はてなキーワード: 自分探しとは
SNSを駆使して、世界中のマルチメディアをインタラクティブに
7本くらいの指を使った同時マルチタッチで、
渡り歩きたいなって思ってるんだけど。
で、しばらく使ってなかったから案の定パスワード忘れちゃうわけ。
てへ。
と、ここまではうっかり属性でいいんだけど。
で、パスワード再設定しようと思ったの。
で、PayPalアカウントを開設したときの私の性格って今の私の性格と一緒じゃない?
で、パスワードの再設定したら、以前使ったパスワードは使えません、って言うじゃない。
私、再設定しようとしてたパスワードって、
ビックリ!
私って昔と変わってないのね!
ハロー!昔の私!
って、笑っちゃったわ!
前にも、確かこんな下りあったわね。
自分探しなんて、
簡単にできるじゃない。
で、ところでPayPalはどうやって投稿したらいいのかしら?
久しぶり美味しいわ。サンドイッチは手が汚れなくて便利だけど
うまく封が開けられなくて、
みたいな。
梨美味しいわよ、梨。
スッキリオータムね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
気付けばこんな歳になりました。まぁ、25も越えてやりたいこと見つかんねーとか言ってる間に無職です。今はバイトで食いつないでますね。全然シフトはいってないけど。
それでも何とか家賃ぐらいは支払えるレベルなのでやっていけてるわーなんて勘違いしてる。
まぁ、エリート増田達からすれば『今すぐ死んだほうがいいレベル』なのかもしれないけれど、今すぐ死んでも後々死んでも一緒っていうか利益が発生してるなら後々死んだほうが良いかもなァなんて言いながら生きてます。ほぼ死んでます。
どうしてこうなったんやろうなぁ、なんて底辺Youtuberとか見ながら思うけど、いずれ自分もそれと同じくらいどっちつかずな存在になるんだろうな。クソだなぁ。
今出来ることなんて無いよ、なんて頭の中の自分がぼやいてるけど、今できることなんて腐るほどあるんだってことは理性では理解してるんだなぁ。本能は「バイトの金入ったら競馬で一攫千金じゃ!!」なんて言ってるけど、絶対それも上手くいきませんし。
こうなってくると人生は金じゃないっていうのがよーく理解できる。金、資産があれば人生の選択肢は増えるけど、頭の中の自分はどの選択肢にもNOと言い出す。
芸術方面は稼げないから当然NO、でも現場で働くってのも出来るけどできるだけNO、パソコン関係の仕事もスキルが無いからNO、NO!NO!NO!
わかってる、今やれば多分どこへでもいけるんだって。最悪自転車に乗って日本一周とかかな。この歳になって自分探し。いいかもしれねぇ。
でも物理的などこへでもいくは昔からやってきた。その度に「俺何やってんだろう」って言ってきたんだ。
だから、少しでも物理的じゃない方のどこへでも行けるようにやっていこうって、今更思うんです。
http://anond.hatelabo.jp/20150916220858
以下は某所からのコピペ。実はそんなに洋楽に詳しいほうではないので、もっと面白いものがあったら知りたいというのが増田にした動機です。ご教示よろ。
エア・サプライ「渚の誓い」(1983)原題:Making Love Out of Nothing at All
これなんと主人公はフットボールのスタープレイヤーにしてプレイボーイなのだ! チームを勝利に導く方法も、スタジアムを喝采させる方法も、リッチになる方法もみんな知っているし、女性を口説く方法も、落とす方法も知り尽くしているが、本気で好きになった相手の心をつかむ方法だけがわからないと嘆く歌。「渚」も「誓い」も関係ねぇ!
ノーランズ「恋のハッピー・デート」(1980)原題:Gotta Pull Myself Together
失恋した女性が「立ち直らなくちゃ!」と自分を叱咤激励する歌。実は全然ハッピーじゃねぇ!「私はバカだったわ」とか「泣き顔なんて見たくないでしょ?」とか「あなたがサヨナラを言ったんだもの」とか、わりと聞き取りやすいフレーズが頻出するのに、何考えてこの邦題つけたんだか?
シャーリーン「愛はかげろうのように」(1976)原題:I've Never Been to Me
主人公のセレブでリッチな女性が、平凡な主婦を相手に、自分は世界中を旅して回ったけど自分自身に巡り合うことはできなかった(今日びで言うところの自分探しに失敗した)と愚痴る歌。「あなたが手にしているものが本当の幸せなのよ」と上から目線の説教にも聞けて、聞き方によってはけっこうムカつくこともできる。
ウイングス「心のラヴ・ソング」(1976)原題:Silly Love Songs
他のほどぶっ飛んでないけど好きなので。くだらないラブソングだらけだと嘆く向きがあるがどこがいけないんだ、俺は世界中をそのくだらないラブソングで埋め尽くしてやろうと思ってるんだ、と開き直っている歌。「金髪先生」という深夜番組でたまたまドリアン助川氏がこの曲の解説をしている回を観た記憶が残っているが、これどう考えても主催ポール・マッカートニーがかつての盟友で袂を分かったジョン・レノンを意識して書いたんだよねという説に全力同意を感じた。
カイリー・ミノーグ「愛が止まらない」(1976)原題:Turn It Into Love
嫉妬に怒り狂う友人に対して「その怒りを愛に変えるのよ」とアドバイスを送る歌。その友人を嫉妬させている張本人が主人公とも解釈できる歌詞なので、もにょる。止まらないのは愛ではなく愛とは真逆の感情なのだ!
カーペンターズ「遥かなる影」(1970)原題:Close to You
金髪碧眼の、とってもハンサムなボーイフレンドが他の女の子達からチヤホヤされるのを見て、心を焦がす女の子の歌。でも歌詞に屈託がなく明るいことが、主人公のいい意味での若さ・幼さを感じさせる。ぜって~ぜって~邦題の与えるような大人びたイメージではないのだ。
できることや方向性が決まり、ようやく自分が落ち着いてきた矢先、
数十年後の人生を考えてしまい、自己分析や就活をしていた頃の自分が何者なのだがよくわからない心理状態に陥ってしまった。
家庭を築く…仕事や趣味を極める…他人のためになにかする…どれも違う気がする。
チャンスは二度と来ないのに手に入れられなかった過去を後悔しながら次こそはと努力している。
チャンスに恵まれて手に入れたこともあったが、心に何も残らず虚しいだけだった。
"今"手に入れなければいけないことはわかっている。
わかってはいるのに、後悔から努力して、努力の結果、今の自分が求めていた結果と違っていたことに気がついて、後悔の連鎖が止まらない。
"今"が解り、出来うることを行い、未来で後悔せずに済むにはどうしたらいいのだろうか?
たかだか20数年のこれまでの人生で勝ったの負けたのって考えるのはおやめなさい。何十年後か、死ぬ直前に自分の人生を振り返って充実してたと思えるかどうかだけが問題だよ。
その意味でなら、今の段階で本当にやりたいことがわからないっていうのは、少々不利だ。少なくとも君は、やりたいことがあって高卒から就職して頑張ってる人々に比べたらスタートラインのかなり後ろにいる。東大に入って院までやってきたことは単なる準備にすぎない。スタート後に役立てることはできるけど、スタート前の人間が自慢できるものじゃない。それから、「出来る」ことと「やれる」ことは違う。君は大抵のことができるポテンシャルを持っているかもしれないが、実戦で証明されるまで、それはまだ絵に描いた餅だ。
とはいえ「やりたいこと」が最初から明確に決まってる人なんて珍しくて、大抵は色々やりながらだんだん定まってくるものだ。重要なのは「やる」ことだ。可能性を考えているだけでは結論は出ない。「出来る」ことと「やれる」ことを区別するには、実際にやってみるしかない。
増田の専攻が何かはわからないが、業種によってはバイトで潜らせてもらえるところがある。東大ブランドはその場合かなり「使える」。OBつながりを探してもいい。自分の場合、バイトから伝手で日系企業がアメリカで事業所を立ち上げるのに関わらせてもらって、以来ずっとアメリカで仕事してる。
まあこの方向もあんまりこじらせると「自分探し」になっちゃうし、業種によっては学生が潜れないものもあるから、万能な処方箋じゃないが。やってみなけりゃ(自分に合ってるかどうかは)わからない、というのは確かだと思うよ。
もうそんなことしてる暇がないっていうなら、とりあえず「絶対にやりたくないこと」を書き出して、それを避けられるところに就職したらいい。勝ち負けとか見栄とかは捨ててね(スタートしてさえいない人間が勝ち負けにこだわるなんでおかしいだろ?)。嫌なことを続けてると精神を消耗して必要なチャレンジができなくなるから。これならまあいいかって思うところで仕事しながら、色々やってみるのがいい。とりあえず東大ブランドはそういう時にも役に立つ。
あまり詳しくは書かないが、
夢があって、夢を叶える為に努力をしていたら、
ただ、軸、生きる目的、天職、使命、生きる意味、ビジョン、がわかったり、運命だと思える会社を見つけた。
どれもこれも探そうと思って見つかったわけじゃない。
別の人生もあったようにも思う。選択の末がいまだ。
大事な事がわかったとはおもう一方、
別にわかったこともわからなくても生きる事ができるんだろうなー
とも思う。
わかったところで、今の所、日々幸せを感じているかといえばそうでもない。
まだ人生の途中だ。
なんとなく、上にあげたことて結構今後ポピュラーというか、一般的になるんじゃないかておもう。
だが、自分探しをした方がいいとは思わない。心からしたいことをしていった結果にわかるものだと僕はおもう。
どうしたらいいかわかりにくい昨今、自分の中で指針となるものがわかれば、
少しは生き易くなるのではないかとおもう。
もしかしたら、わからないまま一生を終える人も結構いるかもしれない。
だけど、それが不幸かどうかはわからない。
ただ、なんとなく、僕としては、人が幸せになる可能性を信じたいのだ。
て今はおもう。
あまり詳しくは書かないが、
夢があって、夢を叶える為に努力をしていたら、
ただ、軸、生きる目的、天職、使命、生きる意味、ビジョン、がわかったり、運命だと思える会社を見つけた。
どれもこれも探そうと思って見つかったわけじゃない。
別の人生もあったようにも思う。選択の末がいまだ。
大事な事がわかったとはおもう一方、
別にわかったこともわからなくても生きる事ができるんだろうなー
とも思う。
わかったところで、今の所、日々幸せを感じているかといえばそうでもない。
まだ人生の途中だ。
なんとなく、上にあげたことて結構今後ポピュラーというか、一般的になるんじゃないかておもう。
だが、自分探しをした方がいいとは思わない。心からしたいことをしていった結果にわかるものだと僕はおもう。
どうしたらいいかわかりにくい昨今、自分の中で指針となるものがわかれば、
少しは生き易くなるのではないかとおもう。
もしかしたら、わからないまま一生を終える人も結構いるかもしれない。
だけど、それが不幸かどうかはわからない。
ただ、なんとなく、僕としては、人が幸せになる可能性を信じたいのだ。
て今はおもう。
ギャン泣きである。AFCの決勝トーナメント進出が嬉しいからではない。いや、そりゃーめでたい。めでたいけど、何はなくとも今日は香川のゴールに感動したのである。見てますかクロップ、シンジはやりました。
私がサッカーに興味を持ったのは2010年南アWCからで、今の主力選手たちがいわゆるルーキーたちのころだった。内田さんは顔だけアイドル枠でSONYのCMもあいまって「見せてくれ内田()」とか言われて笑われてたし、ちょうど長友が活躍し始めて「なんだアイツ!?」って言われ始めた頃だったし、っていうかそもそも川口とかいたし。川口って私が小学生でJリーグ発祥したころから代表にいた気がするけどあいつは何者なんだ。そんでもってその頃、香川さんはまだ代表ではなかった。
ただ、この2010年は香川さんが輝き出した年でもあった。ドルトムントへの移籍がこの年だったんだもの。
2010-2012は、ドルトムントにとっても香川さんにとっても黄金期。でも私、この当時は香川さんに興味なかった。いやドルトムントは応援してたんだけど、香川さん個人にはあんまり興味がなかったのだ。そもそもドルトムントを応援してたのだって、一緒にサッカー見る友達がシャルカーだから「じゃあ私はドルトムントにしよう~」みたいなノリだったし。その後大好きになったけど。
そんな流れもあって、まあ香川真司というプレイヤーにはあんまし興味を持っていなかった。ハマって二年目ぐらいまでは、まずサッカーの流れを把握することで精一杯だったし。最初はサッカーって何人でやるのかも知らないままワールドカップ見てたレベルだったからね。
ようやくなんとなくサッカーの流れを理解して、選手ひとりひとりに想いを馳せるレベルになったころには香川さんはドルトムントの人ではなくなっていた。そう、2013年マンチェスター・ユナイテッドへの移籍である。香川真司個人へのスポンサーになりたかったのに、大人の事情でKAGOMEさんがマンチェスター・ユナイテッドのスポンサーを務めることになってしまった悲しい事件が起こった年でもある。まあKAGOMEもマンUもイメージカラーが赤だからいいだろ。
好きなチーム・ドルトムントでえらく活躍してくれてたはずの香川さんは、マンUに行ってえらく泥沼にはまっていった。バイエルンキラーと呼ばれたあの天才はどこへやら、なんかよくわからん使い方をされてよくわからんダメ出しをされてよくわからんまま公園でひたすらクロスの練習をする毎日である。来る日も来る日もクロスクロスクロス。「シンジは他のことがうまいんだからクロスはしょうがないよぉ」とか言ってくれてたクロップとはさよならしてしまったので、ひたすらモイーズの言うこと聞いてクロスの特訓である。おいおい話が違う、俺を中心にしたチームを作るから来てくれってジイさんが言ってたから渡英したんだぜ?と裁判起こしてもいいだろってぐらい冷遇される。かつてかわいがった選手があんまりにもあんまりな扱いを受けてるからって、別リーグのクロップがわざわざ「シンジは本当は出来る子だもん><」とか涙ながらにコメント出したレベルである。
超のつくビッグクラブでボロッボロにされる香川さんは、まあ当然代表でもいいパフォーマンスはできない。もうあれイップスだろやめてやれよ、ていうかあからさまにadidasの都合で背番号10を背負わせるのやめてやれ、その番号は本田に背負わせてやれ!明らかに本田のほうが10番の仕事をしている!確実に香川のプレッシャーになってるもん10番! というファンの心もむなしく、香川さんはもう自分探しの旅に出たほうがいいだろって状態のままマンUと日本代表10番を往復。見ているこっちの胃が痛くなる一年半だった。ブラジルワールドカップについてはもう触れてはいけない黒歴史だ。
さて驚きの2014年、ボロボロになって先も見えない自分も見えないサッカーボールも見えない状態の香川さんは古巣・ドルトムントに帰ることになる。ドルトムントはもう大喜びである。号外新聞とか出しちゃう。王の帰還だの放蕩息子の帰宅だの、ロードオブザリングなんだか単なるdisなんだかわからん歓迎ぶりで、香川さんもささくれどころかゴビ砂漠ぐらい荒れ果てた心をちょっと癒しつつ帰独。
ただ、あったかいおうちに帰ってきたからそのままいいプレーに繋がるぜ~なんて甘い話があるわけもなく。「ええ~シンジ帰ってくるならもうシンジを中心にしたチーム作るよ!俺は赤い悪魔とは違うよ!」という浮かれポンチなコメントを実現させたユルゲン・クロップを持ってしても香川さんの「自分ってなんだっけ病」は治らないままだった。っていうか環境もよくなかった。自分たちのサッカー教の教祖である本田さんとその筆頭信者・長友さんが近すぎた。物理的に。マイブラザーとか呼んでる場合ではない。今の香川さんに必要なのは小笠原病(鹿島)である。
自分が何者かもわからないまま自分のサッカーを探しているせいで香川さんはボロボロ、ついでに香川さんのせいではないけどドルトムントもボロボロ、日本代表だってボロボロ、どこを見てもボロボロ。王の帰還とか持て囃してくれたドイツの新聞は「コイツいるとチームの空気が悪くなるわ」とかdisってくる。空気読まないことに定評のある内田篤人から「救ってやりたい奴がいる」とか言われちゃう。槙野からはもんじゃ焼きの約束すっぽかされて待ちぼうけ喰らわされちゃう。
そんなぼろぼろな香川さんが、ちょっと気分転換でもしといでよ~とばかりに送り出されたAFC。狙い的には、下位相手に無双して自信を取り戻してもらおうという目論見があった人も多いんじゃなかろうか。
ところが幕を開けてみると、なんでか香川さんは初戦で2アシストとかしちゃってる。結果的には3得点に絡んじゃったりしてる。続くイラク戦でも、めっちゃ頑張ってるのはすっごい伝わってくるけどアシストが多いのである。エースアシストかってぐらいアシストしてる。
違うんや…アシストは大事だ、大事だけど私はお前にゴールを決めて欲しいんや…!と祈り続けて9日め、ついにその日はやってきた。そう、ゴールだ。後半に入ってきた武藤から繋がって、香川真司AFC初ゴール。アギーレジャパンでの初得点。川島はゴール捨ててまで疾走してきて香川を祝う。お前はゴールを守れ。
下位相手に1ゴール決めただけだろ、って意見もあるだろう。つーかもっと決めろよって思われてると思う。ゴールは決めたけど内容あんまよくなかったね、って意見だってたくさんある。
でも、はからずもマンチェスター・ユナイテッド移籍という泥沼時期から香川真司を見守り続ける形になってしまった私にとって、このゴールは本当に本当に眩しいものだったのだ。「よかった、よかったネェ…!!!」という一言以外に言葉が出ないわけですよ。
ゴールした瞬間に私の脳裏をよぎったのは、内田さんの「救ってやりたい奴がいる」っていう一言だったし、「シンジは何も損なわれてない」と香川さんを信じ続けてるクロップの言葉だった。すっ飛んできた清武の姿でもう涙腺は崩壊。えらいこっちゃ。試合が終わったわけでもないのに大号泣。
次にあたるUAEとは中二日の調整になるので大変だと思うけど、今日の感覚を忘れないうちにまたゴールを決めてほしいわけです。日本代表を応援してるのはもちろん、自分がこんなに香川真司を応援しているだなんて夢にも思わなかった。びっくりしたわ。彼のサッカー人生で一番輝かしかった時代と、一番どん底だった時代を両方見てしまったので思い入れがとんでもないことになっている。どうか彼が自分探しの旅を終えて、サッカーを楽しめる道へ帰ってきてくれますように。
去年の僕のtwitterプロフィールに一時期掲載していたのをまとめた。誰のためでもない。自分の為でもない。
参考
僕のtwitter
前編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180321
後編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180539
題名:無題
何のために大学にいくのかと問われて、即答できる現代人は少ないだろう。かつて大学が数えるほどしかなかった頃、人は大いなる志と目標、夢を抱いて大学の門をくぐった。しかし、昨今の少子化と飽和状態と化した大学数のミスマッチは大学全入時代を招き、結果として「何と無く」「みんな行っているから」「学歴のため」といった本来大学に不要n
幼い頃からKO大学に行くことが夢でした。福沢先生の著作を読み漁り、キャンパスに何度も足を運び、大学の授業にも何度も潜り込みましたが、なぜか勉強できませんでした。そうこうしているうちに、僕は大学でやりたいことがないことに気づきました。KOに入ること、それだけが全てだったのです... (自伝「信者の目録」前書きより抜粋)
題名:何も産み出せない
TSFにしても、今まで3年間やってきた無駄な行いにしても、共通しているのは情報を消費しているだけで、何一つ産み出せていないことです。もちろん生きている限り全くということはないのでしょうが、その全てが自己満足で他人から評価されるようなことが全くと言ってないのです。まるでカルト宗教の信者のように。
なぜ虎になったのか。自分は周りの声を無視して上京した。親はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。本当はただ勉強したくなかったからという理由を自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して勉強以外の才を磨くのもできなかった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
養老孟司さんの著書によると、今後生命科学分野の進展によって「進化の遺伝子」が抽出される可能性が出てきたようです。分かりやすくいうと天才のDNAですかね。それが抽出された瞬間、我々凡人の存在意義は無くなります。何事も遺伝。例えば代々東大出身の家系の人はそれまで全く勉強してなくてもたった一年で東大合格したりしますからね。
養老孟司「我々がどんなに頑張ってもイチローにはなれない」by痛い信者
自分は何のために存在しているのかという疑問は、実は地元の高校に入学した時から持っていました。その後その負担に耐えきれずに、自分探しと称して学業を放り投げ東京へ。後は増田の通り。自分なんて東京のどこにもいませんでした。結局今の自分は、勉強の他にもこういった「超えるべき壁」からも、ずっと逃げ回った結果なのかもしれません。
自己創発という言葉がある。一種の高度なシステムだ。wikipediaには「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。 」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
うむ高度である。高度で重要だってんで専門の研究機関が数多くあったりする。しかし高度といっても場当たり的創発には明白な限界がある。長期視点で創発を積み重ねること、つまり進化が求められるケースも多いのだ。そういったことを扱うのが「進化システム論」という学問領域である。
翻って私たち個人の日常生活ひいては人生において根本的に重要な要素を1つあげるとすればそれは集中力である。
人間として生まれたからにはまずその集中力がなんであるかを明確に会得せねばならない。分かりやすい例をあげよう。ハイスコアを叩き出したいテレビゲームがここにある。
画面に「注意する」ことは必要不可欠であるが、スコアを「気にする」ことは果たして必要なんだろうか?否!必要ない。
「気にする」とは余計な思考を含意し「何かを気にして別の大切な何かを気にできてない」ことをも含意する。かように様々なタイプの集中があるので集中力と一口に言っても多種多様なことが分かるだろう。
電王戦タッグマッチにおける脳波測定マシーンの滑稽さもここにある。集中力を単純に脳波で量として捉えても殆ど実態は見えてこない。「何にどう」集中しているかに達人的集中のギミックがあるのであるから。
ここまで言われると集中のための第一歩が「気にする」と「注意する」の峻別であることは容易に経験からイメージできるのではないだろうか?
テレビゲームの事例でも「画面には注意すべきだがスコアは注意しないほうが良い」と両方「注意」を使って捉えるからどうしようもない矛盾が生まれてしまう。
ちゃんと2つの概念を区別し「画面には注意するがスコアは気にしないほうが良い」と精密に捉えて初めて成長の道が切り開かれる。
これは人間特有のウェットな話ではなく純粋にロジカルな話なので当然色んなシステムに適用できて進化システムもその例外ではない。
例えば会社が本来の目的を忘れて腐った企業体質のまま古い事業を続けている。これが「気にする」にあたる。一般にシステムをとにかくどんな形でもいいから進化させちゃえと安直に考えるならばその実現はたやすい。
しかし高度な進化つまりシステムの根幹にある枠組み自体を進化させるには「気にしない」ことの高度な実践がたいてい決定的に重要になってくる。簡単に言うと全体の情報をきちっと注意し続けるということだ。
このように私たちは私たち個人と私たちを含む社会集団を類比することで新たな側面を発見し打開策を見いだしていくわけだ。他人のフリして我が儘治せということわざもある。
人は自分が思っているほど自分のことを理解していない。それは高度情報社会の闇でもある。気になる情報が多すぎて自己への注意がおろそかになっている。
これが原因で世の中には無用で無駄な争いが爆発的に増えているわけで、そこで提案されたのがジョージ・ハリスンの窓、略してジョハリの窓である。
自分探しという言葉は一部の人間の感情を逆なでするそうだが、注意の復権という意味では自分探しという言語表現こそまさに適切と言えよう。
希望だけは絶対に捨てるな。希望を捨てた時、人間は将来を悲観し、絶望視し、嫉妬に囚われた
希望を見つけろ。見つける努力をしろ。努力なんて大袈裟のことは言わない、工夫をしろ。
「何でも」できないと思うな。少なくともできないとは思うな。できない事だらけで何をやっても駄目かもしれないけれど、
でもそれでも自分にできる事はきっとあるはずだ。だから「何でも」できないと思うな。まず否定するな。やってみようとしろ。
一歩を踏み出す勇気を持て。大丈夫だ、おまえが失敗したくらいで、誰も笑っちゃいないのだから。
この世の中は、不条理にまみれている。ろくでもなければひどくつまらない。
だけどおまえはこんな世の中を生き抜かなければいかない。生き抜くためには希望が必要だ。
本当に死にたいわけじゃないのなら、希望だけは絶対に捨てるな。
>>「難儀な人だなぁ、そんなに言うのなら、最近流行りのというともう時代遅れかも知れないが、自分探しとやらをしてみてはどうだい?」
「自分探し?自分を探す?そんな20年以上生きてきて見つからないと言っているものがホイホイ見つかるとでも本気で思っているのですか?
>>自分が産まれたからにはやってみたいと思えることが合ってしかるべきでしょう、普通は。それがないから困っているのです。
しかもそれを考えようにも、
あたまでっかち
何もしない言い訳として「何をしてよいかわからない」と言ってるだけに見える。
それは確かに気持ち悪い。
自分探し、したらいいじゃん。
「ホイホイ見つかるわけない」って言い訳して やったことないんでしょ。
たった20年しか生きてないんだから2年も探せば引っかかりくらいは見つかるんじゃないかな。
国内を自転車で2周、プラス海外留学1年。(べつに留学でなくてもいいけど)
そんだけやってから もいちど聞かせて欲しい。
※ちなみに将来 寝たきり老人になったとき、上の経験(つか思い出)があるかないかで生活のクオリティがだいぶ変わるので、マジでやっといた方がいいです。
「私には自分がないのです。自分が何をしてよいかがわからない。いや、もっと根本的なこと、ようするに自分が何が好きで、何がしたくてといった基本的な欲求ですらわからないのです。」
「そのわりには、君はちゃんと大学にかよっているし、留年もしていない。もっと言えば現役で合格もしているし、しかも第一志望だ。今年は大学院受験で、今いる大学よりもレベルが上と言われているところにも合格している。周りの大人たちもさぞ喜んでいることだろう。それなのに未だそんなことを言っているのかい?」
「そういうことではないのです。私は、世間一般が求めることに対して答えることは苦手ではないのです。例えば、数学の二次方程式があったとして、二次方程式の解が必ず-1から2の間に収まるように、係数の範囲を答えなさいと言われれば、必死にチャート式なり教科書なりを読んで理解して、演習問題を解き、テストで答えることが出来るようにすることは割合出来てしまうのです。もっと言えば、こと数学に限らずに、この問題ができれば、周りとの相対評価を行えることに関しては、やる気が出るのです。
要するに、世間一般で評価されることがそのまま自分の中で評価されることになってしまう人間なのです。ですから、周りとの評価が出来ないこととか、評価の指標が簡単ではないものに対しては、価値を見出すことが出来ない。だから僕はテストが好きなのです。あれはだって高い点数を取ったほうが合格するという単純かつ社会的評価も点数が高いほうが獲得するとても簡単なものでしょう?
でも実際の世の中で価値が有るのはそんな単純なものだけではないことに、たとえば美しい旋律を奏でる能力であったり、読む人を魅了させる不思議な文章を綴れる能力であったり、評価の軸はいくらでもある。それに気づいてしまった。いや気づくのが悪いとは言いません、むしろ遅すぎるぐらいなのですが、あまりにも自分の周りの環境が、社会的評価の高い人間が価値を得る世界であったので、そのことに対してあまりにも無自覚だったのです。それに絶望しました。ああ僕はなんて狭い箱庭の中で、それなりに必死に頑張っていたのだろうと、虚しくなるのです。」
「確かに君の学校はいわゆる進学校とよばるやつだな。教員はほとんどが学生を受験マシーンに育てるための最短ルートで勉強を教える。そのために学問の深さであったり、本来悩まなければならないところを、テクニックによって誤魔化し通過させることしか考えていない。」
「そうなのです。ですから、私も勉強というものは殆どやってきたように思えません。やったのは受験で良い点を取る方法です。数学が得意ということになっていましたが、やっていたのは数学ではなく唯の算数です。何も自分で生み出しては居ません。すべては周りから与えられた情報を飲み込んで吐き出す。そういうマシーンなのです。
そんなマシーンが大学に入って出会ったのは”自分の好きなことをやるべきである”という思想でした。現代人は、生まれつきの素養で将来が決まってしまうことを嫌います。すべての人類は平等だ、皆好きなことをする権利があるとのたまいます。確かにそれは理想だ、素晴らしいことだ。でも、現実はそうではありません。日本に生まれていなければ私もここまでのうのうと睡眠と惰性の生をむさぼることは出来なかったことでしょうし、日本に生まれていたって家庭環境や生まれる年代が違えば、同じことは出来ません。要するに私は運が良かっただけなのです。そして、自由に生活する権利があるとのたまう人たちも恐らくは恵まれているのです。だって、現代だって恵まれていなければ、自由に生活なんて出来ない。当たり前です。自由に暮らせるからといって皆海外に留学にいけますか?バイト代で大学に通う大学生に、国内を自転車旅行する余裕がありますか?全ては欺瞞なのです。エゴです。あゝ気持ちが悪い。
要するに、私は好きなことをスべきと言われて戸惑ってしまったのです。先ほど並べた御託もただの屁理屈です。後付け設定です。自分に中身が無いことを必死にカバーしようとしているだけなのです。だって自分は恵まれています。大学院を移ることも許可されています。私立の高校に通うことも許されました。塾にだって予備校にだって通わせてもらいました。だったらその自由を行使すべきなのです。でも出来ない。何をしてよいかがわからないからです。ああぼくは何をすれば良いのでしょうか。」
「難儀な人だなぁ、そんなに言うのなら、最近流行りのというともう時代遅れかも知れないが、自分探しとやらをしてみてはどうだい?」
「自分探し?自分を探す?そんな20年以上生きてきて見つからないと言っているものがホイホイ見つかるとでも本気で思っているのですか?
自分が産まれてきた理由などというものが存在し得ないことぐらいは理解できています。問題はそこではないのです。自分が産まれたからにはやってみたいと思えることが合ってしかるべきでしょう、普通は。それがないから困っているのです。しかもそれを考えようにも、僕の中にあるのは僕の外側をちょうどひっくり返したようなものなのです。要するに、僕の外側も内側も、どっちも他人なのです。僕はどこに行ってしまったのでしょう。」
「気持ちが悪い」
自己主張しないで人と合わせると友達がたくさんできて人から好かれて楽しい気もする。
自己主張しすぎて協調性がないと友達がいなくなって寂しい気もする。
自分らしさとか自分探しとかいう謎の言葉がJ-POPの歌詞でたくさん使われるし、それが詞のテーマになっていたりもするもんで大事なことのように思われるが。もうそんなのはどーでもよくなる。
このことを暗黙の了解として、段々多面的多重的コミュニケーションをとり始める...
この人にはこれ以上自分を出すべきではないや、この人にはほぼ全部出していいや、この人には合わせとくだけでいいや。
相手との距離の取り方を初対面から直感的論理的に過去の経験から計算し、多面的多重的にコミュニケーションを適応させる。人間関係は時間経過と気分の波によって距離が変化するため、リアルタイムで微分と積分を行って距離を調節する。
そして究極の計算高い腹黒人間が生産されるわけであります。そう、これが日本の「社会性」というやつだ。
人間と不必要にぶつからないための術を覚え、社会という荒波をかいくぐっていく。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/702505
やれ日本人には「決別」というモチーフは合わないとか日本人の国民性を配慮したとか言われてるけど、
元々こんなに大人にヒットするなんて誰も思ってなかったわけで(最初は日本語版のサントラCDは出す予定がなく、ヒットしてから慌てて出したくらいだ)
元からディズニー好きの大人向けは字幕版、吹替版は字幕を読めない子供向け、という位置付けだよ。
魔法がバレたエルサがmonsterと言われるシーンで、字幕は「化け物」と書いているけど吹替では化け物という言葉を一切使ってないのなんて明らかにその為だろ。
音の長さは化け物でも合う。単に主役が化け物呼ばわりされるのは子供にはキツイと判断しただけだろう。