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はてなキーワード: 教義とは

2021-04-19

anond:20210419095901

しろ神道こそカルト化してる。

神社本庁とか見てれば分かるだろ。

仏教は「現世なんか捨てろ」と言ってるわけだから

その現世における道徳なんかまったく説いてない。

キリスト教イスラム教

「現世で立派にやれば来世で救われる」という教義から

道徳を説きまくり

まあイスラム教はガッチガチ道徳で縛ってくるから

おまえにはキリスト教が向いてると思うぞ。

2021-04-14

anond:20210414001604

最近しばらく考えていた事を話すきっかけになる増田ありがとう

俺が考えていたのは、しいて名前をつけるとしたらニューバランス教。

靴のメーカーですでにあるが、それしか言いようがないから仕方ない。

ニューバランス教の信仰対象バランスという概念です。

物事はどこかに振れると必ず触れ戻しが生じますバランスを取ろうとします。

例えば人口が増え過ぎた場合パンデミックや大規模な戦争が起きて人口が減る方へ触れ戻しが発生します。

二酸化炭素が増えて地球温度が上がれば植物が増えて二酸化炭素が減るフェーズに戻ります

ニューバランス教としては、それらマクロバランスを受け入れ、自分の中のミクロバランス感覚を養う事がその中心教義となります

人と人とのコミュニケーションに落とし込めば、それは中庸の追求となります中庸は人ひとりで完結せず、止揚の中にしか存在せぬものとして、互いを尊重する、という教徒生活指針が、現代社会にも十分受け入れられる余地があるものと思ってます

ということで、よろしくねがいしま

anond:20210414001604

最近しばらく考えていた事を話すきっかけになる増田ありがとう

俺が考えていたのは、しいて名前をつけるとしたらニューバランス教。

靴のメーカーですでにあるが、それしか言いようがないから仕方ない。

ニューバランス教の信仰対象バランスという概念です。

物事はどこかに振れると必ず触れ戻しが生じますバランスを取ろうとします。

例えば人口が増え過ぎた場合パンデミックや大規模な戦争が起きて人口が減る方へ触れ戻しが発生します。

二酸化炭素が増えて地球温度が上がれば植物が増えて二酸化炭素が減るフェーズに戻ります

ニューバランス教としては、それらマクロバランスを受け入れ、自分の中のミクロバランス感覚を養う事がその中心教義となります

人と人とのコミュニケーションに落とし込めば、それは中庸の追求となります中庸は人ひとりで完結せず、止揚の中にしか存在せぬものとして、互いを尊重する、という教徒生活指針が、現代社会にも十分受け入れられる余地があるものと思ってます

ということで、よろしくねがいしま

無宗教」教の教義 anond:20210414001604

年始神社にお参りが義務

葬式大乗作法に乗っ取る

・「俺は無宗教だ」と自称するか、もしくは「仏教だ」と主張する

外人には干渉しないが日本人無宗教以外の信仰を持つ場合は嘲る

・「無宗教」の名誉を守るのは義務神社や坊さんへのお布施宗教ではと疑われた場合、「日本ではこれが文化だ」「普通のことだ」と言い張る

無宗教宗教ではなく文化普通認識し周囲を説得することが信徒義務である

anond:20210414001604

藁人形教というのを考えたことがある。

あなたがいまつらいのは、神がポンコツなせいだよ。さあ神を恨もう」という教義

神を藁人形にすることで他人を恨んだり、自分を恨んだりせずにガス抜きできて社会からスギスが減るはず。

anond:20210414091711

天台教学が基本で大乗経典根拠を求めて他宗他派を批判してるのでそんな事も無いんだよ、癖強いけど。

学会顕正会僧侶を敬ってない時点において仏教定義に反してるから謗法だよねって教義上の自己矛盾存在する。

anond:20210414084321

教義がどうこうに関わらずアブラハム宗教圏では皆滅ぼされたぞ

2021-04-07

anond:20210406215403

福音派って日本キリスト教におけるシェア的にはどうなん?少数派じゃない?

おそらくそれ以外のプロテスタント系が、カトリック系と比べて「ゆるい」てのは紛れもない事実だと、オレの体験的には思ってるよねw

20年ぐらい前だけど、結婚しようと思って、いわゆる「式」も「披露宴」もやらないでシンプル婚姻届と友人知人等にハガキ出すだけにしようとしたけど、親が頑なに「式」をやれ!って言い張るので、キリスト教教会でやることになったんだよね。

で、カトリック系だと、ちゃんとした信者じゃないとダメとか、事前にキッチリ研修みたいなの受けないとダメとかウルサかったw

プロテスタント系の教会は、そんなこと全然わずに受け入れてくれて、事前に一回打ち合わせに行っただけで、無事結婚式を挙げられたんだよなー。

まぁ、20年以上たって、最近は変わってきてる可能性もあるかもしらんが、プロテスタントが分かれて500年くらいってことを考慮すると、可能性は微粒子レベルかw

ちなみに、オレは無宗教とか無神論ではなく「無意識教」かな。

なんでもかんでも、巷に流布する宗教的行事キタリなどを、教義意味など深く考えることなく、無意識に取り入れるよw

神社に詣でるし、お墓に線香立てるし、法事で坊さんのお話もありがたく聞くし、クリスマスバレンタインにご馳走食べるし、ラマダンか〜ダイエットしよかな〜くらい考えたりするよw

anond:20210406154303

俺は神がいないと信じてる無神論教徒だけど、普通に神社で手を合わせるし葬式にも行くよ。

無神論教の教義に「神を崇めると罰が当たる」とは書かれていないので。

増田アブラハム宗教の狭量な教義内面化しているだけだと思う。

2021-04-06

anond:20210406154303

/*追記

朝起きたらブクマがいっぱい付いててびっくりした。これは、素人増田素人論考です。増田本人は無宗教消極的無神論で、円滑なコミュニケーションのために宗教行事に喜んで参加します。身近には浄土真宗浄土宗日本プロテスタント福音派ゆるふわユダヤ人などがいます

末尾に追記しました。

追記*/

無神論無宗教(≒特定宗教に強くコミットしていない)は違います

無神論は、神はいないという"積極的な"主張であり、ひねくれた言い方をすれば「無神論教」と言えます

ちなみに、「カトリック自由な感じではなく、プロテスタント自由な感じ」というのも偏見のように思います

(おそらく、自分自身カトリック教会に行ったことがなく、周囲のプロテスタントからそう聞かされているだけでは?)

仏教について

仏教は、立場にもよるが、本来的には神のような超越存在はいないと考えていると思います哲学に近い。

神道について

ご存じ八百万の神なので、多神教そもそも1人(1柱?)ではないし、「私"だけ"を信仰しない者、異教の神を信じる者は滅びる」という嫉妬深い神はいません(or少ない)。そもそも日本語の「カミ」というものは、本居宣長古事記伝第3巻によれば「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」となっていて、今っぽく要約すると「SUGEE存在全般」という意味でしょうか。アブラハム系の神とは大きく違います

一神教多神教の違い

特定の一宗教コミットすることを求める一神教に対して、上記の通り仏教は厳密・本来的には教義無神論であり、神道八百万である点が大きく異なると思います神社に行って賽銭を投げても、仏教葬式に参列しても、そこにいる超越存在"のみ"にコミットすることにはならないのだと思います

プロテスタントとのことですが、どういった宗派ですかね。

いわゆるリベラルとされるグループでは都合良く「ゆるふわ」で通るかもしれませんが、福音派とかであればそうもいかなそう、と思うのは私の偏見、、でしょうか。

以下、追記

watchcat

無宗教特定宗教に強くコミットしていないは定義おかしい。神道仏教宗教なのだからコミットの強さは問われない。

まったくその通りですね。「強くコミット」っていうのが違うのかな。特定宗教信仰している意識があるかどうか?多神教&掛け持ちOK宗教だと話がややこしい。

cameraojisan

無宗教特定宗教に強くコミットしていない、って広く共有されてる感覚なの?元増田は「それゼロじゃないじゃん」という主張だと思ってた

ごめんなさい、適当レスポンスしただけです。こんなへぼテキストに反応が集まってしま申し訳ない。

ak248

多神教的考えや習慣を一神教の人は理解できないってことかな。あとカトリックの方がプロテスタントより厳しいルールが多く、信者以外は行事に参加できないと思ってたのですが違います?教えて詳しい人

カトリックの方が伝統や慣習を重視していると言う点で、厳しいルールが多く見えると言うことかも?プロテスタントにその種のルールはないが、ゴリゴリ福音派だと聖書に従って生きるという(別の種類の)厳しいルールがあると感じる。

anond:20210406154303

まあアブラハム系の宗教が独特って見方もあるのでは

明示的に信仰宣言をして、入信儀礼があって、聖典教義教団が揃ってるのなんて世界宗教からみたら少数派だよ

anond:20210406154303

いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰信仰方法自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか

信仰宗教は違うのかというとそれはもう文字意味も違うので違うのだと思います

どの神様に、と選べる時点で無宗教宗教宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです

宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう

宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう


自由という範疇についてすこし絞っておくと

自由を奪うことは罪であり悪であり宗教道徳といった観念から排除されるべきものととらえるのは早計でしょう

選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由範疇におさめることができます

どんな宗教悪事自由ではなく制限され道徳権利自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう

自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう

それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです

自由で公平で自発的なのか、恣意的他人欲求だったのか、視野自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人所為でもあります

この定義方法を、議論考察研究文化形成生活安全性自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者認識共通させる必要があります

その基準定義宗教なわけです

Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです

その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物文化継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです

これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化しま

民主主義多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報積極的に取り込み侵食する必要はないのです

日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思います日本島国日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした

この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります

培ってきた文化財産、知恵や技が家族一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体自由制限自由を得るための礎となるわけです

自由自由みたいなことになってしま言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由選択することすらままならなくなる」のです

両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう

自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由侵害するために自由供給されているともみれます

選択肢を狭くすることで状況を予測やすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか


さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやす解決をしやすい方向へ導くためのルール規則単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます

宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなもの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段複数あるということになるかもしれません

それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康文化による財産生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです

日本調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要いからです

気温が50度を超える環境冷蔵庫家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態無宗教日本とおなじ文化必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります

これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか

それを残すための独立組織宗教団体です

お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることな中立でいて安全のためだけに情報継承する立場聖人という代替概念でその尊厳意味づけて形作っているのが宗教です

これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性保障を引き受けられる個人団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう

その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです


日本無宗教なのはほとんどの生活行動範囲安全なため危険回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです

交通安全山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です

まり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者賠償要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです

責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです

個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません

それぞれの個人責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全担保しているのが政府国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇自分日本人だとして人権自由国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう

その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません



男性女性は、と議論をするときにまず男性女性議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう

宗教宗派戒律ルールもそうです

男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです

「それ、あなた感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動あきらかでしょう

その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールことな干渉があるとどうなるでしょうか

いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人構成比較議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません

「それあなた意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか

裁判官が有罪と口にしたら「それあなた意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか

裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家ルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成であるということがそれらの代弁代行に意味なすことができるわけです

一人が自己責任権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織定義している範囲侵害されるべきではないでしょう

これらルールにのっとり、ルール適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体定義方法なのです


日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界安全繁栄目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄闘争議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール個人ごとの約束などがあるわけです。

まり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分宗教に属することで行動範囲限定利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです

自由時間抑制しより賃金収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教自由といったところでしょうか

会社につとめながら、フリーター自由さを味わい、フリーター責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルール戒律罰則があるわけです

複数の神を信仰する自由は、個人可能範囲自由謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです

いかがだったでしょうか?

日本人が無宗教という表現に、いくつかばかり参考や選択肢の候補になりましたでしょうか?

2021-04-05

何だかんだ、世界統一に向かっている

先進()国では順調に少子化が進んでいるらしい。少子化のまま国が存続していた例は寡聞にしてしらない。猿から人間、そして有史に至るまで人間産めよ増やせよ地に満ちよであっただろうからそもそも少子化って現象自体がなかなか珍しいものだ。生殖による増員と選別は強力な武器であっただろうし、それをしない群れが生き残って来たとはちょっと思えない。

猿に近かった頃の人類の話から始めると全ての人の群れは猿山の原始カルトだった。遺伝子生存競争と同じように原始カルト生存競争もあった。原始カルトの今から見ると無茶苦茶教義に従って群れは暮らし、群れごと滅ぼしたり滅ぼされたり吸収したり隷属したりのカルト集団の生存競争の果てに今の国家群がある。群れがあり、別れ、また一つになる。何度も繰り返してきた生態だ。だがもうなくなるだろう。そして世界はなんだかんだ統一されるし、統一に向かっている。分かり合えるようになったからだ。

現存の原始カルトと言えばキリストだのイスラムだのヒンドゥーだのだろう。それに加えて土着の信仰勝手思い込みって意味だ)が混ざり合い、現在では皆似たり寄ったりでそれなりに仲良くなっている。現代社会全体で見れば極めてヤバイ宗教はもうほとんどないし、きわめてヤバイ宗教存在しないという形で宗教統一に向かっている。世界の裏のヤバイ人の数はどんどん減っており、我々は分かり合えるようになった。今戦争している地域も最終的にはおとなしくなり、負けた宗教は土着の信仰に貶められるだろう。宗教的な統一は順調だ。

国家的な統一も進んでいる。こちらの方はある程度で止まるだろう。それがどれくらいのサイズ感かはわからない。しか統一は進む。

理由①新たな群れはもう増えない

発見土地は既に存在しない。今後生まれるであろう群れが求める新天地存在しない。群れから別れようとするような異端分子存在しても行き場はそもそもない。アメリカへの移民アメリカがあったからこそ成せた。既にそのような場所存在しない。

更に言えばボス猿の武力が強くなりすぎている。その昔、人間というサル連帯によって敵を倒せていたらしい。どんな強者でも最悪100人から投石を貰えば死ぬしかしそれは昔の事。武装が強力になった現代では石を投げつけられてもビクともしない強い武装いくらでも存在している。そしてそれは製造に高度な技術要求する。コモン投石はレア機動隊装備には勝てないし、その気になれば核ミサイルを撃ってもいい。まず反逆が無理

理由②群れは消える事がある

人間の群れが大きくなるにつれ相対的世界は小さくなる。戦国時代には日本は分裂していたが現代では完全に統一されている。このような事例は枚挙に暇がなく歴史的にかつて国であった地域統一され巨大な一つの国になった。人が進歩するごとに群れは減っていく。

世界的に国家は減っていく。しかこちらはある程度で止まるだろう。江戸幕府が出来る可能性があるが黒船が来ない。もちろん宇宙人出張ってきたら話は別だ。最大でも中国あたりが覇者になり幕府を開き、それくらいで終わるだろう。

2021-04-03

anond:20210403235143

教義に厳格、意に沿わない者に対しては陰惨、冷徹な態度を隠さなリベラルも増えてきているから、それもまたリベラルだよ。

リベラルの指し示すものが2010年代半ばから変質してきている。

受け入れるしかない。

2021-03-30

anond:20210330064737

彼らの攻撃対象にされるのは

教義、同じ信徒に明確に喧嘩を売ったもの

・彼らが悪と判断したものとつながりがあったり、それを好んだり、擁護するもの

・彼らの聖典宗教画マントラを冒用したもの

だぞ

ここらへんに気をつけたらポアされなくて済むから

良きネットライフ

2021-03-26

アンチフェミ

アンチフェミって現代宗教なのかな。

教義フェミ攻撃することで救われる。

それで、現実に救われたかな?

サンドバッグにバシバ攻撃して、一時的にはストレス解消できた?

でもまた次のフェミネタが現れて、もっとイライラして、また攻撃して(以下略

一時期流行った悪循環テンプレみたいだね…

そしてその過程養分にされちゃうんだね…

こんなこと書くとアンチフェミ人達DD論反論されそうだけど

このDD論自体異口同音アンチフェミ煽動者のお決まりフレーズコピペだよね。

しろDD論コピペしか言わないよね。

でもそれって少なくともフェミ批判妥当だと認めることになっちゃうよね。

それは構わないんだね…

それにしても本当に思考回路も乗っ取られて洗脳されてしまっているんだね。怖いね

教祖様煽動者はとりあえず置いておいてさ、アンチフェミさん個人の望みって何なのかな?

あ、女あてがえはなしね。

2021-03-18

anond:20210318101006

カプセルホテルの「女性お断り」は単なる経営上の都合。女性客との混在に対応させるための設備投資経営上引き合わないというだけ。従って需要が増えれば、女性専用フロアを設けたりするカプセルホテルも当然でてくるわけで、それは社会構造に組み込まれた、人々の意識問題としての「差別」とかとは、全然別の問題

また、土俵宗教的聖地が「女人禁制」となっているのは教義によるもので、それは社会存在する「差別」的な物の見方を反映したものである場合もあり、これを批判的に検討することもあっていいとは思われるが、それ自体を「差別」と呼んで社会的に是正を図るようなやり方は適切ではなく、単に時代に合わない教義もつ宗教からは人が離れていくという形に任せれば十分である。たとえば、土俵女人禁制だというなら、それは尊重すればよいし、もしその教義に不満があるなら単に相撲を観なければよい。したがって、これも「差別」と呼ぶのは避けた方がよい。

いずれにせよ「差別」というのは、社会的に是正が図られるべきというニュアンスを含む相当に強い(批判の)言葉なので、軽々に用いるべきではない。

2021-03-17

anond:20210317074817

その場合、職にさえ就いてればオッケーな教義なら、選り好みせず職に就けば良いし、

病気障害で今後一生就職できないと悟ったなら、どう考えても自分を不幸にする「無職死ね死ね」教を捨てて、どんな無能でも受け入れる「留保なき生の肯定」教にでも転向すべきだ。

ゲイは一生治らないのに、カトリックは「俺んちの教会じゃホモカップルの式は挙げさせねーよ」教なの分かってて、他所には「ホモもウェルカムキリスト教」もあるのにそっちに行かずに、「カトリック教会でボクとダーリンの式を挙げてくれなきゃヤダヤダ」と駄々をこねてるのは完全にあたおか。

世界ホモを中心に回ってんじゃねーぞ、天動説かっての。

anond:20210317221559

日本人の大半がそうであるような性善説で生きてて正しい人間と悪い人間がいるもんだと思ってる人がこういうの語ると大体根っこからズレちゃうんだよ。

異性愛者が正常で、ゲイけがであるように考えてしまう。

そうじゃなくてそもそもキリスト教って人間は全て罪人っていう原罪という教義がある宗教からな。

罪のない者だけが石を投げろって話あるだろ。

キリスト教の考え方では罪のない人間ってのはどの時代のどの場所にも一人もいないからそういう話になる。

anond:20210317213139

法律論をするならば、権利が衝突した時は裁判で決めるぞ、って原理があってこれで調停がはかられる(公共の福祉)。

でもコメント連中の民意はだいたい「表現の自由があるからといって何を描いても良いわけではない」が人気だから倫理観としては、

信教の自由ポリコレ表現の自由

が成立する。したがってオタク宗教化すれば文句を言われなくなる。エロ教義定義された宗教行為なので。エロは中心教義なので。気にくわないなら改宗すればよい。勝利

リベラル連中の宗教に対して大甘な姿勢が謎なんだよな。

教義ポリコレどっちか選ばないといけないときが来ないとでも思ってるのかな。

あれ?ポリコレってザコくね?

https://anond.hatelabo.jp/20210316232303

この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな

だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由表現の自由のどっちが強いかって憲法定義されてるのかな?されてなさそー

じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお

しかも「憲法政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民キリスト教教義ポリコレ文脈批判する際に信教の自由忖度してるって事は嘘だったって事だよな

おおー。だとすると憲法定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民ポリコレ批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成る

表現の自由ポリコレコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈批判はそれが表現の自由侵害しないか、している場合侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しか信教の自由侵害する際と同じ強度で)

 

更に信教の自由ポリコレ規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん

面白い。他のカトリック擁護検討してみようか

 

当事者以外には怒る理由が薄い

当事者以外による表現に対するポリコレ文脈批判も同様と言えそうだな、これは大きい

 

・祝福は教義定義された宗教行為なので

→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな

あと教義定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?

なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能解釈変更を行っていない教皇同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ

 

・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗自由は確保されてる等

表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ批判無意味になりそうだな

一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?

ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社私企業コンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会公共性はこれらを上回るのでは?

だとすれば「公共の場である教会において改宗自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレ無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね

 

・実害は無い

→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?

実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る

更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、

今回の教皇庁の発表が信者差別助長するという二次被害懸念をも信教の自由キャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由キャンセルできるだろう

(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定そもそも疑わしいのだが)

 

聖書修正できない

→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現修正を迫るポリコレは同じ理由拒否できるという事だから

聖書修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現修正できない事に成る・・・・流石にこの理由は無いか

聖書修正信教の自由侵害するから?いや、それも微妙だな、修正信教の自由侵害するというロジックが無い

本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや

 

批判を諦めているだけ

→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・

 

と言う感じで、今回得られた材料だけで表現へのポリコレ攻撃の大半に対処できそうだ、すごいなー

anond:20210317204248

ある集団から忌避されがちな宗教ありますね。それで?

全然反論になってないじゃん。

世俗教義が相反する宗教の話をしてるんだけど。

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