はてなキーワード: 問答無用とは
武漢からの日本人救出のため、マスクを送って交渉し在留法人を帰国させた訳だが、中国のコロナ流行が一段落し、今度は日本にマスクを送った。また、イタリアにも医療チームを送り出し全世界の収束にむけ動いている。
お前のところが衛生管理出来てないからとか、初期対応がずさんとか、WHOになにか圧力かけてるだろうとか、一言言いたいこともあるだろう。
流行の大小はあるにしろ、各国の対応がそれぞれお国が出てるなって感じすごくして。
中国に関してはやはり問答無用のパワープレーで市内封鎖とか、病院を10日で建設するとか、それだけ人材が集められるのはやっぱり中国だな。
アメリカが同じことできるかな?そこまで思い切った医療体制は確保出来るかな?軍とかの協力で出来るかな?アメリカは今流行防ぐより、経済対策に躍起のようにみえるし。
日本はとにかく重傷者重視の対応でなんとか落ち着いてる。でもなんていうか、こういった時に経済での援助とか、医療技術の高さを誇る援助に対して少子高齢化の日本。金も人材もいない現状をとても嘆いてしまう。
作品に触れるときに自分を無差別に招かれた客だと思うか自ずからの訪問者と思うか、で鑑賞の仕方、目の前に現れた映像への反応の仕方というのは変わる気がする。
そして、表現の自由を考える上でそれぞれが公共と指して話しているのは、どこからどこなのかという点について、みんな少しずつ認識が違っているような気がする。わたしの場合は未成年含めた人々が日常的に利用する場所、未成年を含めた人々の目に問答無用で目に入る媒体…を、"公共"として捉えてると思う。でもこれは法律や辞書による定義とはきっと違うとも思うし、誰もが日常的に利用する場所のリストを出せと言われるとかなり困ってしまう。主観しか働かないので。客観の根本も主観なので。
つまりかなり自分の中だけでの定義だ。そんな自分の中だけの定義に則って話していくと、ポスターは公共だけど、少年漫画は公共じゃない。少年漫画は公共じゃないけど、テレビアニメ化した少年漫画はOPが流れている間に観ることを回避できるとはいえ問答無用で目に入る媒体で表現されているから半分公共。(動画配信サイト限定での配信は公共ではない。)わたしのめちゃくちゃ自分勝手な定義。頷く人もいれば首をかしげる人もいるだろう。
そういったそれぞれがどう定義付けて話しているかわからないものを、まずはそこから話し合っていかなければならないのに共通して認識できていることだと思って段階を飛ばしてしまうこと、また、せっかく話し合う気持ちでいる人たちを同じ認識を持てていない時点で話し合いに参加する資格はないと弾き出してしまうこと、これがひどく悲しい。
お互いに悲しいなあどうしてかなぁ腹が立つなぁって思っているのが本当に悲しいな…悲しい…。
価値観、表現というものの話し合いにおいて敵というのは存在せず、あるとすればそれは、話し合いに必要ない皮肉や罵倒の言葉だったりそれを言わせてしまった心が過去に置かれていた環境だったりすると思うのだけど、なかなかそこには気をやっていられない。話がそれた。
そうだ、話がそれるというのも何かを話し合う上で確実に起こり得る。何故か揚げ足をとり悪意をぶつけるチャンスとしかとられていないけど。リアルタイムで進むsnsでの討論において真剣で、かつ出来るだけ即座であろうとすると当然そうなるだろう。話し合うことになれている人は「話をそらした」か、「話がそれた」かは区別がつく。話がそれた。
想定された客層を自分で察知することができ、それを踏まえた多様な表現が自分に振りかかることを理解した上で自分から手に取る媒体と(わたしはこれに触れる時、自分を自ら扉を開いた訪問者として扱いたい)、問答無用で目に入るCMや広告といった媒体(わたしはこれに触れる時、自分を無差別に招かれた客として扱っている)、また、どんな作品か、どんな客層向けかを絵柄などで察する能力を持たない者(わたし含めてオタクはまるで当然のかのようにできるんだけど)が自分から回避できないテレビアニメという媒体での表現というのは気遣いがそれぞれ違ってくるであろうことは想像に容易い。(放送時間帯により鑑賞者が扉の開け閉めを選択できるようにするという気づかいは既にあるけど)
公共の場における表現に必要な心遣いは、新幹線の中で大声を出していいか考えたとき、大声出すのは自由なんだろうけどよそうか、って思う時くらい、自然にみんなで感じていけたら気持ちがいい。
この、ここではよそうか、という気持ちが表現の自由や発展を規制するとはどうしても思えない。
よそうと思えなかったことを指摘されるのと、表現が禁止されるのとでは全く意味が違う。最近よく起きる様々な炎上は前者なのに後者だと思われている気がしてならない。そりゃあ当然、突然現れた自分の好きを規制しようとする人間なんて怖いし、驚く。そして、よそうと思えなかったことを指摘したのに表現の規制だと思われた方も本当に怖いしめちゃくちゃ驚く。すごいスピードで誤解が広がる。ほんと怖いと思う、お互い。あと前者の指摘に人格がどう~とか、こけおどしが含まれていた時も、怖いね。あるいはこけおどしを含んでいないのにそう取って攻撃するのも。
仕事用のメールにドゥフフwwwって打たないくらい当然に、公共の場でだけ、よしていけると思う。心配しなくても公共の場で気を使う事と自分の好きなものを守っていくことは両立できる、できるに決まってるじゃないかと思えて仕方ない。
知らん!!!エロを人前で見たい!!って言われたらそれは困ってしまうけど。
エロがどっからがエロなのか、は公共とはどっからが公共なのか、なぜそこは公共なのか、が正しく話し合われて認識を共有できれば自然と気づかいし始められることだと感じる。
ひとまず現状を把握しておくため、俺たちはモーロックの言っていた場所へ向かった。
「本当だ……ヒトがいる」
さすがに皆でゾロゾロと行くわけにもいかないので、偵察に来たのは俺やキンタなどの機敏なネコ数名。
「ぜえ……ぜえ……ちょっと待って……休ませてください」
そんなに遠い距離でもなかったのだが、太っちょのケンジャは既に息も絶え絶えだ。
「肥え太ったお前には、ちょうどいい運動になったろ」
「ふう……余計なお世話ですし、別にそこまで肥えてないですよ。適正体重より2キロちょっと重いだけです」
それも、かなりのな。
俺も1キロばかり重くなった時は、家主がとても深刻な顔をしていた。
それからしばらくの間は、食事制限に加えて運動もかなりさせられたから身に沁みている。
1キロ重いだけでアレなんだから、その倍も重くなってるケンジャはよっぽどだ。
自分への話題を逸らすかのように、ケンジャは耳を澄ます動作に切り替えた。
「……」
「どうだ? 何て言っている?」
できれば杞憂であってほしい。
そういった期待も込めて、恐る恐る尋ねる。
ヒトが話していた内容によると、近々ここで大きな建物を作ろうという予定があるらしい。
そして、その作業は非常にやかましく、近隣のヒトをどう説得しようかと話し合っていたようだ。
ヒトですら嫌がるほど音……。
「ムカつくわね。そいつら、あたしたちのことはアウトオブ眼中なのかしら」
「どうやら以前から、この集会所は彼らヒトの住処だったらしいです」
つまり本来の所有者はヒトだから、俺達を追い出すのに理由なんていらないってことか。
一方的な主張だ。
「“以前から”だと? 我々のほうが昔から、ここにいるんだぞ!」
彼らから言わせれば、俺たちのいう“昔”よりも“ずーっと昔”ってことなんだろう。
それが具体的にどれ程かは分からないし、本当かどうかも怪しい。
だがヒトは俺たちより何倍も長生きだから、事実の可能性はあるが。
いや、もし嘘だったとしても、事態は大して変わらない。
ならば後は“強い者が勝ち取る”という、ネコ社会にも通じる道理によって縄張りの所有者を決めるしかない。
そして、それがどちらかなんてことは、実際に勝負するまでもなく分かりきっていた。
俺たちができる抵抗なんて高が知れている。
ヒトに目をつけられた時点で、この集会所は終わっていたんだ。
「いざ別の誰かのものになった途端に惜しくなって取り上げるなんて身勝手すぎる!」
「そんなことが罷り通るほど上等なのかね、ヒトってやつぁ」
ヒトにとって俺たちネコってのは、その程度の存在なのかもしれない。
皆もそれは理解していた。
故に、周りから漏れる仲間達の声は抗議ではなく、諦念からくる恨み節に近かった。
→パウダーの上に直接パフを置かない。パフにパウダーを振り出してよく揉みこんでから顔面にパフパフする。
→落ちる。諦める。その日は極力マスクを外さない。自分の場合は、マスクをする日はチークと口紅はつけない。つけたところで落ちるから。
→これも諦める。時折、眼鏡を外して鼻当てが当たっている部分をトントンして、よれたファンデーションをならしている。
→付く。気になるなら使うたびにティッシュペーパーで拭え。
→不精な自分は、パフは毛がモソモソしてきたら洗う。今のところトラブルはない。チップは、使うたびにウエットティッシュで拭い汚れたら捨てていたが、コスパが悪い気がして今はチップは使わずブラシオンリー。
セメントみたいに塗り固めているわけじゃないから、何かに接触すれば落ちる
https://anond.hatelabo.jp/20200129173154
自分も最近になって止むを得ずメイク始めたんだけど、美容系YouTuberや雑誌のおかげで「何を」「どこに」「どの順で」使うのかはなんとなく分かった(※できるとは言っていない)。でもそういうレベルじゃないところで分からないことがちらほらある。主にファンデーションの汚れに関して。
というか、これはそもそもファンデが合ってなくて、落ちまくっているということなんだろうか?
もっとビターッッと来るのを選べばこんなことは起こらないんだろうか???
初歩より前というか斜め下ぐらいの疑問点なんですが、元増田に便乗して、増田女子達諸氏に教えを乞いたく候。(トラバへ: 直したよごめん)
教えてくれてありがとう!やっぱ皆汚れるんだね!!安心した…。
そして名称を間違えてたことに気がついた…。「ルースパウダー」じゃなくて「プレストパウダー」?でいいのかな?コンパクトに入ってるやつです。キャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーみたいなの。
「普通(常識)って何だよ」。これを言っていいのは瑞々しい反抗期の中高生までだと思ってる。二十歳過ぎてこれ言う奴は逮捕して送検して起訴して欲しいとさえ思う。だから大人になって「普通って何だよ」って言う奴が嫌いだ。大抵の場合これを大人になって言うやつはドヤ顔だ。なので俺は反射的に「教えてやんねえよ」と思いながらそいつを幼稚なやつと認定して見下すことにしてる。
というかそれを言う時点でお前は「普通」という言葉の意味を理解していないことを宣言しているのでこれまでの人生における人間関係において「普通」という言葉を知ったかぶりしていたんだな?「普通はこうだよね」とか「普通の人」なんて言い回し二度とするんじゃないぞ?「普通にうまい」とか言ってろよ。
そもそもお前が「普通」にケチをつける理由はお前の価値観なり美意識なりが「普通」と対立しているからだ。都合が悪いからだ。そして「普通」に対して分が悪い。だが自分が「普通」に寄せるのはイヤなので「普通」を否定するのだ。正確には否定しきる程のロジックを自分の中に持ってないから「揶揄」するのだ。「普通って何だよ」とぼけて見せるのだ。知ってるくせに。卑怯者。教えてやんねえよ。
かと言って自分自身の価値観と美意識を、問答無用の説得力でもって「普通」の人たちに啓蒙し新たな「普通」になろうとは思っていない。あくまで自分はトガっていたいのだ。個性的でありたいのだ。相対的に「普通」という概念が基礎になければ個性なんて成立しないのに。
個性を求めて「既成概念に囚われないものを」と言って若者を唆す中高年の大人が嫌いだ。そんなこと言ってお前ら自身それほど「個性」が好きじゃないだろ?そんなにしてまで若者に嫌われたくないか?老害って言われたくないか?
どんなジャンルであっても大抵の若者は既成概念の塊である教育を、訓練を、経験を持っていない。そんな彼らに身に着けてもいない概念の否定を言ったとしたら彼らはどうするか?どうしたらいいのかわからず「戸惑って立ち尽くす」か「奇をてらう」のだ。そしてお前らはそれを二つとも否定するのだ。そして説教と言うマウントを始めるのだ。まったくもって不毛だ。
世の中ってのは圧倒的に普通の、凡庸な、面白味の無い、退屈な人間達で占められている。俺はもちろんお前だってそうだ。だから自分が個性だと思い込んでいるもののために普通をバカにするのをやめないか?そして普通の若者たちを「既成概念に囚われるな」などと自分が認めるつもりのない個性を要求するのをやめないか?「みんなちがってみんないい」は結局人間動物園の混沌しか生み出さない。そして「みんなそろってみんないい」は決して全体主義ではない。「普通」の「既成概念」の退屈な凪のような秩序の中から初めて突出した本当の個性が突然変異的に生まれると思うのだ。
そこで「ならぬものとは何か」を自分で選んでしまっているし、問答無用でシバき倒す相手だって選んじゃってる
一般論を書く.
まず,卒業に必要な単位数は125単位前後.これは大学設置基準で定められている.ただし,必修や選択必修があるから何でもいいので125単位揃えればいいというわけでもない.卒業単位として認定されない科目もある.
次に,1年間に履修上限は単位は45単位前後.ただし,成績優秀者や3年次編入者は55単位くらいまで緩和されたりする.あと教職科目はこの制限から外れる.つまり,1~3年次は上限いっばいまで履修登録をして単位を認定していっていれば4年次はほとんど単位を修得しなくてもよい.体感的には8割くらいの大学生は3年次前期終了頃までには4年次開講の必修単位以外は習得し終え,就活や卒論に専念する.なお,この上限は授業時間と同じだけの予習・復習が必要となるような授業設計をするという大学設置基準から算出されたものだが(90分の授業は毎回180分の授業外学修を求める),完全に建前であり,しっかり取り組めば授業外学修が要らない科目は多い
高専とかならまだしも,日本の大学は留年をさせたくないのでまともに出席してれば単位,特に必修単位を落とすことはない.なんとか長クラスで厳しい人であれば落としまくることはありうるが,普通内規で単位不認定は1割程度に留めることという努力義務がある.特に4年生,かつ後期に対しては色々配慮をしなければならない.ただし,3分の1以上欠席をするとほぼ問答無用で単位不認定になる.あとシラバスに書いてあることをやってくれない場合も単位は認定出来ない.レポート出さないとか期末試験に来ないとか
最後に,発達障害持ちの学生は,大学が把握している限り,担当教員に内密にお手紙が来て合理的配慮をすることが求められる.しかし,率直に言って大学教員の中にはそこら辺への理解が非常に浅い人も相当多いので何とも言えない.
単位が欲しい人向け
・とにかく履修登録はする.また上限いっぱいする.特に必修科目は後回しにせず標準履修年次に履修する
・遅刻欠席内職睡眠はせず,ノートを取る.わからないことがあれば授業終わりにでも質問する.オフィスアワーまで利用すればさらに確実.朝起きられない?そのまま社会人になるときついよ
・必ず欠席連絡をする.もし休んだ場合は知り合いに話を聞くか担当教員に相談する
・評価基準はシラバスに書いてあるのでシラバスをよく読む.レポート15回とかが嫌なら最初から避ける.レポートは持ち込み可相談可制限時間数週間の試験のようなものなので期末試験よりレポートの方が楽
・単位不認定停学除籍などのペナルティがあるので剽窃などの不正行為は絶対にやらない
・教員は基本単位を認定したくてたまらない(落としても来年の受講生が増えるだけ)ので,なにがシラバスの到達目標を押さえたレポートを提出するなどをすれば単位は認定してくれる.一方でほとんど意味が無いどころか逆効果なので担当教員に単位くれとか言わない.そんなことするくらいならレボート頑張るなりして
ブロック機能についての話になると必ず「ブロック機能を使えば自分の見たいものしか見なくなる。世の中の多様性に無頓着になって自分にとって心地いいものしか受け入れなくなるから危険だ」というような批判を見る。これはそういう思想としては理解できるが、かなり極端な意見だと思う。物事を単純化しすぎた空理空論に見える。
特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況というのは、特定のSNS以外に人との関わりをまったく持たない場合が該当する。引きこもりかつ同居の家族と会話しないかつテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しないかつ特定のSNS以外でインターネットを利用しない場合がそれに当たる。こんな状況はほとんどの人とは関係がない。
「引きこもりかつ同居の家族と会話しないかつテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しないかつ特定のSNS以外でインターネットを利用しない」という特殊な引きこもり以外は、たとえ引きこもりであっても自分の見たい意見以外のものにも日常的に触れることになる。引きこもりは同居の家族と仲が悪い場合が多いし、たとえテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しない引きこもりであっても、インターネットを利用するときに特定のSNSだけやるということはあまりないだろう。多くの場合、各種ニュースやそれについての人々の反応といったものも嫌でも目にすることになる。特定のSNSでブロック機能を利用しているからといって自分の見ているインターネットから自分の気に入らない情報を完全に排除することはまずできない。
したがって、特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況について想定することは可能だが、実際にはほとんどの人に該当しない。
引きこもりですら特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況に居続けることは極めて困難であるので、引きこもりではない多くの人にとってはさらに難しくなる。特定のSNSでブロック機能を使うことは自分と意見の異なる他者と関わらないことを即座に意味するわけではない。
多くの人は特定のSNS以外にもインターネットを使っている。検索サイト、まとめサイト、雑誌や新聞社のサイト、趣味に関するサイト等々。特定のSNSでブロック機能を利用したところで、自分とは違う意見に触れる機会はインターネット上にも溢れている。
また多くの人はインターネット以外にも日常的にテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源(のどれか)にも触れている。当然そこには自分とは異なる意見が出てくることもある。嫌いなジャーナリストや嫌いなタレントや嫌いな作家などが問答無用に何の断りもなく出てくる。
また多くの人は働いていて、毎日他人とリアルに関わって生きている。毎日職場で嫌いな人間と顔を合わせ、駅では頭のおかしい人間が暴れているのを目撃するし、地元のガラの悪いヤンキーがギャーギャーうるさくて不快になったりもする。
これらのことから、特定のSNSでブロック機能を使ったからといって、即座に見たいものしか見えなくなる状況に陥るわけではないということがわかる。特定のSNSで自分の見たいものしか見えなくなるような操作をしたところで、見たくないものを自分の人生から完全に排除できるわけではない。
以上のようなことは考えなくてもわかることで、いちいち長々と説明するようなことではない。問題はなぜ「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張が人気なのかということだ。
世の中では単純でわかりやすく痛快なものは人気になりやすい。「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張もまたそういった風潮を反映したものだと言える。意見の異なる他者との関わりの頻度はイチかゼロかという問題ではなく、実際にはグラデーションになっている。特定のSNSでブロック機能を使うことが即座に意見の異なる他者との関わりが皆無であることを意味するわけではない。しかしこういう主張をする者はあえてそこを無視して極端に語る。「最終的にはこうなる」「ディストピアだ」と。
これは楽しい空想、思考実験であって、地に足のついた議論ではない。人は常に意見の異なる他者と関わっているわけでもなければ、意見の異なる他者とまったく関わらないわけでもない。特定のSNSでブロック機能を利用したところでそれは変わらない。特定のSNSでブロック機能を利用すると当該SNSにおいてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を軽減することはできるが、それは自分の人生においてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を排除することを意味しない。
ブロック機能の危険性について主張する者は特定のSNSと人生そのものを同じものとして扱っているように見える。しかしこれは極端な話だ。特定のSNSというのは人生におけるほんの一要素でしかない。彼らは一部を全体であるかのように見せかけているわけだ。だがそういった操作に心地よさを感じる人が多いのだろう。想像力の羽ばたきといったものは快楽だからだ。
人間の想像力は即座に「最終的にはこうなる」という状況に飛躍することができる。「特定のSNSで見たいものしか見ない人は人生においても見たいものしか見なくなっていくだろう」「自分と意見の異なる他者は排除するようになるだろう」「皆が排除におびえるようになるだろう」「皆が他人に気に入られるような言動を心がけるようになるだろう」「社会は窮屈になるだろう」等々。たしかに想像力は突き進む。しかし現実は理論通りにはいかない。現実は合理的ではないし、様々な思惑が入り乱れて予期せぬ結果を生む。最後まで突き進むたくましい想像力というのは実を言えば想像力の欠如と同じことなのだと思う。最後まで突き進むたくましい想像力は十分に想像力がないため、現実を図式化し、簡略化し、それで計算のすべてが間に合うと思い込んで次の段階に進んでいく。しかし現実は簡単な図式による簡単な計算では間に合わない。
問題なのは簡単な図式による簡単な計算を好む人が多いということなのだと思う。なぜなら地に足のついた議論をするのはめんどうだからだ。空理空論を楽しむ論者というのは「大体こんな感じになるよね? それってやばいよね?」こんな感じである。そしてこういった議論もどきが読者に好まれる。わかりやすく痛快だからだ。しかしそれはエンターテインメントであって、責任ある大人の議論ではない。「大体こんな感じになる」は大体そんな感じにはならないのだ。
これイジメっ子は大助かりだろ。
「単なる自意識過剰。お前ごとき〜」論法で相手を問答無用で黙らせられるだけじゃなく、周囲も同調してくれるんだからやりやすくて笑いが出るはず。
実際、「誰もお前なんか興味ない」でぐぬぬと黙らせたすぐそばから挙動真似して後ろで笑い者にする陰湿グループとか学生時代のあるあるだったわけじゃん。
だから「誰もお前なんかに興味ない」って「肩の力を抜いて」って意味のアドバイスでも言わないほうがいいと思うのですよ。定番のレトリック込みアドバイスにもはやなっちゃってるけど。
過去に集団ストーカーに加担したことがある身としては、「誰もお前のことなんか興味ない」が強すぎるフレーズになってる現状に危機感を覚える。
主人公の俺TSUEEEEEEE無双も、周囲の主人公に対するさすが主人公!!!!なウルトラ持ち上げ描写も、実は全然読んでも不快ではないことに最近ようやく気が付いた。
何が地雷だったって、挽回の機会一切なく、抱えている事情も全く語られず、ただ主人公に障害として断罪されてしまう敵役の存在なんだろう。
主人公を立てるために倒されるにしても、ただ主人公側に断罪される形で問答無用で殺されるよりかは、まだ今際に流石主人公だぜ…それでこそ俺の好敵手よとかなんとか主人公を直接的に持ち上げて、それを主人公が憎からず看取る方が、個人的には読後感が良いというか。
結局主人公が対立する敵役をきちんと認めているかどうかが大事なのかもしれない。結果的に俺TSUEEEEE描写の的であるとしても、主人公の「いやいやあいつも強かったからな」と一言台詞があるだけで、まあ主人公も頑張ってたもんなと個人的には全部許せてしまう。
横増田だけど、自分は人と会うと必ず何かしら褒めるようにしてる。なぜなら、褒められたら誰だって嬉しいものだからだ(わざとらしいのはダメだけど)。どんな人間でもどこかしら褒める要素はある。たとえば「絵」だけど、ある人が「絵を他人に見せる」という行為をしている時点で、それがどんなクオリティのものだろうと、自分は問答無用で何かしらの良いリアクションを返すようにしている。SNSをやってると、恐ろしく絵がヘタで小学生レベルの漫画絵を描いている人であっても褒められてる様子がそこかしこでみれる(傍目から見てると「そんな低次元なレベルで褒められて嬉しいのか?」と思うけど)。あれはある種の女子同士が会ったときに行う「◯◯ちゃん、今日もカワイイ〜!」「△△ちゃんこそカワイイ〜!」という社交辞令コミュニケーションなのだろう。「褒め」は当てにならない。自分の評価軸を作ろう。