はてなキーワード: 帰国子女とは
最近また就職活動に関して書かれたものを見るようになったので何となく書いとく。
で、自分が自分なりの経験と周りの言ってることを合わせて色々と重要なことがあるのでそのへんを。
まず、強調してもしきれないところがあるので書いとくけどさ
諦めない
これ。
いや本当なんかもうちょっとこれ頭に叩きこまなきゃいかん。日本は新卒採用至上主義だから。日本は新卒採用至上主義だから。
もうね。もしわからないんなら、新卒でこぼれたらどうなるかの末路を今すぐここを離れてGoogleで調べてみるべきだ。就職活動自体がクソみたいなゲーム?そうだ。その指摘自体は正しいかもしれない。だが残念な事実だけれど、その指摘をしたところでその残念なゲームを避けながらあなたの人生をより良くする方法は残念ながらないみたいだ。なので、もしそれを強く思うのであれば、なおさら、そのゲームでよいスコアを残し、よい職についてまともな社会的地位を得た上で、もう一度それを訴えながら社会に影響をあたえることを試みるべきだ。
さて、長くなったけれど、この点はおさえていてほしい。それでも諦めたくなることがある?そうかもしれない。実際就職活動はとても不条理なゲームだ。努力を行ったところでスコアが上がる程度はおそらく知れているし、元々そのゲームのスコア自体がほとんど運に任されている。実際に就職活動を終えた人の声を聞いてみたらいい。あれはほとんど運だった、とみんな口を揃えて言うはずだ。一部にとんでもないハイスコアを残す人がいるだろう。でもおそらくそういった人は、トップクラスの学歴だったり、帰国子女だったり、体育会で実績を残していたりなどなど、可視化されたわかりやすいシグナルがあるに過ぎない。そういったものを持たないほとんどの人達にとって、やはりこのゲームは運にまかせることになる。
では何が言いたいのかというと、これはもう、結果出すには数当たるしかないってことなんだよ。単純に打席×打率で成績が決まる。で、打率の部分は自分の能力値にとんでもなく秀でたもの(又は極端なマイナスポイント)が無い限り、大差ないことになる。
のでひたすら打席数を増やすしか無い。ここで重要なのは、もうひたすら運であると、完全に割りきって、自分が否定された感覚を持ち過ぎないことだ。自分も経験があるのでとても理解できる。お祈り、なんてものはなんだか全人格を否定されているような気分になるものだけれど、そうじゃない。採用の枠が決まっていて、例えば10人の枠に100人が応募しているとする、そうならば自分がその10人に入る確率は単純に10分の1なんだよね。そこに特別にアピールできるものが無い中で挑めばそれはもちろん確率のゲームとして打率は一割だ。けれども感情が生じる。自分は否定された、自分には価値がない、だとか。そうではない、単純にそういうゲームなのだから、静かに音楽が流れる椅子取りゲームでタイミング悪く、音楽の鳴り止んだ時に自分の目の前には椅子がなかったと受け止めればいいんだ。
なんかもうちょっと色々書きたいことがあったけども、このことはほんとうに紛れも無い真実だから。なんだかんだそのとき大変でも続けてれば気づいたらどうにでもなってたりするから、がんばってください、ほんと。
先週何かの記事で「脳はOSで言語はアプリだ」という趣旨のものを読んだ。
言語は脳内アプリの一つだというのは自分の経験からもよく理解できる。
個人的には7歳~10歳頃までであれば、母国語以外の第二の言語を詰め込んで訓練すれば
バイリンガルになるのはある程度可能。
でも、その後長期に亘って二つの言語をどちらも同じレベルで習得し続けていくのは
本当に大変だと実感している。
僕は日本人ではない。
小さい時に日本に来て、そこから僕にとっての第二言語となる日本語を学び始めた。
それと並行して母国語を忘れないよう父親から母国語の個人レッスンを受けていた。
でも、途中でダルくなってやめた。
というのも日本で生活していく上で母国語の必要性が全くと言っていいほど感じなれなかったから。
それ故、巷にいる「バイリンガル」を名乗る人で、二つの言語をどちらもネイティブレベルで
読み書き運用ができ、もっと言うと仕事で交渉ができたり契約締結をこなせるような人は本当に尊敬する。
彼/彼女らは
・きちんと親に躾をされてきた(これが一番多い印象)
・自分で自分を律しながら磨いてきた(将来での必要性を見据えて)
・言語能力がやたら高い(特に女性に多い気がする。偏見かな?)
等を証明している。
帰国子女で両方ペラペラです、という人は大勢いるけど、仕事の場でも
実用できる人ってその中の半分もいないのでは、という印象がある。
これはあくまでも僕個人の狭い了見ゆえ一般化できる話ではないのは承知している。
母国語をきちんと文法部分から学び直そうと大学時代にネイティブの教授にお願いしに行ったこともあった。
「これ読んでみて」と渡された文章を2行ぐらいすらすら読んだところで「新しく君に教えることはない。以上」と
言われて、あ、なまじっか発音ができるだけでその言語ができると思われるんだなと驚くと同時に
これは自分できちんと言語能力を磨いていかないと将来使い物にならないと危機感を持った。
今現在はどうかというと、僕は日本語を使っての仕事は何ら支障なくできる(と自分では考えている)けど、
母国語のほうは相変わらずで、現地で重要な契約をとってこいと言われたら少し苦戦するを思うので
こういうのはセミリンガル(ダブル・リミテッド?)と言うのかな。
俺のスペックだが、
やってます。
普段の仕事では英語は全く使わないのだが、年に1回程度、英語を使う仕事が降ってくる。海外子会社の社長が来るから明日の4時に同時通訳してね、とか、このパンフレット今日中に英訳しといてね、とか。出現頻度が低い割には、突然プロな仕事が期待される。
自分の(外面の)経歴的に、社内で英語完璧超人な立ち回りが求められるのはわかるのだが、正直無理。
向こうの学校では、ひいひい言いながら課題やってましたもん。英語でレポート出すたびに、自分より年下の学生アルバイトの相談員に英語直してもらってましたもん。大体が、若干年喰ってから留学してるから、向こうの生活にどっぷりつかりこんでたわけじゃない。友達もそんなにできなかったし、研究室と図書館と自宅の往復、みたいな留学生活。そんな感じでどーにかこうにか卒業した後は英語は使わないんだから、もともとプアな能力がさらに錆びついてる。
②学部時代に1~2年程度、交換留学プログラムなどを使って留学
④小学校以前から海外(海外生まれ含む):いわゆる帰国子女のパターン
などなど。
自分の場合は、③で、研究留学といったりもする。①のワーキングホリデーや、②の交換留学パターンとくらべれば、ちゃんと英語はできるつもりだが、いかんせん20年以上も日本で育ってきた人間が海外に数年いたのみなので大したことはない。本格的なバイリンガルで英語を生活の糧できるような④のような人たちと比べられてしまうと全然だめなのです。
英語を副次的な能力として使うことはできる。あるいは、英語を専門とするプロを雇う、という働き方ならできる。でも、僕自身は英語のプロじゃない。
化粧や染髪が「普通になる」って、あれだけバリエーションのある装飾行為が「普通」になったとしても均一化はまずしないから
「化粧してるから仲間、やってなきゃハブられる」というより、めっちゃやるグループと適度にやるグループとやらないグループとかにクラスタ化されるだけ
本来接点のないような別クラスタ同士を無理矢理べたべたくっつけたり「学校の生徒」という枠でくくって同質扱いするから問題が起こるんだよ
3DSもそう、持ってないと遊べないかつ買ってやれないレベルの貧乏あるいは教育方針としてゲーム禁止なら
それはもうクラスタ違いと割り切って他のコミュニティを見つけるべきなの
そこへ無理矢理「いいなー貸してー」とか「ほしいーちょうだいー」とか「○○君ばっかりずるいー」とかやらかしてねじ込んでくるからハブにされるんだし
それを「金銭的理由で配慮!全員禁止!」とか言うのは「運動会はみんな手をつないでゴール!徒競走禁止!」ってのと一緒じゃん
いやまああくまで仮説というか、確信ではないんだけども。
しばしば日本のブログ論壇(なんだよそれって話だけど、まあウェブ上の議論を行なっている一角とでもしてくれ)は他の国よりレベルが低いと言われている。確かに、最近では特に、読む価値があると感じるブログなんて少なくなってきた。それがなんでなんだろう、というのが自分の問題意識であり、それは今後改善されうるのだろうか、というのがまたもう一つの問題意識になる。
※前提として筆者は外国語全然できないので帰国子女系の人とか、他国のウェブの生態系というか、そういうの分かる人教えてください。
日本の質が高いブログを書いているとされていた一部のいわゆるアルファブロガー層(小飼弾、ちきりん、藤沢数希、…等、敬称略)も最近は更新が減っている。Twitterとかメールマガジンの影響とかあるんだろうか。
なんかひどい雑文になってるけども問題意識だけ共有できれば。日本のウェブは残念なんだろうか。そしてそれは変われるんだろうか。
こういうテキストは得てして不幸自慢や感傷に浸りがちになってしまうものが多いから
そうならないようにできるだけ書いていこうとおもう。もちろんこれを書く目的はそんなことのためではないし、
最後までかけるのであればこれはむしろポジティブな、読んだ人に何か得るようなものがあるものになってほしい。
両親はとある新興宗教の出だった。二人はその教会の教祖の祝福という名のいわゆる合同結婚の元、結ばれた。
自分はその5番目に生まれた三男末っ子だった。(長女は里子に出されたらしく、実質4人兄弟)
物心がつく前から教会にも行かされていたが、一般的な保育園や幼稚園にも行き
特に当時はうちが変わっているということも意識することはなかった。
それから母と子の4人の子供との生活が始まった。かろうじて離婚は母が嫌がったのでしていなかった。
一応、住んでいる地域も父に合わせ、父の住んでいる地域に家族も引っ越していた。
そのため月末にお小遣いをもらったり誕生日プレゼントなどでその頃まではまだ父と関わることができた。
ただ、住まいも違えば、両親が家族の前で顔を合わせている瞬間を見ることもそれからはなかった。
物心ついてから理由は分かったが、父が宗教を去った、いわゆる還俗によるものだった。
養育費などもないため、母は働くことになり、やがて子供たちが教会に連れて行かれることもなくなった。
教会では私達のような存在を二世と呼び、年頃になれば両親と同じように祝福とよばれる合同結婚をする。
その後、三世、四世、、、などと続いていくのだろうと思う。
小学校に入ると自分の境遇が特殊であることになんとなく気づき始め、
学校の友達とは一種違うこと、宗教という概念はどこかタブーなんだということも静かに悟った。
それから小学3年生になる頃、人生の岐路ともいえる出来事が起きた。
その頃になると家族内で信仰しているのはもはや母だけであった。私も教会のことは口にはしなかったものの小学校はとても充実していた。
その母が敬虔すぎたあまり、小3の夏に布教活動に出ると言い出した。
行き先は 家 族 で アメリカであった。
当時はなんのことかも分からず、旅行気分で帰ってくるものだろうと、旅行など両親の不和から一度も行っていなかったので
私は脳天気なまでに楽しみにしていた。
そのまま父を日本に残し(もはや家族間の交流はなくなり見送りすらなかった)、私達一家は渡米した。
現地での生活はその教会の保有する宗教施設で、自分らと似たような一家が何家庭か集まり、共に暮らす特殊なものだった。
うちの家族は母以外は教会から離れていたので正直まわりの人々としばらく温度差があった。それでも幼かったので多くの他の大人や子供たちとの生活は新鮮で楽しかった。
学校は州の公立の学校に通った。いまでこそ帰国子女という肩書きではあるものの、
一般的な帰国子女というのは現地の学校と併せて、日本人学校に土日通ったりする。
しかし、それはもちろん私立であり、シングルマザーで、かつ他にも兄姉がいるうちのような家庭には
公立学校で経済的にいっぱいいっぱいであった。(姉だけは女の子という理由で無理して通った)
母には話していないが、もちろん人種差別もあった。その分、優しい人々の思いやりにも触れることができた。
日本では禁句であった宗教の話は、無宗教であると伝えると逆に大きく驚かれたのが印象的だった。(これすべて小学校の段階での話である)
住んでいた地域は移民が多く、学校でもESOLの他にスペイン語なども必修科目に含まれていた。
アメリカ人は白人というイメージをしてしまいがちだが、今でこそ言えるが、そんなことは決してなかった。
その地に4~5年暮らし、中学校3年になる頃、宗教ビザが切れ帰国した。
今度の日本での引越し先は父のいた地域とは別で、母の教会でのコネによって貯金がなくとも引っ越すことだけはできた。
正直、日本人学校にも通っていなかった自分はゆとり教育云々依然に日本の勉強に着いて行くのがやっとであった。(漢字や理科など)
英語だけは生い立ちに恵まれたものの、自分だけ答えて授業を進行させてしまうと他の生徒が学べないことを悟り、あまり積極的に参加することも避けた。
一般的には苦手とされるものが、できてしまうとやはりいじめられた。さらに帰国子女という肩書きも裕福な家庭を連想させていたらしい。
しかしそれは人種差別を体感していた自分にとっては人間の本能なのだと甘んじることができた。
間髪いれず続いてきたのが『受験』という壁であった。欧米では高校は義務教育とされており内申のみで入れるものだったのでこればかりはどうしていいのかすら分からなかった。
周りの友達がどうやら塾や予備校というものにいっていることを知った。あれは一種日本の文化といってもいい。
もちろんうちにはそんな金は無かった。もはや家の光熱費すらままならないといっても過言じゃなかった。(学校の友だちにはもちろんそんなことは言えない)
それからしばらくして、当時、担任であった先生からある話を持ちかけられた。それは『帰国子女制度』というものを使う方法であった。
現地での滞在年数や帰国してからの期間などいろいろと条件はあったものの見事にパスした。
その制度を利用すると、体裁としては一般受験をするものの、その制度枠を設けている高校に空きがあれば、ほぼ確実に学力関係なしに入れるという最強チートであった。(大学にもあり)
それのおかげで高校に入学することができた。
父は多忙だったが、イケ面で真面目な人だった。
そんな父が仕事付き合いでキャバクラから帰ってきた日、母は俺に対して「一緒に死んで」と泣き叫んだ。
小4で日本に帰ってきたが、転入紹介のときはクラスの帰国子女を見る目が怖かった。
足の病気になって入院したとき、母は病院に泊まり込んで「ずっと一緒だからね」と言った。
退院後、通学は車で送り迎えしてくれた。
体育は2年間ぐらい見学だった。
小学校卒業と同時に引っ越し、幼稚園時の地域に戻り、中学はは同区内。
2年の夏に引っ越しし、転校先は暖かく迎えられた。
高校入学。進学クラスだったため、普通クラスと校舎は同じでも交流はなかった。
温度差を感じた。
母はしきりに「普通の道を行きなさい」と言った。
結局、浪人した。
浪人時代は適当に予備校に通い、寝てないのに勘違いされて教室を追い出された。
母は定期的に泊まりに来た。
結局、一人暮らしは2年も持たなかった。
その祝いで母にプレゼントを贈った。
「これよりも旅行の方が欲しい」と拒否られた。
このままじゃ俺の自我の枷が外れない。
母は老後の人生を受け入れられない。
そろそろ親離れ・子離れにケリをつけようと思う。
今二股をかけてるんだが、彼女に欲しいプレゼントを聞いてB子のほうに心が動きそうだ。
A子は美人で派手な両親は共働きの中級家庭。中学3年生から男を欠いたことがないと言っている通りに気が利いているし、なにより彼女と街を歩くと他の男に自慢出来て気分がいい。
対してB子は親が会社を経営していて、毎年最低2回海外旅行へ行ったりイギリスの帰国子女だし、クルーズ経験もかなりあるのに全然派手じゃない。洋服に金をかけることが嫌らしく(一年休学して世界を放浪していた経験から)質素で本とスポーツが好きな語学堪能な女だ。男は俺が初めてらしいが、もう半年も付き合ってるのにヤらせてくれない。
A子とB子にクリスマスプレゼントは何がいいか聞いてみた。
A子はブランドバッグと答えB子は何でもいいから手作りのものが欲しいと言ってきた。
B子は小さいころから欲しいものは何でも両親が買ってくれたそうだから、物欲がほとんど無くブランドにこだわらないのだろう。
A子の答えを聞いて、分かりきっていたけどキャバ嬢や金で動く女にしか見えなくなってきて、一時期あいつのためなら死んでもいいなんて思っていたのに、
今では好きだった気持ちがすっかり消えてしまった。
そらそうよ。いくらなんでも能力磨かなければ向こうの小学生以下で終わるからね。最低限のことはやってます。
エッセーライティングの講義あったなあ。英文科から医学部まで一緒のクラスで。その次の学期では選抜クラスに回してもらったっけ。
http://tottocobkhinata.cocolog-nifty.com/bizieizakkicho/2005/07/post_a8b1.html
引け目の方は実害がありませんが、帰国子女の慢心は実害があります。
私の見る所、一番の弱点が冠詞の使い方。そして、次が冠詞の使い方を含めてのライティングです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/eigobenkyouhou.com/archives/68
こんなしょうもないことで悩まなくて本当によかった。
俺がアメリカにいたのは4年に満たないが、このあたりの感覚を身につけるのには十分な期間、時期だった。
日本語を話すときに助詞の「は」と「が」を使い分けるのに迷わないように、「お」にぎりと「ご」飯の使い分けに迷わないように、
よく言われる、RとLの違いだってそう。
成長してから何万語を覚えても、いくら文法書を紐解いても、CDをあほみたいに聞いても、
スタバ(笑)で個人レッスン(笑)してもらっても、そこには大きな断絶がある。
今は物流会社で働いているが、同期で俺の次に英語ができるやつでも時々変な使い方してる。
流暢に話しているふうでも、あっ今ちょっと考えたな、っていうネイティブにはないタイミングでの滞りが感じられる。
ブコメで「冠詞の使い分けなんて考えない方がいい」って言ってるのがいるけど、そりゃあそうさ。
どうやったって意識に負荷をかけず使いこなすレベルには至らないんだから、あなたたちは無視した方が便利だろう。
もちろんそれでいいんだと思う。
所詮道具だし。ビジネスだって学界だって公用語は英語じゃなく「ひどい英語」。
それで世界は十分回ってる。
でも、思ったとおりに話せば、それが自然で正しい表現になる。この感覚はプライスレス。
最近の趣味は飲食店で日系人のふりして、完璧な英語で注文しまくること。
小学生のころ、ドラクエ4が大好きだった。レベル上げが大好きで、中ボスがザコレベルになるまでレベル上げてからフルボッコにしたり、破邪の剣が手に入るまでトルネコのお店を運営したりとかしていた。夜、親が寝静まったころを見計らって、こっそりこっそりゲームを楽しんだ。
帰国子女だった僕は、あまりクラスになじめておらず軽いイジメにあっていた。学校では一緒に遊ぶ友達も居ないので毎日一人で登下校を繰り返した。ドラクエ好きの僕は「この毎日」はレベル上げだと思い込む事にした。
「僕は勇者で、この毎日をクリアした先にはきっと倒すべき魔王がいて、その先にすばらしい世界が待っている」
と信じていた。
中学校に入ると、イジメが酷くなった。女子からは汚物のように扱われ、男子からは意味も無く飛び蹴りを喰らった。上履きが無くなる、机にま○この落書きをされる。ロッカーにゴミを入れられるなどは日常の出来事となった。そして、僕は転校した。
新しい学校で、僕はゲームと同じように「自分の」レベル上げに一生懸命になった。勉強をした。魔法が使えるようになるとは思わなかったが、より難易度の高い高校に入れれば、凄い財宝が手に入ってもっと強くなれるとおもったからだ。
友達とのコミュニケーションの取り方も頑張った。中学生なのに、営業のビジネス本などを読みあさり、人に嫌われない武装をすることにいそしんだ。作り込み続けたゆうしゃは、いつしかクラスの人気者になっていた。
いじめられたく無いために始めた必死の「レベル上げ」は、それなりの高校/大学/企業へと僕を導いた。女子に嫌われた汚物は、過去の話になり、何人かの女性と付き合うという夢も叶った。人に嫌われることに怯えつづける勇者は、他の人から見れば「明るくて、仲間思い」のリア充だったかもしれない。
そして、会社で専務の秘書をやっている高値の花と言われる女性と結婚をした。僕の冒険はついにハッピーエンドになったと確信した。ぼくはついに ゆうしゃになったのだ。
それから1年後、子どもを授かった。生まれて来た娘は本当に可愛かった。仕事もどんどんとアサインされるプロジェクトの規模が大きくなっていった。
しかし仕事にのめり込んだところから、段々と風向きがかわっていった。毎晩遅くなる僕に、まず妻が愛想をつかした。美しかった妻は育児疲れと放りっぱなしにされている淋しさで、やつれていた。でも、僕は自分の楽しさと仕事の忙しさにかまけ見てみぬ振りをした。だって僕はゆうしゃなのだ。魔王と闘うのは僕でなければ駄目なのだ。しかたないだろう。
気付けば妻とは顔をあわせるたびに喧嘩するようになっていた。僕は家だと休まらないので、会社の近くに部屋を借りる事にした。
帰らずに仕事できるようになると、更に仕事の量が増えた。深夜までつづく仕事の山は僕を確実にすり減らしていった。そして、やらかしてはいけないミスを犯した。会社の損失は億単位と上司に言われた。「今日ははやく帰れ」といわれた。おそらく僕に回ってくる仕事はゼロになるだろう。久しぶりに娘の顔を見たくなった。でも家に帰ると、もぬけの殻だった。
机の上に離婚届と「実家に帰る」旨の手紙が置かれていた。手紙の日付は先月だった。
僕は、猛烈に後悔した。
うまれてきた むすめをちゃんと、そだてなかった。
つまをだいじに できなかった。
しごとも しっぱいした。
けいたいをみても、そうだんできる ともだちがいなかった。
なかまおもい なんかではなかった。
たおすべき魔王なんて世の中にはいなかった。エンディングはゲームとちがって、死ぬ瞬間まで訪れないのだ。ただただ、側にいる人を大事にして、本音で向き合える友達をつくって、子どもを愛し、等身大にあった仕事をがんばれば良かった。
ゆうしゃはなにもできなかった。
橋下大阪市長が府知事時代におこなった行政改革を陰ながら応援していたものの、
彼を今ひとつ信用出来なかったのは、長い間、島田紳助の盟友だった、という事実のせいだ。
昔の交友関係だけで人を判断するのは間違っているのだから、随分と私の心は狭い……。
そう自分を責めていたが、最近の彼の言動を知ると、直感の方が、どうやら正しかったようだ。
島田紳助が昨年引退したのは、暴力団との親密な交際が発覚したという理由だった。
だが、彼が責められるとしたら、それ以上の理由があるだろう。
吉本の女性社員を、人気のない部屋に引きずり込んで、壁に顔面を4、5発以上もたたきつけ、ツバをはきかけた。
これまでも立場の弱い者に対して、裏では暴言や暴力をふるっていることが関係者から暴露されていたが、
彼の嗜虐性、異常性、卑怯性、利己主義ぶりなどが明らかになった。
事件が発覚してもなお、数年もの間、なぜ、人気司会者として、テレビという公器で権威をふるい続けられるのか。
これほど理不尽な話はなかった。
橋下は、紳助の暴力行為の発覚後も、紳助の番組で長い間、出演を続けていた人気弁護士の一人。
弁護士が、最低な人間の人権を守るために活動しなくてはならない場合は、たしかにある。
だが、紳助の番組に出演することは、弁護士の倫理観とは別物だ。
むしろ倫理を重んじるならば、潔く番組を辞めるべきだったが、橋下はそうしなかった。
つまりは彼の価値観では、紳助が弱者を殴りつける行為は、許容範囲だったのだろう。
教室の中で勉強がわからない、と心の中で悩むことと、同級生の友人から引き離され、一人、劣等者として教室で孤立することとは、大きな違いがある。
前者の記憶は薄れるが、後者の惨めさがどれほど辛いものなのかは、海外の昔の小説や映画で、いくらでも描かれているではないか。
高校生で留年が認められるのは、それに耐えうる精神力があるからだが、小中学生の未熟な精神にとっては、それは限界を超えたトラウマだ。
そのトラウマは、小学校の知識を習得することよりも、もっと深刻な悪影響を与えるだろうと、彼は考えないのだろうか。
小学校で授業についていけない子供の中には、知能には問題がなくとも、精神力や意志力が弱く、勉強が続かない子供たちも多いだろう。
精神力がそもそも弱いのだから、そのトラウマがどれほど彼らを蝕むのか、想像力に難くない。
思うに橋下は、努力ができない人や、いくら努力をしても結果を出せない人々に、共感できないのではないか。
彼の周りに集まる人々を見ればいい。
低所得層からのし上がり、基礎能力やコミュニケーション能力が大変高いという点で、共通しているが、何より両者は努力家だ。
努力家は得てして、他人の数倍の努力ができるのは、それだけの精神力や体力を持ち合わせた者に許された特権だということが理解出来ない。
だから渡邉は、従業員が過労死をしても、それが悪いことだとは考ない。
自責の念に囚われることもない。
生まれつき、精神力や意志力の弱い人々がいることが、理解出来ず、もっと頑張れと声を張り上げ、叱責し、責め立て、罰を与えることは当然だと考える。
精神論者はここが怖い。
橋下が嫌われるのは、ドラスティックな改革手法のせいもあるが、何より激しい痛罵の仕方にある。
そうする権利が自分にはある、というのが橋下の考えなのだろう。
怠惰な連中を恵まれた独占的地位から排除するのには大いに賛成だ。
だが、人並みの努力をして、人並みの結果を出せない人々に罰を与え、精神的に追い込むことも、強者に許された権利なのか。
……そうではないだろう。
橋下の目には、帰国子女という恵まれた立場でありながら吉本のマネージャーをしている女性などは、努力を怠った怠惰な人間に見えたのかもしれぬ。
今から10年くらい前の話で、当時は今ほどじゃないけど、結構な不景気。
大学3年後半から就職活動を始めたサークルの人達は、みんなことごとく有名企業を落ちていった。
僕含めて周りに優秀じゃない奴が多かったからかもしれないが、せいぜい某プリンタメーカーに内定もらった奴がトップクラス。
あとはNTTの子会社のNTTデータの更に子会社のNTTデータなんちゃらとか、IBMの子会社とか、シンクタンクにSE採用(当然エコノミスト採用なんて無い)、大手の子会社(キヤノン販売とか、日生情報テクノロジーとか)、さすがにサラ金やパチンコは無かったが、人材派遣とかもいた(派遣じゃないよ、正社員採用)。
就職活動を始める前の僕らは、なんだかんだで結局ソニーとかトヨタとかに入れるんだろ?とか言ってた超絶バカだったので、この結果には(まあ薄々気付いてはいたが)唖然としたものだ。
結局俺ら子会社クオリティというか歩く支店経済というか、つくづくバカだったんだなーと自嘲した。
こんなんだったら地元の国公立受けて、市役所に入った方がよっぽどペイしてたなと思う。
まあ一度しかない人生だし東京に出てわざわざ私立に行かせてくれた親には感謝してるんだけど、自分の選択を誤った感じが否めない。
※僕はもう一つ別なサークルに入っていて、そこの人は就職したいランキング上位企業(財閥商社とか大手損保とか)へ入っていったが、みんな優秀な人ばかりだったので比較対象にならない(半分くらい帰国子女だったし)。