はてなキーワード: 入院とは
仕事が休みだったのでなんとなくちょっと遠くのでかい神社にいった。おみくじがあったので手を消毒してから引いてみた。中吉。『出産 安し、さわりなし』とのことだった。
まぁ私子供産めないんですけど、と思って、中吉は結ばなくていいと言われたので持って帰ってきた。
卵巣と子宮が一気にバグったので、去年手術をして全摘出した。晴れて私は産めない機械になった。
正直、肩の荷が降りた、と思った。
子供を産む機能が無いということは、子供を生む予定が無い言い訳を探す手間をジャイアントスイングでぶっ飛ばしてくれる。子供産みたいとか思わないの?産めませんから。完。2秒で終わる。簡潔だ。それでもしつこいようなら手術痕でも見せてやればいい。友人に見せてもらった帝王切開の傷跡にも似てるそこから、私は自分の子宮と卵巣のかたいっぽをひりだしたのである。いやまぁひってはいないけど。
コロナだなんだと騒がしい世の中のおかげで、平時だったらなんやかんやとやかましかっただろう近親の面会だのなんだのもスルーをキメられた。運が良かった、と思った。
なんて報告しようかな、と不妊治療に励む友人のFacebookを見ながら毎回思う。大学の頃、毎日隣で一緒に授業を受けていた時にはこんなに真逆の道を猛ダッシュで走るようなことになるとは思っていなかった。真逆の道を歩むことになるとしても、なんか、もうちょっと違う面で真逆になると思ってた。まさか生殖機能の方向性で真逆猛ダッシュになるとは。人生わかんないもんである。
バンドだったら方向性の違いで解散しているかもしれないが、私と彼女はバンドではなく友人同士なので特に解散の予定はない。ただ、どうやって報告したもんかなと悩んで、今日で退院から一年が経ってしまった。一昨年から不妊治療を始めた彼女は、この時勢もあってなかなか思うように活動が進まないのをもどかしく思っているらしい。婦人科系で入院したことは知らせているので、あからさまに私に対してそれを愚痴るようなことはしないけれど、他の友人にはたまに冗談めかして漏らすという。
言い辛え〜〜〜マジで。
でも面と向かって話すとなったらごまかし続けるのもしんどい。長い付き合いだ、こんな私の内臓があるだの無いだの程度で気まずくなって疎遠になるのも嫌なくらいには気のおけない相手だ。
赤ちゃんを見せてもらってかわいい〜!って言って出産祝いなど贈って、そのタイミングぐらいだったら実は私もう子供産めないんだよねダハハ、代わりと言っちゃなんだし代わりになんてなれないだろうけど何かあったら相談してや!くらい言えそうだ。第二の母…は無責任なので名乗らないけど、血のつながってないのになんか頻繁に会う謎のおばさんくらいのポジションを目指したりとかしたい。
友人とのLINEは「暇だから神社行ってくるわ」「レベル高」で終わっている。出産の欄を写真に撮って、「代わりに引いといた」と添付したら爆速で「超ありがて〜〜〜」と爆笑の絵文字が返ってきた。
美味しんぼで栗田さんが入院した時に山岡さんが差し入れした、あのノビル。
球根のほうは漫画に基づいてさっと湯がいて味噌でたべた。すーごく美味しい。下仁田ネギの甘味と新玉ねぎのさわやかさを足したようなやさしいおいしさ。クセは一切ない。
茎から葉っぱ側は、みんな大好き玉置さんがTwitterで「ノビルチヂミ」を作っていらして丸真似した。これがめっぽうおいしい。あまくてクセのないネギ。風味も食感もやさしい。
春野菜うまーと思って冷蔵庫に入れてたアスパラも炒めて食べた。欲が出てカニカマと卵を足したけど、足さなきゃよかった。アスパラ、それだけで大地の甘味とでも言えばいいか、なんてみずみずしいのか。
普段、文章を書きも読みもしない人間が、備忘録がてら書こうと思ったこと。その昔、10年ほど前のことを思い出したという話。
解離性健忘、解離性遁走、離人症、…多分一番取り上げられるのは、解離性同一性障害(DID)についてだろう。
今回は、そのどれでもなく、あまり語られないその他の解離性障害について、当時の経験を書こうと思う。
かなりの主観で書いているので、親サイドで見るととんでもない傲慢で独りよがりな子供の話であることだけは、免罪符として先に言っておこう。
少し自身のことを掻い摘んで記しておく。一つずつ語るとまぁ長いので、ざっくりと箇条書きで。
・少し裕福な家庭で育った
・きょうだいの一番上
なお、家族の名誉の為に表記しておくが、「家族から愛情を持って育てられていた」のは間違いなかろう。
家庭環境については、外から見れば良くも悪くも普通の家庭だった。自分にとっては、休まることのない家だったというだけである。
ここについては語るとキリがないので割愛。
中学、高校と相次いで不登校になり、高校で出席が足りずに退学した。
学校に馴染めなかったのが理由だと思っていた当時だったが、家庭環境が合わなかった、性自認やそれ関連のトラウマという理由も含んだものであることを、年が経つと共に察することになる。
朝起きられない、一日中寝ていて起きたら次の日の朝だったという日もあれば、朝まで眠れない日もあり、食事を受け付けないかと思えば、いくら食べてもお腹が満たされないこともしばしば、身体がひたすらだるい…と不健康極まりない毎日を過ごしていた。
出席が足りずに退学したとはいったものの、部活だけは好きだったので、時折顔を出していた。全然学校にも来てない、部活にも不定期にしか来ないのに受け入れてくれた。
あの時、不満を言わないでいてくれたばかりか、こちらの安否を心配してくれていた顧問の先生と友人には本当に感謝している。
同級生が引退する時期に、一緒に"引退"し、その年の冬に高校を辞めた。
この時期、何度か心療内科とカウンセリングに通っていた。親がドクターやカウンセラーと話をし、その後自分ひとりで話をする……はずだったのだが、毎回何を言って、何を伝えたらいいのか分からず、そのまま診察の時間は終わった。
心療内科のドクターからは「なんでもいいんですけど、自律神経失調症で診断書出しときますね」とダルそうに告げられ、カウンセラーからは「あなたが悪いわね」と言われたのは、よく覚えている。
当時、既に無気力ではあったといえ、大学進学という目標があった。高校の部活の顧問の先生がとても良い先生だったので、教師になりたいと思った。
教育学部に進学したいという、高校を辞めた身としてはなんともな目標ではあった。
高卒の資格がないと大学には進学できない。在学中に通信制や夜間への転入も考えたが、同級生と一緒に大学進学を果たしたかったので、高卒認定を受けることに決めたのが、18歳の夏。
その年の秋に高卒認定を取得し、センター試験を受け、二次試験に合格する……といった算段だったのだが、志望校はセンター試験できわどいライン。
二次試験はかなり難しい学科なのでほぼ無理ゲー。諦めて浪人することになった。
予備校に通うことになった。有名予備校でなく、個人事業主がやっているところ。何でそこを選んだかは覚えていないが、教える内容は"勉強"というより"思考"そのものだった。事務所には漫画が置いてあって、マスターキートンをハマって読んでいた。何故か13巻だけ無かった。
予備校には色々な人がいた。いわゆる陽キャな子、5浪ほどしている人、社会人から出戻りして大学進学を志望する人、モデルをやるといって辞めていった子、いつの間にか来なくなって近場のパチ屋で見かけたと噂が立っていた子。
人付き合いが苦手な自分は、ここでも浮いた。孤立も慣れたもんだと思いながら入校してひと月ほど経った頃に、それは起きた。
中学生の頃からの身体の不調も相まって、朝起きられないというのが常態化していた。
朝起きても、身体がだるくて昼過ぎまで布団に入って寝ている。夜は眠れないし、一度寝たら起きられないというのが中学や高校の頃の不登校事情だった。だが、その日は違った。
意識ははっきりしている。右手で携帯を探す。ここまでは良い。左足が動かない。痛い。神経が締め付けられているような痛み。じわじわと熱くなるような感覚が、上半身に上がってくる。
痛みと眠気でぼーっとする中、徐々に左腕が痺れる感覚に陥る。左半身が動かない。
起きないと、いつものように親に怒られる。そう思いながらも身体が動かない。案の定、怒られた。辛うじて、身体が動かないことを伝える。
呆れた顔をされたが、微妙な理解を得られたのは覚えている。この症状は、土日の間続いて、徐々に消えていった。
それから一週間ほど後、今度は予備校で自習をしていたところに同様の症状が出た。流石にヤバいと察されたのか、親が迎えに来て、大きい病院の緊急外来に直行した。
身体症状が出ていたので、最初に外科の検査、その後脳の検査(案の定だがここが一番検査に時間がかかった)、最終的に精神科となった。
どこの診療科に行ってもハンマーみたいなものでコンッとされて、「痺れてるのに動くやん…」となったのは覚えている。あのハンマー、なんかの授業の時に見たなぁとぼんやり。
入院して数日くらいで左半身の痛みや痺れは緩和され、日常生活に支障がないくらいに落ち着いた。
退院して帰ってもいいと言われたが、家に帰りたくないとわがままを言って、後一泊だけさせてもらった。後日、親にお金のことを口酸っぱく言われた。
入院中に、精神科の先生から小さいころの話を尋ねられた。心療内科やカウンセリングで言われた時と違って、妙に詳しく話せたことは覚えている。
それをふまえて、「一度別の病院で心理テストを受けてみませんか」と打診された。この時点で詳しい人は分かるだろうが、これは解離性障害のテストじゃない。
精神科の先生曰く、「まだ脳の病気の可能性があるので、身体症状については断言できない」ということで、とりあえず心理テストを受けに行くことになる。
ここで診察をしてもらった精神科の先生が、その後7,8年の間お世話になる人である。
心理テストを受けに行くまでに数ヶ月も間が空いた。単に初診の予約の問題だ。それほど、受診する人が多いということである。大変な職業だ。
この数ヶ月の間にも、再度MRIを受けに行ったり、なんかよく分からん検査を別の病院に受けに行ったり(これは本当に何だったのか思い出せない)したものの、結局何も異常がなかった。
結局何も異常なかったじゃんと言わんばかりに、この頃から親からの風当たりが更に強くなった気がする。
心理テストは小学校の時にやったものの延長といった感じで、楽しかった。
空間認識か図形かなんかのテストで高い数値を出したらしく、先生に「学会で発表していいですか!」と興奮気味に言われた。
結論を言うと、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)だったのだが、なんか褒められたのが嬉しくて、グラフがギザギザな診断結果の紙はお守り代わりに取っている。(追記:嘘。今確認したら所在が分からなくなっていた)
色々と話が逸れた。
・うつ病
脳の検査や心理テストやカウンセリングやら色々やって、こういう診断となった。身体が動かなくなってからこの間、半年ほど。
発達障害については「ほーん」という感じで深く考えていなかった。人間関係だけでなく勉強の面でも思い当たる節があったので、どこか腑に落ちたのだろう。
解離性障害についても、この頃には既に左半身の症状も落ち着いていた。うつについては、中学生の頃からだろうという見解だった。
とりあえず受験が第一だったので、何か困ったことがあればまた来てくださいね~という感じで通院終了。
無理が祟ってうつが悪化し、更にストレスで声が出なくなり(これも解離だったそうで)、それによって教員への道も就活も諦めたり、再度病院のお世話になったりしたのはまた別の話。
教育実習を控えた直前のことだったので、担当の教授にめちゃくちゃ頭を下げに行ったらすごく慰められたのはある意味救いだった。
余談だが、身体が動かなくなったということで運転免許を取る時に適性検査がすごく面倒だった。大事なことなんだけどね。
いかんせんマイナーな例なので、免許センターの警察の人にも「?」という顔をされたし説明も難しい。これについては、今も忘れた頃に診断書提出に関しての連絡が来る。
解離性障害には、解離性健忘、解離性遁走、離人症、解離性同一性障害などあるが、一度解離の症状が出ると他の解離の症状も出やすくなるそうだ。
高校生の頃に友人に「たまに別人みたいになるよね」と言われたのも、予兆というか症状だったのかもしれない。
よく多重人格だとか言われる解離性同一性障害についても、自覚しているくらいにはある。ここでは「自覚症状がある」という程度でしか判断が出来ないので割愛する。
診察の直前まで「今日こそ言う」「今日こそ文章で書いて渡す」という意識はあるのだが、いざ診察室に入ると封印されるかの如く、忘れてしまう。そんな感じだった。
遁走・健忘については、覚えているだけで一度だけ「来るまでの記憶がない」といったことがあった。
過去の期間において記憶がすっぽり抜けているというのはちょいちょいとあるようだ。(10年前の脳の検査の話も最近思い出したところ)
過去についてはトラウマは鮮明かつ歪んで覚えているのに、全体としてみると「あの時しんどかったなぁ」とぼんやりしてしまうものだろうか。そこら辺は、ごくごくありふれたことなのだろうなぁ。
うつも寛解して数年。解離については麻痺したり、声が出なくなったりなどといったものはあれから出ていない。あれからどうやってこう生き延びているのか、不思議ではある。
ここまで書くのに余計な事をいちいち思い出さないで済むようになったという点では、丸くなったものだ。
また覚えていたら、今度は死生観について書こうと思う所存。
では、これにて。
だけどトイレの中は広くて明るくて、個室がしっかりしてる感じ。
検尿カップを置く台もあって。
僕はここで、全身麻酔をかける手術の前日、
「自分でするのは。。」「んー自分でしてもいいけど、それを見てなきゃいけないし。
「なるべくがまんしてね」
そして出し終わったあと看護婦さんを呼んで、
夜中に個室で待ってると、夜勤の看護婦さんが隣の隣ぐらいで用を足してるだけど、
音も聞こえないし、ドア下は開いてたと思うけど、5mmぐらい。全然。
「まだ寝てるのかな。入ってる管を抜きますからねー」と聞こえて、
下半身の毛布が捲られて涼しくなって、引き抜かれて尿道がじんじんと痛くなったちょっと前、
おちんちんを手に取られる前の、なにか見て「うんうん」って聞こえた声!
おへその形が良かったのかな?
同じ日に入院したからって声をかけてきた、1学年上の女子高生のお姉さんとは、
奥の休憩室の長椅子に、腕はくっつくくらい寄って横に座って、
僕はすんごい意識してるんだけど、パイセンはなんでもない普通のことの様子で、
パイセンのお母さんには「こんにちは。付き合ってるの?」「い、いえ」
「私とは嫌なの?」「い、いや」とかあったくらい。
別の増田も言ってくれてるけど、前立腺生検はそもそもいきなり受けるようなものじゃなくて、腫瘍マーカーやMRIなり他の検査で所見が認められるときにやるもの。
そりゃそうだよね、基本的には入院必須、金銭的な自己負担だけでも手術レベルだから。そんな気軽に受けるもんじゃない。
対して今話に上がってる検診はそういう所見の元にやるものじゃない。だから保険診療じゃない。
比較するなら乳がん針生検あたりで、こっちは普通に麻酔を使う。
女性特有の病気だから軽視されてる?いやいやマンモグラフィーをはじめ女性特有の病気を診断するための、患者の負担の少なくてかつ有効な手法はどんどん研究が進められて(当然税金からの資金投入もされて)進歩してますから。
別の増田も言ってくれてるけど、前立腺生検はそもそもいきなり受けるようなものじゃなくて、腫瘍マーカーやMRIなり他の検査で所見が認められるときにやるもの。
そりゃそうだよね、基本的には入院必須、金銭的な自己負担だけでも手術レベルだから。そんな気軽に受けるもんじゃない。
対して今話に上がってる検診はそういう所見の元にやるものじゃない。だから保険診療じゃない。
比較するなら乳がん針生検あたりで、こっちは普通に麻酔を使う。
女性特有の病気だから軽視されてる?いやいやマンモグラフィーをはじめ女性特有の病気を診断するための、患者の負担の少なくてかつ有効な手法はどんどん研究が進められて(当然税金からの資金投入もされて)進歩してますから。
ちょっと前、子供がゲームに夢中になりすぎてルールを破るから、そのゲーム機を子供の前でぶっ壊すことを誇らしげに書いた新聞記事があった。
ああ、うちの親と同じことしてるな〜とその時は思ったが、私の感覚でいうとそれは虐待で、いつかきっと大人になってから、その傷はなにかしらの結果をもたらすんだろうなとなんとなく思っていた。
思っていたが……まさか、兄が統合失調症からの躁鬱、そして障害者施設行きになるとは想像もしていなかった。
子供の頃のことで覚えているのは、父の怒鳴り声、兄を吹き飛ばすようにぶんなぐる姿。
それが生死に関わるようだったら児童相談所の出番かもしれないけれども、数ヶ月に1〜2回ぐらいだと見逃されがちだ。
父の機嫌がよいときは、そこまでひどいことはないのだ。
だから私も、子供心に「時々怖いことあるけど、これがふつーなんだ」と思ってきた。
でもあれは虐待だったのだ。
そしてゲーム機の話である。「しつけのため。お前の将来のためなんだ。お前のためを思ってやってるんだ」と言って、父親は泣き叫ぶ兄の目の前で、愛機のゲームをぶっ壊した。
父が去ってから部屋の中ですすりなく声、部屋の扉を裂ける寸前まで蹴る音などが聞こえてきて怖かったのを覚えている。
そして母親がそんな兄をかわいそうがって、何度も買い与えていたが、そのたびに「お前のためを思って」と父親がぶっ壊した。
結果、何が起こったか。
兄はゲームをしなくなり、何もしなくなったのだ。
父親の前では「反省しました」と言っているものの、ぼんやりしていることが増えていったのだ。
父親にあれをしろ、これをしろと言われたらするものの、どこか中身のない感じで動いていたように思う。
そして父親の言われるままに医師になることを強く言われ、三浪してやっと私立の医学部に入った。
なぜそんな父親の言いなりなんだ、と聞いたら、「別におれ、もうやりたいことねえもん」とぽつんと言っていたのを覚えている。
そうして大学生になった兄は、今までおとなしかったのが嘘のように凶暴になった。
怒鳴り散らし、ものを壊し、それでも父親の前では押し黙っている。
何にそんなにいらついているのかはわからないが、母親がその八つ当たりの対象になった。
そもそも私立の医学部に行かせるような家庭ではなかったのに、父親がどうしてもときかなかった。
案の定金策につまり、親戚中に借金をしてなんとか卒業にまでもっていくありさま。
連絡先も住まいも教えず、家を出て数年。
何をしたかといえば、車がびゅんびゅん通る車道に自分の車をとめて、何か叫び散らしながらコンビニに行き、公衆電話(当時は設置されていた)で110番したのだそうだ。
「命を狙われている」
完全に統合失調症の症状だった。
警察官がかけつけた時、兄は電源のきれた携帯に向かって必死に何かをしゃべっていたそうだ。
そうして留置場でも「殺される!」と叫び散らし、強制入院となった。
この時、初めて家族は、兄の数年の有様を知ることができたのである。
数百万の借金をして、ほうぼうから督促の電話がかかり、仕事にはろくにいかず、家はごみため状態。
そもそも実家にいる時から、家事掃除などは一切できなかったが、一人暮らししてもしなかったらしい。
玄関にカップラーメンの汁が飛び散り、土足で入らなければならないほどの床のよごれよう。
家賃滞納。
入院後、見舞いの時は両親に対して「少し調子が悪かったんだ。病院に入院するほどじゃない」などと気丈に言っていた。
兄は母親には八つ当たりするが、父親には決して逆らわなかった。
「早く退院してがんばれ」という父親に、兄は「うん」とうなずいただけだった。
そうして退院した兄は、自己破産をして一から医師をやり直した。
薬のせいで数十キロふえた兄は大学生のころの面影はなく、老けて五十代のようにも見えた。
そうしてまた兄は失踪した。
それが数年前。
そうして今年。
「俺、障害者施設に入ることにしたよ」と電話がかかってきたのだ。
躁鬱病の薬を飲みながらつとめていた病院は辞め、今は働いておらず家にじっとしているのだという。
「どうして」と母親は言った。「大事に守り育ててきたはずなのに」そう言って泣き崩れた。
彼女には虐待の感覚はなかったんだろう。父親の行為はしつけなのだと思っていたんだろう。
でも今ならわかる。あれは虐待だったのだ。
死ぬ寸前とかあざだらけとか、そういうものは保護され表沙汰になりやすいが、たとえば私の家のように、数ヶ月に1〜2回だったらどうだろうか?
虐待は恒常的に行われるものと、間欠的に行われるものがあることを知ってほしい。
そして間欠的に行われるものは死ぬこともなく保護されることもなく、深い傷をもって子供は成長し大人になるのだ。
ゲームをぶっ壊しただけでは精神に支障をきたすことはないかもしれない。
が、子供の大切に思ってるものをぶっ壊す、ような行為をするその家庭の教育の「方針」は、あらゆるところで子供の心を深く傷つけているんではないだろうか。
そうしてその心の傷は、数十年後、兄のように四十代に近くなってからあらわれることもあるのだ。
子供の頃、優しく活発で明るかった兄のことを思い出して泣いている。泣きながらこの日記を書いている。
言葉が溢れて止まらないという表現があるが、こんなに絶望し失望し悲しい時に出るものなのだと初めて知った。
子供をもつ親が、子供の大事にしているものをぶっ壊すような教育方針でありませんように、世界のすべての親が、そうでありますように。
そう祈ることしかできない。
家に帰ってきたら、また涙が出てきた。
5年ぶりに会った婆ちゃんは凄く苦しそうだった。酸素マスクがつけられた状態だった。
とくに自分が到着した時、かなり数値が悪化しており、見ているのもつらい状態だったが、滞在している時間に少しは改善し、帰るときは気持ちよく寝ているような感じだった。
自分が来たことは理解してくれたみたいで、ありがとうって言う声が辛うじて聞こえて嬉しかった。
どこどこをさすって欲しいとか、暑いから○○してほしいみたいなことは身振り手振りで意思疎通できたので、数少ない自分の出来ることをして面会の時間を過ごした。
寝ている婆ちゃんを起こさないまま静かに後にした。これが別れにはなりたくはない。
少し前に入院して、当初はそこまで重病になるような話ではなかったが、ある時から悪化する一方だった。
本当は二週間前に行く予定だったが、婆ちゃんと同じ街に住む叔父さんから、「もうちょっと元気になってから来てよ」と言われたのにちょっとほっとした自分がいた。仕事がかなり立て込んでいたのだ。行かない理由がほしかった自分がいた。
その後、一気に悪化してきて、親戚の話は、お通夜や葬式にこれる見たいな話に変わっていった。
そうなると、二週間前行かなかった行動を猛烈に後悔するようになった。このまま婆ちゃんと生きている間に会えなかったら、叔父さんに「いや見舞いに行くよ」と言えなかったことを長く後悔するだろうと。
そして今日、もうこのタイミングで行っておかないと一生後悔するだろうと思って、昨日前泊して、今日面会してきた。あと、婆ちゃんの住む地域のコロナ患者が増えてきて、面会禁止になるのも心配だった。
日帰りでも辛うじて行けるが、前泊して少し広めのシティホテルに宿泊して、そこで仕事をすることでどうにか時間を作った。
5年前に会ったのは、仕事で来た際に、もう一日滞在して会ったのが最後。その後、何度となく行こうかと思ったが、そのままになっていた。
さすがにコロナウイルスが広まってからは、行くのは絶対に避けないと思って、そのままになっていた。でも嫌な予感がしたのも事実だ。
小学校卒業までは、学校の休み事に行っていた。婆ちゃんは優しくて、お話好きで、行くのが毎回楽しかった。ゲーム機を買ってもらえるのも嬉しかった。
中学・高校時代はほぼ行かなかったが、婆ちゃんの住む地方都市の隣の都市の大学を受けたときは、婆ちゃんの家に泊まって受験した。朝飯の味噌汁とんでもないほど薄かった。そして合格した。
大学時代は、近かったので、各休みに1回は車で婆ちゃんと近所に住む年下のいとこを連れて、どっか食べに行ったり遊びにいったりしていた。
Googleフォトを見るとそん時の写真がいっぱいある。色んな思いでがある。
僕は婆ちゃんが好きだった。なのに、ここ数年一度も行かなかったことを後悔している。でも今日会ったことで、ちょっとだけ荷が降ろせた気がする。まぁ自分の自己満足で、婆ちゃんはどう思っているかは分からんけど。
それでも、帰りの電車の車内。もう少し滞在しようか、もうこの電車が婆ちゃんの町を離れればそれは一生の別れなんじゃないかと思うと、僕はこの電車に乗っているのが辛くてしかたかった。引き戻るか。じゃ引き戻ってどうするんだ。今のこと、過去の事いろいろな事を考えると、胸が引き裂かれそうだった。早く終着駅についてくれと言う気持ちでいっぱいだった。
前立腺生検のことだろうけど、それは局所麻酔でも入院が基本だからだね
だからもう一泊追加で全身麻酔にするという選択肢が比較的取りやすい
元増田も
いっそのこと入院してくれたほうが管理が楽なんだけど、検診やミレーナだけで入院するとか本人も面倒だろうし、何より保険診療では許されないだろう。
って言ってる通り。
全身系麻酔は「脳の停止」だから怖いんだよね。手術したときの先生の説明でよくわかった。
心臓以外は脳が止まるとコントロール機能停止するから、呼吸もなにもかも装置でやらないといけない…戻ってくるまで面倒見ないと死ぬ。入院以外じゃまずやれないよね。
お客様である患者にどっちがいい?って提案して、カネをもらえばいいんじゃないの。
多少痛くても安く早くやってほしい人もいれば、痛いのは嫌だと追加で時間とカネを払う人もいるだろう。
入院して、目の手術するときに、当初は局部麻酔を提案されたけど、目の手術とか意識あると怖いし1時間ぐらいの手術とか無理と、全身麻酔にしてくれといったら注文を聞いてくれた。
ないでしょ。
まずそこだよね。
少なくとも70超えた奴らなんて生かしておくだけ日本という国の害にしかならないって菅や二階が証明してるじゃん。
いやいや僅かな一例じゃなくて多数がそうなんだって。
だってそういう奴らを政治家として当選させているのがまさにその老人たちだろ?
70を超えた老人たちが、70を超えた無能な老人に投票して、無能な老人のための無能な世界を作ろうと皆で頑張ってる。
結果日本は滅茶苦茶になってる。
流石に今すぐ全員銃殺とかする必要はないけどはないけど、医療的な支援は打ち切っていいんじゃねえかな?
2000年代後半だったと思うがそういうアニメがあってレンタルで10年前くらいに見た。
ケガで入院した少年が病院で不治の病の少女の隣のベッドになって惚れてしまい、
退院してもつきあうが、いよいよ少女の病気がやばくなってきて面会謝絶となるが、
少年が夜中にロープを使って隣の病棟からダイブしたりして結婚を申し込む、
みたいな話であった。
市中の精神科医なら本当にやばいなら紹介状渡して大病院にいって入院させるだろ。
そもそも、精神科医って色々沈静化させるための薬がいっぱいなんだから。
それでもセミナーやオンラインサロンとか新興宗教にたよるよりは遥かにマシだ。セミナー辺りはまさに食い物にするための存在だからな。永久に救われなくなる。
【追記】
【追記2】
確かにそうですね
でも、これは自分だけの日記であり添削を受ける必要はなく、事実誤認を指摘されたところでなんの問題もないと思っています
増田流に言うと「お気持ち」という奴でしょうか?未だに意味がわかりませんが
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タイトルだけだと辛いことのように思えるけど、私としてはむしろやっと入院してくれたとホッとしています。母は昨年の夏に意識混濁で路上で倒れ、緊急搬送された際に糖尿病や癌が見つかりました。転倒する事が多かったのはおそらく糖尿病のせいらしいです。そこから父親による介護を受ける形になり、妹が週2程度で介助することが多かったようです。私はやや離れて生活しており、コロナもあって実家と疎遠が深まっていたためあまり面倒を見ることはありませんでした。
私は昔から母が嫌いであり、そんな母の介護を手伝うのは自分としては考えにくいことだったのです。しかし介護から半年で老老介護はやはり限界になったようで、そこから度々私が介助をしに実家に戻るようになりました。尤も、母との相性が非常に悪いためにせいぜいトイレに連れて行ったりするだけで、あとは家の掃除等をするばかりです。食事や風呂はノータッチ。それでも多少は父親の負担を減らせたかもしれません。
父は2級の障害者手帳を持っています。そんな父親による自宅介護が必要なのは母の手術のためです。
母を施設に入れるためには、まずがんの治療が必要なのです。しかし空腹時の血糖値が400に達するほど重症化していた母は、糖尿病の治療をして手術に臨めるまで安定化させる必要があります。つまり「糖尿病→手術→施設」というプロセスが必要なのです。しかも母は糖尿病のためか足腰が立たなくなったものの、寝たきりとはいえない要介護2の状況です。この中途半端な状態によって自宅介護を余儀なくされました。幸いなことに父親は障害者手帳をもっているため、手術にまでたどり着けば特老(あるいは普通の老人ホーム)に母を入れられる可能性は非常に高いのはわかっています。医師からも父親1人での介護は無理と宣言されていますし、資料にも書かれてあるため希望はとおりそうです。
そんなこんなで母が入院しました。母はもともと精神的に不安定であり、過去には家族へのDVが頻繁に行われていました。そんな母ですから半寝たきりになってからは精神の不安定さは極大になっていました。父親への依存からか少しでも姿が見えないと大声で喚き散らします。夜中でも大声で父親を呼び、寂しくなると父親の動かしづらい手を掴んで離さないこともあったそうです。
そんな母を夏からずっと糖尿病の治療をほぼ1人で続け、罵声や大声や暴力に必死に堪えた父親は本当に凄いと思います。家を顧みずに寄り付かなった自分には到底言える資格はないかもしれません。
母は1度目の病院では手の施しようがないとさじを投げられ、最後はやや離れた大病院の精神病棟に入りました。そこでは人権についての約束事や、万が一の拘束等についても説明を受けました。そうしないと駄目な患者が多いのはいうまでもありません。案の定というか父親と離れた母は、重い扉越しにもわかるほどの大声で父親を呼んでいました。あの声に父親は毎晩・毎日悩まされていたので、仕事とはいえ対処に当たらなければならない職員の人々のことを考えると少々可愛そうではあります。ですが一番の被害者である父親の荷がなくなったのは本当に良かったと思います。
ほとんど何もしてこなかった自分は、結局母の入院時に車で送り届ける係を務めました。それしかできないからです。前日に実家に泊まることも視野に入れましたが、どう考えても母親の声で眠れないのは予想がついていたため、朝一で実家に車を飛ばす方法でなんとか乗り切ることが出来ました。帰りの父親は「これでようやくソファーではなくベッドで足を伸ばして眠れる」と言い、この選択が間違っていなかったと実感しています。
これから母は精神病棟で落ち着いてから手術に臨み、一般病棟を経て進路が決められる予定です。どう考えても自宅介護に戻してはならないため、何が何でも施設を探す必要があります。それが失敗したら今度こそ父親は倒れるでしょう。自分や妹も巻き込まれることは必至です。もしかしたら母は一般病棟にすら移れないかもしれません。正直言うとそれくらいに母の精神はひどい状態です。元気だった頃から周りへの暴力・暴言が耐えなかった人が、癌や糖尿病程度でおとなしくなるはずがありません。母は歩けないだけの爆弾です。
持ち込んだんじゃなくて、家族が入院したときに持ってってあげて好評だったやつだが、
大工さん、ないし建設関係の職人さんが使うであろう、ベルト通して腰に装着する道具入れ的なモノ。ホームセンターで入手できる。
横17〜8センチぐらい×縦10センチ弱くらい×深さ12〜3センチぐらいだろうか。
仕切りがついてていくつか部屋が分かれてる。
これをS字状のフックでベッドの横の手すり部分に引っ掛ける。
スマホとか、テレビのリモコンとか、メモ用紙筆記具とか、ペットボトルやガム飴玉などのお菓子とか、すぐ手の届くところに収納しておけるので便利だったそうなw
(22/04/22追記)
我々の生活を便利にするのは「腰袋」でした :: デイリーポータルZ
これだー。これこれ。腰袋っていう名前なのか、知らんかったw