はてなキーワード: 男と女とは
「男は男らしく」っていうのは、確かにキリスト教文化圏ではよく見られる価値観だけど、それが直接聖書に書かれているかというと、実はそうでもないんだよね。
聖書の中で、男らしさとか女性の役割について触れられている部分はいくつかあるけど、たとえば「男らしくマッチョであれ」というのはあまり明確には書かれてない。
一方で、聖書には男と女の役割分担が強調される場面があるのは事実。
たとえば、創世記では「イブはアダムの肋骨から作られた」という話があって、これが「女性は男性に従う存在である」っていう考え方の根拠のひとつになったりする。新約聖書の中でも、特に使徒パウロの手紙には、妻は夫に従うべきとか、家庭内の役割についての教えが見られるんだ。
でも「マッチョであれ」という男らしさの呪縛がどこから来たのかっていうと、宗教だけじゃなくて、もっと文化的・歴史的な背景が大きいと思う。
西洋では、古代ギリシャやローマの時代から、男性の理想像として「強さ」や「勇敢さ」が尊ばれてきた。戦士であり、守護者であることが男の美徳とされ、それが近代に至るまで根強く残っている感じだね。
そこにキリスト教の教えも混ざり合って、「男は家族を守る存在、だから強くあれ」というイメージが強化されたんじゃないかな。
アジア圏でも、儒教的な価値観とかがあって、男が一家の大黒柱として尊重される傾向があるけど、必ずしも「マッチョであれ」という形での男らしさが求められているわけではないよね。
男と女の間には深くて暗い河がある
トランスジェンダーとかはどうでもええんだけど、
ワコールの発表した新しい指針について、
女の試着室を男にも使わせようとしているーーー!男をどんどん女の試着室に呼び込もうとしている!!!!キェェェーーーーー!!!!ワコール不買不買不買不買不買キェェェェ
みたいなのばっか流れてきてこわすぎる。
ワコールの指針は「女と判断できない人は女用の試着室使わせません」しか書いてない。
なに、なにをどう読んだら男を呼び込んでいることになるんだ。
女用の試着室は女と判断できる人にだけ使わせるとしか書いてなくね?みたいな指摘してる人もいるんだけどまったく聞こえないふりをしているのもわからない。身体男性かもしれない〜〜〜🤬🤬🤬とか言ってる人いたけどワコールのスタッフに客全員の下着の中を確認しろっていうんかな。カスハラの自覚なさすぎて驚く。
もしかして一人が誤読したのを、まわりのバカ女さんたちが読みもせず大騒ぎしているのか?
ワコール的には潜在的なイカレ客が自ら喜んで離れてくれる上にまともに文章を読める客だけが残るんだからありがたいことなのかもしれない。
ここ最近の様子見てたらあの手の指針出して文章読めない女さんが大暴れして意味分かんないこというのは目に見えてるからそれも折込ずみなんだろうと思う。
男と女は骨格が違うのでトランス女性が下着を試着してはいけないらしいが、ふくよかな女さんが体型に合わないサイズの小さい下着を無理やり試着しようとすることは許されるらしい。
https://anond.hatelabo.jp/20240118004428
元増田だけど
今の虹キモオタは今何に萌えて、何のグッズを集めて、何で抜いてるの?
と考えるともはやVTuberしか残されていないのでは?という感じがしてしまうね、でもあれってそういう対象でもない気がするから疑問
もちろんウマ娘やブルアカのような大人数が出てくる系のゲーム界隈に住んでる人も居ると思うけど
なんか全然見えないよね
ちょっと気づいたけど、ビジネスのあり方に結構依存してる感じがあるね
平成時代はとにかく萌え豚を客として捉えてたけど、今ってもっと一般層や海外まで見据えてる感じがする
そうするとオタク文脈で受けがいい萌えキャラより、もっと万人受けするキャラが出てくる
ってことじゃないかな
ゲームでは先鋭化してるのでそっちに移ったのか、と思ったけどどうにもゲームのキャラにもピンとこないのは単に俺が年を取ったからか?
最初は意外性あってそういうのもいいじゃんって思ったけど、そういう方が主流になってない?
ヒロイン誰だよ?って
ちなみに自分がどこでキャラの人気を測ってるかというとグッズ量だと思う
人気が臨界点を超えると商業的にバグるんだよね、ゲームセンターが分かりやすい
だからベースとなる人気が変わったのではなくプライズビジネスの方向性が変わっただけの可能性もある
まあでもコミケあたりみてもオリジナル多いから間違いないとは思うんだけどね
思えばコミケのエロ同人の量を見て、逆引きで面白い作品を探してた頃が10年くらいあったと思う
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Pixivを調べるというてを思いついた
と思って見てみたけどPixivって先鋭化しすぎてわかんねーなこれw
でもやっぱオリジナル多いよなあ
女は男と違い、他人に上に立たれることを非常に嫌う。 ゆえに、女同士での関係では、相手より上に立った素振りを見せてしまうと、逆に下に見られて嫌われてしまう。
女の世界では女とは全て女王であり姫なので、他国の姫に無礼を働く奴の地位は落ちる。
女王や姫同士がお互いに礼節を払い贈り物をしても、それは姫に対する敬意として当たり前のことなので、男同士のように、舐められて下に見られることはない。
男は精子に価値が薄く、何らかの役割を担うことでしか群れに寄与できない存在であり、男同士の中での男の地位は役畜(労働力としての家畜)のようなもので、リーダーと部下という上下関係を作って役割を持つことをむしろ好む。
群れに役畜として寄与しなければ群に要らない存在になると本能で理解しているためである。
だから、自分と相手のどちらかが上か、ということを無意識に意識しており、犬のように、男同士が出会うと常にお互いにマウントを取り合い、どちらが上かをすぐに決めようとするのだ。
女は、存在が王国そのものと言っていい。どの生物種も、個体数が生物の軸である。女は産み育て助け合う。女に大量の援助とケアと安全を捧げれば、女たちには無意識に種の繁栄に必要なものを嗅ぎ取る力があり、増えることを選択し、女あるところに王国は作られる。
そう生まれついている。
女社会ではマウントはむしろ軽蔑の対象となるから女はマウントを取らない。
男と女が出会った時、男が女にマウントをとってしまうから、過ちがおこる。
男は、女と違って相手に上に立たれることを喜びに感じる生き物なので、本来は女が常に男の上に立たなければならない。
それを、サムライによる討ち取りを恐れた明治の愚か者が、女を下にしようと無理な法律や教訓を作ったから、今のような人口が減り経済が悪化し荒れ果てた国となったのだ。
犬に自分を一番上だと勘違いさせてはならない。犬のためにもならない。反発されても、ちゃんと下だと躾けてあげることが犬のため。
アンフェ表現の自由戦士連中がフェミがー共産党ガー萌え絵を焼く表現の自由をまもれーきーって無駄に騒いでいる間に日本のトップクラスのゲームが欧米の圧力で男と女という言葉さえ使えなくなってて草。アンフェオタクは本当に役に立たない。結局反共反サヨク連中の手駒にされてただけ。
こっちは体鍛えて食事に気をつけて身だしなみも整えて男として現役でいるために努力してんだよ
それなのに勝手にパートナーが女から降りたらどうしようもないだろ
で、相手探すとなると、お前が女から降りたように同世代からは探せないだろ
おっさんの金と地位とテクニックに惹かれてくれるのは若い女だけだろ
同世代のオバハンはトキメキとか恋心とかわけわからんこと言うだろ
割り切って遊んでくれるのは若い女だけじゃねーか
お互い遊びと割り切ってて、仕事にも家庭にも影響してないんだから、なんも問題ないだろ
ふざけんなよ
三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。四人は細い横町を三分の二ほど広い通りの方へ遠ざかったところである。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。影の半分は薄黒い。半分は花野のごとく明らかである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然として調和されている。のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの経緯のなかに織りこまれている。ただそのうちのどこかにおちつかないところがある。それが不安である。歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄が近因である。三四郎はこの不安の念を駆るために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。
四人はすでに曲がり角へ来た。四人とも足をとめて、振り返った。美禰子は額に手をかざしている。
三四郎は一分かからぬうちに追いついた。追いついてもだれもなんとも言わない。ただ歩きだしただけである。しばらくすると、美禰子が、
「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事をおっしゃるんでしょう」と言いだした。話の続きらしい。
「なに理学をやらなくっても同じ事です。高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきに要るに違いないじゃありませんか」
「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかもしれません」
「そうすると安全で地面の上に立っているのがいちばんいい事になりますね。なんだかつまらないようだ」
「女には詩人が多いですね」と笑いながら言った。すると広田先生が、
「男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙った。よし子と美禰子は何かお互いの話を始める。三四郎はようやく質問の機会を得た。
「今のは何のお話なんですか」
「なに空中飛行機の事です」と野々宮さんが無造作に言った。三四郎は落語のおちを聞くような気がした。
それからはべつだんの会話も出なかった。また長い会話ができかねるほど、人がぞろぞろ歩く所へ来た。大観音の前に乞食がいる。額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。だれも顧みるものがない。五人も平気で行き過ぎた。五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。
「いいえ」と三四郎があとを見ると、例の乞食は、白い額の下で両手を合わせて、相変らず大きな声を出している。
「やる気にならないわね」とよし子がすぐに言った。
「なぜ」とよし子の兄は妹を見た。たしなめるほどに強い言葉でもなかった。野々宮の顔つきはむしろ冷静である。
「ああしじゅうせっついていちゃ、せっつきばえがしないからだめですよ」と美禰子が評した。
「いえ場所が悪いからだ」と今度は広田先生が言った。「あまり人通りが多すぎるからいけない。山の上の寂しい所で、ああいう男に会ったら、だれでもやる気になるんだよ」
「その代り一日待っていても、だれも通らないかもしれない」と野々宮はくすくす笑い出した。
三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。けれども自分が乞食の前を通る時、一銭も投げてやる了見が起こらなかったのみならず、実をいえば、むしろ不愉快な感じが募った事実を反省してみると、自分よりもこれら四人のほうがかえって己に誠であると思いついた。また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。
行くに従って人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出会った。七つばかりの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行ったり、左へ行ったりうろうろしている。おばあさん、おばあさんとむやみに言う。これには往来の人もみんな心を動かしているようにみえる。立ちどまる者もある。かあいそうだという者もある。しかしだれも手をつけない。子供はすべての人の注意と同情をひきつつ、しきりに泣きさけんでおばあさんを捜している。不可思議の現象である。
「これも場所が悪いせいじゃないか」と野々宮君が子供の影を見送りながら言った。
「いまに巡査が始末をつけるにきまっているから、みんな責任をのがれるんだね」と広田先生が説明した。
「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」とよし子が言う。
「じゃ、追っかけて行って、連れて行くがいい」と兄が注意した。
「追っかけるのはいや」
「なぜ」
「なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。私にかぎったことはないわ」
「やっぱり場所が悪いんだ」と野々宮が言う。男は二人で笑った。団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。
坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、
「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。
一行は左の小屋へはいった。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間なく衣装の恰好となるように作ったものである。
よし子は余念なくながめている。広田先生と野々宮はしきりに話を始めた。菊の培養法が違うとかなんとかいうところで、三四郎は、ほかの見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にいる。見物は、がいして町家の者である。教育のありそうな者はきわめて少ない。美禰子はその間に立って振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。美禰子はまた向こうをむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。
ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、
「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。なんとも言わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧をさした男が、瓢箪を持って、滝壺のそばにかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。
「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの瞼の間にすべてを遺却した。すると、美禰子は言った。
「もう出ましょう」
眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。
二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。
「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」
女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。
「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。
「休みましょうか」
「ええ」
「もう少し歩けますか」
「ええ」
「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」
「ええ」
一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。
向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。
「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。
「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。
「ありがとう。これでたくさん」
「やっぱり心持ちが悪いですか」
三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。
ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。
「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
風俗以外での単純な性欲解消法は、筋トレして痩せ清潔感を手に入れ、それで女性とセックスすることである。
この2つの価値基準に沿ったモノ(いわばマテリアル)は短期間では獲得できない。
ルッキズムとエイジズムは、全体から見ればそう多くはないが、絶対的な数で見れば多くの男たちが何年も何十年もしのぎを削っている分野だ。
彼らはいわば専門家だ。専門家に素人が簡単には勝てない。当たり前の話だ。
そして、一見すると彼らはなんというか、すごく「バカ」そうに見える。幼稚なように見える。
そうではなく、非言語コミュニケーションをとくに観察すべきである。
これは「ノンバ」と呼ばれており、ナンパ用語の中でも最も重要な考え方だ。これが欠けていると、徹底的にモテない。
だが彼ら "専門家" もまた、愛に飢えている。女とやりまくり気持ちよくなりまくり、のその先は何か。虚しいだけだ。
まあ虚しいにしても、まずはやりたいのであれば真似をしてもいいとは思う。
しかし覚えておいてほしいことは、非モテと「モテの専門家」は、究極的には同じだということ。その「モテ」の先には、動物的な喜びしか存在しない。
個人的な意見では、今日ではそもそもこの男の「モテ」という概念が転換しているような気はする。
ちなみに女のモテは「不特定多数の男性からアプローチを受けること」ではない。これは「穴モテ」と呼ばれて女性社会から侮蔑の対象になり、凄まじく屈辱的なのだ。
女はよく「セックスしたいだけなら風俗行けばいい」というが、これは男にとっては単なる侮りとして解釈されるだろう。
そういうわけではなく、商売女ではない女とやりたい男は「愛されたい」「認められたい」「尊重されたい」が本音だろう。
だったら努力しろという話だが、これは逆であり、「努力する価値」を求めているのだろう。
「努力するほどの価値がある女」が周りにいない、ということが問題かもしれない。
所有欲と支配欲、これは人間なら誰でも保有している。男だけではない。
「良い女を大量に保有したい」という考え方が「性加害欲求」として表現される。
これは「性的モノ化」としても言われている。フェミニズム文化では有名だ。
フェミニズムは誤解されがちだが、根本は真っ当で深い哲学に根ざしている。フェミニズムとは、プラトンへの挑戦でありニーチェへの挑戦であり、女性の体への挑戦である。
女はこの「性加害」「モノ化」にきわめて敏感である。これは男が考えている以上に遭遇頻度が多いのだ。
普通の男ではない、偏差値30クラスの男が世の中には多い。そういう男からトップ層まで全員が「モノ化」してくる。
小さい頃からあまりに大量に浴びせられすぎて、さながらテレパシーのようにそういうふうに見られていることがわかってしまうわけだ。その男本人よりも。
こうした「プチ性加害」は、保育園や幼稚園から始まる。下手をすれば赤ちゃんのころから。この「女」という言葉も加害の意味を帯びている。家畜のような扱いを彷彿とさせるわけだ。
「なんだぁ?そんなもの。たかが言葉じゃないか」ではない。ここに、男と女で共通する言葉の基盤が全く異なるという驚愕の事実がある。
もし、同じ言葉で話していると思っているのに、その言葉が示す対象が全然違ったとしたら、それは会話できているようで会話できていないのだ。
まるで日本語と英語で会話をしているかのように、まるでアンジャッシュのコントかのように、会話できていないのだ。
(いわばこれまでの文明全体が「喜劇」とでも言いきってもいいかもしれない。ずっとコントしてたとも言えるな)
言葉の基盤が違うという無理解が、無意識にモノ化を生む。いわば弱者男性も前時代社会の女性も、どちらも既存の社会通念の犠牲者である。
そして、その社会通念が根本からひっくり返っているという、ゲームチェンジしている状態が現代だ。
とくにコロナ以後、経済停滞などが発生し、希望が無くなったことによるのか恋愛に逃げ込む人間が増えた。それゆえ恋愛は熾烈な競争になり始めた。恋愛だけではないが。
弱者男性は「権利が奪われた」と思っている。これは既得権益の喪失だろう。怒りや苦しみはわかる。
だが、女性からすれば「その権利は本来女性が得るべきものだったのに、昔からずっと奪われていたものだった」と思っている。だから、相容れない。
前提知識をシェアできたところで、具体的な解決策についてもシェアする。
まず基本的な清潔感などを身につける。これは生活習慣も含める。なるべく金で解決したほうがよい。この外見の向上は元が微妙であれば微妙であるほど効果的だ。
筋トレもしておく。
それから女性のシステムを把握する。女性向け映画を見るとか女性向け漫画を見るとかするといいだろう。それによって女性の言語を獲得する。
「なんだそんなもの」と思ってはいけない。それこそが非モテの根源だ。
また愚痴は老けを促進する。おじさん、おぢ、老人、ジジイ、さまざまな形容があるが、愚痴の本質は他責である。他責の人間は成長しない。成長しない人間がおじさんなのだ。
男向けのポルノなどは見ない方がいい。あれは女性観を「所有」「性加害」側に倒すものだ。そのようにできているのだ。そうしなければ動物的な興奮が得られないからだ。
それからだが、同世代の女性をバカにするとうまくいかない。彼女らは「本当のこと」を言っていることが多い。
罵倒のようでいて、「それじゃモテねえの当たり前だろ」と厳しい事実を言っていることが多い。あまりにも厳しすぎるが……
謙虚な気持ちになって本気になれば、まあコペルニクス的転回を迎えるだろう。
自分のほんとうの問題は、恋愛なのだろうかと考えたときに、おそらく恋愛ではないはずだ。
恋愛弱者であるという状態は、異性にその責任を押し付け、本当の問題から逃げているだけなのではないかという考えもある。
もしそちらが問題ならそちらを解決すべきだろう。そうすると不思議なことに恋愛もうまくいくものだ。どちらが先にうまくいくかの違いであろう。
どうしても恋愛を最優先で解決しなければならないのであれば、そちらに全精力を注がなければならない。今はそれぐらい熾烈な争いなのだ。
ここまで伝えてわからないならもう知らんぞ。
ちなみにこれは男だけの話ではない。