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2024-04-19

いじめパワハラ加害者側が狂ってる

何かの動物をたくさん飼ったとして、ある1匹が他の子いじめ出した。いじめられてた子を隔離したら別の子いじめ出した…そんな事が続いたら、普通そのイジメをする1匹を隔離しようってなるよね?

でも人間は何故か、加害性のある個体隔離しない。これが今の学校職場でもありそうだけど。

いじめパワハラ加害者側が狂ってる】

まずこれをコンセンサスにすべき。犯罪って牢屋にぶち込まれるのに、学校職場なんかの中間集団において、なぜか被害者隔離排除されることがある。

権力者とか成功者っていじめするやん、とかいう奴、狂ってる権力者なんかいくらでも知ってるだろ。他人いじめる奴は狂ってるんだよ。マウントは狂いのはしりだ。普通人間は、マウントしなくも自尊心が持つんだよ。

あと、人間心理として加害者の側に立ちたくなるのは獣性、それに打ち勝つのが理性だと思う

2022-01-19

anond:20220119152910

現実として共同体作るのが互助として機能する以上は、個人生き方としてそれを否定するのは不幸にしか繋がらんで。どうも左派ミクロの事案を元に家族共同体中間集団嫌う印象が強いけど、マクロに見れば共助は強力や。

異性婚でも良いし異性や同姓でルームシェアでもいいが、前者は法的に契約として機能するのが強みやな(それは子どもを産むことが背景にあるけど、現代では産む産まないは自由なので)。

2010-08-26

[]新・福沢諭吉

雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。

今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派リバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。

ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームミルなどの古典自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。

福沢以来、丸山眞男大塚久雄に至るまで、個の自立は日本知識人見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。

本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。

しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝個人主義を超克する国家社会主義提唱し、日本浪漫派は近代自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。

いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。

2010-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20100610130845

子供の情操教育には滅茶苦茶悪いけどな。本来お金を払わなきゃならない物を、ズルしてタダで手に入れる事を親が自ら肯定してるわけだから。

絶対に悪いとは言い切れないんじゃないかな?「ズルしても勝てば(得すれば)いい」というのはそれはそれで一つの道徳規範だし。

ゲーム理論でも(長期的関係が不在な社会でしか成立しないけど)裏切り/抜け駆けが最適解になるケースはあるようで。

個人的には気に入らない方向だけど、流動的で社会中間集団が薄くなった世の中に適応した新しい倫理なのかもしらん、と思ったり。

2009-07-17

いじめ構造

今の日本が直面している本質的な問題は、絶対的貧困でも所得格差でもなく、戦後ずっと維持されてきた日本中間集団の安定性が崩壊する一方、それを受け止めて変化を調整するシステムができていないことだと思う。それが企業社会では非正社員の問題として出ているのだが、学校では「いじめ」という形で現れていると思う。

日本学校は単に勉強する場ではなく、地域の生活や家庭の関係などもすべて反映する共同体になっているため、それに適応できない異端児は、いじめによって全人格的に排除される。いったん排除される対象が決まると、正のフィードバックが生じて他の子供いじめに「群生」し、ときには自殺のような悲劇的な結果をまねくまで止まらない。

他方、学校もこうした行動にあまり介入せず、子供たちを学校ルールを守って「仲よくさせる」ことで解決しようとする。しかし学校の秩序に子供を組み入れても、問題は解決しない。なぜなら、地域の公共空間から隔離され「閉鎖空間ベタベタすることを強制する学校制度」の構造こそがいじめを生み出しているからだ。

著者はこれを中間集団全体主義とよぶ。日本戦後、個人を企業学校などの中間集団に同化させることによって秩序を安定させ、発展をとげてきた。政府中間集団に介入して保護することには積極的だったが、中間集団内の権力から個人を守ることにはまったく注意を払わなかった。このため個人に過剰な同調圧力がかかり、心理的なストレスを生んできた。そのひずみが今、いじめ非正社員といった形で顕在化しているのだ。

戦後日本で、よくも悪くも社会のコアになっていた企業学校などの小集団の求心力が低下した今、中根千枝氏なども指摘するように、もともと日本社会には小集団をコーディネートする構造が存在しないので、混乱を収拾することはきわめてむずかしい。いま永田町で起きている「麻生いじめ」も、こうした日本社会の調整メカニズムの欠如を象徴していると思われる。

2007-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20070429013850

防災関連の仕事してます。といっても地震の専門ではないですが。

最近ODAで、他の国にいって日本の教訓を他国の行政機関や地方自治体コミュニティに伝える機会も多いのですが、やっぱり阪神大震災の教訓といって、世界にアピールしているのは、国家防災計画としての自衛隊の初動ではないわけですよ。おっしゃるとおり。今抱えている某国の案件でも、おらおら軍隊重要だぜぇとは指導していません。というのも、そんなことわかりきっていますしね。いわれなくったってインセンティブあるわけですよ。都市型になって欠如してしまうのはやっぱり地域防災の観点。

ただ、ぶっちゃけた話、コミュニティ防災のような、あるのかないのかわからないような機能をよその国の地方自治体にはいって強調するのもなんだかな??とは思うんですが、しかし、しかし、共助という観念は、公共インフラが壊滅した震災というシチュエーションにおいては、やはり拾い上げざるを得ないんですね。

たとえばこういうことですよ。

行方不明ゼロ 町独自の「高齢者マップ」大活躍(sankeiweb 07.3.29)

http://www.sankei.co.jp/shakai/jiko/070329/jko070329000.htm

記者の目石原都知事阪神大震災発言 小園長治

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070426k0000m070154000c.html

自然災害というのは、行政のリスク管理の観点からとらえたとき、公共インフラおよび公共サービスの崩壊として捉えなければなりません。

つまり、国家-個人との縦軸によって享受する公共インフラ、公共サービスが切断された事態として自然災害をとらえなおす必要がある。縦のラインが切断されたときにどうするか、という問題視角です。この観点にたてば、なんとしても国が国民保護に全力を挙げるべく、自衛隊自衛隊国家の責務を叫ぶより、まず地域あるいはコミュニティの防災管理能力を高める必要があるという議論が現実路線といえます。土地勘のない自衛隊が避難経路を教えてくれるかい?自衛隊がどこに社会的な弱者がいるとおしえてくれますか?誰を優先的に助けるべきかを指示してくれるのですか?と。そういうことですよね。

公共サービスが切断されることを前提として、市民社会の横のラインを充実させる道筋をつける必要があるわけです。

石原発言に反論して井戸知事が「公的救済が入る前に、地域住民による救済が必要な状況だった」と述べていますが、実はこのコミュニティ防災的な認識都市型の震災のもっとも重要な教訓だったともいえるわけです。

これを国家が指導しようとすると、戦時の隣組みたいな、怪しさ大爆発なものになるわけですが。

そういえば大戦末期、空爆下の都市で救助に活躍したのは軍隊ではなく、隣組などの中間集団だったね。

ここはやっぱり、住民レベル災害時のシュミレーションをする教育しかないんでしょうね。

 
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