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はてなキーワード: 教義とは

2021-03-17

大半の宗教に「別の宗教改宗すればいい」は通用しない

なぜなら大半の教義には改宗禁止、あるいは少なくとも他宗教邪教扱いしてるから

宗教ポリコレは両立しないし、選択強制にならざる得ない。

リベラルのみなさんは寛容なパパのつもりでいるようだけど、そんなものはありえないわけです。

anond:20210317162340

キリスト教自体が、旧約の教義杓子定規解釈して権威にするヘブライ人へのカウンターという側面があるので

教義が正しくない場合もあるんだよという主張をするのは必然とも言える。

https://anond.hatelabo.jp/20210316232303

増田氏が貼ったBBC記事では以下のことにも触れられている。

「一方で、同性愛関係には「前向きな要素」があると述べた。」

教皇フランシスコ1世は昨年10月に上映されたドキュメンタリーの中で、同性カップルにも婚姻関係に準じた権利を認める「シビル・ユニオン」を認めるべきだとの考えを明らかにしていた。」

「また昨年のドキュメンタリーでは、「(同性愛者)は神の子であり、家族の一員になる権利がある。誰も見捨てられたり、惨めな思いをさせられたりしてはならない」と述べた。」

かに最後には

ローマ教皇庁はこのドキュメンタリーの上映後、教皇発言文脈から引き離されて引用されたものであり、同性婚を支持するものではないと説明した。」

とも書かれている。

以上から教皇自身同性愛者の存在自体神の子として認めており、迫害対象であってはならないと考えている。またローマ教皇庁公式見解も「同性愛関係には「前向きな要素」がある」と述べることによって、同性愛者の存在を受容する方向を示している。と同時に、あくまで「婚姻」という制度概念において教義的に「祝福できない」と言っているのだ。

増田氏は「キリスト教同性愛忌避歴史的同性愛者への迫害差別の一番大きい要因だった」と言ってるが、少なくともそのようなことを繰り返してはならないという意志は、公式見解教皇過去発言からははっきりと読み取れる。しか教義上、子孫を残すための男女間の関係を「婚姻」として神が祝福を与える制度としているため、子孫を残さな同性愛者のパートナー関係を「婚姻」という制度と認めて祝福することができないとしているのである

もちろんその教義自体が既に差別じゃないか、と言われればそうかもしれないが、そもそも古い価値観で石頭になってるのは、クリスチャンでも宗教的でもない、世俗価値観で生きてるつもりの、増田氏も含めた現代人もそうなんじゃないだろうか?つまり婚姻」という制度概念自体に頭を縛られ過ぎなのだ

婚姻」という言葉に基づく制度は、「子孫を残すための男女間の関係」に限定したままでも別にかまわない。それとは別に世俗法制度では性別関係なく生活を支え合うパートシップ関係に法的保護を与えればよいのだ。その点教皇は「シビル・ユニオン」というパートシップ制度を認めるべきだと言ってるわけで、宗教的教義とのバランスにおいて、実質的権利のあり方に踏み込んでるのである

また「子孫を残すため」という点では、あくま出産子育て支援制度として、パートナーシップ制度とは別に親権者へ法的保護優遇措置を与えればよい。実子がいない夫婦養子縁組親権者になれるのだから同性愛カップル親権者になって孤児を育てることだって可能だろう。ヴァチカン公式見解も、このような方法否定するものではない。

というわけで、増田氏が望むような炎上を今更されるようなもんじゃないのである

anond:20210317135208

どんな宗教を信じるのも自由だけど「異教徒は殺せ」って教義に従って異教徒を殺せば逮捕される

「どの宗教を信じるのも自由ですよ」ってのが保障されてるだけ

宗教にしたがってのことであればなにやってもOK」ってわけではない

なんでその程度のこともわからないんだろう

小学生

anond:20210316232303

リベラル連中の宗教に対して大甘な姿勢が謎なんだよな。

教義ポリコレどっちか選ばないといけないときが来ないとでも思ってるのかな。

anond:20210317010413

信教の自由は認めた上で教義の方を変更してしまえば、ポリコレにも信教の自由にも抵触しないんじゃ?

anond:20210316233810

オタク教作って

二次ロリエロは聖画

それで抜くのは信徒神聖義務

という教義にしたら、信教の自由で外から批判を突っ撥ねられそう

イスラム無茶苦茶な家父長主義ゲイフォビアでも外から批判するのは宗教差別かもと二の足を踏む人が多いように

anond:20210316235728

信教の自由が認められてるんだから、それを侵害する事は出来ないんだよ

お前は逆に自分の頭で考える前に宗教憲法について勉強しろ

イスラム教にもキリスト教にも差別的教義があるがそれを修正させることなんて出来ないしやっちゃいけないことになってんの

イスラム教ではジハードが許されるどころかむしろやるもんだってことになってるがそれを修正させることだって当然出来ない

オタク趣味は単なる趣味であって憲法保障されてる信教の自由と一緒に出来るわけない

頼むからまず勉強してくれ

2021-03-16

anond:20210316235014

分かってて祝福出来ないことが差別だなんて発想になってるんだよ

なあ、お前自分の頭で考えてるか?何で祝福が宗教行為である事を知ってたらそういう発想にならないんだ?全く論理がつながっていないように見えるが、理由はなんだ?言えるか?

信教の自由差別の非容認がぶつかったらどうなるかって話をしてんだよ、分かるか?

現在多くのリベラル表現の自由差別の非容認がぶつかれば、差別の非容認が勝つと考えている

なら何で信教の自由差別の非容認なら信教の自由が勝つんだ?理由は?

漫画アニメポリコレ理由から修正発禁まであり得るよな?勿論それと同等とは言わないが、なら聖書でもそれは可能なんじゃないか?何故可能じゃないと思うんだ?理由は?

何故宗教なら絶対なんだ?特に同性愛差別はその宗教こそが差別原動力と成って来た歴史があるのに?

教義殺人容認していたらそれも絶対なのか?修正は許されないのか?その方がおかしくないか

anond:20210316233810

嘘つくなよ

分かってたら祝福出来ないことが差別だなんて発想になるかよ

嘘つくのはやめよーw

マジで

信教の自由が認められてるんだよ

教義同性愛を祝福出来ないとされてたらそれはどうしようもないだろ

お前は聖書改竄しろって言うのか?それこそどこの国でも差別であり憲法違反であり人権侵害になるぞ

anond:20210316233033

ふざけるなよカスが、祝福が宗教行為って事位誰でも知ってるよ、そのキリスト教教義2021年には到底認められない直球の差別だという話だろうが

じゃあ何だ?これまでポリコレ的な価値観で燃やされたものは全部「教義でした」で許されたのか?何で?頭おかしいだろどう考えても

何で教義なら許されるんだ?何で教義以外は許されないんだ?理由を言えよ、言ってみろよ

肉を食わない事は誰も差別してないだろ、だがキリスト教教義同性愛者を差別してるだろ、その違いも分からんのか?もう少し自分の頭で考えて見たらどうだ?

ある価値観言動はそれが教義なら無条件に許されるのか?無条件に同等か?なら以下の教義はすべて同等か?自分の頭で考えろよ

A.肉を食ってはならない

B.同性愛者は祝福不可

C.同性愛者は死刑

 

同じか?お前は肉が食えないってことは、肉を食ってる人を差別してると言ってるようなものか?

自分の頭で考えろよ

anond:20210316232303

少しはキリスト教について勉強しようよ

祝福ってのは洗礼とかと同じ宗教行為であって

良かったねおめでとうと声をかけることじゃない

キリスト教教義に基づけば同性愛を祝福出来ないなんてことは当然のこと

宗教上の理由で肉が食えないと全く同じ理屈

お前は肉が食えないってことは、肉を食ってる人を差別してると言ってるようなもの

少しは勉強しろ

カトリック教義に従う気がないのにカトリック式の結婚式を挙げるのは文化の盗用だろ。

2021-03-14

anond:20210314103657

ちゃんと読まなかったけど、自分の見た記事か何かに宗教とかが入っているって話だったような…

教徒を殺すのも教義として認められているのが宗教なんだから、そんなもんWHOの枠組みに入れようとする方がどうかしている。

2021-03-06

anond:20210306094253

幼少期の抑圧により歪められた人格はその後も容易に治らないことはもっと広く知られてよいと思う。

子どもの頃にゲーム禁じられた、アニメ見られなかった、お菓子食べさせてもらえなかった、男女交際禁じられた、えっちもの一切見られなかった、

このような抑圧は大人になって自立したときに必ずといっていいほど反動が起きる。

世界中ローマ・カトリック教会聖職者たちが数千人単位児童性的虐待に関わっていた大事件があったけれども、もしキリスト教教義が極度に性的な廉潔さを求めるようなものでなければ、司祭たちが抵抗のできない子ども性的虐待を加えるなどというおぞましい行為に手を染めることはなかっただろう。

英語圏ポルノサイト巡回していて気づくのは彼らのアナルケモノに対する執着が東洋人よりもはるかに強いことだ。

後ろの穴も獣姦キリスト教圏で育った人間にとっては強烈な禁忌であるがゆえに彼らはそれに一層の興奮を覚えるのだ。

それはさておき、一部のラジカルなイデオロギーをもった集団社会から性的表現排除しようと政治的圧力を務めているが、性表現排除からもたらされるのは軽度の性表現にも興奮を禁じえない変態大量生産だ。

あるいはラジカルな彼ら彼女らは幼少期より性的表現排除されて育ったがゆえに軽度の性的表現にも異常に興奮してしまい、見るに耐えないものから許せないと憤っているのかもしれない。

ラジカルな抑圧はさらなるラジカルを生み、社会ディストピア化に拍車がかかっていく。

未成年自然欲求を抑圧することは、この世界不自由で不幸せものにすることと同じなのだ

2021-02-26

正論から怒鳴っていい」という昭和臭いバカ理論

半沢直樹大人気ですね。

特に昭和人間に。

どこが人気なのか……やっぱ正論を大声で叫んで土下座させることですね。

「おどりゃぁ!ワシの正論を聞けえ!うんたらかんたらロンパッパラッパードゲザショモース!!!」と呪文のごとくドヤ顔正論を叫んで相手に(。>﹏<。)な顔をさせるシーンが昭和オヤジの心に響いていると各種のインタビューには書かれています

これがなんで昭和に受けるのかというと、昭和ではそれこそが正しい仕草であり、同時に平成令和となるに連れて誤りであることが判明した歴史があるからですね。

昭和ってのは結局声がデカくて相手に「コイツ喧嘩を売ったらヤバい」と思わせられる人間が勝つ1億総ヤクザ時代だったわけです。

その時代においては正論を言っている人間が気弱だと他のヤクザに押し負けますから正論であるという自信を言葉の汚さによって表すのが正しい社会人仕草とされていました。

強気アピールすることで自分が正しいと信じている度合いを表現し、弱々しく喋っている詭弁野郎を下ろすのが、正しさを世に広める道とされていたとも言えます

ですが、結局強気で喋るのと内容の正しさは別に一致しておらず、むしろ誰もが強気で喋る競争をすることは集団の毒になるとされ、その文化は廃れました。

それでも、昭和に生まれ育った人間、そういった人間から教育を受けた人たちの中には、新時代適応できない人もいました。

彼らは今でも「正論を吐いてるときはがなりたてるのが正しい仕草である」と本気で思い込んでいます

ですが社会とはズレているので、そういった人達は知らず知らずのうちに「口汚いチンピラ」「いざという時のヒューマンスキルゴミ」「昭和頭のパワハラマウス」と嫌われていきます

そんな彼らの孤独に、半沢直樹は救いの糸を垂れました。

正論は怒鳴るものなんだ!!!倍返しだ!!!土下座100倍拳!!!」と叫ぶ姿に昭和の人々は信じていた教義の正しさの証明見出します

まさに、教祖の復活なのです。

でもね、やっぱりそれは時代遅れなんですよ。

ドラマの中だけにしてくださいね

アニメを信じて「この世界には妖怪が隠れてるんだ!」と言うのが許されるのは子供までですよね?

それと同じです。

昭和価値観昭和に廃れたことを認めましょう。

正論を喋っていると言う自信があるときほど、喋り方は物静かに清楚であそばせ。

2021-02-19

anond:20210219140602

これは…すごい難しい話だ。

沈黙」とは、神の沈黙、すなわち神を信じる人間が、神に対して祈りを捧げても、神が応えてくれない状態を指している。

なぜ神は祈りに応えてくれないのか。神は信じるものわたしを、わたしたちを見捨てたもうたのか。エリ・エリ・レマ・サバクタニキリスト教徒の方であれば、一度は聞き、考えるんだろう。

おそらく、神は人間の声が聞こえないのではない。聞こえているが答えを出さない。1人1人の人間を、その人間が思う「救い」のかたちに導かない。もっと超越的な、人間全体や世界のものの方向付けをする存在として(人間によって)デザインされた存在から

そう考えると、「信仰を捨てる / 捨てない」ことや「表面的な教義に従っている / いない」ということは、神の前では非常に小さい問題だ。ただ信じる側の人間が、祈りに応えない神の声を、教えをどう聞き取り、どう人生の中で実践するか。その考えと行動のみが、答えになりえるのではないか

2021-02-12

宗教勧誘の人と会うといつもの自分に戻れないから非常にイライラするぞクソ野郎

定期訪問やめて欲しいぞクソ野郎

卑怯なんだよな宗教勧誘

聞かれた個人情報を素直に教えてんのにそれすら取り込んだ上で意に介せずご自分教義ばっかり押し付けに定期的に来ると言うパターンのもの

2021-01-30

救済宗教としての大乗仏教

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教需要がなくなっているのは仕方がない。

もともとの仏教は、個人出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代中世時代にはそうとも言えない。

古代中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教教義を知ること自体が困難。

そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間けが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識からまれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代中世において庶民を救うには必要なことだった。

から現代視点から大乗仏教宗教堕落みたいに言うのは間違ってる。

ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。

以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。

比叡山修行した法然

浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ

一遍時宗

おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!

https://anond.hatelabo.jp/20210130183106

2021-01-29

先進国少子化イスラム世界征服しそう

先進国はどこも少子化だけどイスラム子供を増やし続けている。

欧米移民して嫌われても男尊女卑的な教義を捨てないで女に子供を産ませ続けているから、そのうち人口多数派になって民主的選挙先進国支配しそうだ。

民主的な国じゃないけど中国があれだけ無茶苦茶ウイグル族迫害してる理由も、一人っ子政策高学歴化で子供作らなくなった中華民族イスラムに数で圧倒される未来を恐れているからではないだろうか。

イスラムだらけになった世界で今みたいな個人自由って守られるのかなあ。

2021-01-22

anond:20210121234723

生徒が半分になれば、僕の場合は、授業作りは楽しめそう。ただ、周囲の同僚もそう思うかは正直分からない。

昔と今って、教科の名前こそ一緒でも、学びの捉え方、授業のあり方はガラリと変わっていて、ザクⅡとハイザックくらい別モノ。

エースパイロット技量でグイグイ行く感じじゃなくて、射撃格闘土木工事何でも誰でも出来ること大前提プラスアルファ編隊組んだり混成チーム作ったりバリュートで降下したりメガランチャー装備したりする感じ。

クラスの規模が半分になっても、戦闘教義が変わるのにどれだけ負担がかかるか…

2021-01-20

anond:20210116173104

浄土真宗僧侶増田です。こんばんは。

こちらの記事拝読しておりました。なかなかお一人お一人の思いにすべて反応できず、余計なご心労をお掛けしてしまたこと、お詫びいたします。


あなたがお怒りになるだけの経緯はよくよく伝わってきました。自分の思い・はからいによって得ようとした結果が、期待していたものとはまったく違ったことを嘆かれている訳ですね。裏切られたような怒り、蔑ろにされたような悲しみが、少なからず私にも感じ取れました。


あなたの仰った通り、その寺院が以前は対応していたはずのところを取り止めた、ということであるならば、御朱印を求めて参拝した方に対する態度・応対というものは、もっと丁寧で親身であるべきだろうと私も考えます。むしろ私ならそうします。どのような形であれ、寺院に足を運ばれた方との貴重な仏縁なのですから。たとえ自宗の教義信仰方針と違ったとしても、お相手の労苦をねぎらいつつ、また同時に、自身立場をはっきりと分かりやすくお伝えする義務があると思います

ですから寺院の応対の不誠実さという点については、おこがましいこととは承知の上ですが、私が当宗門代表してお詫び申し上げます。せっかく遠いところから時間と体力を割いて足をお運びになったにもかかわらず、ご期待に添えることができなかったばかりか、宗門のものに対する疑念と憤りを抱かせてしまたことを、大変残念に思います





そして、御朱印の記帳を浄土真宗が行わない理由についてですが、私どもの立場をはっきりと申し上げますと、

御朱印を集めても、それが救いにはならない

と信じているためです。



真宗門徒は、お念仏ひとつでお浄土に往生する道を“聞き”ひらく教えです。つまりそこには、お念仏のみ教えを“聞く”という過程が求められます。“聴く”ではなく“聞く”ですから受け身です。「(俺が私が)聴いてやる」とか、「それなら聴いてもいい」とか、そういう思いでは成り立ちません。仏から相手から、聞こえてくる、聞かせていただく。このような心をまずお育てにならなければ始まりません。




かつて、浄土真宗のご門徒に、布教師講師の話を一生懸命ノートに書き写す方がいました。その方はいつでも聞法ノートを携え、全国各地の法話講義に赴いていました。その熱心さには誰もが驚くほどで、どれだけ遠かろうと時間がかかろうと、その方はとにかく聞法を続けていました。

ある時、宗門では有名な講師講義をした際、その方は講師の元に駆け寄り、ご自分ノート講師に見せました。「私はこれだけのことを学んできました、そんな私のノートに、何か一言お願いします」とその方は講師に頼みました。

なるほどとうなずいた講師が、ペンを取り書いた言葉は、

味占めて 地獄行き

という強烈な一言でした。

はいつの間にか、教えを“聴く”心になっていたのです。いただいた教えよりも、「これだけ教えを“聴”いてきた自分がえらい」と勘違いしていたのです。努力している自分・熱心な自分という姿に陶酔し、肝心要のことがまるで人生と心に響いていなかった。そういう態度を戒められるための一言でした。




御朱印を集めることによろこびや達成感を抱かれる方が多いのは私どももよく理解しています。それが思わぬ形で仏縁をもたらすことがあるのもよく理解しています

からこそ、かつて御朱印を取り入れた過去があるのも、そうした世俗の方々との接点を得ようとした苦肉の策だったのだろうと推察します。そして、そうした在り方が、自分自分たちの教義信仰を貶め歪めさせるのだという過ちに気が付いて、取り止めたのでしょう。

私自身はこの件について、これまでもこれからもあってはならないことだと考えております。どれだけ世間から非難を浴びても、一貫した姿勢を貫くべきだと思います。ですからあなたの訴えには宗門全体が耳を傾けるべき意味があると感じております



そして、あなたの怒りや疑念を受けてもなお、私(と浄土真宗)は御朱印がもたらす作用にうなずくことはできません。

それが何故なのかは、私があれこれと何でも押し付けるよりも、あなた自身の胸に問い掛けていただくことが、何よりも近道だと思われます



あなたにとって御朱印を集めるということは、どういう意味を持ちますか?

あなた御朱印を集めると、あなた人生はどう変わりますか?

あなた御朱印を与えてくれなかった寺院宗派に対して怒りと憎しみを抱いたことで、あなたの心は晴れましたか

あなたが生きる現在、そしていのち尽きてゆく未来に、御朱印はどう影響しますか?




今後ご返信いただく必要はありませんので、私の言葉をご自分の中で“聞”いていただきたく思いますあなたのお声を確かに受け止めたことに免じて、あなたもまた、私の声を受け止めていただければ、私はとてもうれしいです。




最後になりましたが、一つご紹介します。

私たち開祖親鸞さまは、「念仏以外に救われる方法があるのではないか」ということを問いただそうとして遠方から駆け付けた方々に、こう仰せになりました。

おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしまてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。




合掌

2021-01-16

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

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