はてなキーワード: ウエイトとは
前々から疑問に思っていたことだが、男性は「見る」という行為においても「見られる」という行為においても、加害者たり得る。
「見る」性犯罪の典型が「盗撮」であるし、「見られる」性犯罪の典型が「露出」である。
もちろんここで「男性」と書いたのは主語が大きすぎる & 偏見であり、妥当ではない。
当然ながら、女性の盗撮犯もいるし、女性の露出狂もいるだろう。
しかしながら、女性の場合は「男性の自慰行為を見る(窃視)」においても「男性に自慰行為を見せる(露出)」においても、どちらも性産業としての需要が極めて高い。
犯罪リスクを冒すまでもなく、協力してくれる変態野郎は山ほどいるし、それどころかそれでお金を稼ぐことだってできるだろう。
当然ながら、上記の文章についても主語デカ & 偏見で不適切なのは言うまでもない。
ところで、アダルト漫画では「男と女の性的観念を逆転させたらどうなるか」を思考実験する作品が多く見られる。
すなわち、童貞を捨てられて喜ぶ男 → 処女を失って喜ぶ女 の世界へと改変され、女性が積極的にセックスを持ちかけてくるようになる。
こうしたフィクション作品が成り立つのは、現実世界において男性と女声の持つ性的観念に「非対称性」が存在するからである。
(※そもそも、童貞を「捨てる」、処女を「失う」という言語的表現そのものが、性認識の非対称性を如実にあらわしている)
すなわち、見る―見られる行為に【加害】のウエイトが強くのしかかる性別と、見る―見られる行為に【被害】のウエイトが強くのしかかる性別とで二分されている。
痴漢や盗撮にしても「男性の被害者」はたしかに間違いなくこの世にいるし、事実、私(男)や私の友人(男)もじつは電車で痴漢被害にあったことがある。
しかしやはり、周りに言っても信じてもらえないというか、信じてもらえても理解は得られない空気が社会にはある。
もっとも、私や友人を痴漢した犯人はこれまた男性であったので、もしも痴漢してきた相手が女性であったなら「あれはご褒美だったな」と被害に対する感想が180度逆転してしまっていた可能性は否定できない。
そう考えると内心は複雑で、やはりうまくは表現できないが、「非対称性」と呼ぶより他ない、よくわからないモヤモヤとしたものを感ずる。
やがて、人類に性差がなくなって、みんなナメクジになってしまえば、男女間の不毛で殺伐とした対立、争い、あるいは救いようのない断絶は解消するのかもしれない。
しかしそれは当分先の話となるので、増田としては卑怯にも結論を保留とし、あとの議論はトラバ氏とブクマ氏の良心と見識に委ねることとしたい。
えーと、再々追記で言及された増田です。。。いや、トラバじゃなくて再々追記してくれるとは思わなかったのでちょっとビックリしました。。。
私としては、
返答だけど、
これを確認できただけでどうでも良いです。。。
私にとってはあなたは「現に迷惑」だし「話を噛み合わせる能力すらなく面白い話も全くできない奴が、ずーーーっと人に絡む」し「つまらないのに病的にしつこくて邪魔」だし「態度まで悪」いし、
つーかなんでお前は俺がお前に興味を持つ(それもお前の期待通りのウエイトの掛け方で)と思い込んでんだ?それがいじめの後遺症なのか?
「直に接する人間の負担や辛さを無視して負担を負わない立場から正義の味方ぶる」、うわぁ。。。
よく自分のエントリ内でそこまでブーメラン出来るなぁ。。。尊敬します。。。
私の方の元エントリに言及は10件しかありませんが、あなたとただの罵倒である1件を除けば、他8件の方は最後まで丁寧に返信に付き合ってくれたし、誠実に話をしてくれました。。。ブコメも同情的なものかためになったという趣旨のものが非常に多いです。。。あなたのブコメはよく知らんですけど。。。
あなたのような圧倒的少数の人のせいで、無関係の他人に突然唾を吐きかける方のせいで他人が被害を被る。。。そして他人に唾を吐きかける人間は当然の結果として圧倒的大多数に嫌われる。。。なんかどっかで聞いたことある話ですね。。。
「私は、子供を産みたくない。」と言った。
理由は2つある。1つは、自身の体に赤ちゃんを宿すというプレッシャーが嫌だ。という事だ。
もう1つは、彼女自身が親にレグレクトに近しい対応をされてきたのが原因で大きなウエイトを占めていた。
彼女自身はそんな過去を跳ね除け、成人する頃にはトラウマを克服出来たと思っていたらしい。
しかし実際は、悲しかった思い出を過去と割り切る程度で(自分もそういう育児しか出来ないのではないか…)との不安が近年思うようになってきたようだ。
そして、1年程度過ぎた。
お互い良い年齢だから。と前置きをした上で「子供がもし欲しいなら、私は家を出ようと思います。」と告げた。
それはネガティブな意味では無く、「あなたが子供を欲しいと思っているなら、その夢は叶える為に努力は出来ない。でも申し訳ないし、あなたの為に私が今の環境を諦めるしかない。」だ。
そして、それから1年過ぎた今年の夏。
親にその事実を告げ、「孫の顔は見せれない。」と軽く頭を下げた。
子供を作らないといけないのだろうか。作る事が親孝行なのか。(※不妊治療で悩まれている方が多くいらっしゃるという事は重々承知で、気分を害されたら申し訳ございません。)
しかし、自分達が老後になった時に看取る人が居ないのは少々酷なのか?という思いが徐々に強くなってきている。
お互いまだ30歳だ、まだ違えても再スタートは切れるんじゃないか。
似たような環境で、「あえて子供を作らない」と選択された方が居ましたら
その後の心境などを教えて頂けると参考になります。
スレッドがおちたようなので
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3pts*3 Rx ◆IRC1/LAAAk ID:FSqzumvX0 ID:w4yvecfG0
1pt*11 (♂・∀・)♂ ◆VVVF/4gFB. ◆l2OlydOOJM パブロフの猫 ◆bBexGCASrY
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ID:XbGY2qugd ID:eeGdOxo70 ID:xwI5pqYb0
・01 岡本太郎 おかもとたろう (22): ID:4J3vjaew0 13:27:213 ID:4J3vjaew0 おかもとたろう
・02 雪辱 (52): ID:FTHJOsbo0 13:29:01.62
・03 5 (83): ID:XbGY2qugd 13:29:53.95
・04 松坂大輔 まつざかだいすけ[→]1493526056.dat(104): ID:Wy8slpqa0 13:30:51.46
・05 3(番 (121): ID:FSqzumvX0 13:31:23.06
・06 捲土重来 けんどちょうらい#じゅうらい? (134): ID:w4yvecfG0 13:31:47.08
・07 荒俣宏 あらまたひろし (143): ID:FSqzumvX0 13:32:14.80
・08 槍ヶ岳 やりがたけ (161): ID:8EMAi4fG0 13:32:50.36
・09 ウエイト リフティング#重量挙げ (167): ID:8EMAi4fG0 13:33:15.70
・10 ベトナム (200): ID:8EMAi4fG0 13:33:50.08
・11 トーマス・)エジソン (221): ◆l2OlydOOJM 13:34:17.23
・12 群馬(県 (260): (♂・∀・)♂ ◆VVVF/4gFB. 13:34:58.40
・13 マメ(科 (293): ID:w4yvecfG0 13:35:32.16
・14 [3択]6 .24(年#歳 (352): ID:8EMAi4fG0 13:36:16.53
・15 G (372): ID:8EMAi4fG0 13:36:43.79
・16 三池崇史 みいけたかし (408): ID:9EZBdj34a 13:37:46.86
・17 6(番[大久保利通][→] (429): ID:FSqzumvX0 13:38:30.74
・19 ゾウ (497): ID:eeGdOxo70 13:40:03.63
・20 青森(県 (518): ID:8EMAi4fG0 13:40:39.23
・21 栄西 えいさい#ようさい (646): ID:w4yvecfG0 13:44:45.78
・22 第)2(学年#年生 (664): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:45:26.43
・23 煬帝 ようだい (696): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:45:54.80
・24 半沢直樹 はんざわなおき (724): パブロフの猫 ◆bBexGCASrY 13:46:25.25
・25 アメリカ#合衆国 (738): ID:8EMAi4fG0 13:46:49.87
・26 通分 (761): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:47:20.21
・27e マシュマロ (891): ID:xwI5pqYb0 13:49:35.04
・xx 牛久 市 うしく し (721): ID:GGrYU7hz0 13:52:01.96
テイジー同盟成立以来ずっと続いてきたともいえる
地軸がこけた。
そのため、地軸は傾きを安定させるウエイトに欠け、大きく変動する定めにあった。
戦争中も少しずつ少しずつ傾いていき、ついに文明の限界を超えた。
鯖鰈漁に出た漁師が悪態をつく。成立時点から漁業への依存が強かった増田アース人の文明は
やっぱりそれは冬眠を捨てていた悪影響だった。
最初から無理をしていた人々は、さらなる無理に耐えられなかったのだ。
生産量の低下に輸送をはじめとする社会システムの破綻がくわわり、
人民の冬眠時期を調整して食糧不足を緩和するなどの手を打った。
彼らが奮闘したおかげだった。
なお直接的な脅威がなくなったおかげで、モレツ帝国は「冬眠という呪い」から
物件を見てまわってるんだけど、みんなの意見を聞かせてほしい。
というのは、個人的に
「洗濯機と物干し竿は同じ階」であってほしい。
洗いたての洗濯物をもったまま階段を使って物干し竿まで向かう、という生活スタイルが想像できない。
だって、大変でしょう??
家族が増えればきっと今以上に洗濯機をまわす回数は多くなるだろうし、水を含んだ服は重い。
だからこの条件は、物件選びの希望の中でもそれなりのウエイトを占めている。
ただ、実際にいくつか物件を見てみると、
たとえば洗濯機を1階に設置して、2階に物干し竿をかけるという物件が多くある。
不思議だ。
僕の場合、子供が生まれたら奥さんが家に入ることになるだろうし、
そうなると奥さんが洗濯をすることも多くなりそう。
女性が洗濯物をもって階段を昇り降りするのって大変なんじゃないのかな。
物件検索サイトの「こだわり条件」の中にも、上記に類する条件がないのであまり需要はないんだろうか。
みんなの考え、その理由を教えてください。
よく「○○の××って△△が手がけてたのか!それでこんな風になってるのかー」って感心することがあるよね。
Nintendo Switch は中身にNVIDIAががっつり関わっててて、WiiUや3DSの後継と言うよりは任天堂が仕上げた新型のSHIELDみたいな雰囲気じゃないですか。ついにゲーム機の世界でもこういうパターンが来たかと。
ところがSwitchという実例が出てきた途端に似たような事例がさっぱり思いつかなくなってしまった。
今回の任天堂とNVIDIAみたいな組み合わせって過去にどんなものがあったんだろうか。協業というかやたら堂々とした下請けというか。
なんとか絞り出したのが「トヨタ2000GT」(ほとんどヤマハが開発)なんだけど、古い上にヤマハのウエイトがでかすぎるのでちょっと合わない気もするし。
似たような例があれば教えてください。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
まだ見てくれているかな・・・?①について補足すると言って時間が経ってしまいましたね。遅くなってしまいゴメンなさい。
※ラブライブ!論争の流れは下記のページにまとめました。興味のある方はご覧ください。
http://kato19.blogspot.jp/2016/04/lovelive-hihan.html#nagare
正直なところ『逃げていた』っていうのはあります(笑)やっぱり大好きな作品を納得いかない理由でけなされるのはストレスが溜まるものですからね。でも、ずっと小骨が引っかかっているような気分でいましたので何度か読んでは感じたことを書き留めてまとめました。
既に多少批判派が増えてもうんざりするほど思考停止の絶賛派のファンであふれかえっている状態で何故絶賛派は未見の人がアニメラブライブ批判派になることについてそこまで敏感になり、怖がる態度を見せるのかという部分が気になりました。
これは今だから思うのですが、当時の自分の感覚としては、本当に怖いというか危機感を持っていたんですよね。増田氏とは観測範囲が違うのかもしれませんが、今も当時も増田氏が言うほど絶賛派が多いとは思いません(あくまで劇場版についてです)。検索では完全否定派のブログも目立ちますし、完全否定ではないですが批判的な内容のブログも少なくないと思います。しかし当時は絶賛派の感想がひと段落した後も、ときおり注目されるのは否定的な言説で・・・このままだとアニメ史において駄作として記録されるかもしれないという危機感はありました。(増田氏は正反対に絶賛で記録されるのが許せなかったのでしょうが・・・)つまりお互い同じような危機感を持っていたのかもしれません。とはいえ、増田氏のような原作派(初期作品群派)は確かに少数でしたので『多勢に無勢』感というのはあったのでしょう。私としては大勢いる批判派の一派という感覚で十把一絡げにしてしまったところはあります。そのあたりは認識不足でした。
とありますが、自分が記事を投稿したのも最近の間に留まる話ですし、そんなに熱心な批判派が存在するような心当たりがないのですが…。
おっしゃる通り、ネガティブ派を単なるアンチも含めて大雑把に捉えていたことは反省しています。個人としてある程度継続的に批判意見を提供していたのは、おりあそ氏(ともう一人いたのですが失念)ぐらいかもしれませんね。とはいえ、当時は肌感覚として否定的なイメージで塗りつぶされる恐れを感じていました。(増田氏にとってはアニメ版によって初期作品の設定などが塗りつぶされるという恐れがあったわけで・・・サンシャインが放映されている現在ではその感覚をさらに強くしているのかもしれませんね。)ただ私が増田氏に強く反応したのは、明らかに誤解している点(絶賛派はウソをついている)を否定したかったからです。
強調されている『海外ドラマのパクリ疑惑』について真偽の検証はしていません。しかし仮に盗用されていたとして『だから駄作』なのでしょうかね?当該作品は未見ですが有名作品だとすれば、それに似ていると言うことは逆に面白いということの証左になってしまいます。海外ドラマのファンなら白けるのもわからなくはないですが、見ていない人にとっては『だから駄作だ』といわれても、それこそ内容と関係ないじゃん?と感じるわけです。『よく似た脚本の海外ドラマがあってそちらはもっと面白いよ』と言われて『じゃあそちらも見てみるか』ということがあっても、『よく似た脚本の海外ドラマがあってそちらはもっと面白い。だからこのアニメは面白くない』といわれても、それは別の問題です。
ラブライブが好きなら検証する義務があるのでしょうか?視聴者にそんな義務があるはずもありません。問題があるとすれば製作側の問題で、面白いと感じたファンが何か対応する話ではないはずです。なぜ増田氏がそこに拘泥するのか?それはやはり、自分の愛する初期作品が『盗作』などという行為に汚されたという『怒り』や『不快感』なわけでしょう。原点が初期作品群であり、アニメ1期から強い否定感情のある増田氏にとって、2期はもう内容云々の問題じゃないわけです。
結局の所、絶賛派は作品内容の是非がどうであれ布教をしたい、ファンである状態を共有したいというのが強く、作品を批判する人を減らしたいというのが最前面にきているのではという疑念が深まったような感があります。
『作品内容の是非がどうであれ布教をしたい』これは明らかに間違いです。繰り返しになって恐縮ですが、少なくとも自分は素直に素晴らしい出来だと感動したのですから。ただ、そう思わない人がいたとしてその人の感覚が間違っているとは言いません。しかし自分にとっては間違いなく真実なわけですよ。『ファンである状態を共有したい』ここが増田氏の論理の最も疑問な点ですが、これは私たち絶賛派よりもむしろ『中間的な層』(劇場版はついていけなかったけどイベントの一環として楽しんだ層)にいる可能性はあると思います。増田氏はそういう中間層も絶賛派に加えているのかもしれません。だから絶賛派である自分は、ラブライブ!ファンの中でも多数派ではない感覚があるのかもしれませんね。繰り返しになりますが『ファンでありたいために駄作を傑作と思い込もうとしている』などということはありえません。本当に傑作だと思っているのですから。具体的な点は以前ブログに書いた通りです。その感動が甘い・幼稚だというならともかく、嘘をついていると言うニュアンスになると間違っているとしか言いようがないです。
『作品を批判する人を減らしたい』これは当たらずも遠からずです。最初に書いた通り、批判派はこの作品を『駄作』として後世に伝えようとしているように見えたのです。絶賛派が一通り感想をあげた後、上塗りするよいうに駄作のレッテルを貼っていく。劇場版を見ていない多くの人は分かりやすいレッテルに影響されます。はっきり言って劇場版は『難解な作品』です。なんの準備もなく初見で見れば理解不能です。それだけに、今後のアニメファンに誤解した歴史が伝わって欲しくなかったのです。増田氏の言うような歴史、つまり『絶賛している人も本心では駄作だと思っていたのにラブライバーでありたいがために絶賛していた』などという明らかに間違った認識が広まらないようにしたかったのです。もちろん発言は自由ですがら、私としてはきちんと反論を公開しておく事でバランスを取りたかったのです。
いや、そこまでは言ってないのですが・・・面白くないなら(嫌いなら)仕方ないですよ。でも絶賛派をおかしい人呼ばわりすることに反論しているわけです。盗作問題と面白いと思う感情は別。目をそらしていると言われればそうなのかもしれませんが、絶賛したファンに『直視して反省せよ』というのでしょうか?まあ、本音を言えば私は劇場版の絶賛派でTV2期の心理的ウエイトは低いのが正直な所でもありますけどね。それよりも、増田の本当の目的は『初期作品の擁護』であって、そのためにアニメ版の粗探しをしているのは明白なわけです。だから私は増田氏が本当の目的である『初期作品の良さを広める活動』に徹するべきだと主張したのです。
初期作品を愛する増田氏から見て、ある意味『乗っ取ってしまったような形』になったことは申し訳ないなぁとおもいつつも、アニメ版が初期設定と連動していない問題と、アニメ版の評価(特に劇場版)は別にしてもらいたいなぁと思います。そうは言っても感情的に割り切れないとは思いますが、私はアニメ作品としてのラブライブであり、劇場版はその流れの到達点として捉えているので。
その点については正直ホッとしているのですが、そこが論点にならないとすると、結局は譲れない根本問題になってしまいますね。増田氏の言うとおり、私はたしかに初期作品群の『ラブライブ!』を全くと言っていいほど考慮していません。しかしそれを『蔑視につながっている』は飛躍のしすぎでしょう。差別はされている方が感じることだとは思いますが、申し訳ないが蔑むような気持ちはありません。無視すること自体が蔑視であるというなら仕方ありませんが・・・。ですから私は、増田氏は思うところをポジティブにアピールして欲しいと主張していたのです。
あと、レストランの喩えは恣意的すぎるように思います。『この例えにおいては料理の種類や味というのが作品の物語性やキャラクター』っていうのもいくらでも言い換え可能です。1歩譲って小説ならともかく『アニメ作品』においてどれが一番重要かなんて切り分けることに意味を感じません。特に劇場版においては、多少整合性に疑問があったとしても適当に補完できる程度の問題なわけで・・・まあ、また堂々巡りになってしまいますが。増田氏のこだわりは残念ながら理解できません。
結局のところ『お互い理解できない』で終わってしまうのは仕方ないのですが・・・もし後世の人がこれを読んだとして、これだけの極端な絶賛と批判がある作品だった事は知って欲しいかもしれません。とても一言では片付けられない・・・色んな思いが乗っかった作品(群)でした。
最近、多少揶揄的なニュアンスと予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。
なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮は自由闊達な表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。
しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。
たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、
過度にアニメの制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死なタイプの消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。
(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者を批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。
また、前者であれば最適化・後者であれば肯定的なスタンスが無意味であると断じたいわけでもない。
むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。
ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志をピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)
さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。
たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。
(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。
ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲームの癒着は多少解消されると僕は考えている。
とはいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)
しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、
ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。
するとつまり「経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、
「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。
(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。
とはいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識の考察だと考えてもらって差し支えない。)
ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)
正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか。
いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。
しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。
なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?
程よく住み分けることはできないのだろうか?
これは裏を返していえば、あらゆる価値判断のメタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?
しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?