最近某お悩み相談系ラジオを聴いていてたまに気になるのは、モラハラ夫や毒親などに対して「逃げろ」「離れろ」というアドバイスが圧倒的に多いこと。一言で言うと、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」だ。
目の前の相談者に対するアドバイスとしてはもちろん圧倒的に正しいんだけど、モラハラ夫や毒親は別に社会から消えてしまうわけではなく、そうした人はどこかで社会生活を送り続けることを考えると、結局別の誰かが「犠牲者」になっているであろうことを想像してしまう。
象徴的なのが、その全く逆の、周囲の友人や近親者の関与や説得などによって、モラハラ夫や毒親の行状を改めさせるべき、というアドバイスがまったく皆無なこと。それやろうとかえって疲弊するだけだ、というのはとてもよくわかる一方で、悪人やクズ人間は所詮は変わりようがないから一切関わるな、という人間観はどこかヤバいものを感じる。それは「差別」「排除」につながる発想ではないだろうか。
共同体が強い昔であれば、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」は、そもそも現実に不可能だった。だから「クズ人間」をまともな人間に改めようと周りが頑張った。良し悪しはあったかもしれないが、社会全体で「クズ人間」そのものを減らしていく論理にはなっている。
しかし個人主義社会となって、「クズ人間」と一切関わりをもたなくすることが、比較的可能になった。しかし、全ての人が「逃げろ」「関わるな」で対処するようになると、社会全体で「クズ人間」自体が減ることはない。実際、人間はクズだが仕事ができて金儲けはうまいとか、パワハラで出世している人物はいくらでもいる。
陰謀論で信者を騙して大儲けしている奴とか、ネットの反フェミニストの連中とか、典型的な「クズ人間」が減らずに増殖しているようにも見えるのは、みんなが「逃げろ」「関わるな」という、その場限りでは極めて合理的な行動選択をし続けた結果ではないだろうか。
共同体でクズの面倒を見ると言っても面倒見のいい人がクズの面倒を80%負担して他の人間は大して何も手伝わない。 面倒見のいい良い人だけがクズの犠牲になり、残りの人間はクズのい...