はてなキーワード: テレビ番組とは
韓国の男尊女卑を調べてみると、十年以上前の話が多く、最近ではDV家父長制は改善した代わりに2ch的な男尊女卑が幅をきかせているらしい。
ちなみに韓国では「三日に一度妻が夫に殺されている」らしいが、それは日本も同じ。
韓国の反応系ブログを見ていると、向こうの「イルベ民」が日本のネット民みたいで、しかし韓国の事情が垣間見えて面白い。
いわく「韓国は女性専用が溢れていて女尊男卑でフェミニズムが幅をきかせている。男だけ軍隊に行くなんておかしい」
「韓国の男の優しさやレディーファーストを韓国の女やフェミは当然だと思っている。割り勘してくれる日本女性は素晴らしい」
「日本は男尊女卑であり、我々イルベ民の理想。日本のテレビ番組を見ると、我が国では女性嫌悪だと言われて潰されそうな内容が放送されていてビックリする」
「日本でレイプされた韓国人女は自業自得。日本みたいな危険な国に行くのが悪い」
日本人がイスラム国を見るような目で向こうは日本を見ているらしい。
「女性専用があってetc日本は女尊男卑!」というなら同じ基準で韓国も女尊男卑と言わなければおかしいんだけどそうはならない。日本のネット民もイルベ民も自国の女性専用や女にはあれだけ文句を言う癖に「韓国/日本は危険で男尊女卑だから無理もない」「韓国人/日本人の女性嫌悪はおかしい」と急にフェミニストになるのが笑える。
韓国の男尊女卑を調べてみると、十年以上前の話が多く、最近ではDV家父長制は改善した代わりに2ch的な男尊女卑が幅をきかせているらしい。
ちなみに韓国では「三日に一度妻が夫に殺されている」らしいが、それは日本も同じ。
韓国の反応系ブログを見ていると、向こうの「イルベ民」が日本のネット民みたいで、しかし韓国の事情が垣間見えて面白い。
いわく「韓国は女性専用が溢れていて女尊男卑でフェミニズムが幅をきかせている。男だけ軍隊に行くなんておかしい」
「韓国の男の優しさやレディーファーストを韓国の女やフェミは当然だと思っている。割り勘してくれる日本女性は素晴らしい」
「日本は男尊女卑であり、我々イルベ民の理想。日本のテレビ番組を見ると、我が国では女性嫌悪だと言われて潰されそうな内容が放送されていてビックリする」
「日本でレイプされた韓国人女は自業自得。日本みたいな危険な国に行くのが悪い」
日本人がイスラム国を見るような目で向こうは日本を見ているらしい。
そして日本のネット民もイルベ民も自国の女性専用や女にはあれだけ文句を言う癖に「韓国/日本は危険だから無理もない」「韓国人/日本人の女性嫌悪はおかしい」と急にフェミニストになるのが笑える。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
Youtubeや他の動画サイト見てみろ ってよく言われるけどぶっちゃけYoutubeとかに求めるものとニコニコ動画に求めてる物って違うんだよね。
Youtubeって言ってしまえばテレビ番組とかコンサートなんだよね。一方的に提供されてそれを楽しむっていうか。
対してニコニコはライブとか祭りなんだよね。こちらがすこし介入の余地がある。
この「すこし介入の余地がある」っていうのが重要。すこしでいいの。どうせ自分は何かを生み出せないんだから、すこしの介入でいい。
Youtubeには面白い動画いっぱいあると思うよ。ニコニコの動画は糞つまんない動画が多いと思うよ。
でも、その「糞つまんない」をおもちゃに遊ぶやつが多いからこそのニコニコ動画なんだよ。
それは、仕様上クソなわけじゃない。アップロード者、その動画自体が大抵クソ。
普通に考えて、ホモビデオの男優をクロマキー合成で並べて変なストーリーをつけただけの動画とか、世界記録でもなんでもないRTAの動画やら、ウェーイ系がうぇーいって言いながらプレイしただけのゲームが大半。
もちろん中には「おまえ素人じゃないだろ」ってやつもいるけど、ランキングの大半は上のようなそびえ立つクソ。
それがアップロードを許されるのは「ニコニコ動画だから」なんだよね。
中国や韓国の二次元萌え文化って急速に進化してる。アズールレーンがここまで日本人好みの仕上げがされているのが分かる通り。絵だって日本人絵師並に萌えが理解できた絵柄になってる。
かといって、クールジャパンは中国や韓国に負けたのか?まぁ、ぶっちゃけ「中の職人」に関してはそのうち抜かれる。でも、日本という表現規制がクッソガバガバなハードがあるからソフト面でいくら中国や韓国が優れようとアズールレーンのように「本来やりたかった表現だ」と日本に渡ってくることは耐えないだろう。
ニコニコ動画もそう。クッソガバガバな「ニコニコ動画」というハードがあるからこそ、淫夢動画しか見どころがないし、クオリティが低くてもアップロードできる。
Youtubeと、ニコニコ動画と、FC2アダルト、各それぞれに「真夏の夜の淫夢」をアップロードすることの意味は違うはず。
なので、ニコニコ動画に頑張って欲しいのは、もうハードとしてどうでもいい。
画質の向上とか、生放送の枠撤廃とか、ユーザーが求めているものは確かにあるがそれは二の次でいい。
ただ、ニコニコ動画を守って余計なことをしないでいてくれるだけでいい。
“性善説に基づく出産一時金42万円等 健康保険を外国人が乱用” http://blogos.com/article/262409/
ここでは「性善説」とは誤用なので、「善性」とでも読み替えて考えよう。
記事の内容や事件の詳細についてはどうでもよい。今回考えるのは「善性に基づくルール」が実質的にどのような意味を持つのか、である。
このゲームは「積極的に動き回り、遭遇した他プレイヤーと殴り合いをする」というデザインである。勝利条件は「生き延びてなるべく多くのプレイヤーを殴り倒す事」であったとしよう。
この「積極的に動き回る事」は「善いこと」の一つである。しかし、もしも「ある一か所にとどまり続け、動くプレイヤーを不意打ちで倒し続ける」という戦略が優位であるならば、
このゲームは実質的には「積極的に動くマヌケなプレイヤーを暗殺するゲーム」となってしまう。この「実質的」という点が重要である。
このゲームは本来の「積極的に動き回る」という傾向を推奨する何らかの調整を行うべきであって、決してプレイヤーの「善性」を謳い、期待すべきではない。なぜか?
そのゲームが愚かにも善性を信じ、ルールを調整しなかった場合、最も得をするプレイヤーは狡猾な暗殺者たちであり、そのワリを食うのは善性に準ずるプレイヤーとなるからだ。
これは「善性に順ずるプレイヤー」に対する不誠実であり、冒涜以外の何物でもない。
件の記事のような「善性に基づき」などと言う謳い文句は、ルール調整を怠るためのただの言い訳でしかない。怠けでないなら浅はかだ。
「善性」を信じ尊ぶというのならば、決して「善性」に寄りかかるべきではない。それは善なる人の負担にしかならず、むしろ人はみな狡猾であれと推奨してさえいるのだ。
一方で、このような記事もある。
“日本社会に秩序があるのは「性善説」を前提にしているからだ=中国報道” https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171105/Searchina_20171105001.html
日本には中国よりも「誠実な」人間が多いのではないか、それによってより効率のよいサービスができているのではないか、という趣旨である。
私がこれについて「なるほどその通り、日本人は中国人よりも誠実な民族なのだ」とは特に思わないが、そのような「教育」が成立し、不誠実な行動に罪悪感を覚えやすい人が多いのではないか?と考えることはできる。
しかし、この件でそれ以上に影響が強いのは、つまり「十分に高いホテルの利用者は、ホテルにある備品程度のものは必要だとは考えない」ということだ。
中国にしても、十分高級なホテルならば、チェックアウト時に備品チェックなどという失礼なことはおそらく行わないだろうし、日本でもカプセルホテルのような安いホテルでは盗めるような備品自体がそもそもないだろう。
無人販売所については、これはむしろ村社会的相互監視の恐怖や罪悪感の方が重要であろう。実際のところ「ここに住んでいるのは野菜を盗むような奴だ」と噂されて得をする人間はいまい。
私は昔「無人販売所でお金を払わない人はいるのか?」という趣旨のテレビ番組を見たことがあるが、「1円だけ入れる」ような所作で野菜を盗む人は複数人いた。この所作には罪悪感や監視を恐れる感情が見て取れる。つまりこういう不可視の「罰則ルール」が無人販売所というゲームを保たせているのだろう。
俺もアニメ以外興味ないアニオタなので、アニメ好きと明かしたときにゲームの話されるのがつらかったことが何度もあるわ^^;
ホンネTVが最近話題になりました。銀魂、ねほぱほ等、奇抜な作品が話題に上がることが多い気がします。
私の観測視野が狭いのかもしれませんが、映像作品の良し悪しの判断基準の一つに、抑圧された表現の解放という部分が目立つように思いました。
スポンサーや株主などの影響で報道に偏りを持たせたり、奇抜なことやほんの些細な表現までを抑圧されているのではないかと、おそらく多くの人が感じているのだと思います。
話題に上がる番組を目にしながら、その抑圧された表現方法を大きく打開するような番組が求められているのだと感じました。
逆の観点から見ると、面白味や感動といったものを置き去りに今までにない表現方法で視聴率を獲得しようという動きがうっすら見えている気がして、私個人としてはあまり好まない傾向にあります。
報道番組では真実を映すことが求められますが、その他の番組も一般的には見えない真実を追い、テレビ番組としての面白さやエンターテイメント性を失っているようにも感じてしまいました。
元SMAP3人のAbemaTVでの番組やテレビ番組の改変など最近テレビに関するニュースや論考をたくさん目にする。
テレビは終わったとか、昔のほうが面白かったとか。こいう話題の時に、僕は糸井重里のコラムを思い出す。
https://www.1101.com/readers/2013-10-13.html
なにか新しいものを作ろうとすると最初は苦労するし、みんな一生懸命になる。
ただ、ある程度成長して安定すると、いろいろなことが慣れてきて停滞してしまう。それがいまのテレビの状態な気がする。
そんなときに、新たな場所にうつってまた新しいものを作ろうとするのは自然で健全なことだと思う。
実際、AbemaTVを作ってるのはテレビ番組の制作会社が多いし、あくまでもテレビが進化しただけだと思う。決して終わってない。
じゃぁ、テレビは今後どうなるのか。
モヤモヤさまぁ~ずがゴールデンに進出する時に伊東Pがインタビューでこう語った。
「ただ、ゴールデンタイムに自分たちの大切にしているものを持って行かないで、深夜を治外法権みたいにして好きなことやるっていうのはね、そろそろどうなんだろうと。だからって、なにも『モヤさま』を持って行かなくてもって気持ちはあるんだけど(笑)、『モヤさま』をゴールデンで放送することは意味のあることなんだよって話しました。「ゴールデンタイムで遊んでやろう」って感じで。」
http://www.ohtabooks.com/quickjapan/special/001_03.html
そして、ユーチューバーの東海オンエアがUUUMへの所属を発表した。
スイーツ(笑)って最近見ないなと思ってググったところもう10年前に流行ったネットスラングだった
この頃インスタ蝿と揶揄される人種に得も言われぬ気持ち悪さを感じていたが、スイーツ(笑)と比較することでなんとなくその気持ち悪さが浮き彫りになったので書き留めておく。
スイーツ(笑)は個人的に「残念な人だな」と感じながらも気持ち悪さは感じなかった。
スイーツ(笑)の人々の特徴をwikipediaから引用すると
“(雑誌の)コピーを鵜呑みにし、メディアに躍らされている女性たち” “雑誌やテレビ番組が仕掛ける流行を追うことがオシャレだと思いこんでいる女性” “テレビや雑誌などの流行に影響されやすい若い女性”
などなど。いろいろな広告や宣伝に踊らされる残念な人々への揶揄である。
インスタ蝿と比較して踊らされる残念さはあるものの、気持ち悪さを感じなかった理由として
・目標とする価値を自分の外部に置いていて(その目標の良し悪しはあるにせよ)それに向かって自分を変えていく・向上する姿勢が見えること
・(広告や流行に比べて)自分が自己研鑽をする立場にあると感じている(ある意味での)謙虚さ
があるのではないか。
今のインスタ蝿どもに感じる気持ち悪さはこれらがないこと、すなわち
・手段は問わず自分の価値観が高まったように"見える"ことが大事
・中身のない割に"影響力"を持とうとする傲慢さ
が強く感じられた。