はてなキーワード: 審美眼とは
人を好きになるっていったいどういうことなんだろう。
この人と一緒にいたい
この人のことを知りたい
若い頃はもっと、そういう気持ちを好きな相手にストレートにぶつけることができた
しかし今や性癖がものっっっっっっっっっっっっっ凄い歪んでることに気づいて
せっかく恋をしたのに全然相手に何かアクションを起こそうと思わない
1)
いつの頃からかものすごい男根信奉というか、一定以上のサイズの人でないと興奮できないことに気づいた。
色や形にまで自分の好みがはっきりあることを自覚したので、そこから外れた性器であった場合100年の恋も醒める。中折れされると殺意が芽生える
2)
基本的に被虐嗜好だが、スイッチ入ると相手を急に虐めたくなる。それも結構えげつない責めをしたくなる
(顔面騎乗して放尿したのを飲ませたり〇ンコ食わせたり首絞めたり肉がえぐれるほど引っかいたりしたくなる)
結婚して十数年が経過した。
夫とは初めて会った時からなぜか、「この人と一緒になるんだろうな」っていう直感めいた思いが強くあって
元々、家族をもつことや結婚という形態に全く憧れもなかった私なのに
「きっとこの人となら大丈夫」と根拠のない自信とともに結婚した。
何かを話していても、話していなくても一緒にいる時間が楽しくて仕方ない。
毎日、なんでこの人のことこんなに好きなんだろうと不思議に思うくらい。
夫の親族のことももれなく大好きだし、自分は結婚相手に恵まれたランキング世界で一番に違いないと思い込んでる。
でも!なのに!
うっかり、本当にうっかり男友達のことを好きになってしまった。
そんなことない、勘違い、思い違い、って自分の中で打ち消し続けてたけど、何度塗り替えてもやっぱり好きだという思いが払拭できない。
こんなに結婚生活に満足しているのに、どうしてこんなことになってしまったのか。自分でもさっぱりわからない。
夫を粗末にしたら罰が当たると思っている。夫を裏切りたくない。
友達ともこれからもずっと、じーさんばーさんになってもお茶飲んでられる関係でいたい。
どう考えても、友達への恋心をなんとか飼いならし、これまで通り夫とは夫婦として仲良くしつつ
友達とも普通に楽しいお友達関係を続けていけるのがいいに決まってる。
この年になって自分にこんな感情が生まれることを全く予想していなかったので
どうこの思いにケリをつければいいのかのアイディアが全くわかず途方に暮れてる。
もっと若ければ。失うものが何もなければ。深く考えずにうっかり好きだと告げてしまったことだろう。
態度やふるまい、彼が私にしてくれていることを総合的に考えると
彼も私に少なからず好意をもってくれていることはわかる。いくら鈍感な私にもわかる。
若い頃よくそうしたように、「デートでこんなところにいったら楽しいだろうな」とか「どういうセックスするんだろう」とか そういうくだらない妄想はしてみたりはする。
しかし!私は既婚者。うっかり夫以外の男性と肉体関係になどなってしまったら彼が責任を問われる立場になるのだ。
そんなリスクを冒してまで枕を共にしたいかと言われたら決してそうではない。
若い頃の身勝手な恋愛とは違って、年齢を重ねてくると「相手が喜んでくれることが自分にとっても幸せ」という発想が生まれてくる。
だから無謀に突っ走って私利私欲を満たすよりも男友達とはこれからもずっと仲良くしていたい、できれば笑っているところ、楽し気にしている姿を見ていたいと思っている。
それなのに、理性では抑えきれない、どうしようもない欲が自分の中に渦巻いているのがわかる。
彼が別の女性と親し気にしているところが見えると胸が苦しくなる。
自分には大事な愛するパートナーが既にいて、安全な場所でしっかり守られているにもかかわらず
他の男になびいている自分が許せないし、そもそも彼に嫉妬するなんてまったくのお門違い、そんな権利は一ミリもない。
早くこんな気持ち、持っていても育てていても相手にぶつけても誰も幸せになれない気持ちを成仏させて
彼とも夫とも普通の気持ちで何も気にせず一緒にいられるようになりたい。
今は 夫に対しても どこか嘘をつき続けているような後ろめたさがあって
彼には 好きだという気持ちを隠し続ける苦しさがあり
共通の友人に思いを悟られないようにしなくてはという不自由さもあり
なんかもう色々面倒くさい。
人を好きになるっていったいどういうことなんだろう。
この人と一緒にいたい
この人のことを知りたい
どこからどこまでが、既婚者が配偶者以外の異性にもっていていい感情なの??
まとまらないけどなんか吐き出したら頭が整理されてきた。
ためらってる理由はここに書いた「私が既婚者だから」以外にも実はたくさんあって
もし好きな相手と思いが通じ合ったとしても、その先、私の願望を共有してもらえるかといったら 多分それは超えることが難しいハードル。
1)
いつの頃からかものすごい男根信奉というか、一定以上のサイズの人でないと興奮できないことに気づいた。
色や形にまで自分の好みがはっきりあることを自覚したので、そこから外れた性器であった場合100年の恋も醒める。中折れされると殺意が芽生える
2)
基本的に被虐嗜好だが、スイッチ入ると相手を急に虐めたくなる。それも結構えげつない責めをしたくなる
(顔面騎乗して放尿したのを飲ませたり〇ンコ食わせたり首絞めたり肉がえぐれるほど引っかいたりしたくなる)
…書きながら片想いしてる相手を罵ってションベン飲ませてることを想像して濡れてきてしまった。もう終わってる
1)を満たしたうえで なおかつ2)まで受け入れられる男性なんて夫以外にいるわけがないよね
ここまで読んでくれてありがとう。今まで誰にも言えずどこにも書かず1年以上こじらせてたので、なんかすごいスッキリした
更に面倒くさいことを付け加えると、夫には寝とられ性癖がありまして。数年前からずっと
彼氏をつくってほしい
自分以外の男とセックスしてその様子を聞きながらオナニーしたい
膣内射精された他の男の精液が流れ落ちるところを見ながら罵られたい
と懇願され続けていたんですよ
だから、私が別の男性に心惹かれることとか なんならセックスをすること自体が、実は配偶者に対する裏切りではなく 寧ろ大好きな夫がずっと望んていたこと。
という、この何ともいえないシチュエーション。あー書けば書くほど面倒くさい状況だ。やっぱり こんなん知り合いには絶対話せないよね。
エドワード・フレンケル教授によれば、最先端の数学はゴッホのようなものですが、小手先の応用はペンキ塗りに喩えられています。
また、ティモシーガワーズ教授は、数学の2つの文化、つまり「問題解決者」と「理論構築者」に分けて考察しています。
私のようなプログラマーというのは、問題解決者として小手先の応用へ取り組む人がほとんどです。
例えば量子力学の理論やラングランズ・プログラムなどの「深淵」に取り組んだ経験が圧倒的に少ないのです。
学ぶ事柄が見つからないということは起こり得ません。むしろ多すぎて選ぶのに苦労しています。人生は限りがあるので、選ばなければならないのです。
しかし数学の経験が未熟であるために、取り組む価値のあるトピックがどれであるのか、その審美眼が鍛えられていないのです。
プログラマーは離散数学のことばかりやっています。だから逆に、連続とか無限とかそういうことへの憧れが湧いてきます。
しかし、超弦理論は最近批判に晒されているようで、つまり実験によって反証しにくいので、理論が結局どう有用なのかわからなくなっているようなのです。
人間がこの先、微細な弦の構造を発見できるくらい巨大なエネルギーをもった加速器を作ることがあるでしょうか。希望は薄そうです。
フレンケル教授が言うように、「一部のエリートだけがゴッホを理解するのではなく、一般市民も作品に触れる」ことに希望を持っています。
長年周囲の家庭を見ていて気づいたことがある。
それは大切に育てられた長男というのは多くの場合、無能なチー牛に育つということだ。もっと正確に言うならば、「生きる能力に欠けた男性」と言ったところか。
大切に育てられた男は、ありとあらゆる生活の術を他人に頼っていたために、自分では何も決められない存在に育つ。家事も下手、時間の管理も下手、優柔不断で、他人にばかり甘えたがる(自分に甘えられるのは嫌う)。
当たり前だ。何もしなくても、両親が決めて甲斐甲斐しく世話をしてくれたのだから。自分で何も決める必要がないし、家事や時間の管理も他人任せだから、無能なチー牛が完成する。
そして、それは多くの場合、長男に発生しやすい。両親にとって最初の子供だから、うっかり甘やかしすぎてしまうのだ。
こういう男は、大抵の場合「優しい長男」と評されるが、実際のところそうではない。自分では何も決められないし、決断コストを背負う勇気もなければ、他人と対立する能力もないために争いを避けているだけだ。悪い意味で卑屈なのである。世間で言うチー牛の特徴である。
つまるところ、男に対する教育というのはある程度スパルタ的であることがちょうどいいということだ。間違ったことをすれば引っ叩く、なんでも自分でやらせる、こうした教育を施してきた家庭のほうが、最終的には親子関係もよく、快活で性格のいい大人に仕上がっている。
女の子の場合は、同じようにスパルタで育てると言われたことを何でもしてしまう、悪い意味で男に従順な存在が出来上がってしまう傾向がある。
そのため、最終的には悪いモラハラ男、パワハラ男に捕まってしまい、不幸な結婚生活に陥ってしまいがちである。
女の子を育てる場合は、なるべく若いうちからよりよいものを与えてあげる家庭のほうがうまくいっている。審美眼を身につけ、真贋を自分で判断できるようにする能力を養うことが肝要だ。
高級なホテル、一流のレストランで本物の所作を観察することで、下手な男の危険性を察知する能力が身につく。パワハラ男、モラハラ男の危うさというのは、こうした所作にこそ現れやすい場面だからだ。
そしてもちろん、こうした審美眼を身につけることは、前述の「無能なチー牛」からのアプローチを避け、不要なリスクを負う危険性回避にもつながる。
家事や時間管理について言えば、女性の場合はそれほど問題にはならない。女性の生来生まれ持っての観察眼の鋭さ、そして女性にのみ発生する化粧や生理といったルーティンが、そうした社会性を否応なしに身につけさせるためである。
ある程度のレベルに達した人達がオーディエンス、客を求めてマネタイズしにいくところ
世界一級のパトロンが金に飽かして世界最高のものを集めるっていうほど文化的に目が肥えている訳でも太っ腹な訳でもないし。
そういう意味では福岡とか生活コストが安くてコミュニティの維持コストが安くて文化のインキュベーションに向いている。
「材料費たくさん使える家賃払っていない味」レストランベーカリーパティスリーが沢山あるだけで作る側食べる側の文化度両方上がる
生クリームでもブルーベリーでも東京よりむしろ産地のある地方の方がふんだんに安く使える。サフランでもバニラでも家賃が安いので
必要ならコスト掛けられる。800円のショートケーキで原価率3割だと240円の材料のケーキを東京の人たちは食べている。
700円のショートケーキで原価率4割だと280円の材料のケーキを東京より安い値段で福岡の人たちは食べている。
しかも苺やブルーベリーは近所で朝獲れたやつで東京の半額で仕入れられる。東京で同じ材料でつくると360円かかる。
こういう理由で、食べる方(客)と提供する方(店)の良いものに対する平均レベルが東京より地方の方が高くなる。
審美眼のあるお客さんの層も広がって生産側に回る人達も出てくる。
「しかかり中の作品に家賃あんまり払わなくていいアトリエ」だと大型の彫像に十分な製作期間がかけられる。
近所に変なおっさんが住んでて溶接したり鑿を振るったりレーザー加工機を使ってたりする現場があると、
「見せたい」と「見てほしい」を混同してる?
この水着を着た自分は可愛い。この水着でビーチに立つ自分はイケてる。可愛い。かっこいい。
自分と同じ価値観と審美眼を持つ人(多くは友人&ボーイフレンド)は、この水着を着た私を見て、かわいい、素敵と褒めるだろう。
よし「見せたい」。我を褒めたたえよ。
この水着を着た自分は可愛い。この水着でビーチに立つ自分はイケてる。可愛い。かっこいい。
重要な評価者である他人の目で見られて、自分が価値ある存在か確認したい。「見てほしい」
大抵のビキニ女は前者なので、「見て欲しい」なんて思わない。
ましてや「見て欲しい」んだろ(*´Д`)と、じろじろ見たり近づいてくる奴はゴキエナ。
名画の凄さって何よ?って言うと、歴史的な位置づけがスゴイんだという人もいれば、理屈抜きの迫力があるという人もいるらしい。
おれが超うっすら聞き齧った方法論に、作者の意図に基づいて作品に設定された目的を想定して、その達成の度合いをなるべく客観的に吟味しつつ出来を評価するって考えもあるらしい。妥当といえば妥当な感じもするし、この理屈そのものの自明さを考えれば果たして客観的と言えるのかとも思う。
そもそも美術って明確な目的を持つ道具でしかないのかよ。そんな割り切っちゃっていいのかよおれたちはよ、みたいな素朴なアレも感じる。
この間どっかで贋作展みたいなのがあったらしいけど、純粋に絵としてのスゴさなるものがあるなら、精巧な偽物をまじまじと眺めた時の感動は本物から得られるそれと変わらないはずだよねって思う。
それはそれでスノビズムから距離を置いて感覚的なものと向き合っている感じがするし、どこか誠実にすら思う。ただその光景に一切マヌケさを感じないかと言えば嘘になるし、この違和感が名画の名画たる所以へのヒントの一つかもしれない。
金という物差しを持ち込むのも無粋だけれど、純粋にイラストそのもの、物質としての絵にだけ価値があるのならオリジナルもコピー品も同じ値段がついてないとおかしいしね。
ただこれは名だたる画家が直々に絵の具を乗せたキャンバスという物質込みでの話で。更に周縁を捨象して、純粋に視覚情報?にまで抽出した時、絵の価値を問うたらどうなってくるんだろう。
全然詳しくないけどNFTってこういう話をしてたりするんだろうか。
まあ素人がぱっと見でスゴイ作品だと思えるほどの何かを秘めているのなら、ゴッホだってもっと早く評価されてたでしょって思うよね。
素人が、とは言ったけど絵の専門家でもあんまり変わらないんじゃねって思う。
自分で絵を描いているから、沢山の絵を見てきたから正確な審美眼を持つ、というのは単に技術面における話に留まると思う。何を感じ取るかは鑑賞する主体の問題、客体との関係性が噛んでくるから、単に絵が持つ特性だけでは語りきれないものになるだろうし。この絵はこの辺がこうだという叙事的なディスクリプションまではある程度客観に立てても、名画かどうかまで踏み込めば一個人の感想になってしまう訳で。
絵の技法や歴史に詳しいから、真に感情を揺さぶる名画か否かのジャッジにも正当性があります。ってのは理屈としてあんまり成立してないよねって思う。これはおれが勝手に名画の要件を決めちゃってるけど、じゃあ誰が決めれば正当なんだよって話で。
ナイトホークスを見て「人をブチ殺して回りたいという作者の情熱を感じました」と思うのはズレてるかもしれんけど、孤独を感じるのと心安らぐ静けさを感じるのではどちらが正解とも言い切れんと思う。
素朴に良い作品だなと思えるか、そういう感覚的な部分以外で絵を語るのってなんか無粋な感じがしてあんま好きじゃない。言葉の先を期待してるからこそ言葉以外の媒体で表現しているのだろうし。
でもそうなってくると自動生成の絵も人が描いたものと全く対等で、やたら時間をかける分人間の方がカスですって話にもなるのかもしれないな。今まさになってるのかもしれんけど。
そう考えると、おれは人の手のヌクモリティがさァ!と言いたいかもしれない。歴史を踏まえた斬新さとかにはあんま興味ないけど。
カメラと写実主義とかで色々あった頃とかも新しい道を模索したんだろうし、今後も人が絵を描く事の意義というのは問われ続けていくんだろうか。
おれは別に絵を描かんけど、他人にどう言われようが本人にとって描く事に意味があると信じられるなら、それだけで価値がある事だと思う。その価値はその人だけのものだけど、人生なんて自分の信じる価値に従えるかどうかが全てだろうし。