニの店員もいちいち聞いてこなくなった。これは自分がどうこうというより世間の流れかもしれない。ココ壱は相変わらず聞いてくる。そのへんで小売業の下剋上というか、我こそが次の盟主になると野心を持っているか持っていないかの違いが現れているような気がする。共同体における王の存在というのはそういうものだ。共同体の中心であり外であり、王であり奴隷である。役目を果たせない王はすぐに交換される。民主主義はその構造を下部に押し付けているだけに過ぎない。それにしてもこのキーボードいいな。ほとんど手首の位置を動かさずに大半の入力を行うことができている。ただやはりカーソルの操作に関してはまだぎこちないところがある。すべてのソフトがhjklで操作できるわけじゃない。やはりカーソルの操作からは離れられない。やはりファンクションキーは小指で押すべきだろうか。押すべきなんだろうな。でもそうすると一番多用する下移動の操作がぎこちなくなる。慣れの問題だろうか。箸の持ち方は学校で矯正されたけどキーボードの操作方法は学校で習わない。今は違うのかな。そうかもな。今は違うだろう。何もかも前提が違う。世の中変わってしまった。こち亀は終わり元号は令和になった。令和になってもハンターハンターは連載再開しない。ハンターハンターの第一話をリアルタイムで読んでいた世代でハンターハンターの最終話を生きてるうちに見られるのは全体の何割くらいだろうか。自分はどちら側に属するだろうか。ハンターハンターの前に連載されていたレベルEの最終話は未来の話だった。その未来の日付は2004年の12月20日だった。もう16年と1日前か。レベルEはリアルタイムで読んでなかったけど、2004年の12月より前には読んでいた。その2004年に生きているのがなんだか不思議な気分だったのを覚えている。
「過狩り狩り」という「良質なマイナー作品」を、「鬼滅の刃」という「大衆の心をわしづかみにする超メジャーエンターテインメント」へと飛躍させたものは、いったい何だったのか。
私は以前の記事で、「鬼滅の刃」がもたらす感動には、ナショナリズムのもたらす高揚感と共通するものがある、と指摘した。社会学者の大澤真幸さんによれば「国民=ネーション」という共同体が、「われわれという一体感=ナショナリズム」を持つためには、「我々の死者」という存在が必要になる。
「かつて自分たちのために力を尽くし、死んでいった人々=『我々の死者』がいた。自分たちもその思いを引き継いでみんなのために力を尽くし、後の世代へと引き継いでいく」という時空を超えた連帯感、「我々の死者」の連鎖こそがナショナリズムの本質なのだ。
「みんなのお陰で命を守れた」「ありがとう最期まで戦ってくれて 自分ではない誰かの為(ため)に」「君たちのような立派な人に いつかきっと俺もなりたい」
「みんなのために戦って命を捨てた『我々の死者』たちを決して裏切らない。彼らの犠牲を無駄にはしない」という思いの連鎖、絆の連鎖こそが「鬼滅の刃」のメインテーマ(主題)であり、それは作品の中で繰り返し、繰り返し、変奏される。