はてなキーワード: 思想の自由とは
しかし、同性愛者って、異性愛をできないんでしょ。もしくはできるのに思想的に思い込んでサベツダーサベツダーと叫んで利権を得る。
はっきり言って、自分にとっての唯一絶対のパートナーなんてありえないよ。キリスト教の思想を中途半端に取り込んでサベツダー言うのはキモイ。
神に作られた自分が人間Aで、神に作られたイブとしてのBが絶対的に存在する!なんてキモイに決まってる。
人間C~もいるし、Zで終わるわけでもない。
他者を好き/パートナーにしたい差でランク付けして上から何人が同性でも、何人か目で異性が現れる。っていうか異性が出ないならそいつは差別主義者でキモイ。
人間はその中で、異性と家庭を作ってきただけ。
同性と性的交渉を持つ必要性はない。その必要性で思い詰めている人間もキモイ。
世界一愛してる同性との子供はできないけど、孫は(もちろん周囲の同意があってだけど)出来うるんだよ?
【追記】もしくは恋愛をスポーツか何かと勘違いしているか。「銀メダルでは意味がない」とパートナーに言いたい/言われたいってのは思想の自由に含まれるのか。含まれるとして、保護されるべきなのか?でもまあスポーツ庁とかである意味アスリートは保護してるから、税金投入はアリなのか?アリだとしたら人気次第だな。オリンピックやワールドカップの視聴率や経済効果と同等のものがLGBTQにあればいいのかもね。
スポーツ庁新設の背景には、スポーツを国策として捉えようという政府の考えがある。スポーツは国民の体力維持・向上を図るとともに、人々に豊かな生活をもたらし、健全な青少年の育成や高齢化社会における社会保障費削減、障害者の尊厳ある暮らしにつながる。またトップアスリートの国際舞台での活躍は国民に大いに活力をもたらす。さらにスポーツは今や、多様化する国際社会において友好、平和、相互理解などに貢献するため、20年東京オリンピック・パラリンピックのホスト国である日本も世界の中でリーダーシップを発揮し、存在感を示していかなくてはならない。
こんな理由でスポーツに税金投入がありなら、LGBTQに税金投入もありだと思う。
個人的には、銀メダルも、銅メダルも、というか日本代表の時点で、ものすごく価値があると思うよ。でも、そういうものに選ばれなくても価値は変わらないと思うよ。選ばれた/勝ったから価値が出るわけでもないと思うよ。人気は出るかもしれないけどね。
しばき隊界隈の「どんな人間も豚を差別することはできないのと同様、オタクを差別することもできない」ツイートのその後をちょっと調べていた。
https://togetter.com/li/1220501
いかにもしばき隊らしい差別意識満載の発言で、まぁ言えることは「鏡を見ろ」くらいなもんなんだけど、その後の擁護の流れがなんとも。
「豚や牛などの動物にも人間と同じ権利があり差別されるべきではないという趣旨の発言であり、文意を汲み取らずないキモオタどもプギャー!」
ということらしい。
一見するとあらゆる生命に配慮した素晴らしく先進的な思想であり、人類進歩の最先端にいるオレたち最高!みたいな「ニッポンスゴイ系ネトウヨ」の裏返しみたいな高揚感を得られる思想だ。スゴイ。
ただ、もしこの発言をまともに受け取ろうとすると一つ大きな矛盾にぶち当たってしまう。
我々人類は、動物と人間の間に「差別」を設けることで現代の豊かな社会を作り上げているという現実だ。
例えば牛や豚はには自由恋愛は認められていない。繁殖の邪魔だからだ。
生命身体の自由も与えられてない。加工肉として出荷するためだ。
我々人類はこれらの「差別」によって素晴らしい恩恵を受けている。
・食糧確保の手間が減ることで、豊かな文化的生活を追求することができるようになった。
などだ。
現代の人口73億人は、これらの「差別」がなければ成立しなかっただろう。ビバ「差別」
我々人類と動物の間には明確な違いがあり、人としての権利=人権は人間にだけ与えられるものだ。まともな常識ある一般人ならそう考える。
この前提を壊した先にあるのは人類の窮乏化だ。
「動物への人権の付与」が実現されたときに、現代の73億人は維持できなくなるだろう。人間の権利が大事か?動物の権利が大事か?というイデオロギーの間で人が死ぬ状況は、理想のために国民を虐殺したポルポトと何が違うというのか。
さて、では今度は「動物も差別されない社会は理想だけど、現実に目を向けて動物差別は今までどうり黙認するよ」という、まるで憲法九条みたいな玉虫色の解釈論で現実をやり過ごそうとしたとき何が起こるか。
「差別って良くないよね?でも現実には差別によって社会は豊かだよね!」という社会を前にして
「男女の雇用差別って良くないよね?でも現実には女は妊娠するから雇わない方がいいよ」という声にどう対抗するのか?
真面目に差別に取り組んでいる人たちは「人権とは人類のみに与えられた権利」という大前提を外さない。
なぜなら差別を受けている人たちとは、まさしく「人権」を侵されている人々であり、「人権」の貴重さを身をもって知っている人たちだからだ。
人権は時に簡単に奪われ、取り戻すために大量の血が流れることもある貴重な宝である。
そんな貴重な人権を、たかがツイッターの論戦を擁護するために容易く動物に与えようとする人たちが「人権を守れ!」と叫んでいるという。
一体どんなジョークだというのか?
やましい内容でもないので、オープンにしてあるほうのはてなブログで書こうか迷った内容なのですが、
私のことをセクシャルマイノリティと知らない読者さんも多いことだと思いますので、念のため自衛のためにこちらに記させていただきます。
(メインの記事で当事者視点で語ってしまうと、自動的にカムアウトしてしまうことになるため、という意味です。)
LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」
https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A
昨今、こちらの記事が「いじめる側の理論」であると、かなりの勢いで燃え盛っていますが、
私の一読した感想としては、「どちらかといえば、「理解しよう」としてくださっている側」かな、と思いました。
たとえば、記事中の、
「同性パートナーだと保険金の受取人になれないんですよ! 3年前に知って驚きました。そんな不都合は、すぐ解消してあげたらいいと思うんです。」
こういったところに、このような感想がすぐ出てくるということは、ほんとうに忌み嫌っている側でもないし、共存したくないと思っている側ではないと思ったんです。
「そういう人はいてもいいと思うし、自分にはよさはわからないけれど、それが原因の不都合があるのは不平等だから解消されるべき」
急に風潮が変わってびっくりしている、とか、自分にとっての当たり前が急に当たり前ではなくなってしまって社会の変化の早さに戸惑っている、と言ったふうに、
この記事から感じられたのは、「戸惑い」の感情でした。不理解、ではなかったように思われます。
実のところ、何を美しいと感じたり、何を好ましいと感じたり、何を疎ましいと感じたり、何を吐き気がすると感じたり、するかは個人の思想の自由であって、見ず知らずの他人が正義感から(本音を語るような場ですら)「差別的だから発言してはいけない」、といって規制していいものではないと思うのです。
この方はじっさいゲイの活動家の方にあって話をし、その場で相手を怒らせたわけではなく和やかに話を終えて場を去ったことでしょう。
そして、別れた後から、「あれが、本当のLGBTか、良く解らない……。自分と同じ性別を愛するなんて理解不能だ」と自分の中で反芻する。
それで、とても、いいと思います。
自分は、LGBTのなかでも、(ここで具体例としてあげられた)ゲイではなく、T(トランスジェンダー)なので、
LGBTとひとくくりにされていますが、LGBとTは本質的に違うもので、おそらく、LGBの方の納得する「社会の理解」とTの納得する「社会の理解」は、
段階的にかなり異なっているものであるのではないかと思われます。
LGBは恋愛にまつわるマイノリティですから、恋愛(~結婚、家庭)に対する社会の捉え方が変化すればそれですべて問題が解決するのです。
そこで、現状のところ、上記で述べられたパートナーの保険金を受け取ることが不可能だといった制度上の不都合は、解消されるような流れになりかけているように見えます。
そして、制度上の不都合が解決された先に求めるのは、「同性愛をめぐる目線への不都合の解消」になることかと思われます。
一言で言えば、「同性愛は異性愛と同じぐらい自然なものだし、同性愛をからかったり、あるいは過度に神格化してほしくない」といった要望になることでしょう。
そういった段階の不都合に辟易しているLGBの方からすれば、先ほどの記事の人はそのようなからかうような視点をまだ拭えてはいないですし、おそらく、自分たちを攻撃してくる対象と映ることでしょう。
自分はTのほう、トランスジェンダーのほうであり、トランスジェンダーの中でも比較的少数派のTGなので、「身体の性別と性自認が異なり、かつ、身体的な改造を求めない」タイプになります。
社会的に性自認の方で生きられれば充分、といったタイプではあるので、自分が最も求めている「社会の理解」は、生まれつきの身体のまま、戸籍等を性自認のほうに変更することが可能になること、になります。
つまり、TGは「性別というものの捉え方」にまつわるマイノリティなので、性別そのものに対する社会の捉え方の変化を要求しているのです。
ちなみに、私の外見につきましては、初対面では99.999999パーセント身体の方の性別で認識されます。あくまで、中性的なファッションを好む人、と認識されています。
性自認のほうのファッションを購入し着用しておりますが、ジャストサイズの服で、かつ社会に紛れて違和感がないものをチョイスしていますので、変な話、異性装とすら認識されることはありません。
TGである私の求める「社会の理解」は、この状態で、どうみてもそういうふうに見えない「もう一つの性別」として扱え、と要求しているわけです。
……どうですか?受け入れられますか?
「うっ」と思いませんでしたか?
というのも、これは、今までの性別というものの概念をいったん壊して再構築するように社会に要求しているわけですから。ちょっとハードルが高いことだと思います。
目の前の男性/女性に見えるAさんについて、本人に聞くまで性別がわからないという状態です。
現代社会では、目の前のAさんはどうやら男性っぽいから男性だろう、と決め打ちしてかかることが当たり前のように許されていますが、
その行為自体が「失礼」になり、本人が「男性です」と答えるまで、どうみても男性でも「性別不明」として扱わなければいけない社会になりうるわけです。
とうてい達成されうる目標だとは思えませんし、それにこれがもし達成されてしまった場合、不利益を被る人が出てくるでしょう。
初対面でまだ性別を明かしていない相手からのスマートな男性/女性扱いやエスコートをしてもらえない社会になるわけですから。
多分、先述の記事の男性の困惑ってこういうタイプの「困惑」じゃないかと思うんです。
同性愛は違和感がないという人で、先述の男性の困惑や感想に否定的な感想を言っていた人は多いですが、確かに同性愛は理解しやすいんです。
でも、同性愛はすんなり理解できても、トランスジェンダーの中の狭義のTGを同じように理解することが出来ない人は結構いるんじゃないかと思います。
「初対面で性別不明扱いにするのは、中性的な外見の人に限定すればいいのでは?」というアイデアもありますが、それもまた、難しい問題を孕んでいます。
というのも、中性的だからといって必ずしもセクシャルマイノリティだというわけではないからです。確かに、中性的な男女に少なからずセクシャルマイノリティが紛れ込んでいるのも事実です。しかし、そうでない人も多いです。
学生のころ、中性的な雰囲気の同級生がたまにいましたが、その中で何人かは現在トランスジェンダーとしてカムアウトするようになりましたし、
そして、何人かは既婚者になりました。つまり、当たり前のようにいた中性的な学生たちの中には、多くの異性愛者と少数のトランスジェンダーがいたわけです。
彼らの性自認が「どっち側」なのかは、外見から見分けるのは困難だと思います。私も、彼らが大人になってカムアウトしたから「ああ、そうだったのか」と知っているにすぎないですし、当時はわかりませんでした。
女性専用車両についての判決文は「女性専用車両の導入については、目的、手段の相当性・合理性が認められ、憲法14条に違反するとはいえない」となっている。
たとえ本人が認めていて、目撃者も証拠もバッチリな殺人であっても、裁判所が判決を出すまでは、あくまで容疑者であるように。
女性専用車両も裁判で男性差別と認定されるまでは「差別的な要素を含んでいる可能性を指摘されている」という表現がせいぜいではないか?
地裁の判決が出てる現段階では、ややホワイト寄りのグレーであり。差別だとも差別じゃないとも断定されていないと考える。
(個人的には最高裁までいっても、結果は変わらないように思う)
そのようなものに「差別であるという合意」は不可能ではないか?
https://anond.hatelabo.jp/20180225105423
「女性専用車両の利用者は、男性に感謝しろ、申し訳ないと思え」などは、思想の自由の侵害ではないか?
「女性はみんな女性専用車両に行け」は、実行するには車両数が圧倒的に足りないのではないか?
男性が被害者となる場合、乗車対象とされている女性、子供、障害者、高齢者が加害者の場合は防ぎようがないため、さらなる対策が必要ではないか?
また、ラッシュ時以外に現れる痴漢を防げないことも問題ではないか?
どうやったら増やしていけるだろうか?
無理やり愛国心を持たせるのは反発を産むが、愛国心を持つように仕向けるのは悪くはあるまい。
愛国心があれば多少の不和は収められ、社会全体に良いように変革することができる。
例えばだが、いま年代格差が起こって解消される気配がないのは、権力を握っている金持老人に愛国心がないから。愛国心があれば、貧しい同年代に分け与えることはなくても、自分が困らない範囲で若い世代に使わせてやるだろう。金持老人以外も愛国心を持たないが、金持老人すら愛国心を持つ――つまりみんな愛国心を持つようになっていればこんなことにならなかった。
思想の自由はあるが、思想を社会のために方向付けるのが道徳だったり法律だったりするわけで、そのなかに愛国心を組み込んだほうが社会全体にとって良いだけの話じゃないのか?
公にされている画像をどう解釈するかは思想の自由だろ。やられたくなきゃ公にするなってだけ。
たとえば美人の人が「私を見て!美人でしょ!」と思ってfacebookに写真を公開する。ブス専の人は美人だと思えないから、「このブス自意識過剰だな」と思う。
それと「子どもかわいいでしょ~!」と公開されている画像を「エロい」と思うのってなにも変わらない。
ロリコンが子供をエロいと思う気持ちを制限するのは私が子供をかわいいと思う気持ちを制限されるのと何も変わらない。
だから私は子供の写真はネットに絶対アップしない。エロいと思うことを制限することなんて絶対にすべきじゃない。
写真の保存とか二次使用とかは著作権の方面で問題なんだろうと思うけど、それを言い出したらママ友はみんな人がつくった画像を勝手に使ってるしなー。
略してエグハラ。
ポイントは「赤ちゃん」ではなく、「泣き喚く赤ちゃん」というのがハラスメントになっているということ。
べつに泣くなとは言わないが、公共の場所ではそれが存在しているだけで苦痛を感じる人がいるのも事実。
パブリックな場所で差別発言をすれば、当然ながらそれはハラスメントである。
思想の自由はあるが、「それを積極的に表に出す人間」という存在は現代社会では問答無用で排除対象だ。
そういったもの、そういったものを想起させる何かが「見える」「聞こえる」というだけで苦痛を感じる人もいるらしい。
「そんな感じの広告などの媒体」という存在そのものがハラスメントとなっている。
そしてこれは意識していなくても、日常的に昔からある厳然とした問題でもある。
見たくない。
聞きたくない。
なんとなく嫌。
生理的に受け付けない。
ていうかキモい。
単純に無理。
マンコは黙ってろ。
Githubに中国語だけの書き込みをする人も増えているというツイートを見てしまった。
中国は、共産党によるプロキシや検閲があるにも、関わらず思想の自由さはなくても、経済で殴ってくる感じがある。
技術の研究が進むか否かは、科学研究費用の多寡だけでは語れないが。
言語の壁がファイアーウォールになってるなんていうひとがいるが、
民間の韓国のLINEと日本国内のサーヴィスとを比較したりすると、なんっか
やっぱり
iモードから生まれた絵文字がemojiになったこととか、良いこともあったのだろうが。
なんか、こう、アジアの中でも、どんどん、おいていかれるのだろうか。
ジェット機を作って飛行機も飛ばせないとか、原子力発電所の対処に手を焼いているとかって、
北朝鮮のミサイル技術との比較でいうと、どれほどのものだなのだろうか。
頭の良いエンジニアの人は、その辺りの件について定量的な比較が出来ているのだろうか?
疑問である。
今回の件を見ていて、本気で「ロリレイプ漫画なんかを楽しむことは許すべきではない」と表明する人がいる、しかもこんなに大量に、ということがわかって絶望的な気持ちになった。表現や思想の自由って本当に危ういものなんだと実感する。
自主規制は規制ではないので率先してヤバイ表現を自主規制するのが当然と主張する人が多いことにも驚愕。またそういう人が、性器修正やゾーニングを自主規制と捉えていないのも頭が痛い。
今回の件はエロ漫画だからロリペドおたくが騒いでるだけという意見にもうんざりする。過去何千回も議論されてる通り、最低のエロ表現の自由を守れなかったら結局は他の表現や言論まで規制が拡大することがわかっているから重大に捉えているわけで。どうやって作家の住所を調べたのかもわからない警察が突然自宅訪問して申し入れをしてきた、というのは普通に表現界隈にとって強烈すぎる出来事だ。
被害者を気遣う意見が少ないというのは一理あるかもしれないが、こういう比較は最低だけれども被害者が一人の強制わいせつ罪と国家権力による表現規制の動きを比べれば、後者への意見に偏るのは仕方がないと思う。特に文字数の少ないはてブでは。繰り返すがこんな比較はしたくないし自分で最低だと思うけど、それを論点にして人格攻撃的なことをしてる人がいたので一応言っておく。
しかし当然、セカンドレイプ的な発言は最低だと思う。直接被害者に絡めた発言はまだ見ていないが、周囲がクジラックスの武勇伝的に語ったり盛り上がるのは慎むべきだとは思う。
そういう意味ではクジラックスの例の画像ツイートも危ういが、本人も被害者と見ることもできるので微妙だとも思う。逮捕経験者のろくでなし子も言っていたが、突然ガタイのいい警察官複数が直接自宅を訪問してくるなんて恐怖以外の何物でもないし、精神的なダメージも相当受ける。ツイートを見ると事前連絡すらなかったようだし、騒ぎもこれだけ広がれば普通は消耗しない方が珍しいと思う。
これまでの流れを見る限り、その程度の仕打ちはロリレイプ漫画なんて書いてるんだから当然だという人もいそうなんだけれど、それはもうなんていうか話にもならない。。
http://b.hatena.ne.jp/entry/340096756/comment/kamayan1980
たとえばフルCGで作られたそういう動画が流通してたとして何の問題もないと?
(ここでいう問題とはそれを見て真似する人たちが出てくるということに限定しません。)
追記:
とりあえずホラー映画とかとっくにあるじゃんという意見には、あなたはスナッフムービーが何か知らなさすぎですとしか言えません。
人の体を破壊して殺害することそのものを楽しむものと疑似的な恐怖感を安全な場所で楽しむものは一緒に扱えるものではないと思います。
単純に考えて欲しいんですけど、「許される」派の人たちは深夜番組でCGのスナッフムービーが流されても問題ないと思ってるんですか?
この例え自体現実味がないから考える価値がないというのであれば、かつて放送されていた深夜のアダルト番組がなくなったのはどうしてだと思ってますか?
「許されない」とされたからじゃないんでしょうか?
単純にそのような創作物を作成してはならないという意味で考えている人もいるかもしれませんが、私はそういう意味では考えていません。
元の増田やid:kamayan1980がどう考えていたのかはわかりませんが、私はゾーニングや年齢制限なども表現の自由への制限だと思ってます。
一般に表現の自由というのは創作活動そのものだけでなく創作物の公表や流通も含むものとされています。
なので、許されない表現などないというとき、それは単に創作物の作成だけでなく流通への規制も一切ないという意味だと考えています。
現代の社会で、アダルト物や暴力表現が過激であるものがゾーニングされていたり年齢制限がかかっているのは、そういったものについて自由な流通は許されないと大多数が考えたからですね。
違いますか?
CGスナッフムービーの何が問題かについて、まずCGであっても本物と見まがうようなスナッフムービーはその視聴により人の脳にダメージを与える効果が他の映像作品よりも圧倒的に強いという点、成長途中の児童に見せることがその後の発達によくない影響がある点、創作物と偽って本当の犯罪が行われうる点(レイプもののAVでありました)、見たくない人が作成、流通、広告、放送などの様々な段階で目にしてしまう点(見たくもないアダルト広告は規制されるべきでは?未承諾広告は規制されました)
追記2:
正直、自分でも上に書いた問題点は中途半端だし弱い気がする。何なんだ。結局自分が不快だからやめろっていいたいだけなのか。(でも逆にすべての物事の判断はは感覚的な良し悪しを事後的に理屈を付けているだけとも思う。)すまない。自分でもよくわかってないんだ。表現の自由は最大限尊重されるべきだと思うよ。でも許されないものってあると思うよ。ブコメにあったけど差別発言とかヘイトスピーチとか。
流通の話じゃねーだろという指摘もあるけど、流通しない創作物のことを考えても意味ないよね?それは思想の自由とでもいうべきもので。
がんじがらめの流通ゼロも規制なしの野放図も間違ってると思う。とりとめなくてすまん。
あと本物のスナッフムービーがだめなのはそれが殺人という犯罪だからというのはわかってるつもりで、だからこそ次の行に「たとえばフルCGで」と書いたんですが、そこんところに誤解のあるブコメが星を集めてるのは、やはり自分の書き方が悪かったんですかね。いろいろすまんかった。
追記3:
いまだにこれがどうしてこんなにブクマが付いたのかわからない。他の増田と何が違ったのか。
「許されない表現」とはどういう意味なのかについて、多くのコメントや元増田やid:kamayan1980は「存在が許されない表現」という意味だったんでしょうか。
たとえそうだとしても私は存在が許されない表現はあると思いますよ。
本物のスナッフムービーは殺人だからだめだというコメントが結構あって評価も高いみたいですけど、これは存在が許されない表現ということなんじゃないんですか?
表現と犯罪を切り離せ?表現行為そのものが犯罪だったとき、それは切り離せられるんですか?切り離したとして作成自体はだめでも流通自体はOKになりますか?
ISの公開処刑とか秋葉原や池田の目立つためにやった集団殺害とかこれは殺害行為を周知することが目的で行われたもので表現行為と言えると思いますが、これは存在が許されるとでも?
表現の内容によって「許される」程度というものがあると思います。
犯罪行為など存在自体が許されないものから、誰が見ても問題のないものまで、いろいろな表現があって、それぞれに適切な公開範囲や公開方法があるんじゃないでしょうか。
誰が許すのか、多数派とは何かというコメントもありましたが、正直そこからかよと思います。
誰が許すのか、そりゃ私達ですよ。民主主義社会に生きているわけですから、なんだって決めるのは私達自身であって、私達自身が責任を負うんですよ。
少数意見だって尊重しますけど基本的には多数決で決めるんですよ。そういう社会で生きてるんです。いろいろあってそういう社会がましってことになってるんです。
私はこれくらいならこれくらいの規制が妥当だと思うみたいな意見を持ち寄って落としどころを決めるんですよ。
もっと規制を強めた方がいいという意見や弱めた方がいいという意見があって、互いの意見を聞いた上で社会全体にとってどれくらいの規制がいいか判断するんですよ。
嫌なら目をつむっとけ?それこそ自分の快不快だけで人の意見を聞かない態度では?
自主規制にしろ法的規制にしろ結局のところ決めてるのは自分達ですよ。
再びスナッフムービーは殺人だから犯罪だからだめなんだという意見について、
じゃあそもそもなんで殺人はだめなんですか?犯罪だからですか?刑法に書かれているからですか?
違いますよ。
殺人を許すと自分たちの直接的に間接的に生存が危ぶまる状態になるから禁止してるんですよ。
あと単純所持ですら犯罪である児童ポルノですが、これも表現としては許されるんですか?
これについても犯罪だからだめなんだって言いますか?わりと最近まで犯罪じゃなかったんですよ。
許されていた表現が許されなくなったわけですが、それでも許されない表現はないと言いますか?
犯罪だからだめなんて思考停止してたら、せっかくの表現の自由が泣きますよ。
許す許さないの判断や規制が権力装置と結びついたときの問題は、表現規制の手法と検閲の問題であって、許されない表現があるかどうかとは別の話だと思いますよ。