はてなキーワード: カテゴライズとは
最近はやたらとポリコレに配慮した作品ってのが横行していて、どんなアニメや漫画にだって同性愛や肌の色に幅を持たせている。
リコリコだってそれは変わらない。一般的な男女のカップルがノーマルな恋愛をするって物語はむしろ異端扱いになるんだろうな。
正直そういう上っ面な理性や理想にはうんざりなんだが、たぶん世間ってのはそれで良いんだろう。
たぶん俺のような人間はギャルゲーのように場所にしか居場所がないんじゃないかとおもう。今のギャルゲーを全部知っているわけじゃないけど、別に黒人や人種差別に配慮しないといけないわけではないし、無意味な同性愛カップリングを挟まれることもない。でかい胸や極端な男女論を持ち出しても内容さえ良ければ許される世界。
3次元の動画は既にフェミによって壊滅状態だろうし、残る聖域ってそういう2次元的なものだけになりそうだ。
普段からなにかに配慮してカテゴライズに必至にならないと人間として認められないディストピアに生きるのに比べれば、ちょっと稚拙でご都合主義な空間が心地よくなるんだろうな。
スカート嫌い
実用性がないってこともあるけど(走りにくい、絡まる、階段を降りる時に引きずるから汚い、自転車乗れない、ふわふわして狭い道や人混みで邪魔)
それだけじゃなく、なぜかわからないが嫌い、他人事であれば普通に良いねと思う
女性っぽい格好とか化粧とか振る舞い、できるけど、見た目似合ってても違和感しかなくて着てる自分が嫌いなので、性表現ってやつが女じゃないのかもしれない。
調べたところ、身体の性、性的指向、性自認、性表現とかがあるらしい。
後半の2つがあやしい。とはいえ、積極的に男だとか男になりたいという感じもない。あんまり性別どうこうを強調されたくないしたくないって感じ。自分の見た目や振る舞いに関して。他人は性別を押し出してても何も思わないし、社会が性別の区分けしてることとかも特に。ただ私の社会的性別はどっちでもいいだろ、みたいな感じ。
はてなという媒体を使いはじめたのは、友人が媒体を運営していた10年くらいまえ?に「(自分が運営している媒体の記事を)新着記事に入れたいからブックマークをしてくれ」と頼まれて登録したのが最初だった。
それまで実は存在も知らなかったけど、友人に指定された記事を(自分の思想とそこまで剥離していない限りは)ブックマークをしていた。
その媒体はもうなくなってしまっているが、アプリも入れたのでニュースや話題なコンテンツを調べるときに使いがちになった。
ヤフー知恵袋とか、どこかの誰かが人には言いづらい本音をぶちまけてる匿名記事を見るのが
結構面白いと思っていたけど、なんか最近、上がってくる見出しがすごく辛くなるものが多い。
なんだい、30代なかば(以降)の独身に対して風当たりが強い意見がここ最近一気にふえたなと思うのは自分だけだろうか。
まあもう、そうなったら媒体から卒業時期なんだろう。辛い気持ちになるぐらいなら離脱すればいいだけなんだけど、
古い宿泊施設とかにおいてあるノートに書きなぐるような感覚で、ここにメモをのこしていこうと思った。
自分は職業柄(広告とかなんかそういうかんじ)いろんな年齢層が読む媒体を把握しているのだけれど、
はてなはどちらかというと中年以降が多いじゃないですか。30〜40代代それ以降とか。
ヤフーニュースとか大きな媒体ももちろんいるけれど、それとはまた違った「中年層ニーズ」にかなっている気がして。
そんな重点ニーズの人たちの心臓を刺すような見出しが、最近増えたように感じている。
これはどういう傾向なんだろうね。
自分は少し前に恋人ができて、人生ではじめて可能性を感じた結婚という文字が
相手ののっぴきならない事情ですごくすごく、かすんでしまったという背景もあり、
「さんじゅうなんさいを過ぎたおんなは婚活市場でどうこう」「さんじゅうなかばをすぎた独身はどうこう」
みたいな言葉が、以前よりも増して突き刺さるようになった。
自分自身のことを言われているわけではないのに、
自分自身にあてはまるカテゴライズに向けた意見を見ると、つい「私が言われたんだ」という気持ちになてしまう。
まあインターネットとはそんなもんだ。仕方ない。
このまま結婚もせず、子どももうまず、ひとりで、どこかにやっぱり難があるおんなとして、
ひっそりと生きていこうと思う。
人の、誰にも言えない声を見かけるきっかけにもなる匿名ダイアリーは、面白かったし救われたこともたくさんあったよ。
またそのうち、くるかもね。
定期的につぶやいているが、日本を含めて全世界で汎用的に使える高機能SNSってのはかなり珍しく、その代表がGoogle+だった。
Facebookのように使いづらいUIと全然使えない機能ばかりなSNSは論外。Twitterもサークル機能を取り入れたけど、Google+はもっと先を行っていた。
というより、先を行き過ぎてサークル機能はさほど重要ではなくなっていった。それに変わるカテゴリーのほうがずっと良かったことを踏まえると、いまのTwitterの施策はGoogle+のスタートラインにすら立っていないと思う。
サークルは個人に付与するタグのようなもので、1人をたくさんのサークルにいれることもできるし、サークルに複数人を入れることも可能。そうやって特定のサークルに該当する人にだけ情報を発信したりしてゾーニングが可能。
当然、コミュニティ機能もあるし、のちにカテゴリーという自身の発言をカテゴライズして分類する機能も登場したため、SNSでありながら簡易のEvernoteのような使い方ができる非常に有用なアプリだった。
そもそもとして
じゃぁ!挽肉投入したら食べ応えアップするんじゃね?ってことで、
単純にヒットするいや
なぜか現地の解説の人が
オハヨウゴザイマス!ニューヨーク!!!って絶叫してしまうほど、
それは確かにニューヨークスタイルの片手で食べられるお粥とは言えないけど、
私が思っていた欲していた食べ応えをアップさせることに成功したのよ!
余計な出汁とか顆粒の出汁とか一切無くて味は塩だけでキメられちゃうから
元気なときは
結構考案すれば、
お粥なのにパンチアップ且つ食べ応えのアップできる追加食材はあるはずなので、
良い味も出るし
一石16鳥ぐらいは軽く超えてくるわ。
一石32鳥いや一石256鳥ぐらいはいくはずよ。
そんでもって罪悪感が限りなくゼロに近いしね。
作った方が早いってことにも気が付けて。
でもさ、
そうなると
雑炊とお粥の間って冷静と間って境目がどう定義づけするのかしら?って
具だくさんなのが雑炊、
測りにくい優しさの要素を入れたら
優しさの半分が配合されている頭痛薬はもはやお粥級に優しいってことでもあるし、
そう言う計算式だと。
なかなか割り切れないわね。
なんかいま上手いこと言えたような気がするわ。
だからもっとお粥に入れたらパンチアップ且つ食べ応えのある食材を組み合わせて、
これお粥研究できるじゃない!って夏休みの研究にしてもいいレヴェルよね。
それでさ、
お粥ってお米のできるアジア系に伝わるお米の調理方法の料理的なものだと思うんだけど、
欧米とかでは
弱ったときに食べるお粥に匹敵するメニューってなんなのかしら?
病弱な弱ったお妃さまが、
お粥ですお召し上がりください!って言われてお粥食べていたんだけど、
ぜんぜん落とし込めて無くて、
そうだと思うんだけど
唐突に欧米で出てきたお粥を見て違和感を覚えつつも感じたのよ。
一瞬見逃すところだったわ。
お米をどれぐらい伸ばしてゆるく作るお粥で満足感が得られる限界点突破も試みたいわ。
昨日は4分の3合のお米でチャレンジして、
充分な食べ応えを得ることが出来たので、
お米を少しずつ減らして伸ばしていったら、
人はどこまでお粥だとそれを認めるのか?って
うふふ。
朝にもう9時までには今日のお仕事終わらせちゃったわよ!ってことで、
朝が忙しかったので、
食べ損なったわけなのよ。
というか買っておいたことを忘れておいた感じで発掘よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
syamu、拓也さん、ONDISK、そして中学で同級生だったなっちん
なんていうか、「こいつまともに分かってんのか???」って気分にさせられる
認識がズレてるというか、極端に共感できない。だから見ていて不安になる
例えば、syamuは『ホモ』『アンチ』って言葉を独特に定義している
参考:この記事の真ん中あたり https://kyanoscreate.hatenablog.com/entry/2016/03/24/220612
いや、ホモなんてごく普通に使われてる言葉じゃん。知らなかったとしても、ちょっと調べれば「男性同性愛者」「転じて、男性同性愛者向けビデオをネタにする人達の自称」ってわかんないかなぁ?
他にも「8/10は野獣先輩の誕生日」とか、なんか物事を曲解して覚えてるのを見ると、中学の頃にいたなっちんという子を思い出してしまう
拓也さんは、ほんへを見ていると分かるけどいきなりちぐはぐな事を言い出す
監禁72時間って監禁契約書にサインした男の子と72時間SMプレイし続けるってコンセプトなんだけど、拓也さんは「こいつを客に出すんかぁ」みたいな事を言い出す。なんだ客って。そんな概念を急に持ち込むなよ
Twitterでも「淫夢厨がなにかよくわかんないんだよね」とか顔文字付けて言ってたけど、そんなのぐぐればニコニコ大百科に書いてあるでしょ。分かれよ。モーゼがどうのこうのとかいうツイート、冗談か本気か分からなくてすごく困った気持ちにさせられた
ONDISK。あなたのドキドキ文芸部配信を観ている時、私はずっと不安だった
オタクじゃないONDISKには文脈の掴みづらい展開も多かっただろうけど、だからこそ、どこからどこまで理解できているのか開示して欲しかった
幾人のヒロインに死なれても「ふぅん」とか言いながら文字の読み上げに終始し、ゲームのキャラクターがプレイヤー側に語りかけるクライマックスシーンにおいても台詞の読み上げと進行についてしか話さない
ONDISKくらい頭のいい人なら容易いと思うんだけど、むしろ必要性を感じないから自分の感想を共有してくれなかったのかな?
なっちん。みんなで、ワンピースのリレー小説書いたこと覚えてる?
私は「ワンピースぜんぜん知らん」と笑って、Aちゃんも「最初の方と最近の話しか読んだことない」って言ってて、でもワンピース大好きなBちゃんに直してもらったりしながら書いてたよな
なっちんが書いた部分、明らかにおかしかったよ。文章は上手なのにね。怪我してる奴が元気な状態だったり、その場にいないはずのキャラが当たり前のようにいたり。みんな、どうしていいか分からなかったよ
卒業してなっちんと別れて、拓也さんはTwitterを消して、syamuは引退して、ONDISKもVtuberを辞めて
だけど昨日syamuがまた現れて、そこで私は真っ先になっちんを思い出したよ
要するに、同性愛でも異性愛でも当人が事実婚だと思えば事実婚は成立するがそうではない関係ということ。
お互いにセックスを求めていないなら他人がとやかく言うことじゃないよな。
でも、配偶者が求めているのに一切努力をしない人は普通に批判の対象だと思うぞ。
「変わらず愛してる」なら、何故わざわざ離婚する?
性の対象として見られなくてレスでも、夫婦でいることはできるのに、何故離婚する?
でも産後嫁を性的な目で見られなくなったから離婚って、そこらの身勝手な男と何が違うんだ?
結婚するかしないか、子供を産むか産まないか、事前に選択肢を与えられることなく、産後そうかもなーとは思ってたけどやっぱり夫は持続できなかったわごめん!って…普通に詐欺だろ。
妻に墓場まで持っていけと一瞬でも思わせるほどの嘘だぞ?
「あ〜なんかひまちゃん(本間ひまわり、にじさんじライバー)との匂わせがどうこうとかいう荒らしがいろんな配信に来てたししょうがないか、大変だな」
そう思って動画を開くと、アクシアは怒っていた。「かわいい」という言葉に対して。
アクシア・クローネの怒りについて、みんな意味わかったのか? 俺はわかってないと思った。なぜなら感情的だし、誰も言ってこなかったことを言っていたから。わからなくて当然だろう。
結局「アクシアが彼女(本間ひまわりのこと、彼女なんかではなくよくゲームを一緒にしているだけの関係)と配信してるぞ!」みたいな荒らしが各配信に無限に来ていたということは活動休止に至ったトリガー/キッカケでしかなかった感じがした。
アクシアは、にじさんじに入ってからずっと苦しんでいた。俺は知らなかったからびっくりした。
リスナーやファンの一部が過剰にアクシア・クローネをひたすらに「かわいい」と消費していること。俺はそれはなにも悪くないし、アクシアのなかでも実際嫌悪の延長線上にそういうリスナーがいるだけで嫌悪の根源ではないだろう。過剰に「かわいい」と消費するリスナーがさらにエスカレートして、どうなるか。ナメるようになる。「自分はアクシアよりも上位の存在だ」と自己認識し、それを発するようになる。そうなったリスナーこそアクシアの抱える嫌悪のど真ん中にあって、配信上で触れていた「母親ヅラしたリスナー」「うちのアクシアをよろしくお願いします」の発言者がそれに当たっている。要はなんなのかと俺が考えた結果は、「自分のことを明らかにナメて上から来てる視聴者が自分のファンには居て当然みたいな雰囲気になったら、そりゃあすごいストレスだな」ということだった。
活動者と視聴者は当然対等な関係であるべき。これは決して否定できないことだと思っている。多くの人は対等であろうとし、できるだけそうなるように活動し、視聴をしている。視聴者が特にその活動者を応援しているのであれば、それはなおさらだ。だからこそアクシアは明らかに上位からモノを言ってくるリスナーをストレスに感じるようになった。そしてその悪質なリスナーが頻繁に使う言葉が「かわいい」だったのだ。ストレスが溜まれば溜まるほどに、「かわいい」と言われること自体が嫌になっていく。これはアクシアが弱いからそうなったのか? 他の活動者はそんなこと負担になってないし。俺はそうは思わない。人間としてそうなるのは当然だと思う。もちろんアクシアの言う通り「活動当初から違和感があった」という価値観も助けてのことではある。
そうして活動を続けて1年。溜まりに溜まったストレスは謂れもない荒らしによってアクシアの限界を超えてしまった。その末に発されたのが、活動休止を報せる動画での感情だ。活動者は感情をあらわにするべきではないと、賢い者たちは言う。それは間違いのない理想であって、みんなそう目指していくべきだ。それはそう。でも、その理想に殉じて去っていった人がどれだけいるだろう。俺は、正しさに殉ずるよりも、間違ったことをしてでも俺の見られるところにいて欲しいと思う。しかも、感情の発露によって活動者の気持ちに少しでも整理がつくなら、なおさら。
荒らしや誹謗中傷は問題だけど、それは幸い現代において法的対処が日々有効になっていってくれているのでこの際憂慮しなくても良い気がしている。そもそも俺自身、アクシアとひまちゃんが仲良くてなんの問題があるのかわからんし。言いがかりでしかない。どちらかにガチ恋している人はまあ、お察しします、って感じだけど。そもそもガチ恋ファン活動にはリスクがつきものなんだから、初めからリスクがある行為でリスクを考慮してない人なんているのかよ。ガチでガチ恋している人が今回の荒らしや誹謗中傷に関わっているのかどうかさえ俺は疑問だわ。ひまちゃんに昔から付きまとう熱心なアンチ、アクシアの活動パートナーでもあるローレン(ローレン・イロアス、にじさんじライバー)にまつわる問題のアレコレによって生まれたアンチがこんがらがって大きな荒らし・誹謗中傷がうねって大きくなっちゃったのかな、と思ってる。
だから、トリガーとなった誹謗中傷よりも、ストレスとして大部分となった「かわいい」扱いについての方が考えるべきだろう。
当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。そんなの、この世界が間違いだらけになってしまう。そう思ってる人も多いだろうし、俺自身世界は間違いだらけとは思うけども。
でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。
では、どんな問題があるのか。
にじさんじEN男性Vtuberは約束された成功を見事にモノにし、大躍進を遂げた。当時、俺はその様子を見て嬉しく、晴れ晴れとした気持ちになっていた。
それと同時に、少しの杞憂が俺の中でもたげていた。「日本語をうまく話せない男性に対して『かわいい』と言うのはちょっとひどくないか?」という杞憂だ。これは本当に杞憂にしかならず、実際みんなリスナーの応援を正当に受け取って日本語が上手くなっていった。
日本語がうまくない男性に対して「かわいい」と言うことにどのような問題を俺は感じていたのか。
まず、世界中の男性全員が「かわいい」を褒め言葉として受け取ることができるだろうか。絶対に100%にはなり得ない。この事実がある。これは生まれ育った環境や個人の価値観によって醸成されてしまうものだ。これについての正誤を論じる気はない。個々の価値観による差異、個性と言っても差し支えない範囲であり、それゆえに正されるようなことでもないと考えているからだ。それに、「かわいいと言われることを嫌がるのは自らを女性扱いされていることを嫌がるということに繋がり、それは男性が女性を下に見ているからではないか」という批判も予想され、それは正しい批判として論理は適っている。しかし、「かわいい」と言われることを嫌がるのは性差のような根本的な問題ではなく、もっと表面的な問題だと俺は思う。語感やニュアンス、言葉の持つ雰囲気としての好みの問題ということだ。それは無意識下表層における感覚であり、自覚することが難しく、それゆえに訂正することも難しいことにように捉えている。例えるなら、ハエトリグモをかわいいと思う人もいれば、気持ち悪いと思う人もいるというようなことに近い。ハエトリグモが人間に無害であり、益をもたらすことさえもあると頭の中でわかっていても、どうしても気持ち悪さが拭えない人を責めることはできない。気持ち悪いと感じる人も、ハエトリグモのその機能を嫌悪しているわけではない。それと同じように「かわいいと感じる感情」を気持ち悪いと思っている人は少ない。「かわいい」という言葉として表に出てきていることが嫌なだけなのだ。
「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。
にじさんじENの男性メンバーの完全ではない日本語に対して、「かわいい」と評することへ戻る。日本語話者が他言語話者の不完全な日本語に100%ポジティブとは言えない言葉をかけることは、ほんのわずかではあるがレイシズムの傲慢さを俺は感じた。だからこそ杞憂をするに至った。「頑張ってて偉い」「(日本語話者の)自分より上手い!」から皮肉を感じるのは完全に受け取り方や文脈の問題であり、「頑張ってて偉い」「自分より上手い」という表現自体は100%ポジティブだからそう伝えればなんの問題はないはずだ。それを男性が100%ポジティブに受け取ることができない表現「かわいい」と言うことには違和感を感じてしまう。何より、「かわいい」と言っている側はなんの悪意がないことがより恐ろしく思う。女性にとって「『かわいい」と言われることは良いことだ」というステレオタイプ的な考え方が未だ社会では通用しやすいことは、女性側を苦しめていることが多いが、男性側が今回のように不快に感じることも起こり得る。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざが頭から離れなくて嫌だ。
明らかにアクシアを侮って「かわいい」と発する少数の人間のせいで、「かわいい」と今まで言っていた人たちがきっと傷ついたろうと思うからだ。坊主憎けりゃ〜は明らかな皮肉なので、今回のような悲劇にまで皮肉のような通底を見出している自分が嫌だからだ。
先述したように、俺はアクシアの感情の発露は間違っていないと考えている。彼が限界だったこと、そして感情を発露して表明することで気持ちの整理がついた部分がきっとあるだろうと思えること。なにより、黙って去るのではなく、アクシア自身が「アクシア・クローネ」として活動を続けるための動画であることがわかるから。
彼は動画の中で妄想やそれに端を発する創作活動についての嫌悪感を語った。でも、それはほかの活動者みんなが言っていることだ。「自分の目の届かないところで配慮を忘れずに隠れてやってね」もはや活動者視聴者みんなに知れ渡った暗黙の了解を再度言っただけにすぎない。それなのに、肯定的な自分の目から見ても感情が乗ってしまったせいで、妄想や創作活動を否定するように聞こえてしまう。賢い者たちが感情を見せるべきではない、という理由がよくわかる悲しい現象が起こってしまっている。
でも、この現象もまた、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のシステムが適用されている。妄想のなかで「『かわいい』とひたすら消費することができるアクシア・クローネ」を肯定するような創作活動を、明らかにアクシアを侮った発言をする視聴者が好んでいるからこそそういう感情が乗ってしまったのだろう。
つまり、アクシアはきっと「かわいい」と発している者、ガチ恋や夢と言われる創作をする者を心から嫌悪しているわけではないと俺は思う。ということが言いたい。これは俺個人の解釈だし、もはや祈りに近いものでもある。きっとそうだ、というような。
「かわいい」と感じる感情や、ガチ恋や夢とカテゴライズされる想念自体をアクシアは否定し嫌悪しているわけではなく、「かわいい」と表現されること、「ガチ恋や夢を押し付けてくる行為」を否定し嫌悪しているだけで、それは誰しもが持っていておかしくない考え方だ。
「かわいい」と感じる感情は、言葉として表に出るまでは「かわいい」ではない。もっと大きな「良い」という思いとも言えるだろう。決して「かわいい」と表現しなければならないものではない。APEXでミスプレイをして面白けば、「草」と言えばいいし、仲間想いでやさしい一面を見せれば「尊い」と言えばいい。顔が良すぎて最高な気持ちになれば恥ずかしくても「顔良すぎ、好き」と言えばいいだろう。
そして、「かわいい」という言葉は決して罪のある言葉ではない。ただ、人を傷つけるリスクがわずかにでもある言葉とわかってその言葉を使うのと、何も考えずに使うのとでは全くちがうはずだ。少しだけ頭の片隅にその棘を意識するだけ良い、それだけのことで難しいことではないはずだ。
それだけで、アクシアはきっと楽しく活動をしてくれると俺は思う。
そして、今までちゃんとしたファンとしての想いを持ってガチ恋や夢などの妄想を営んできた者たちは、今まで通り配慮を怠らず、隠れてやっていけばいいのではないだろうか。難しいことかもしれないけど、俺はそう考えている。ちゃんとした考えを持っているファンは、今まで通りちゃんとしてれば良いと、アクシアの動画を見て俺は思った。
アクシア・クローネは、正しいファンを否定し嫌悪するような人間性を絶対に持っていないと、確信を持って言うことができるから。
俺のいた学年が、40人のクラスで男子25人、女子15人と男女比率が偏っていたゆえに起こった問題。
フォークダンスで、男子のうち5人が、女子の列に入らなければならないとか。
合唱のとき、バランスが悪いので男子のうち何人かは女声パートを歌わなければならないとか。
他にもあったと思うが、これを身長順で決められると、俺は確実にその中に入れられてしまう状態にあった。
それが嫌で嫌でたまらなくて、クラスメイトの中から逆に女子と手を繋ぎたくない奴とか、明らかに声変わりしてなくて女声パートのほうが歌いやすいと言ってる奴を見つけだしては、変わってもらうという方法で回避を続けた。
いま思えばある意味相当な自己中で、他にその立場を我慢してる奴の気持ちを考えずに抜け駆けしてたと言ってしまえばそれまでなんだが、なぜ俺だけがそんなにも我慢できず、女子側にされることに嫌悪感があったのか。
考えてみると一種の去勢不安というか、実は男としての自信のなさの裏返しだったのではないかと思う。
そういえば当時は、二次性徴が平均より遅い自分に焦りやコンプレックスもあった。そこから、ちゃんと男子としてカテゴライズされたいという欲求が、異常に強くなってしまったのかもしれない。
昨今は五輪の影響なんかもあってスポーツそのものを否定する意見が多く見られるようになってきた
その様な意見のうち「(自分はスポーツを一切やらないので)スポーツ鑑賞の面白さがわからない」とか
「スポーツを見るよりは実際にやるほうが楽しい」という意見があり、実際の所それらを否定するつもりはない 別にそういう意見があってもいいだろう
問題は「スポーツとか見て何が面白いの? 見るくらいだったら実際にやるわ!」といった意見だ
前述の意見と何が違うのか疑問に思うかもしれないが
前述したのは「スポーツを実際にやることは[相対的に]見るより面白い」ということであって
要するにタイトル通り『スポーツをやるのは楽しいが見るのはつまらない』という意見はおかしいと言いたいのだ
だってそうだろう
自分がやっているスポーツで 自分より上手いプロが試合をやっていたとすれば
観察することで何か学びがあるかもしれない
自分ができない高いパフォーマンスを見せつけるプロであれば鑑賞するだけでそのスゴさが伝わってくるはずだ
結局のところ「スポーツをやるのは楽しいが見るのはつまらない」と言っている人達はスポーツなんてやってないんだろう
何か体を動かしているにしても「運動」とか「エクササイズ」とかにカテゴライズされる行為をしているのでは?
要は競技性なんて全く求めてなくて汗を流したいから体を動かしているだけ
彼はフットサル自体には興味が無いが人とコミュニケーションを取りつつ汗を流したいからフットサルやってるだけ…みたいな
この例ならスポーツ観戦の方に興味が無くてもおかしくないだろう
要するに「俺はスポーツに興味無いから鑑賞もしないけど、体を動かすのは好きだよ」
こう言い換えるべきなのだ