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はてなキーワード: 自発的とは

2019-10-31

学校教育の最大の目的

それは他人の設定した目標に向かって努力することを教えることだ。

数学社会試験で良い点を取るという目標自発的には決して出てこない。そもそも試験自体他人が作り押し付けものである

誰もが他人目標を達成すべく努力する。それが価値を生み出すということであり、社会に生きるということなのだ。

教育を受けてる者はその構造内面化し、従わない者を疎外することを習得する。

「将来の夢は?」という質問典型的な例だ。

毎日おいしいパンを食べること」と答えようものなら一笑に付される。

夢は個人的ではなく社会的なものなのだ他人が求める価値提供しない夢は夢ではない。職業ないし世間を喜ばせることでなくてはならない。

我々は社会を成り立たせる教育功罪についてよく考えねばならない。

2019-10-29

anond:20191028220615

https://anond.hatelabo.jp/20200708005431

以下、本記事です

==

元記事

前記

元の人です。

ちゃんとした自己紹介、現状報告、ブックマークコメントTwitterで見つけた質問への回答していきたいと考えています

自己紹介

その後どうなったか

質問への回答

以上です

欲しいものリスト、公開したら叩かれますかね?

元記事

前記

最終編集

欲しいものリスト、そっと公開しました、暇があれば探してください

https://anond.hatelabo.jp/20191029132449 の続き

アファーマティブ・アクションとその後の世界

ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種アファーマティブ・アクションとしては、一定妥当性を持つと考える。一方で、真に差別解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージ人物複数掲載する場合人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定人種のみをアイキャッチに使う場合人種差別助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等是正するための措置であるという事実無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性アイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性アイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。

このようなアファーマティブ・アクションそれ自体不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。

件のポスター性的、あるいは過度に性的なのかどうか

議論の多くは、おそらく件のポスター性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営合意は、ほぼ得られていない。

擁護派の多くは、件のポスター性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。

巨乳はいけないのか。ポスター批判派は巨乳自体攻撃しているのではないか

巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。

擁護派はオタク表現に親しみすぎて、性的表現無自覚になっているのではないか

これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分認識社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである

例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。

今後社会は(緩くなっていく|厳しくなっていく)

何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。

ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である

一方で、私は別の未来想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク自体一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代誕生である。こうなった場合乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。

ナミとセーラームーンが許されるのはおかしいのではないか

宇崎ちゃん性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーン性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。

ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃん性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。

ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的表現無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんポスターが「乳袋女性性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性から)セーフ」という話になってしまった場合個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。

セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的表現についての批判女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーン使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。

ポスター批判からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。

本人の気持ちと背景情報

ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性自分にとっては裸がもっと自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスター使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチ議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在日本において、恐らく多くの人は、裸の女性写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装自発的に好む女性存在するが、公共の場ポスター使用することは適当であろうか。もし、そのような服装適当でないと考える場合、あるポスター評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的もの性的であると見なされるということである

ところで、海外の識者に宇崎ちゃんポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画アニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんセーラームーンどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的表現無自覚であると見なされるかもしれない。

こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現性的かどうかを判断している。そのため、「勝手性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的表現基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。

長すぎて自分もびっくりしたわ。まだ続くよ。

https://anond.hatelabo.jp/20191029132908

ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。

ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。

ポスター擁護派の反発の強さ

いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイ人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。

ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことであるポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由ポスター問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。

個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見法律を超えた「過剰な要求」に映っている。

では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。

ポスター取り下げの圧力はやりすぎなのではないか

安易ポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判Twitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。

さて、赤十字にも、表現自由がある。赤十字公的団体私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字自由だ。赤十字インターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である

前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまりロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界放送業界などを始めとして、様々な企業業界には、表現者として独自ガイドラインがある。これらは過去ロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現自由関係が無い。

強引なロビイングの是非

ところで、何人たりともリソース限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営から意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンス問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字判断だ。赤十字には自由がある。

しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイング方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手リソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体非難対象となり、結果的に周囲から理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見つぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。

ロビイングが下手な方が負けるのはいいのか

ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国NRAロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRA発言権強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなた意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。

表現の萎縮と緩和の難しさ

さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルール安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。

たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラスト禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルール部落開放同盟から意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。

一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイング社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性考慮した場合ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。

定義エリア問題公的機関責任

日本赤十字は半ば公的機関であるので、より安全ルール運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全表現を使う、というのは、すべての人へサービス提供する以上必要なことである。たとえば、政府セクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的ものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。

では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)

今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリア問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスター掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターポルノであれば、赤十字掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである

ところで、公的機関にとっての表現コストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいか無難表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。

崇高な目的のためであれば、小さな犠牲は許されるべきか

献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。

ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題差別問題である判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現場合献血重要性を理由に、多少の問題無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスター子供掲載することは、おそらく現在日本では問題となることはない。

さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題差別問題である認識していない。一方で、批判派は、これは性差別問題である認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターポルノでない場合献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。

続くよ

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732

あのさ、柴田さんが「売血云々」と言い出した時は、本意はどうあれ「アホか」と私も思ったよ。擁護してる人も流石に「売血肯定なんてしてないだろよく読め!」って空気で、でも私には肯定してるようにしか読めなかったし。(しか柴田さんが絶望的に人にものを伝えるのが下手なのは知ってるので、まあそれはどうでもいい。)

でもさぁ、ポスター批判してる側からも「売血と同じ倫理的問題がある」って論調が出てきてるみたいだが、言わせてもらうけど流石に恥を知れよ?「報酬が発生すると、嘘をついて血液提供する人などが増え、確保できる血の質が悪くなる」って?なるほどねぇ。最初揶揄的に言われてた、「オタクの血なんて気持ち悪くて身体に入れたくない」っていうのを、体良く言い換えてマジで主張し始めたんだ?へぇー。

もう勝手しろよ。誰もおまえらの話なんて聞かねぇよ。

1000000000歩譲って、一般論としての話ならわからなくもないが、献血ノベルティグッズなんて本当に本っ当に今までもいくらでもあるし何なら「けんけつちゃん」という公式マスコットキャラクターまで作って限定品を公開しているのだが、それらが批判されたという話はまるで聞かない。萌え絵を叩くためにどうにか捻り出した理屈しかないだろう。一応現状としてはこれらの「お礼の品」は以下の要綱によって正当化されている。

http://yuketsu.jstmct.or.jp/wp-content/themes/jstmct/images/medical/file/guidelines/Ref6-1.pdf

ただし、少額の御礼の品、飲み物スナック、直接掛かった交通費の返済は自発的かつ無償献血という定義矛盾しないものである

(余談だけど、私はけんけつちゃんが大好き。いやアレは訴求力あるよ。マジで可愛い。)

献血ポスターセリフは圧迫的干渉

https://hbol.jp/205097/2

 現代において、血液提供は、いかなる場合も「自発的かつ無償」でなされるべきです。また血液提供者へは「強制すべきではない」とされています。その論理によって「血液提供者がその自由意志により全血、血漿あるいは細胞成分を提供」することが求められています。これらを満たすことによって「自発的意志決定定義されています

献血自発的意思決定で行われるべし、という事ですね。なるほど。

『宇崎ちゃんは遊びたい』(以後、宇崎ちゃん)と言う作品は、いわゆる「ウザカワ」作品ですので、圧迫型のセリフが多く、血液提供者の自由意志への圧力干渉が避けられません。勿論このポスターでは、干渉成功するかと言えば、実のところほぼあり得ませんので、広告として余り意味がありません。むしろ逆効果であり、広告宣伝では、典型的な失敗と言えます

意 味 が 分 か ら な い 。


という訳で、分解して少しずつ読解してみる。 

『宇崎ちゃんは遊びたい』(以後、宇崎ちゃん)と言う作品は、いわゆる「ウザカワ」作品ですので、圧迫型のセリフが多く、血液提供者の自由意志への圧力干渉が避けられません。

牧田氏曰く、ポスターセリフは“圧迫的干渉”になるらしい。


勿論このポスターでは、干渉成功するかと言えば、実のところほぼあり得ません

干渉しないのかよ!!!

ので、広告として余り意味がありません。

圧迫的干渉成功しないと広告として意味がないのかよ!!!!!!!!!

圧迫的干渉はよくないよって話じゃなかったのか・・・なんなんだ一体・・・

しろ逆効果であり、広告宣伝では、典型的な失敗と言えます

逆効果っていうのはつまり、あのセリフではホイホイされない、むしろ避けていくという意味だよね?本当に逆効果なのかは知らないけれど、少なくとも牧田氏の中では逆効果なんだよね?

だとしたら、牧田氏の脳内ですら血液提供者の自由意志への圧力干渉めっちゃ避けられてるじゃん。後段で述べられてる“同調圧力”みたいなパワー、全然ないじゃん。

あとそれ、話の流れからして「広告宣伝では、自由意志への圧迫的干渉ができてこそ成功と言える」と述べてるに等しいんだけど、気付いてます



結局、ポスターセリフは圧迫的干渉ではないってのが真実なのに、それじゃ困るからってこんなわけのわからない論理展開しちゃうのはどうかと思います

2019-10-27

こういう事言われたら寧ろ好きになりたく無くなるというサンプル

高校の時似たような事某同級生に言われたことあるわ。てか実況者に限らず芸能人しろアニメしろ何でこういう手合って自分が好きなものは他の人も自分と同じくらい夢中になってるのが当然、最低でも知ってなきゃおかしいみたいな物言い話題を振ってくんの?そういういい方されると寧ろ好きになりたくなくなるんだよ。そういう事言われなきゃこっちが自発的に興味持って好きになってたかもしれないのに。引用ツイートのやつとかこいつの頭の中は世の中のゲーマーは皆実況者も好きであることが当たり前みたいな前提で動いてんの? 

自分の中の行動や感情の基盤

恐怖がほとんどを占めていた。

から怒られる非難される嫌われることが怖いから、日常を演技する。人の話を聞いている時も、このリアクションで正解か考えながら相槌をうつ漫画ゲームアニメに過度にのめり込むのは、日常を少しでも忘れたかったり。人からマイナスイメージを避ける以外に、自発的に、これが楽しいから学ぼうとか、楽しもうという発想がなかった。

損をしているのだろうか?みんなそうだと思っていたけど、違うのかな。

2019-10-24

明坂聡美の楽しみ方

https://twitter.com/akekodao/status/1186990971021512706?s=20

最近の糞ヲタ共は分かってない。声優結婚したのをいち早く教えようとする陰キャ童貞ニキビガリorデブばっか

本来当人自発的発狂を見て楽しむものなのに。先に漫才ボケ言う大阪無職ジジイか?

明坂聡美だけじゃなくて、声優SNSにすぐしょうもない同意とか薄い感想書き込む糞ヲタリアルで頑張れよ。このままだと将来はTVインタビューされる面白ジジイだぞ?

anond:20191024002140

自発的ゾーニングには基準とかルールとか必要ないと思うんだが。相互に一番利益になる基準勝手判断すればいい。

anond:20191024001825

ゾーニングした方が相互利益がある、って認識されれば(実際そうだと思う)、ルール強制されなくても自発的可能だろ。

2019-10-23

anond:20191021230300

あれは自己判断で変化に行動を取った者の一例をピックアップしただけなんじゃないの?

ほかの似たようなマスクをして騒いでた連中もみんな似たようなストーリーがあったんじゃない?

自発的に行動をとった人間が同じ時間に同じ場所集団認識される量で発生したという現象があってもおかしくないだろうし

統率がなければ量的に圧倒していても各個撃破されて統率された威力のもとに解体されるとおもうけど

その中で一番長く生き延びたり脚光を浴びせたのが悪役ジョーカーなのでは

そういう意味ではお金持ちも単独行動をとれば通りすがりの物取りに射殺もされもするし

法治国家独断専行単独行動迷惑だろうし社会構造って物語としては筋が通っているとおもうけど

2019-10-21

anond:20191021233003

子どもを持たなくても良い多様性時代にあえて自発的子どもを持つ選択をした増田さんだとはいえ、これは確かに体力を消耗しそうな生活だ。

2019-10-20

anond:20191020100748

任期は最長でも4年でPTAより短いか問題無い。表現の自由健全な形で守るためには必要なこと。もちろん、自発的立候補者ちゃんと出てくればくじ引きはしなくても済むしね。

2019-10-16

恥ずかしいという感情は何故沸いてくるんだろう

ふと疑問に思った。

嬉しいとか楽しいとか、悲しいとか。

そういうもの自発的に生まれものだと思っている。

大体の人が得ることができる感情じゃないだろうか。

でも、「恥ずかしい」っていう感情は考えてみたら刷り込みな気がする。

から「そんなことしたら恥ずかしいよ」とか

友達から「恥ずかしくないの?」って言われたとか

他人と違うことって恥ずかしいんだよ」と刷り込まれている気がする。

うーん。何故だろう。

洗脳されてるんだろうか。

2019-10-15

被災者自発的放射能最高と叫んだから無罪と言ってた人

実際には外部から異物が入って放射能ネタ連呼してたということについてはどう考えられるのか。

見解が待たれる。








修正しないだろうけどな。

2019-10-14

ラジオ聞きたい

サンデーソングブックのyoutube動画を見つけて聞いてたんだけど、ラジオ聞きたいなーと思った

大昔は文化放送深夜ラジオ聞いてたんだけど、最近だとどうなんかね

わざわざradikoを探すのも微妙だし(探しにくくない?)、youtubeもなんかラジオと違うし

rebuild.fmみたいなpodcastがそれなんだろうけど、日本語ポータルがわからないので、なんか自発的に探すことになる

適当流しっぱなしのpodcastってどこで探したらいいんかね?

2019-10-11

白組仕事を出し続けるだけの仕事

山崎貴さんってそういうイメージしかないけど、本質的山崎貴さんが自発的になんか企画したような作品ってあるんだろうか。

2019-10-10

anond:20191010122807

一般には「集団自決」と言われているが、実態は親が子を殺し、子が老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺すといった親族殺しあい集団虐殺の場面であった。

これは皇軍の圧倒的な力の押しつけと誘導がなければおきる事柄ではない。

自決」というのは自ら決意して「責めを負うて命を絶つ」ことである

自決」という言葉は死を選ぶ人の「任意性・自発性」を前提として使われる。

乳幼児自決をすることはできないし、肉親を喜んで殺す者もいない。これは牛島司令官皇軍の「自決」とは全く別の次元事柄である

 「強制され」あるいは「追いつめられた」人びとの死を集団自決と言うことは出来ない。

この住民集団的な死は、自発的意志によるものではないかである

この実態集団自決表現する事は不適切であり、真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである

2019-10-09

今日も女は

そら夫もそう言うやろ

2019-10-07

anond:20191007025718

ルール目的化するのと辛くなっちゃう、っていうのすごくよくわかる。そこを気遣ってルール化しなかったんだけど、まずやってみたほうがよさそうだね。ありがとう

よく言われる、「他人に期待するな」っていうの、まさか妻に当てはめることになると思わなかったので、それが辛い。掃除洗濯ならまだしも、子供健康のことまで自発的に動いてくれないのか…、と。

2019-10-04

ポジティブでいること、感謝を忘れないこと

それが大事なのもわかるし実際それでメンタルは保てるけど

莫大な仕事を抱えさせておいて「仕事は楽しもうと思ってやればしんどくない」「お客さんが喜んでくれると自分も嬉しいから喜ばれる仕事をしよう」「頭痛五体不満足からそれに感謝しよう!」

冷静に見たらTheブラック企業では…?

自発的にそう思えて毎日感謝!」してるひともなんかどっか引いた目で見てしまって、いや小さなことにも感謝することでまわりの見方が変わって楽しく人生送れるのもわかるんたけど、なんか、なんかひっかかる

落ち込んだり鬱になってる暇はないから元気に過剰に元気に振舞ってるけど、これいつまで持つかな??

心が健康でも身体は確実にやられていってる感じがする

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