はてなキーワード: 過激派とは
1つは、言論の自由だ。自粛であれ何であれ、言論の自由を制限すべきだったのだ
ろうか? その答えは、断固として「ノー」だ。
2つ目は、欧州におけるイスラム教だ。今回のような出来事は、西側の民主主義とイ
スラム過激派との間で交わされている文明闘争の一環なのか? 戦場はペシャワール
からラッカへ、そしてパリの中心部にまで広がってきたのだろうか? その答えは、
やはり「ノー」だ。
シャルリエブドの刊行物は、すべて正当な権利の下で発表されたものであり、フランスの
法律がそれを認めているのも正当なことだ。この点については、いかなる留保もあり得ない
。風刺画や意見が不謹慎で悪趣味であったとしても、それが直接的に暴力を扇動するもので
ない限り、発表を禁止すべきではない。
シャルリエブドは、イスラム教だけでなく、あらゆる宗教を風刺している。とはいえ、仮
に同紙がそう望んだのなら、イスラム教だけを風刺する権利もあるはずだ。それは、欧州に
住むイスラム教徒が、欧米の退廃を非難したければそうできる権利を持つのと同じことだ。
いずれにしても、怒ったり怒らせたりするのと、それを理由に人を殺すのとでは、天と地ほ
どの違いがある。その間を隔てているのは、数世紀にわたるリベラルな政治思想だ。鉛筆やキ
ーボードを使ってできる行為で、カラシニコフによる報復が正当化されるようなものなど1つ
もない。
question:http://anond.hatelabo.jp/20150110214339
宗教を信じる人(イスラム教徒ぽい)が信じない人(non-believer) によって書かれたものを見て、傷つきショックを受けている様子。その横には宗教を信じない人が信じる人によって短剣で殺されている図。
確かに、イスラム教、キリスト教を煽るような鋭い風刺画が数多く書かれたかもしれない。それが嘘ではなく本当のことだからこそ、多くの人が反応し、論争を巻き起こし、それがメディアとしての立場であったのだと思う。それに対して暴力で抵抗するという行為が短絡的で幼く、卑怯で、どんな理由があったにせよ許さざる行為であることは誰の目にも明らかであるはずだ。だからこそ、多くの人が"Je suis charlie”を掲げているわけで、私もここにいる、意見をもったその一人だ、という意味だと思う。をれを卑怯な行為として責めるという人がいることに驚いた。
追記:言いたいことはこの方 http://blogos.com/article/103027/ が的確に言い表しておられますので追記しました。
この種の事件が起きると、被害者の落ち度を指摘する声が上がる。テロは許されないが、被害者も悪い、というわけである。テロが現実に行われているこのタイミングで、被害者側のアラを指摘するということの意味は、どんなにテロはゆるされないとの前提を置いたとしても、結局テロにも一分の理があるといっていることになるのだ。そう、ちょうど性犯罪被害にあった女性に、挑発的な服装だと非難するようなもので、その指摘が真実にかなっていたとしても、その効果は犯罪行為の許容をもたらす。表現行為の当否をめぐる議論は、また別のタイミングで、暴力にさらされていないところでのんびりやってもらいたいものである。
Charlie Hebdoを
非常に極端な新聞社
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか
といじめられっ子に仕立て上げる、ここが論点の間違いです。だから"Je suis charlie”は適切でない、という理論は結局成り立たないばかりか、テロにも一分の理があるといっていることになると思います。
追記:http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0 フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について
に詳しく書いてあるように、Charlie Hebdoは
シャルリー・エブドの風刺については、何もイスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりもイスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する風刺を中心としていたようだ。「表現の自由」というフランスのプレス、フランスの文学、哲学の根幹とも言えるようなものを代表し、具現しつづけていた新聞社だった。彼の風刺画はあくまでもユーモアであり、誰かを傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で描いていた、ということだ。
わけで決してイスラムに対するヘイトスピーチではなかったということは非常に大切な事実であると思う。
追記:根本的にテロ容認論ではないと言っていながら"Je suis Charlie”を掲げることは卑怯な行為というのがどうも矛盾しているとしか思えない、いま、この時期に多くの人が"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”からである。”Je suis Charlie"は、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
追記:id:angmar ジャイアン=Charlie Hebdo のび太=イスラム教徒とする理由がわからない。どちらかというと逆だと思う過激で暴力的で人の意見に耳を貸さないジャイアン=過激派イスラム教徒に対して、コツコツとジャイアンを風刺(非難嘲笑含む)してきたのび太=Charlie Hebdoがジャイアンに殴り殺されたという風にも言えると思う。クラスのみんな=フランスはいろんな意見があって、ジャイアンが悪いという人もいれば、でもジャイアンはジャイアンなりの生き方があるだろうと寛容しているひともいる、ジャイアンが怖いし敢えて面と向かって非難することはなかったし、のび太もちょっとやりすぎじゃないって思う人もいたんだけど、この機会に誰もがジャイアン、いくらなんでも人を殺すのはよくない、となっているんではないんですか。
追記:id:kantei3 私はこの時点で"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”ということだと思うので、"Je suis charlie”は卑怯ではないと思います。イスラムなんとかが主要メディアを買い取って、それ方向の出版ばかりやったらそれは非難されるべきことだと思います。Je suis charlieは、繰り返しますが、私はレイシストです、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
最近の韓国批判は酷いもので、ネットも書籍もとりあえず韓国を批判しときゃいいだろみたな風潮である。
そんな中ふと、このネトウヨの嫌韓はいわば宗教みないなもののように思ったので書き出してみる。
「私、K-POPが好きです。」という書き込みをネットで見かけた。しかしその後のネットの反応たるや誹謗中傷の嵐である。
「頭おかしいんですか?」
「奴らはクソだ。奴らを肯定するお前もクソだ。」
しかし日本では個々人の趣味趣向は自由のハズ。なんで好みを言っただけで、国民であることや彼女(多分女性)自身が否定されなきゃならないんだろうか。
そしてふと何かに似ているような気がした。
そうだ「イスラム国」だ。
ご存じの通りイスラム教はアッラーを唯一神とし、教えはコーランに準ずる。そしてイスラム国は自分たちの思想以外は認めない。思想が違えば「悪魔(異教徒)の手先」として殺される。十字架を持っている?悪だ。殺すべし。
ネトウヨにとっての思想・教義は「韓国は敵だ」ということだろう。それに従わない場合は容赦なく攻撃する。それが趣味や好みの範疇だろうが関係ない。教義に反したのだ。それはつまり悪であるということだ。悪なら攻撃して問題ない。キムチが好きだ?悪だ。死んだ方が良い。
宗教全般にそうだが、人生や生活への不安を神と共にあると信じることで和らげ、心の拠り所にする。
ネトウヨは韓国を批判することで、心の平穏を保つ。例え自分が将来に何の可能性を感じない底辺な存在だろうが、自分は日本国人、彼らはそれより下。そう信じることで自尊心やアイデンティティを維持する。
イスラム教では日々神に祈りを捧げることにより、神を身近に感じ、心の平安を得ている。
ネトウヨは日々韓国の悪口を書くことで、ストレスを発散し、仲間の同意を得て教義を再確認し、心の平安を得ている。
イスラム国の戦闘員たちに、いくら「神様なんていないんだ」と説明しても通じない。科学や論理など意味をなさない。彼らにとってコーランが世界の法則であり、その歪曲解釈が正義なのである。
ネトウヨにとって「韓国が敵」であることが世界の法則で、韓国の批判こそが彼らの正義。彼らは根拠のない根拠や出所不明なデータ、使い方を誤った統計データ、そして完全な主観を繰り広げ韓国を批判するが、しかしそんな内容など実はどうでもいいのだ。教義に準じていればそれで良い。客観性やソースへの批判?それは教義に反する悪だから無視して良いのだ。
イスラム教には「異教徒を殺しても良い」という教えは含まれていない。しかし過激派は教育を受けていないので本が読めず、勝手な解釈をして乱暴な手段を講ずる。
韓国政府のやり方は褒められない点も多いが、イコール韓国全体・韓国人全体の批判には結びつかないハズだ。しかしネトウヨは無知なので、嫌韓の教えを無抵抗に信じ歪曲解釈をして乱暴な手段を講じる。
そのうちどこかでテロが起きるんじゃないだろうか。
どれも、単に「行きたくない」という人間の「言い訳」にすぎなくて、「存在意義」ではなくね?
要するに「俺の一票では何も変わんねーべや」って意見。まさに民主主義社会の寄生虫意見であって、そんな意見に「存在意義」があるという主張は理解しがたい。なお、「小選挙区制により、多数の無効票が発生する点にも注目したい。」という考え方については、毎度のことながら目を覆うばかりなのだが、これは簡単に反論できる。
具体的には、選挙は一回で終わるわけではなくずっと続くものであるから、「10万対9万9千」での勝利と「10万対0」での勝利の意味の違いが理解できないような人間が勝利し続けることは不可能なのであり、従って「9万9千票は無効票」という考え方は、自分の意見が当面却下されたことに対する、あまりにもナイーヴな反応としか言えない。
つまり「鼓腹撃壌」論。「鼓腹撃壌(支配者への不満がないから、民衆が為政に無関心)」というのは、古代東洋の理想とする社会ではあったが、民衆こそが支配者である今日の世界で、投票の権利を行使しないことは、たとえれば「支配者が支配への責任感を忘れ、世俗の楽しみにうつつを抜かしている状態」と同じなのであって、とても肯定できる状態ではない。なお、普段からの政治への関心が低い場合にこそ、何か政治に問題があると感じられればすぐ暴動につながるのであって、政治に高い関心をもち熱心に投票する人間が暴動を起こすというのは、明らかなミスリードである。デモと暴動を単純に一緒にすべきではない。
これが唯一「存在意義」に近い主張。ただし、(その2)と同じ理由で却下。「みんなが政治に参加する社会なんて怖いだけじゃないだろうか。」じゃあ、誰に政治をやらせれば「安心」なのか。天皇陛下か? 総書記か? 大統領か? 「どこかの誰かエライひと」か? 憲法には「主権者は国民である」と規定されているので、あなたが責任と権利を放棄すれば、あなたはそれを誰かにひっかぶせることになるだけ。「過激派への緩衝剤」というメリット以前に、国民が責任と権利を放棄しているということのリスクが大きすぎる。
もちろん「不参加」というのは意志の表明である。ただし、「私は、主権者としての責任から逃れさせていただきたい」という主張と同一である。要するに、国民主権の国家においては、たとえば納税の義務を逃れようとするのと同じく、犯罪に近い。極論に聞こえるかもしれないが、たとえば「全員が主権者としての責任から逃れようとして投票しない状況」を考えてもらいたい。誰も税金を納めなくなった状態と同じように、国家は運営できなくなるだろう。したがって、その意思を表明する以上は、自分の意思の罪深さを知り、せめて他者からの批判や非難の言葉くらいは感受すべきである。我々が、投票しないあなたに代わって政治を選択する責任を果たしているのだから、責任を果たさないあなたは文句ぐらい言われるべき。
上と同様である。どのような宗教を信じることも自由であるが、犯罪的な思想をもち犯罪的な行動を行えば、当然犯罪として処罰されるのであって、事実犯罪ではないとしても、批判されてしかるべき信条に基づいた宗教を信仰する以上は、批判されるしそれは当然のことである。
投票しないと非国民扱いされるらしいので、昔、政治学の講義でならった学説をいくつか紹介しようと思う。
投票することによる限界効用が逓減しているという説。この種の人々にとって投票に参加することで得られる効用の増分は少ない。投票することで効用が下がってしまうことすら有るだろう。若者に世代間格差を訴え投票参加を促すことは効用の存在を提示する試みと言える。(無党派層が怖いから)雨で寝てればいいのにという政治家の発言も雨降りのなか参加するほどでもないという有権者の性向を巧みに利用したと思うと合理的である。
※前回のエントリーで、経済学を知らない人に「効用」を金銭的価値や利己的な利益と勘違いして批判されたのだが、ここでの「効用」とは経済学用語のそれである。例えば、自分には痛みのある政策であったとしても社会がよりよくなるならば、ある投票者にとっては効用があると感じる可能性はある。つまり自分自身の金銭的利得だけをさすのではない、いう点に注意。
今回の選挙で言うと、自分にとって重大な争点が無いという点も、投票行動に対する効用を低下させる要因である。
また、小選挙区制により、多数の無効票が発生する点にも注目したい。
現状の政治に満足しているため、投票に行っていないという説。この説によれば投票率の低さは、ある意味では日本の政治が一定の成功を収めていることの証左といえる。あまりに問題が多い社会だと、投票率は上昇するだろう。それ以上に問題があると暴動やデモになる。
過激な政治行動に対する緩衝材となるので政治的無関心にも一定のメリットがあるとする説。みなが政治に熱心な社会は、本当に平穏で健全な社会だろうか。考えてみてほしい。渋谷をうろうろする右翼のクルマ、国会前の反原発デモ、インチキくさいアメリカの大統領選挙の集会。みんなが政治に参加する社会なんて怖いだけじゃないだろうか。つまり、政治的無関心は過激な政治行動を起こす層に対するクッションとして作用しているのである。
意思表明には多種多様な方法がある。「最低でも白票を入れて意思表明しろ」という意見もあるが、それはそれで一種の価値表明である。参加しないことで行われる意思表明もある。
http://anond.hatelabo.jp/20141116222826
たくさん?のブクマありがとうございます。
id:a2de うんこしないのなら食べたものはどこに行きやがりますか
食べたものは空気となり、皮膚から排出されます。ゲップなどはしません。
id:funapon22 可愛い女の子になれる教 もどうぞ
残念ながら我々凡人は美少女にはなれません。美少女に似せて作られたのが我々なのですが、かなり劣化しているようです。
id:nanoha3 お漏らし教信者です
おやめなさい。その努力は無駄に終わるでしょう。そもそも何もでないのですから。
id:nakoton 美少女のうんこを食べたい教と血で血を洗う争いをしている過激派集団かな?
あれはただの水です。
外国人と話していたとき(英語)、「宗教」と「排他的宗教」同士のぶつかりあい(宗教戦争)について
と伝えると、大抵は、「非常識」と訝(いぶか)しがられたり、「信じられない」と不審がられる。
言い方を変えて、
基本的には「神道」で、やや「仏教」寄りだが、「キリスト教」に基づくクリスマスも混在しており、
日本人にとっては、冠婚葬祭時などの儀式的なものでしかなく、どの宗教を信じるかは自由であり、
「無宗教」と言う人も、「神道」には則しており、しかし強制力もなければ自覚もない。
「排他的思考や、害をなさない宗教であれば、何を信じようと自由だと思う」
と詳しく伝えると、何故か感動され、理解された。
実際、「自分は無宗教だ」と言う日本人は、非科学的な「経典/教典」を用いる宗教には興味が無く、
この点は、外国よりも優れた技術力を持ちうる要因の1つだと言える。
余談だが、
「ユダヤ教の教徒の子供は、自動的にユダヤ教である」という馬鹿みたいなことを、世界は信じるが、日本人には理解不能だ。
「イスラム教」については、「レイプされた女性は、3人以上の証人がいないと逆に死刑レベルの罪になる」とか、
イスラム過激派について、「ネタとして」と言いながら、大目に見ている連中が多いよねという話をしていたときに聞いた話だ。
結論だけ言うと、「ネタとして」と言って、誰もおかしなものをおかしいと言わずにいると、だんだん「ネタ」じゃなくなるのだと。
「ネタとして」と言ってるうちに、感覚が麻痺するし、そこで使われている特殊な用語への抵抗感もなくなるのだと。
そこにお墨付きを与えているのが内田樹のような「まじめそう」なネット著名人なので、
「大丈夫っぽい」というイメージだけは重ねられていて、こじらせると大変らしい。
ここ読んでる人の友達にこじらせかけている人がいたら、
人質の首を切って殺しているのを撮影したビデオを世界中に流すのは、おかしいだろ?」
ということを言ってやってほしい。
ちょっと追記も含めて書きなおした。
・メールがLINEやその他のインスタントメッセンジャーアプリに置き換わる。
・インスタントメッセンジャーのなかにも、迷惑メールにあたるものが来るようになる。
・最初はSNSが統合され、次第にタクシー配車や、レストラン検索、地図アプリなど実用的なアプリがメッセンジャーに内包されていく。
・売りたい人と買いたい人をつなぐ、楽天的なサービスが拡充。工場直販が増加。中抜き専門の中間業者が死んでいく。
・ここまで完全無料。クリックして処理完了までの間、広告がちらっと見えるだけ。
・銀行口座直結でのオンライン決済システムや送金システムを内包。決済や送金用のオンライン上に少額口座が開けるように。
・最初はバーコード認証だったが、次第に非接触式ICでスピーディーに。
・普及はクレジット決済システムが普及していない途上国が先行。特に、中国では検閲を煙たがりクローズドなSNSに走る人が続出。
・オープンなインターネットを志向する先進国では普及送れる。グーグル帝国の支配は緩まず。
・当然、中国当局は検閲してる。それでも追いつかなくなるほど普及。13億人の会話を全部検閲するには常識で考えて無理。
・バーチャル通貨、バーチャルクレジットカードを経由して、金貸しまでできるようになる。ノウハウを活かして、利用者同士で借りたい人と貸したい人をつなぎまくる。
・ここまでも完全無料。クリックして処理完了までの間、広告がちらっと見えるだけ。
・中国当局、銀行もクレジットカード会社もぶっ潰す可能性に今頃気づく。当然規制しようとするが、大きすぎて潰せない。国家戦略として積極的に輸出する道を選ぶ。
・Google焦る。矢継ぎ早にパクリまくる。新サービスの会社を買収しまくる。
・Apple、iPhoneにNFC搭載。日本では思ったほど普及していかない。iTunes経由じゃないとチャージ出来ないSuicaはやっぱり使いづらい。
・意外と信販会社は生き残る。2020年でも米国はクレジットカード会社の天下。貧乏人は安いし便利だけど大雑把すぎて不具合だらけの中華アプリとGoogle謹製アプリは庶民。中間層から富裕層はみなアメリカンエキスプレス。
・LINEが頑張るが、前例のない新ビジネスはすべて所管省庁からお叱りを受けてすぐ撤退。スタンプがGifアニメになる程度の進化にとどまる。
・日本の戦略はクールジャパン、HENTAIの国の路線。男の娘だからロリじゃありません!的な寝言を言い続ける。
・中国がITで躍進。韓国とインドが米国のIT下請け。GoogleとAppleの帝国の支配力は弱まるが、それでも米国は好景気続く。金融業も潤って100年後も金持ち。
・米国と中国がネットの2大勢力としてしのぎを削っている頃、経産省が国産スマホOSの開発に乗り出す。富士通に投げる。
・国民健康保険と住基ネットカードと年金手帳と運転免許証を統合した情報端末!というのが売り。
・年金と健康保険は厚労省、運転免許は内閣府ということで折り合いがつかず、頓挫。
・運転免許情報と住基ネット情報だけ入った端末がdocomoから発売。結局、OSはAndroid。ただし、役所じゃないとOSはアップデート出来ないという仕様。
・21世紀はイスラムが躍進するかのように見えたが、そんなに躍進しない。利権を争ってイスラム国同士でもめる。宗派同士の争いを煽って収集がつかない。
・中華アプリの決済システムはイスラム法に抵触しないと中国人が売り込む。米国がイスラム過激派の口座を差し押さえるとかなんとかで中華アプリの使用停止に乗り出したり、出来なかったり。
・日本、左派が政権をとり、日米安保を捨て、中韓ともっと…みたいな寝言を言う。
・その矢先、中国と米国が金持ち同士仲良くやろうぜと接近。日本と韓国が困る。台湾、もっと困る。
・いつか破裂すると言われ続けた中国経済は順調に成長、急激な高齢化だけが悩み。
戻った
こうして見ると、俺とあんたで
はてサとして想定してるメンツは思ったより一致してる感じがする
確かに数としては結構残ってるということになるのかもしれないな
ただ、はてサの中でもそれなりにまとまった論考記事を発表して
はてサとしての統一意見を形成していくいわばリーダー的ポジションの奴と
それに追随してブックマークコメントとかで支援していくポジションの奴が
いると思うんだが、俺としてはそのうちのリーダー的ポジションの奴が
たとえばあんたが「特にタチが悪い」として挙げたapemanやscopedogは
前者は明らかにツイッターに軸足を移しつつあって、エントリの質・量ともに低下傾向にある
後者はツイッターへの移行の気配は今のところ感じられないが、エントリの質・量はやはり低下傾向にある
それから、リーダー的ポジションのはてサとして絶対はずせないのがhokusyuだと思うが
こいつはヘイトスピーチに反対する会とやらを結成してノマとかと抗争しててはてなの方は完全に捨て去ってる
残党が残ってるとしてもはてサという一派はすでに崩壊してる、すなわちオワコンと言っていいんじゃないか
ってのが俺の見解だな
「リアル社会における極左、過激派に属するはてサ」ってのがどれだけいるかってのは
なかなか難しいな
共産党員であることを表明してる奴は何人かいるが、過激派についてはなんとも、としか言えない
個人的な感覚としてはほとんどいないだろうと思ってるが、根拠はない
悪いな