はてなキーワード: アナーキーとは
アメリカじゃファッションなのにってよく聞くけどファッションだから良いとか悪いじゃない
眉間に皺寄せる人も口に出さないけど態度変わる人も全否定してる人もいるし
ファッションってたぶん日本のピアスぐらいの感じで言ってると思うけどタトゥーはタトゥーだし
デザイン・サイズ・場所でインプラントや日本での和彫りと同じぐらい差別的な偏見もある
若い子がやりたいって言ったらステレオタイプで親はたしなめるものだし出来ないし
アーティストや有名人で無いとか見た人がそれを知らないとそういう目で見られることも少なくない
日本で聞くようなアメリカでもレベル低い人がする認識だっていうのはさすがに違うけど
レベルではないけど職業で許される範囲に偏りはあってそれがいいイメージ悪いイメージ両方の職業にあるから
タトゥーする事がレベル低いとかじゃないけどどっちにしても堅実なイメージはあまり持たれないのはそうだと思う
あくまで初対面でだけど
何かメンタリティ強く見せなきゃいけない見せたい人って偏見はみんな自覚無くあると思うし
日本でも映画やドラマ見てればどういう偏見かなんとなく分かると思うけど
タトゥーの人間はそういう風に描かれる事少なくないしアナーキーに見せるためにメイクで足したり
元々ファッション自体でどんな人間か判断される部分もあって日本よりファッションの意味が強くて厳格だから
TPOや職でトゥーマッチだって場の空気読めない人間扱いもあるし
ファッション自体を理由に評価は下げられないけど言い方変わるだけだから
もっと相応しい別のキャリアがあるっていうのは日本のご縁が無かったに通じる
ファッションだから評価に晒されるし直接は言わないけどいない所やSNSじゃ物凄く言われてたりする
基本は主張の社会だしファッションだけどベーシックではないから意味や理由があると考える
日本でもポイントのタトゥーと背中の和彫りで印象が違うのと同じでデザインやサイズは大きいし
日本ではただのライトなデザインでもアメリカではそうじゃないと思われる
でもタトゥーは文化を担う一つでファッションだけじゃなくいいなって所も本当にたくさんあって
偏見もあるけど寛容さも同じくらいあるしそこが日本には足りなくてアメリカと比べて理解ないのもそうなんだけど
私はファッションの持つ開放感では全然日本だから(自由度じゃない)
ファッションて言葉の意味をそんな日本での自由やポジティブな意味であまりにも取り過ぎ
それが凄くもやもやする
夢いっぱいで日本の外はユートピアぐらいで言われると私も日本よくなってけばいいねってつい言ってしまうけど
その後若干の自己嫌悪になる
嘘も悪い事も言ってる訳じゃないしアメリカがそうじゃないって事でもないけど
立場のある(特に日本に来てるような)ショーやメディアが社会でお手本でいる役目から配慮も凄い強いし
求められてる所もあるし
言ってしまえば上澄みだけを日本で見ているなら素晴らしいって思うだろうし
メディア含めて低い所の話通じないヤバさも日本は比較にならないし
上の人たちの意識や意欲の高さはその切実さから生まれてる所もあるから
簡単に向こうが上とか言うの失礼でしょって思う
タトゥーが手放しで肯定されてる社会みたいな誤解もスターがガンガンに入れてるのを見てスターだからいれてるのをスターなのにいれてるって見てるからで
イメージによってはデザインや入れ初めにファンがショック受けるのもあるけど
そういうスターたちが番組で同じようにガンガンの一般人に「あなたのタトゥーステキね」って声かける姿も珍しくなくて
偏見持たれるファッションや髪でもそうだけどスターの役目での視聴者へのメッセージの意味もあって
「それは差別になる/あり得ない」って聞くと思うけど
それも言ってる感覚としてはお手本になる人をモデルとした良い人間に許される範囲での事で
そこに含まれない現実の問題は表してないし自分の言葉や行動が差別だってわかってて開き直って相手を差別されるべきようにする人間もそこにはいるから
分からないとそのままに平均的な感覚に受け取ってしまうだろうし
何が差別・偏見になるのかの正しさ以上に自分の中の理想的な社会をそこに見てしまうのかな
それは原宿の文化生見て日本をファッションの自由の国って思う子と同じで
完全に間違ってるわけじゃないって意味でも
日本に来るそういう子たちのタトゥーやファッションが旅行者だから許容されるのも同じで向こうもそうだから
長く住んでも文化が違う国出身の相手だとそれあるし保守的な人も別の国の話ならどこか関係ないと思っていつもよりスルーする
自分の周りに影響するとそうじゃないけど
それは本当の意味で受け入れてるわけじゃなくて
もしかしたら何の偏見にもあわず思い通りの生活を送れるかもしれないし
それでいいのかもしれないし
書いたような事言うのは簡単だけど別に自由じゃないよ日本と同じだよって言いたいわけじゃないし
そう見えると思うけど
むしろ比べられないのにって
比べたけど
もし日本より酷い偏見や差別の問題があってもそれが自由がない事じゃなくて
だけど日本で見てるアメリカの問題の山とアメリカでの山は同じに見えて違う
日本から見てアメリカも自由ないんだって思ってもアメリカの自由だったりするし
それは逆もだし
話聞いたり見たりしてもし思ってたのと違ってもそれは元々想像してた単位が違うからで
そこで定規で測ってみて数が小さく出てもそれが重さでの数の大きさを否定するものじゃない
わけわかんないかな
説明難しい
アメリカの赤を日本の赤だと思って見ると赤じゃないって思うかもしれない
だけどそれは赤なんだよって
日本とアメリカそれぞれの土地で赤のキレイさもキレイって言葉のイメージもそれぞれ違って
アメリカの赤のキレイさを日本の赤のキレイさと思ってる人には色の違いを説明したいし
それを知らないままアメリカは赤キレイなんだよねって言ってたらアメリカの赤がどんな赤か知ってから言って欲しい
書いた話はそういう意味
それでその人がキレイじゃないと思ってる日本の赤に似てる所があってアメリカはキレイな赤じゃないって思われるのは嫌だけど
アメリカの赤を勘違いされたままアメリカの赤はキレイって言ってる気持ち悪さも嫌で
そういうのを言いたいけどうまく言えなくて
長く書いてもこんなだし
日本もキレイな赤になればいいねって言って流す自分に落ち込む感じ
読み返しても伝わらなさそうだな
伝えられるなら愚痴でこんなの書いてないんだけど
嫌になる
職場における女性が従軍慰安婦的な扱いになっていて、仕事のストレスは女性社員(あるいは取引先とか周辺の女性)で発散、みたいな構図になっている。
昭和の日本ってやばい国だったんだよね。仕事中にセクハラして愛人作って、それで経済大国で、ジャパン・アズ・ナンバーワンだぜ、ってとんでもないアナーキーな国だったんだよね。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』って映画があったけど、かつての日本って国全体があの映画みたいな状態だったわけだよね。
島耕作って今後はそういう風に読まれるようになると思うよ。経済成長していたころの日本がいかに無秩序だったか、って。極東のアジアに、とんでもない国があったんだよね。
昭和がひどくて、今は開化されている、というのは、いわゆる切断操作っぽい立ち位置にみえるんだけど、ほんとかな。
確かに、昭和のほうが、猥雑なもの、汚いものがよく目についた。
新宿から歌舞伎町あたりを歩くと、そこらじゅう吸い殻や空き缶、チラシ、ガムが落ちていた。
今の時代は、表面的にはきれいになってきているけど、暗部がますます見えにくくなっているだけじゃないのかな。
歌舞伎町浄化作戦の頃、店舗型風俗が消えて、派遣型になったあたりが時代の境目で象徴的だと思う。
技能実習生は徴用工問題と地続きだと思うし、セックスワーカーの性奴隷的な扱いについても、
興行ビザで入国するアジアの女性たちが、慰安婦の時代よりマシなのか疑問に思うところもある。
貧困からセックスワーカーになるプロセスはそれほど改善されているようでもなさそうだし。
性の消費という観点からみればポルノもずいぶん様変わりしたけど、昭和の時代よりよくなったとはとても思えない。
ポルノ映画館は化石となり、街はきれいになったかもしれないけど、パソコンを開けばネット上に日々あふれかえるポルノがある。
それこそ昭和の比ではないのだけど、わいせつなものが表にでてこなくなったので、もはや公権力が管理する術がなくなっただけ。
そういうのを秩序だった社会とは誰もいわないと思う。
今はただ、昭和ほど現実を作品として可視化しにくいのだろうか。今のリアルな現実を映し出す作品が脚光を浴びていないだけなんじゃないかな。
刃牙といえば国民的漫画といっていいほど知られてると思うが、今読むとこの漫画はかなりやばい。
死刑囚はみんな武器もって口から手榴弾とかだすし空手家は手刀でピアノ線切るし、仕事と暴力の解消が不可分になっている。
これがある種の世代のメンタリティになってると思う。公園いればそれが免罪符になって本部以蔵が強くもいいだろうと。
というか、前シリーズにおける強キャラがカマセ的な扱いになっていて、仕事のストレスは草や木(愚地独歩です・・・なんだァ?てめェ・・・)で発散、みたいな構図になっている。
刃牙は漫画だけど、でもこれってある種の現実を反映していると思うんだよね。最強の受刑者であれば、刑務所をどう出入りしていいと思っている人って、いるでしょう?
今だって力士や中国拳法に手を出したり、武蔵をイタコで復活させ対戦相手にしたりといった話はいくらでもあるのね。で、昭和はもっとやばかったんだよね。
昭和の日本ってやばい国だったんだよね。地上最強の男がセクハラして愛人作って、それでジャック・ハンマで、アメリカ大統領が宣誓だぜ、ってとんでもないアナーキーな国だったんだよね。
『ストリートファイター ザ・ムービー』って映画があったけど、かつての日本って国全体があの映画みたいな状態だったわけだよね。
刃牙って今後はそういう風に読まれるようになると思うよ。経済成長していたころの日本がいかに無秩序だったか、って。極東のアジアに、とんでもない国があったんだよね。
島耕作といえば国民的漫画といっていいほど知られてると思うが、今読むとこの漫画はかなりやばい。
会社の役員はみんな愛人もっているし管理職はセクハラしているし、仕事と性欲の解消が不可分になっている。
これがある種の世代のメンタリティになってると思う。仕事していればそれが免罪符になって女性を性的に搾取してもいいだろうと。
というか、職場における女性が従軍慰安婦的な扱いになっていて、仕事のストレスは女性社員(あるいは取引先とか周辺の女性)で発散、みたいな構図になっている。
島耕作は漫画だけど、でもこれってある種の現実を反映していると思うんだよね。仕事ができれば、女性をどうとでもしていいと思っている人って、いるでしょう?
今だって派遣社員や就活生に手を出したり、社内の女性を不倫相手にしたりといった話はいくらでもあるのね。で、昭和はもっとやばかったんだよね。
昭和の日本ってやばい国だったんだよね。仕事中にセクハラして愛人作って、それで経済大国で、ジャパン・アズ・ナンバーワンだぜ、ってとんでもないアナーキーな国だったんだよね。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』って映画があったけど、かつての日本って国全体があの映画みたいな状態だったわけだよね。
島耕作って今後はそういう風に読まれるようになると思うよ。経済成長していたころの日本がいかに無秩序だったか、って。極東のアジアに、とんでもない国があったんだよね。
葬式BGMを考える増田を眺めていて、BGM遊びでさえ葬式不要論が出てきて、まぁはてならしいと言えばそれまでだが。
確か数年前、業者に頼まず自分で親を見送った増田のレポートがあった記憶があるが、ああいうものはあれでいてかなりシステマティックに世の中の仕組みができていて、業者に依頼しない=仕組みに乗らないで遺体を焼くのは割と面倒そうだった記憶がある。
この頃は葬式業者もお手軽パックもあるみたいだが、何だかんだでそれなりにしようとなるとお得感が無くなる、オプションなしだとかなり質が下がるという話もあるし、それほど簡単ではないかもしれない。まぁ彼らも商売だから阿漕だなとは思うが仕方ないだろう、商売とは基本的に阿漕なものだ。
簡単に死んで簡単に野ざらしになれればさっぱりして良いなと思うが、残念ながら妙なところで現代社会には「ある種の厄介さ」があり、それを良いことだとも思ってはいないが、ことに生き死ににかかる諸々は出来上がってるシステムに乗ると割と楽だし人と違うことをすると悪目立ちしやすいという困ったところがあるのだ。
増田は親を二人見送ったが、多少金がかかっても出来上がっているシステムで楽をする方を選んだ。
親のうちひとりは病気で亡くなったのだが、死ぬ前の1か月はだんだん意思が柔らかく緩くなっていき、元気な時は「葬式無用 戒名不要」とか「その辺に灰を撒いてほしい」とか言っていたが、最期の病床では墓のことなどをぽつりぽつりと言いだすようになった。家庭の事情が若干複雑で、ある墓を引き継がざるを得なかったのだがその引継ぎについて口が煩いだけの親戚から了承を取る必要があり、まだ元気なころは墓はつぶす葬式もいらんお前たちも家を継ぐなんて考えなくていい、など言っていたのが、私に煩い親戚からの墓引継ぎの了承を取ってほしいと頼んできて驚いた。元気なころは生まれや世代からしたら相当アナーキーな考え方をしていた人だったので、本当にいいのか、別の方法(散骨など)も考えられるがと聞き返したが、それでいいんだ、と言っていた。もう死んでしまったので本意は分からないが恐らく「それで(お前たちが楽な方が)いいんだ」ということだったのだろうと思っている。
もう一人の親は自宅での突然死だったので、もう色々(警察が来たりする)大変で、そのまま業者に頼むほうが気持ちも体も楽だった。というか詳しい人が助けてくれるのが金払ってでも有り難かった。検死も必要だし死亡診断書がないと焼き場の手続きが進まないし焼き場の予約も混雑してたこともあり時間が結構かかって、ボディが腐らないかという心配がかなり頭の多くを占めていた記憶がある。先に死んだ親が墓問題を己が死に引き受けたくれたおかげで余計なことを一つ考えずに済んだのがありがたかった。
検死の結果、自然死だったわけだが、病院で死なないというだけでこれだけ手続きが面倒になるのか、そして病院(や誰か看取る人がいる場所)で死なないとこれだけ面倒なのかとかなり身と心を削られた。オフィシャルに死なない(医者などが看取らない)ということは、誰かが疑いの目で見るということだ。警察などからしたら疑うこともなさそうなのが一目瞭然であっても念のため疑わざるを得ないし、遠巻きの第三者はそのような「念のため」をすっ飛ばして、残った我々に色々な憶測を割と無遠慮に投げつけてきたりすることもある。親族などに親の死を連絡をする時はこういうフレーズだと角も立たずこちらも苦しくないです、と教えてくれたのも面白く、ありがたかった。儀礼やコミュニティにおける知恵が企業によりマニュアル化されている面白さ。
身内が死んで1か月ぐらいは、なんていうか、生きている側であるこちらも生死の境にいるようなところがある。頭が回らないし究極の非日常でもある。そういう「境目」にいると体の負担も心の負担もかなり大きい。
業者に頼むと大抵のことは業者がやってくれて、ご遺族様なんて様付で呼ばれて下にも置かない扱いを受ける。参列者がまばらになった通夜ぶるまいの席で親族や親の友人知人たちにお礼を言って回っていて、気が付いたらまる2日たいしたものを食べてないな…とごちそうの名残を眺めていたら、業者が私たち「ご遺族様」用に別に美味しそうにきちんと整えられた食事を用意してくれていたのがありがたかった。まぁそういう気遣いが商売なのだろう。
親ふたりの葬式にはそれぞれ彼らが生きていた時によく聞いていたCDを自宅から持ってきてBGMにしてもらった。
どちらの葬式も業者の葬式会場で行ったが、通夜の日から翌日の夕方に骨壺になって帰ってくるまでの1日半程度は葬式会場がベース基地になる。勝手の分からないベース基地で、言葉は悪いが良い感じの時間つぶしが必要だった。スマホではてブなんかは、やはり見る気にはなかなかなれない。SNSも、動画サイトも、自分たち大人はもちろん、子供たちもあまり見たい感じではない様子だった。休んでいる間の仕事のやり取りでメールや電話をしても、なんていうかしんどい。確認メールを1本入れるにも、気持ちを整えて橋を渡ってまた橋を渡って戻ってくるというような隔絶感があった。
TVも置いてあったがこれもやはり見る気になかなかなれず、そしてクタクタのはずなのだがちっとも眠くならない。通夜番(とはいえ線香も一晩通して火が消えない蚊取り線香のようなぐるぐるした線香があったり(仏式です)と番をするような必要もないのだ)で残ってくれたごく親しい身内親族がいたこともあって、ふと思いついて実家に一度戻って、親が好んで聞いていたCDを何枚か持ってきて、会場の音響設備を使わせてもらって聞いてみたら良かったのだ。
親と趣味を共有していたからということもあるが、この曲好きだったねとか、このCDは家族でドライブに行くときにはいつも持って行ってたよねとか、そういう話ができたのも良かった。そしたら業者がお好きな曲を流せますと言うのでそのまま持ってきたCDを葬式にもかけてもらった。見送られる人も、そして何より見送る人も聞きなれた音楽が流れてたのは思いのほか、久しぶりに肺に空気が入ったような悪くない感じだった。
この辺はただの好みの問題だが、業者が用意しているBGMは、ふやぁ~ん系ニューエイジ風の環境音楽みたいなヤツとか耳に残らないようなクラシックの室内楽とか当たり障りのないもので、ずーっと聞いてると逆に耳に障った。当たり障りのない音の方が良いという人も居るだろうと思うが。無音はかなりしんどいと思う。周囲が虫の声とカエルの合唱みたいなところなら良いのかもしれないが、何らかの街のノイズがいちいち気になった。
これはほとんどの人がそうだろうと思うが、ネットやTVラジオ等もほとんどの「日常情報」はしんどくなると思っておいていいと思う。なんていうかすごくしんどかった、「橋の向こうにある日常」が。
あとは業者にもよるだろうが、業者の言うままにすると、妙に感動的な当たり障りのない美辞麗句の式次第アナウンスとともに当たり障りのない感動音楽を流す感じだった。葬式内容の打合せで試しに聞かせてもらったのだが、こんなん葬式コントみたいだと笑っちゃいそうだったので葬式コント化を免れたのは結果的にすごくよかった。この辺は結婚式をオールお仕着せでやるとギャーってなるのと同じ感じかもしれない。
何も知らずにログインしたけど 何を書くやら 何で書くやら
それがごっちゃになりまして
ワイほんまによう書けんわ ワイほんまによう書けんわ
ワイほんまによう書けんわ ワイほんまによう書けんわ
スペース空けたら 悪目立ちすると思うだけ
ワイほんまによう書けんわ ワイほんまによう書けんわ
なんぼかバズるやろ
ワイほんまによう書けんわ
恐ろし 恐ろし 恐ろし 恐ろし
ああ 恐ろし
お子さん お子さん お子さん お子さん
お子さん お子さん お子さん お子さん
お子さん お子さん お子さん お子さん
ワシャ ろう者で聞こえまへん
ワイほんまによう書けんわ ワイほんまによう書けんわ
そんなら 向かいのおばはんよ
ちょっとお題だけ おくんなはれ
ノートを出したら おばあはん
これまたイメクラ こけまへん
嘘マジ半分 妙ちきりん
ワイほんまによう書けんわ ワイほんまによう書けんわ
あと一つは?
『第二陣の勝負は……』
「おい、いきなり変えるなよ。第二陣の結果がまだだったのに」
確かにそうだが、それでもキリの悪いところでやられたら気持ち悪い。
「どうしても結果を知りたいなら、ネットとかで検索すれば分かることじゃん」
別にそこまでして知りたいことでもないんだよなあ。
中1のころミーケンはいろいろトラブル起こした脚折ったときに付き添ってるとどこでもタクシーで行けた、ある日を境に無視されるようになった。キンには嫌われていることを知ってたんだけど中3でまた同じクラスになったら車椅子の同級生をずっとサポートするようなヤツだった、同じ高校受けたけど落ちてた。チクリンはCB無線とハガキ職人でなかなかの頭角とのウワサ。中2のころシー君は漫画が好きだった、黒板に大きく書いたゴア{担任}の似顔絵とかガンダムには憧れた。シゲは誰かの言ったオモシロをイチイチ大声で言うのでスピーカーと呼んだ。ヤンケとイシーとなんか4人組、赤のスイングトップはオレだけ買わなかった。扱い辛い子はクラスを分散されてたけど中3のそいつはアナーキーのギグにハマってた、授業中にいろいろ話す女子はキヨシローをカワイイと言っていてジミヘンの写真を下敷きに挟み込んでた、エツコの家は校区の外だった。15歳の誕生日にはスイ部メンバーがサプライズでハッピバースデーを合奏してくれたんだぜ。
少林拳で培った驚異的な身体能力を持つ主人公がラクロスに挑戦するもチームプレーがうまくできず一旦の挫折するのよ。
そんな主人公がラクロス以外のある意外な活動を通じてチームプレーを学ぶのよ。ここまでは映画とかでよくある展開ですよ。正直。
でもねその意外なラクロス以外の活動ていうのが、なんとサッカーなのよ。斬新。
サッカーとラクロスそもそも滅茶似てるじゃんってね。普通の映画だと、一見何の関係もない事から学ぶじゃない。
でもね少林少女はそんなお約束に縛られないわけ。ラクロスに必要なチームワークはサッカーから学ぶわけ。斬新。
サッカーから学べるならラクロスからダイレクトに学べよなんて批判は野暮なわけ。
映画全体も一般的な映画のお約束に全く縛られないスーパーアナーキーな仕上がりになってるの。
この怪作は後世に語り継がれていかなければけないと思うわけよ。
それはウヨサヨ以前の単なる相対主義(あるいは冷笑主義)かなあ。
実際に、世界は残酷でバンバン人死ぬ系の話だと政府権力も無力に描かれるからファシズム的ロマンも成立しがたい。
そういう世界観だけどハッピーエンドを目指す作品だと、世界は残酷だからこそ助け合いのヒューマニズムが必要って話になるし。
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その手の作品だと、たとえば『がっこうぐらし』はウヨ的ともサヨ的とも言えん、ただのサバイバル話。敵は人間ではなく疫病(自然災害)だから。
元祖の映画『ゾンビ』のアナーキーで無法な廃墟の風景は、ベトナム戦争敗北後のアメリカの、一種の「平和で豊かな強国アメリカへの幻滅」が背景にあるとか言われるけど。