はてなキーワード: 情報量とは
個人的な経験に基づいた意見ではあるのですが、元増田さんの提案はあまり上手くいかないのではないかと思います
半額シールを貼る作業は、商品補充や棚の整理を行いながらの作業になります
商品補充と棚の整理は、レジ打ちや接客と並んで小売従業員の基本業務です
商品が売れるタイミングはある程度は予測できても、完璧に読んで商品補充を行うのは難しいです
特に売り場が狭い店舗の場合は、油断するとすぐに棚が空になってしまい、売上を伸ばすチャンスを逃してしまいます
棚の整理には、例えばお米のコーナーに肉やアイスが放置されているケースもありますので、そういった商品が無いかチェックする事も含まれます
上記の様な極端なケースは稀ですが、冷凍食品のコーナーにアイスが置いてあったり、肉のコーナーに魚の切り身のパックが放置される事はよくあります
賞味期限順にきれいにそろえて並べていた商品が、いつの間にかぐちゃぐちゃになっているのはほぼ毎日です
その為、半額シールを貼る作業のある無しに関わらず、こまめに棚整理や商品補充を行う必要があります
ですので値札に売価変更の予定を表記していたとしても、従業員の手間はさほど変わりません
半額シールは翌日、翌々日には廃棄する商品に貼る場合がほとんどです
その為、撤去しなければならない廃棄品を探す際の目印にもなります
記入できる情報量を増やす為に値札を大きくすると、商品そのものが見えにくくなります
かといって文字を小さくすると、特にご年配のお客様が読みにくくなってしまいます
また値札に○日○時から半額などと表記されているよりも、単に半額シールで目立つ様に表示した方がお客様にも分かりやすいと思います
「半額」とだけ書かれたシールを使っている店舗は、使用している設備が古い場合がほとんどです
こういった店舗はおそらく元増田さんの提案を実現できる環境ではありません
この様な店舗は設備投資を行う余裕が無い、もしくは必要を感じていないからです
仮に設備投資を行う余裕があったとしても、まずはレジの更新が優先されると思います
その方がお客様の満足度的にも、従業員の負担軽減の面からも効果が大きいと思います
大手のスーパー(西友、イオン、イズミなど)であれば、元増田さんの提案を実現する事も可能かもしれません
しかし、そういった企業の店舗では、すでに売り場で売価登録・変更とバーコード付きの値札シールの印刷が可能になっているそうなので、半額シールはほとんど使わないと思います
半額シールは分かりやすい点は良いのですが、値下げ幅を考えると大雑把過ぎるところがあるので、できることなら使いたくない店舗が大半だと思います
人間、ご褒美ばかりじゃない。
特別は、大事にしまっておいて。ときどき晴れの日として思う存分味わうのです。
なんでも未体験の時は、心の揺れ幅がおおきくて。心の中では追体験する。
晴れ着って日常遣いしませんよね。大事な式典や、冠婚葬祭にだけは着れますね。
その反対が普段使い、なので私にとって大事なら、ずっといつももあるけど、そうしたいけど
気もそぞろになってしまう。
触れたときに、心を安定させるのに最初は、時間がかかってしまう、
情報量だったり、圧倒される美しさだったり、様々な感情だったり。
ちゃんと向き合いたいので、下手したら魂持ってかれてしまうので、
精神的に落ち着きてる時、スイッチが入ってる時にというのもあります。
でも気持ちはずっと常に傍らにあるんだよ。
軽々しく言葉にしていいのか、解釈の迷路で途方に暮れている部分もあります。
自分に都合の良いように、誰しも解釈したいし、そう思う自分が厚かましくも感じて。
軽い気持ちならずっとずっと気楽に触れていられるんだけど、
日常遣いというのにはすぐには出来ないんです。
無理して小難しく書く前に、情報量増やしたらどうだろう
誰かの同意を得るつもりはないし、主語を大きくして絵描きが字書きが~なんて言うつもりは毛頭ない。
この2つに限った話ではないけれど、表現することとその手法の奥深さに常に魅了され続けている。
私はここ10年ほど趣味で漫画を描いていて、文章は大昔の落書き程度でしか書いたことがない。
漫画を描くのはとても面白い。たった1pネームを書き下ろすにも、コマ割りにセオリーや文法があって、
読者の視線を誘導するための仕掛けを入れ込むことができて、トリックを作り込む気分だ。
ただ、漫画という手法の力の無さを痛感することは多々あって、そういう時は小説という表現手法を尊敬し、そして羨ましく思う。
漫画を30p描いたら、せいぜい週間連載1話相当のボリュームだろう。
けれど同じ頁数を小説に割いたら、このお話を一体どれくらい前進させられるだろうか。
頭のなかに溢れるお話を、小説という形態なら、まとまった量でアウトプットできたのかな。とよく思う。
漫画や絵は「パッと見の情報量が多い」という利点があるのも自覚している。
人間一人が作品にかけられる労力の総量は、手法違えど そうそう変わらないのだから。
漫画ばっかりペロペロッと読んで、同じだけの情熱を傾けた小説を読み進められないことを謝りたい。
「ここはコマをこう切って、内枠に従う比率はこれくらい…セリフを減らして絵でこう見せる…ベタとトーンの処理の仕方はこう…」
漫画を読むことはコンテンツを楽しむだけでなく、一瞬一瞬が勉強で、表現手法の一つ一つを楽しむ心得が自分なりに備わっている。
学んだことを自分の原稿で実践したくなるので、創作意欲にもつながる。
対して小説を読むことは、私にとって本当に純粋にそのコンテンツを楽しむことだ。
小説は漫画よりもまとまった頁数でまとめられることが多い。100pとか、200pとか。
それは漫画に換算すれば500Pとか1000Pとかに相当するストーリー密度で、「コマ割りを勉強しよう」とかいうモチベーションもない分、より労力を割く必要がある。
そしていざ読み始めてみると、漫画で「このコマはこういう文法で~」とか反芻しながら読むことに慣れてるので、
1文読むのに視線を10以上往復させて、計1分かかることもある。いつ読み終わるの?
ストーリー密度が高いのも合わさって、読み進めるごとに時間ばかりが経ち、ストーリーの中身を忘れていく。アホだな。
これに関しては書き方が雑すぎる。なぜ一次情報よりも二次情報、三次情報のほうが好まれるのかといえば、二次、三次のほうが情報量が多くなっていることが多いからだ。ソースの読み方の解説、別の角度からの意見、関連するリンク等が、二次・三次になるにつれ多くなる。「無断転載が好まれる」のではない。
その中で、一次情報から削られていく情報も多くなり、「ソース読め」という批判もでてくるのだが、これは「迷惑まとめサイト」のみならずメディア全般の問題。一次情報であるゲーム作者とすれば(決して一次情報はメディアではない(メディア記事はすでに二次以下の情報))、一次につながる記事であるなら基本的には拡散を好むだろう。
正直に言うと毎週楽しみに見ている。
けれどもなんというか、もの足りない。
いろんなキャラの情動が、味の素というか、パッケージというか、レトルトパウチみたいな感じがする。
岡田麿里っぽいというか。
何でこう感じるんだろうなー。
だから登場キャラ達を生活者としてリアルに感じることが出来ない?
メインキャラが多過ぎ?
10人も居るこどもたちが常に出てくる時点でどうしても一人一人は浅くなる?
単にドラマの作りが下手?
たとえば6話のヒロの復活だって、ヒロの中の何が変わったのかよくわかんないもんな。
02が1人にされたら上手く操縦出来なくなる姿ってヒロにとって意外なものではないはず。
2人で操縦するもんなんだって02も周りも何度もそう言ってるし、
02が戦闘中に相棒にダウンされて1人になって出血して弱ってる姿もヒロは見たことあるし。
まだ敵を倒してないうちにダウンしちゃったら02に迷惑掛けたり02も道連れにしたりしちゃうことはわかってたわけで
「気持ちよく死のうとしてたら02が困ってる」っていうのは意外な光景でもなんでもない。
新情報が何もない。
だからヒロの心があそこでどう劇的に変わるのか、変われない。
ので、ただ突然蘇って身体の侵食を治して「ウオオオオオオーーーーッ!」って根性出すになっちゃったから
ダリフラに好意的な海外でもあそこは「ass pull」って結構否定的に言われてる。
あの展開にするならもっと02が弱みや裸なんかも見せたことなくていつもきれいにしてて、
ヒロは02と仲が悪いか強い不信感を持ってて、
「俺はたぶん使い捨てられて死ぬけどお前も勝手にやれよ、ケッ」ぐらいの感情持ってるようにしておけば
「グオオオオーッ」ってボロボロになって狂乱してる02を見て「やっぱりこいつを助けるんだ!」になるヒロに感動できたと思う。
最後の一撃を02だけで出来るようにアレンジして託して、心置きなく使い捨てられて死のうとしたのに
02が動揺してヒロをセーブする方を優先して敵を倒せなくなって窮地に陥っちゃうとか。
これならやっぱり02の意外な一面を見て「勝手に死ぬつもりじゃダメなんだ」ってなったヒロが根性出すのは感動できたと思う。
これらはすごくベタで単純な1案にすぎず、絶対これにしろって意味じゃないよ勿論。
(02のベタベタする可愛さとヤバさを前面に出すことで興味を引っ張ってきたアニメだし)
でもとにかく、
何の新情報も心の回転もないまま「ウオオオオーッ」の気合で絶望的な状況を転回させちゃうのはまずいでしょ。
ドラマとしても戦いの駆け引きとしても。ass pullともいわれるよ。
どうなんだろう。
つまりわりと一本調子っていうことなのかなあ。キャラの行動や心が。
人間関係もSFも、伏せられた情報が次々開けられていく感じがあると興奮や快感があるもんね。
あのマグマエネルギー世界の設定はあまり面白い斬新な物は出てこないのが感触としてわかってしまう。
わからん…。
はっきりとはわからん。
作中情報量は多くてもずーっとガシャガシャワアワアやってる感じ(静かなシーンも)
15年くらい前に考えた推測
1.アニメキャラのような顔立ちの人間が存在したら、おそらくああ言う声なのだろうという話
欧米のアニメ声はもう少し野太い印象があるが、似たような見た目であっても欧米人のほうがやや低いからだと思う
実写だとあるような、例えば表情や細かな身振り手振りなど
実写のような普通の画 + アニメ声 も違和感を生むのはこのため
より強い抑揚を使われていた
3.美しい声を極めると結局ミックスボイスとなる
不気味の谷に居るのだと思っている
アニメキャラのビジュアルも、現実にはあり得ないタイプのものであるため、気持ち悪いという人が居る
それと同じだ
例えば、アニメを受け入れてる人でも、ある種のタイプの絵は受け入れられないというものはないだろうか(少女漫画の大きすぎる目とか)
私は20代、男。
くも膜下出血だ。
病後、例に漏れず私達の家庭も「高次脳機能障害」と付き合っていくことになった。
あれからもう5年以上も経過して、父は依然として
約束(決められた時間と場所にいく等)を覚えていられなかったり、
親から罵詈雑言を浴びたり、記憶の抜け落ちにより息子だと認知されなくなったりするのは、悪意がないとしても(無いからこそ余計につらいのだが)相当、精神的に堪えるものである。
今回、KEIKO氏の高次脳機能障害が世の中のトピックにあがったこのタイミングで、タイムリーなことに私の父にも進展があった。
決してハッピーなものではないため、増田にて書かせてもらう。長文雑文になるが、どうか一読いただければ嬉しい。
当時、いわゆる夢追い人だった私は、残された家族のため(高齢の祖母、まだまだ10代半ばの弟)
父に代わって、なんて格好のいいものではなく、なし崩しなのかなんと言うか、泣く泣く人生の軌道修正をすることにした。
肝心な父の状態は相当ひどいらしく、生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
「生きても半身不随になるかも」
そう医者にいわれた。
わかっちゃいるが、お医者さんもすごい慣れた喋りクチだ。そのせいか、えらく事務的に聞こえる。
自分のこと、家族のこと、父のこと。私が死ぬわけでもないのに走馬灯のように色んなことが、しかも最悪の形で頭で展開されていき、
それと同時に、ただでさえパニックになっている頭の中を、物凄い情報量が通過していく。
まともに読みもしていない手術に関する合意書等、沢山の書類にサインをしていく。こんどはこちらが事務的にこなす番だった。
ふと気がつけば、手術がはじまっていた。
その時になってはじめて、あんなにキライだった父のことなのに、思いきり泣いた。
手術は成功だった。
術前に医者から聞いていたとおり、父は高次脳機能障害とよばれるものを抱えながら生きていくことになった。
パッと見、ちょっと痩せて目がトロンとしているくらいなのに、障害者だと思うのは不思議な感覚がしたが、それも始めだけだった。
開口一番、「おまえ、誰や?」。
ああ、父の病気はまだ続いているんだと悟った。
発症から数ヶ月ぶりにコミュニケーションがとれたこともあり、必死に状況を説明してみた。
うんうんと理解したような素振りをみせたと思いきや、「なんで俺はこうなってるんだ?全部のお前のせいだ!」と怒号を飛ばされる。
悪意がない、あたまが混乱しているだけだ。と周りには慰められたが、当時まだ二十歳そこそこで、ここまで自分なりに夢や時間やと犠牲にしてきたのに、あんまりだと思った。
この段階でまた泣いた。
聞こえはいいが、後に詰まっている患者を入れるため、心太式に入れ替わることが制度で決められているだけだ。
怒号はなくなったが、兄弟の人数を間違えたり、架空の人物を作り上げたりする父をみて、私は「これで大丈夫なのか?」と医者に問うたところ、
「これ以上の治療はできないからリハビリして現状維持するしかない」と返ってきた。
絶望だった。
もう私は一生、この現状に縛り付けられるのか?こんなあっけなく、自分のコントールできないところで審判がくだされるのか?何度も自分に問いかけた。
その後しばらくして、父はなんとか勤めていた会社に復帰するまで持ち直した。奇跡的だった。
父は、昔みたいにバリバリ仕事はできなかったが、会社が事情を汲んで軽作業の仕事を与えてくれた。
もうそれだけでも充分だった。やっと終われる。そう思った。
それから5年経ち、個人的にも家族的にもバタバタした時期がすぎて、なんとか人生プランを立て直す段階まできた。
そのタイミングで、また事がおこる。
つい先日、僕の電話宛に、父がいる会社の社長さんから電話があった。
嫌な予感がした。どうやら5年前の絶望は杞憂ではなかったらしい。
聞くと、実は1年前から仕事中だけ様子がおかしい。症状が酷くなっている。と言われた。
正直にいうと、「またか。」と思った。
世間は、血のつながりだとか、産んで育ててくれた恩人だとか押し付けがましいことを勝手にいいやがるが、クソ食らえである。
ソーシャルワーカーに紹介してもらった施設は、結局のところただの相談窓口で、抜本的な解決につながらない。ガス抜きにもならない。温度間がちがう。
いまの会社では働けないのに、障害者手帳をもらうには程度が低いので認定できないと言われる。
基本的に周囲からは「健常者」としてみられるのだが、自分のケツをふけなくなったくせにワガママだし、仕事もできない。
あんなに強かった父が、若い子から「ジャマだジジイ」だなんて蔑まされてるだなんて、聞きたくなかった。
泣いてたらしいし。もうつらいです。
■追記
深夜にどうしようもない心持ちになり、完璧に勢い任せな投稿だったのにも関わらず、反響があって驚いている。
コメントをみると、私みたいな物でも誰かの役に立てそうな気がしたので、返事を書いてみる。
本当にお疲れ様ですとしか言えないな。あなたの感じる細かい行政上の矛盾が少しづつでも解消することを祈っているよ。
私も二人、子供がいるんですが子供に迷惑かけたくないな、と強く思う。健康大事だな。。。君も(抜けないかもしれませんが)手を抜く事に躊躇しないで欲しいです。
ーーーー
父は元々仕事人間でプライドが高い人だったので、いまの状況が本当にもどかしいです。
一身上のことですが、祖母と父は養子縁組だったので血が繋がっていません。
本文では割愛しましたが、実は父には血縁関係の無い姉がいて、軽度のダウン症を患っています。
そんな家庭でも、父は恩を感じているようで、私に常々と「家のことは俺が全て最後まで面倒みるから、お前は心配するな。」なんて言っていました。
なんとも救えない。皮肉な状況です。
お互い、ご飯と睡眠は大切にしたいですね。
嫌いをキライって書くやつ嫌いだわ。 苦しめ。
ーーーー
不快にさせて申し訳ない。だけど、少しでも読んでくれて嬉しいです。
ーーーー
いまのところ死ぬ気はないです。
件のおかげで、「嫌われる勇気」は読まずとも身についたのでラッキーだったかもしれません。笑
自分が関わらないことで「見捨てた」と思いながら自分だけの人生を歩むのと、
積極的に関わって「自分の人生を生きられなかった」と思う人生を歩むの、
どちらの人生が良いのかとときどき考えるが、私はまだ答えが出せないままズルズルきている。
ーーーー
当時は経済的にもすごく不安定でしたので、よく「自分が死ぬくらいなら、全員見捨ててでも生きる。」と思って日々を過ごしていました。
いまでもそれは変わっていませんが、自分のできる範囲でなにか手伝おうというスタンスでやろうと模索しています。
しかし、何か在ればや私のところに連絡がきてしまうのかもですが。
障害者手帳すら出ない程度なら、後見人でもないと思うけど、本人ではなく家族に退職勧奨なんてするかなあ。
もし本当なら、退職勧奨は受け入れず、解雇通告された場合には会社に対し解雇通知書もしくは退職理由証明書の発行を依頼して。
障害者枠の仕事では自立できないって言うけど、障害者枠の仕事で子育てもして自立してる人もいるので、「障害者枠の仕事」と一括りにしないでほしい。
会社で勤務中だけ様子がおかしくて、主治医も増田も悪化が把握できないなら、会社から具体的な症状を聞き取りして主治医へ伝えることで障害者手帳を取得できる可能性はある。
大変だった時期もあるだろうけど、現在は障害者手帳が出ない程度だし、具体的にどんな介護をしてるか書いてないし。
行政支援が受けられないなら、距離を置くか、イライラ溜め込まないよう増田自身のメンタルケアを優先してみては。
ーーーー
なるほど、そもそも後見人の概念を知らなかったので勉強します。
様子については、基本ちょっと抜けているのですが、仕事や非日常のイベントなど緊張する場面になると急に症状が酷くなるみたいでした。
タイトルについては、私自身も介護問題なのか労働問題なのかは上手く切り分けられていないのですが、小室さんの件もあり介護先行で書きました。
「障害者枠の仕事」も含め、相談員の言うことを鵜呑みにして思考停止している部分もあるかもです。
色々とご指摘、ありがとうございます。
小説=誰でも書けるなんて思わないし、恐ろしく萌える話書いてくれる神がいることも理解してるよ。
ただ、漫画と比べるとぱっと見でどういう感じか(作家性、雰囲気、空気感)が分かりづらいから相当本気萌えのカプ以外は読まない。
ツイッターだったら、
普段から「こういうシチュ萌える」「このカプのこういうとこが最高」「受けと攻めの関係性解釈はこういう感じ」ということを呟いてもらえると助かる。
長文は本腰入れて、よし読むぞ!って思わないと読めないけどツイッターに流れてくる文字なら気軽に読めるから。
そういう解釈や感性や価値観が普段のツイート通して伝わってくると作品読むまでのハードルがぐっと下がる。
ネットが普及する前は、自分の周囲の人達との付き合いだけで世の中が回っていた。自分と接点のある人の数が今より大幅に少なかったから、憎しみや悲しみに触れる機会にも上限があって、それで心のバランスが保てていたし、自制も出来ていたように思う。その分広い世の中について知るのは難しかったけれど、ネット以前の人間はみんなこうやってバランスをとって生きていたんだと思う。
でもネットが普及して以降、世の中の悲しみや憎しみ、矛盾、他人を傷つける発言、クズのような人間や会社、そういうものに触れる機会が大幅に増えてしまった。他人から攻撃されることが増えたことや、他人を攻撃している人をたくさん見ることによって、「自分も他人を攻撃していいんだ」と思う人が多数派になって、憎しみが溢れる世の中になってしまった。ネットが普及する前の時代に比べ、僕らが外部に発信する憎悪や汚い感情は何十倍にも何百倍にもなっていると思う。昔の人に比べて、今の人間は遥かに大量の人間の心を踏みつけるようになったと思う。感情が可視化されることで、無意識に他人を傷つけてしまうことも増えた。他人を平気で傷つけている今の時代の人間の中で、果たして死後に地獄に落ちない人って存在するんだろうか。みんな、ネット以前の人間より遥かに大量の罪を抱えているのではないか。
自分の祖母はネットをしない。ネットをしないから抱えている情報量は大幅に少ないし、接点を持つ人間の数も少ないけれど、見えない誰かを相手に怒りや憎しみをぶつけたりすることはない。せいぜい親族や周りの友人についての愚痴を言うくらいだ。祖母はネット世代と比べて世の中を知らないのだろうけれど、憎悪や悲しみを過剰に感じることもなく、日々生活できている。むやみやたらに他人を傷つけたりもしない。僕らはネットによって本当に幸せになれたのだろうか。
人間が、世界中の人々から溢れ出す汚い感情に直面するようになったのはこの10年位の話だ。僕らはもともと大量のネガティブな感情を受け止められるようには出来ていない。大量のネガティブ情報を受け取ってしまったことによる処理エラーが外部への憎悪という形で吐き出されることで、より一層世の中が汚れていく。そう考えると、みんなが地獄に落ちるという話ではなく、みんなで地獄を作っているのが今の世の中なのかもしれない。
ゲームは私のような発達障害者にとって、現実から目を背けストレスを緩和させるためのツールであり、学びの場であり、試しの場でもある。
いじめられていた私は、私をいじめてこないクラスメイトにいじめっ子と同じようなことを衝動的にしていた。
悪名高きグラセフで暴れるようになってからはそのような衝動は起こりにくくなったように記憶している。
私が空気を読む方法はFPSで射線と戦略を考えたことから浮かんだ。
視線とその思惑や顔の表情などから、ロボットのように人の顔と場面を観察して学習して獲得した(つもり)。
簡単に書くならば「そんな糞スペックのパソコンで俺の分隊に来るんじゃねえ」
(4人1チームになるのだがパソコンの性能が悪すぎるとゲームがなめらかに動かず成績に影響するため周りから煙たがられる)。
現実でも場にそぐわない行動や衣装は周りの気を悪くしてしまい距離を置かれるだろう。
試しの場であるとは、私が空気の読み方など、浮かんだアルゴリズムをゲーム内で試すことから来ている。
現実と違って爆音も奇妙な視線も寒さも苦痛も臭いも少なく、観察することに集中しやすい。
普通のプレイヤーからにじみ出る普通の動作や会話から多くを推測したり学んだりする。
こんな使い方もあるんだと、自分語りを含め書いてみた。